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ハンゼの港から  作者: tanja
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マルクトと豆のスープ

いいねで応援してくださっている方、ブックマークしてくださっている方々、いつもありがとうございます!


「あー疲れた。」



石畳を一日中歩き回ったのに加えて、この屋根裏部屋までは無心で狭い階段を登らなければ辿り着けないこともあって、体がずっしりと重い。シャワーを浴びたら、もう、体力の限界だった。

無心でベッドに倒れ込む。


仰向けになって天井を見つめる。屋根裏部屋の天井は見事に屋根の形に傾いている。

こんな風に何でもない時に、あらゆる場面で、ふと日本のことを思い出す。日本で住んでいたのは1Rの四角い部屋で、あの頃は、天井が平たいのは当たり前のことだった。


今日は長い1日だった。カフィハウスからの帰り際、実はもう一悶着あったのだ。


あのあとしばらくしてもフローリンさんは戻ってこず、痺れを切らした私たちはお金だけ置いて、カフィハウスを後にすることにした。

それにもかかわらず、扉を開けて店を出る直前になって、フローリンさんが慌てて奥から出てきたと思ったら、腕をとり引き留められた。

危うく、店の中に連れ戻されて、カフィ研究の道連れにされそうになったが、そこは流石にメイヤー氏が説得してくれて助かった。

結局、月初めの休日に、フローリンさんのカフィハウスに出向くと約束してようやく解放された。まぁ、訪問の際にはカフィもケーキもご馳走してくれるというのだから、そう悪いことではないだろう。


そんなことをつらつらと思いながら、目を閉じると、いつの間にか、深い深い眠りに落ちていった。




次の瞬間にはもう、空が明るみ始めていた。


帝国の朝はグッと冷え込む。掛け布団にくるまったまま、ベッドからはい出ると、空気の入れ替えのために窓を開けた。キリリと冷えた冬の訪れを予感させる朝の空気が部屋に流れ込む。


窓からは夜明け特有の彩りの港を見渡すことができる。ここから海を見るのが私は好きだ。


港の朝は早い。もうたくさんの人が働き始めている。


今日は日本でいう土曜日、港では朝からマルクトが催されているのが見えた。新鮮な野菜にチーズ、焼きたてのパン、代替品だというカフィも売られているはずだ。


久々に、マルクトで買い物するのも良いかもしれない。


そう思い立ち、髪を櫛でさっと整えると、チュニックをずぼっと頭から被り、ゆったりとしたスボンをはいた。ジャケットを羽織り、編み上げブーツをはけば完成だ。

「よし。まずは朝ごはんから!」

私は階段を駆け下り、港へと急いだ。


「何にしようかな。」


帝国人は冷たい食事を忌避しない。事実、朝から、外気で冷たく冷やされたピルスのジョッキ片手にご機嫌な集団がいたりする。

しかし、日本人としてはこんな寒い朝は何か温かいものが欲しい。


あちこちで、威勢の良い客引きの声が聞こえ、朝っぱらからとても賑やかだ。そこら中で、お買い物に来たであろう、大きな籠を腕に下げたレディと店主の攻防戦が行われている。


「まぁ!おじさん、ありがとう。これで、ポムルぎっしりの美味しいパイが焼けるわ。」

そんな声に振り返ると、どうやら、果物屋で交渉していた美しいレディは大きな戦果を勝ち取ったらしく、ホクホクとした顔で戦線離脱するのが見えた。デレデレとした表情をしている店主も嬉しそうに手を振って見送っているから、双方にとって良い取引ができたのだろう。


こんな風に、見渡す限り続くマルクトは、ハンゼの繁栄を如実に表している。私自身、帝都に行ったことはないが、ハンゼのマルクトは帝都のマルクトをも凌ぐと聞いている。もっとも、ハンゼの民は地元愛が強いので、いささか地元贔屓が過ぎる情報である可能性は否めない。


しばらく、歩き続け、ようやく半ばまで歩いた頃には、すっかり冷え切ってお腹が空いていた。すると、何だか食欲をそそる香りがどこからともなく漂ってくるではないか。

味付けと言ったら塩バーン、胡椒バーンの繊細さを欠く帝国料理とは一線を画す複雑な香りだ。


私は、この香りが何なのか知っていた。いや、日本人なら誰しもこれが何の匂いなのか瞬時に嗅ぎ分けることができるだろう。


期待に胸を膨らませ、キョロキョロと周囲を見渡す。

すると、私の目に飛び込んできたのは、異国情緒あふれる鮮やかな色彩の織り布と、傍に鎮座する大釜だった。


「絶対、あれだ。」


私は、何とかはやる気持ちを抑えながら、大釜へと向かう。そして、一言。


「一杯お願いします!」

「君、このスープは帝国のお料理とは違って、少しスパイシーなのだけど…辛いものは大丈夫か。」

「もちろんです。」

思ったより、大きな声が出てしまった。店員のお兄さんが目を瞬かせている。しかし、私の溢れんばかりの熱意が伝わったのか、顔を綻ばせさらに嬉しい提案をしてくれた。


「そんなに目を輝かせてくれるなら、フレットブロートか、黒パンをおまけするよ。どうする?」

「もちろんフレットブロートの方でお願いします。お腹ぺこぺこなので嬉しいです。」


そうして、大釜の後ろに控えていた壺の内壁から今し方剥がされたばかりのほかほかのナンらしきパンと、カレーの香りだが、もう少しシャバっとした豆たっぷりスープを手に入れた。


スパイスの香りがたまらない。ナンもどきをスープに浸し、そのまま頬張る。


「お、おぃひいぃぃ〜。」


私は感動で打ちひしがれた。


テクスチャーからも予想した通り、カレーというには少し薄いのだが、豆の味がしっかりしていてとても美味しい。少し辛いと言われていたけれど、もう少し辛みがあっても良いくらいだ。


ベースにはコンソメスープのような味がするので、帝国人の好みに少し寄せているのかもしれない。

日本でいう蕎麦屋のカレーみたいなものだろう。


ナンもどきは、記憶と寸分違わずナンだった。

どちらかというと、脳筋気味な傾向の強い帝国人は硬いパンこそを正統なパンと呼び、柔らかいパンを軟弱者のパンと呼んで一切認めない。

しかし、私は、パンは、ナンみたいに柔らかい方が好きだ。可能ならば、隣国には存在するらしい柔らかいパンが帝国でも普及してほしい。



「くすくすくす。そんなに急いで食べると喉に詰まらせるよ。ここで座って食べなよ。」


店員のお兄さんは大釜の横の布の上に自ら座り、その隣をポンポンと叩いた。


「ありがとうございます。」


私は遠慮せず、その隣に陣取らせてもらった。

スープ皿を床に置けるのは何気にありがたい。これで、ナンもどきをちぎりながら食べることができる。

その様子を見ていたお兄さんは、両眉をあげ面白そうな顔をした。


「君、地べたに座ることに抵抗がないんだね。」

「だって、布の上じゃないですか。」

「そうであっても、お堅い帝国人は頑なに地べたに座ったりしないだろう?」

「そもそも私は帝国人じゃありませんし、そういうお兄さんだって帝国人なのに座っているじゃないですか。」

私は肩をすくめてみせた。


「ありゃあ、帝国人だってばれちゃったか。」

「いや、バレバレですよ。どっからどう見てもそうじゃないですか。」


ぷっ、と、どちらとともなく吹き出すと、二人で顔を見合わせて笑いあう。


お兄さんの髪は透けるような金髪で、瞳はサファイアのように鮮やかな青色、肌は抜けるように白い。いかにも帝国人の色合いだ。


「このスープとても美味しいですね。」

「そうだよね。これ、とても美味しくできているよね!それなのに、帝国の奴らときたら、親しみのない香りだからといって、まるで寄り付きやしない。」


お兄さんはプリプリと怒っている。


確かに帝国人は食に対して保守的だ。だからこそ、収穫祭ではレシピを公開させ、皇帝に献上されたという箔をつけることによって、食文化の多様化を公的に促進しているのかもしれない。

しかし、このスープに関しては、人が寄り付かないのはおそらく香りだけの問題ではないのは明らかだ。


思うに、スープのお兄さんは、冬に近づく寒々しい色合いのマルクトで悪い意味で目立ちすぎている。


このお兄さん、帝国人らしい色合いに王子様のような甘い顔立ちにも関わらず、太陽が燦々と輝く暑い国にこそ映えるであろう、極彩色の衣装を纏っており、チグハグな印象がいなめない。


服装というのは相手の立場を推し量る上で重要な指針となる。この世界の人々には、やはり身分という壁があり、その壁の存在をいち早く感知できるかは時に生命線となりうるのだ。

だから、見慣れない服装は警戒を呼ぶ。これが、お兄さんがいかにも異国民という容姿であったならば、ここまで敬遠されることはなかっただろうが。


「ハンゼの人たちは好奇心旺盛ですから、誰が最初に試すか互いに様子見していただけで、誰か食べているのを見れば、売れ始めると思いますけど。」

「そうだと良いんだが。」


そういう間にも、私は、ナンを千切っては、スープに浸し口に運ぶ。

お兄さんはそんな私の様子をなぜか興味深げに観察しているのだ。あんまり熱心に見つめられるものだから、なんだか居心地が悪い。


「その衣装、どちらのお国のものですか。」

「これは南西のバラーダという国で買い付けたもので、私はバラーダの文化が好きなんだ。この刺繍美しいだろう?こことは違って、一年中暑い国でね。生きているってことを強く実感できる良い国だと私は思う。」


確かに、お兄さんのズボンの裾には見事な刺繍が施されていた。


そうこうしているうちにスープを食べ終わり、人も集まってきた。そろそろ、ハンゼの人たちも、この目新しいスープを試したいと思っていることだろう。


「お兄さんそのスープ一杯おくれ。」


おじさんの声を皮切りに、我も我もと、大釜の前に人が並び始めた。


「それでは、そろそろお暇しますね。」

「ああ。また来てくれ。」


スープのお兄さんは、そう言って立ち上がると、しばらく手を振って見送ってくれた。

スパイスの効果か、すっかり体が温まった私は、ご機嫌でマルクトを後にしたのだった。


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