欲しいのはあなたの
私のことを無視してメイヤー氏と室長の間で話はあれよあれよと進み、早速メイヤー氏と雇用契約を結ぶことになった。
今、私はナイターハウス内のメイヤー汽船に割り当てられた事務室の応接間でソファに座っている。
ソファはダークグリーンの革張りで、柔らかすぎず、程よい弾力がある。
座り心地が恐ろしいほど良い。さすが、大企業。
部屋をぐるりと見渡すと、豪奢でありながらも上品で落ち着く内装にため息が出る。
しかし奇妙なことに、メイヤー汽船の事務室では、他に誰にも会うことがなかった。
そして、この応接間に置かれている、いかにも高価そうな調度品は、うっすらとホコリをかぶっており、しばらくの間人の手が入っていないように見える。
これはどういうことだろう。
内心訝しんでいると、優雅に長い脚を組みながら、メイヤー氏が書類を差し出した。
「それじゃ、この契約書を読んで、ここにサインしてくれるかい。」
「あの、契約を結ぶ前にいくつかお聞きしたいことがあるのですが。よろしいですか。」
「もちろん、答えられる範囲で答えよう。」
「なぜ、ここにはどなたもいらっしゃらないのでしょうか。」
「ふむ。その質問に答えるためにも、まずは、メイヤー汽船について話さねばならないね。君はメイヤー汽船の主力商品が何か知っているかい。」
「いえ。存じ上げません。無知で申し訳ありません。」
「いいや。構いやしないさ。うちはね、南方大陸のシーレで取れる硝石の取引で財産を築いてきた。硝石は火薬の重要な原料の一つでね。先の戦争で、莫大な利益を得たんだよ。」
私は息を飲んだ。
この世界では既に火薬を用いて戦争が行われているのか!
そうすると、私が思っていたよりもこの世界の文明は進んでいるのかも知れない。
こちらの世界に迷い込んでから、生きることで精一杯であった私は、実は、この世界のことをあまり知らない。知人も少なく、調べる術もなかったのだ。もしかしたら、自分が思っていたよりも、この世界の水準は高い位置にある可能性がある。
黙って考え込んだ様子の私の方をちらりと見つつ、メイヤー氏は続けた。
「先代は、商売人としては優しすぎた。先代はもともと船乗りであり、冒険家であり、自分が見つけた宝物を祖国のために役立てたかっただけなんだ。そのために、硝石を運ぶ汽船会社を設立した。」
「なるほど。」
私は頷いた。
「それなのに、戦争が始まり、火薬の製造のためだけに硝石は使われるようになった。先代は多くの人の命と引き換えに、自分が巨万の富を得ることに、徐々に耐えられなくなっていった。仕事は徐々に、部下に任せきりになり、表舞台からは遠ざかるようになった。戦争が終結して、しばらくはそれでもよかった。しかし、戦争が終結すると、当然、硝石の需要が落ち込み、業績は芳しくなくなる。それに加えて、従来の部下たちは最も羽振りがよかった時期のことが忘れられなかったのだろう。業績が落ち込んでいるにも関わらず、何の手も打たず、しまいには会社の金の横領を始めた。」
「やりたい放題できてしまいそうです。」
「その通り。僕が引き継いだ時には、既にひどい有様だったよ。だから、僕は手始めに、いらない従業員を解雇するところから始めたのさ。」
「その結果がこのすっからかんの状態というわけですね。わかりました。それで、これからの方針はもう決めていらっしゃるのですか。私はここでどのようにお役に立てば良いでしょうか。」
「まだ詳しくは何も決めてない。ただ、この会社だけは立て直したいんだ。君にはとりあえずは僕の補佐としてついてもらうことになると思う。」
「承知いたしました。」
何とまぁ、随分とぼんやりしている。でも、まぁ、おそらく私には拒否権はないのだ。なるべく有利な条件を取り付けて、ここをどうにかするしかないだろう。これからのことを思い、私は重いため息をついた。
「そういうことなら、こちらからの条件を契約書に盛り込んでください。そうでなければ、こちらでは、働けません。」
メイヤー氏は片眉を上げた。
「とりあえず君の条件とやらを聞かせてもらおうか。」
「はい。まず、私には市民権が必要なのです。税関で働いた1年半に加えて、あと最低半年、ハンゼで税を納める必要があります。最低でも、半年は雇用を継続してください。そして、市民権を獲得するには、上級市民の推薦人が必要です。メイヤー様はきっと上級市民ですよね。私の市民権獲得の際の推薦をお願いいたします。これらを契約書に盛り込んでいただけるならば、誠心誠意、この会社の再建のために努めさせていただきます。」
「いいだろう。」
もう少し何か言われるかと思っていたものだから、メイヤー氏の返答には拍子抜けした。
そして、メイヤー氏はその場で私からの要求を契約書に盛り込み、さっと自分のサインを済ませた。
「これで、君もサインしてくれるだろう。」
そうして、麗しい笑みを浮かべながら優雅な所作で、私に書類を再度突き出したのだった。