はじまりのエビサンド
夕日に照らされた港の鮮烈なオレンジに一雫の夜が混じる。
この時間の港は本当に美しい。海は真っ赤に熟れた夕陽を映し、キラキラとゆらめいている。
今日も仕事を終え、港を眺めながら帰路につく。
しかし、やはり見慣れた日本の海とはどこか違う。海から目を離すと、足早に帰宅する市場の人々や、これから飲みに行くのであろう海の男たちの姿が目に入る。
ここ、ハンゼの港は帝国随一の港で異国人も珍しくない。
そうでなければ、青やグレーといった寒色の瞳に、明るい色の髪を持つ帝国人の中で、日本人の黒目黒髪は目立ってしょうがなかっただろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、私はため息をついた。それと同時に、ぐぅと腹の虫が盛大に鳴く。
いくら哀愁に浸ろうと、生きている限り空腹には勝てないのだ。
先ほどいつもの出店で手に入れた、熱々の小エビのサンドにかぶりつく。
まだ秋の入りだというのに、吐く息は白く肌寒い。
この小エビのサンドはハンゼの街の名物だ。
コッペパンくらいの大きさの、フランスパンのような固いパンに、親指の爪くらいの大きさのエビをこんもりと挟んだパンである。
帝国に来たばかりの頃、塩だけで味付けされたしょっぱい肉料理が主流のこの国で、私は魚介恋しさに死にそうになっていた。
初めてこの小エビのサンドに出会った時には、美味しくて、美味しくて、そして異世界に来てからずっと張り詰めていたものが切れてしまって、咽び泣いたものだ。
その時の私の様子を見ていた出店のおじさんは驚いて、一発で私の顔を覚えたらしい。
それからちょくちょくとお店に通い、おじさんとはすっかり仲良くなった。
そんなおじさんとはこの世界で築いた人間関係の中では最も長い付き会いになる。
本当にありがたいことに、何かと気にかけてくれて、なんのツテもなかった私に、職を得るための口利きをしてくれた。
そんな風に考えごとをしながら歩いていたのがいけなかったのだろうか。
人にぶつかった拍子に、サンドのエビが宙を舞った。
「ああ、私のエビが。」
まだ、一口しか食べていなかったのに。悔しさに思わず唇をかんだ。
「すまない。君の服は汚れていないか。お詫びに、サンドの代金を支払おう。」
無残に散った足元のエビ達から、ふっと視線を上に上げると、そこには大層なキラキラしい容姿をした美丈夫がいた。
彼は帝国人らしい青灰の瞳をしており、白金の髪は長く、背中で一つにまとめられているようだ。
極め付けには元の世界でもなかなか拝めないであろう、仕立ての良いグレーのフロックコートを着ている。
まずい、この尊大な口調と上等な服装から察するに、彼は相当な身分の持ち主だろう。
こういう時は面倒なことになる前に逃げた方が良い。
万が一、あちらの服を汚してしまっていた場合には、私には弁償する金もないのだ。
「いいえ。大丈夫です。私もよそ見をしていましたので。」
反射的にぺこりと頭を下げ、彼の脇を気持ち早歩きで通り抜ける。
よし、何事もなく切り抜けられそうだ。
「待て。」
残念なことに、静止の言葉とともに、次の瞬間には私の腕は彼によってがっしりと掴まれていた。
もう少しで、逃げられたのに。思わず、唇を噛み締める。
この人、私に一体なんの用があるのだろうか。
「あの、腕を離していただけませんか。」
そう尋ねてはみたが、腕の拘束は一向に緩みそうもない。しかも、彼はまじまじと私の顔を覗き込んできた。
「その髪と瞳、黒か。」
「ええ。でも、ここでは、珍しいものでもないでしょう。なんていっても、ここは帝国一のハンゼの港。世界中から物も人も集まる場所です。ぶつかってすいませんでした。先を急ぎますので、腕を離してくださいますか。」
その言葉に、彼は何かにひどく驚いたように大きく目を見開いた。
そして、ようやく自分が私の腕を鷲掴みにしていることに気がついたようだ。私の腕の拘束は解かれた。
「す、すまない。」
「いえ、それでは失礼いたします。」
今だ!
私は足早にその場を立ち去った。
だから、青灰の瞳が私の背をじっと見つめていることに、その時は気がつく由もなかったのだ。