ハンスと白の貴婦人
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−−−ここは帝国一のハンゼの港。港の泊地には、世界津々浦々を結ぶ立派な船がずらりと並ぶ。
その中でも、一際清廉な姿で目を引くのは、我らがメイヤー汽船の所有する商船、白の貴婦人である。
「メイヤー汽船というからには、蒸気船だと思っていました。まさか、帆船だったなんて!」
私が興奮しているのは、白の貴婦人が三本のマストを備えていたからだ。
この真っ白な船が、大きく帆を広げ、青い海を駆け抜ける姿を想像してみれば、なんと優美なことだろう。
「正確には、白の貴婦人は蒸気機関を併用する汽帆船だ。蒸気機関は補助的な動力として後付けした。」
「あくまで補助的な役割なんですね。」
蒸気機関を利用した方が楽そうなのに。
私の言葉に頷きつつも、ハンスは補足してくれた。
「蒸気機関だけでの航海は燃料代がかかりすぎるし、遠洋航行でいつも石炭が補給できるとは限らないからな。腕のある船乗りがいるなら、風を読む方が手っ取り早い。」
ハンスは先代の元、チーフオフィサーとして、白の貴婦人と共に幾度も荒海を乗り越えてきたという。
「あれはもうだいぶ前のことだ。坊っちゃんが生まれる前のことだからな。航海中に運悪く台風に当たった。錨はおろしていたが役に立たず、高い波に強い風で船が流され始めた。そうなると、次に起こるのは座礁や転覆だ。ドーンというすごい音がして、三本のマストのうちの一本が折れた。俺はもうここで死ぬんだと思った。」
「そんなことが。」
荒れ狂う海を想像し、私は戦慄した。
「それでも、キャプテンは冷静だった。波が踊り狂い、みんなずぶ濡れだった。なんとなく、もうダメだという雰囲気が船員たちの間には漂ったんだ。だが、キャプテンには一切の迷いも諦念もなかった。キャプテンは折れかけた俺たちを叱咤して、あっという間に立て直した。壮絶な縦揺れの中、刻一刻と風が変わり状況が変わる。キャプテンは常に俺たちに指示を出し続け、俺たちは信じて動き続けた。」
緊迫感のあるハンスの語りに、私は思わず手を強く握りしめゴクリと唾を飲み込んだ。
「……唐突に船が台風を抜けた。雲が途切れ、目の前には青い満月があった。俺たちはとうとう最悪の状況を乗り切ったんだ。」
私は安堵の息を漏らした。
その瞬間の光景が今も目に焼き付いて忘れられない。とても美しい月だった……
今もその月を目前に見ているかのように、ハンスが遠い目をしてそっとつぶやく。
「それで、たどり着いたのがシーレだ。シーレでは船を修繕するために、しばらく滞在する必要があったからな、その時に蒸気機関を組み入れた。台風にあった時に、機関があれば役に立っただろうという経験からだ。」
「その話は知らなかった。」
メイヤー氏も目を丸くしている。
「バツが悪かったんだろうな。その時、帰るのが遅れたせいで、坊っちゃんの誕生に間に合わなかったわけだから。まぁ、そんなわけで、今や白い貴婦人は、順風に帆を揚げれば、向かうところ敵なしってわけだ。」
ハンスが白い貴婦人を仰ぎ見る。その横顔には、ハンスの白い貴婦人への溢れんばかりの愛が滲んでいる。
今日、我々がハンスに会いにきたのは、ダンを引き止めるために、どうしてもハンスの協力と作戦への承認が必要だったからだ。
ハンスは、ダンたちの一回り上の世代の船乗りだ。当然、上下関係を考えると、ダンはハンスに頭が上がらない。
しかし、それ以上に重要なのは、ハンスが船の持分を有している点にあった。
持分というのは、分割された船の所有権のことである。
給料未払いの件で、再度さまざまな書類をひっくり返し、目を通した結果、先代失踪の少し前に、実は白の貴婦人の持分の八分の一が、先代からハンスに直接譲渡されていることが発覚したのだ。
持分の所有者は、その持分の割合に応じて、損益の分配と船員の人事に関して一定の権利を持つ。
ほとんどの持分をメイヤー汽船が保有しているとはいえ、船員の人事に関しては、ハンスの承認が必要だった。
そんなわけで、事実発覚後、私がひとっ走りして、本日の話し合いの約束を取り付けたのだ。
今日の話し合いは営業所の会議室で行うことになっていた。
ハンスは港の近くに来る時はいつも、白の貴婦人に挨拶するらしい。だから、今日は白の貴婦人の前で落ち合うことになったのだ。
無事、白の貴婦人への挨拶を終え、我々は営業所の会議室にやってきた。
各々が椅子に座り、向き合うと、早速、メイヤー氏が船の持分と今回の経緯について話し始めた。
どうやら、持分に関しては、先代からあらかじめ話がいっていたらしい。ハンスに驚いた様子は見受けられない。また、彼は損益の分配については権利を放棄していると述べた。
一方のダンの件については、ダンは昔から思い込むと聞かないからなぁ、とハンスはしきりにぼやいている。
「何か引き止めるための案はあるのか。」
あいつは今の船乗りたちに必要な人間だから、とハンスは不安気だ。
ここからは私が説明を引き受けた。
ダンを引き止めるための一計と、それに伴いハンスに役職を移動してもらいたいことについて丁寧に説明を重ねる。それに対し、ハンスは大きく頷いてくれた。
「なるほどなぁ。古い慣習を復活させるってことか。坊主は若いのに、良くもまぁ、そんなこと知ってたな。俺自身、じいちゃんに子供の頃に聞いたような昔話だぞ、それ。」
えらい、えらいと頭をぐりぐり撫でられる。そんな中、私は首が折れそうになりながらも遠い目になった。
古い慣習って一体……?
まさか今回の作戦がなんらかの慣習に沿うものだったとは、これっぽっちも知らなかったが、とりあえず訳知り顔で頷いておく。
どうやら、スムーズに事を運ぶことができそうだ。
私はニヤリと笑い、メイヤー氏に視線を送った。ここぞとばかりに、メイヤー氏が了承を取り付けにかかる。
「それじゃあハンス、今回の件に力を貸してくれるか。」
しかし、予想とは裏腹に、ハンスは首を横に振った。
「すみません。坊っちゃんの頼みでも、それはできません。」
思わぬ反応に我々は息を呑んだ。




