過去の真実に未来はあるのか
第一章
ラストの曲が終盤に差し掛かった頃。
男が葉巻を咥え、煙とともに現れるのが映画のワンシーンようにスローで見えた。
男は最近よく来る外国人客だ。
店はベル・エポックの初期に建てられたパリの洒落た建物だったが、壁は古く剥がれ落ちていた。
フロアーに続く廊下にはベル・エポック全盛期に活躍した画家たちの絵が飾られ、アールデコの暖色ランプに、ワインレッドのビロード絨毯が靄がかかったフロアーに広がっていた。
客は常連客が数人と酔って迷い込んだ客がたまにいる程度でショータイプの店が流行らなくなったせいか、客は減る一方だった。
そんな中、その男が現れた。
いつも中央の席に座るので、ステージ上のルビスにはよく見えた。
男はよく微笑んできたが、ルビスは微笑み返すような器用な女ではなかった。
店側には「歌が上手くて容姿が良くても、愛想がなきゃ客が逃げる」と、こっ酷く言われていた。
だから、こう何度も来てくれる客を避けてばかりもいられなかった。
歌い終わったルビスは、マスターにウイスキーのロックを貰い、その男の方へ向かった。
いつもなら水割りしか飲まないルビスも、その時ばかりはアルコールの勢いをかりた。
男は向かって来るルビスに気付くなり、いつものように微笑んだ。
ルビスは目を合わせ男の隣に座った。
「私はルビス。」
グラスを近づけて乾杯の仕草をした。
男も乾杯の仕草をして、ルビスを見てまた微笑んだ。
いつものスーツ姿だった。
着くずしているのにのスタイルのせいか、都会的な雰囲気があった。
「はじめましてリチャードと言います。リックと呼んでください」
男はフランス語で挨拶したが、流暢とは言えなかった。
(やっぱりアメリカ人?)
「はじめまして」
少し照れながらこたえると、
「ルビスって、珍しい名前だね。やっぱり由来はルビーから?」
(またか・・・)
と心の中で呟いた。
いつも聞かれる質問で面倒な名前だった。
ルビスは少し頬を赤らめながら、
「知らない。父がつけてくれた名前だけど、それを聞く前に逝ってしまったから。」
「そうなんだ。すまない。」
「あ、別にいつもの事よ。」
「君の声好きなんだ。」
「ありがとう。」
「今日は遅かったのね。」
そう言うと、男は嬉しそうに
「私のこと、気にしてくれていたんだね。今日は仕事がスムーズにいかなくて。」
ルビスは黙ったまま男の方を見ると、
また、男はうれしそうに微笑んだ。
(なぜか、初めて話すのにホッとする。)
でも、そんな事は悟られたくない。
とグルグル考えていたら、いきなり
「今度、一緒に食事どう?」
あまりに唐突だったので、
「ええ、。」
と返事をしてしまった。
すると男は笑顔で、
「そう、土曜空いてるかなあ」
「多分・・・」
「じゃあ、土曜の20時にル・シャ・ノワール待ってるよ。」
そう言って、そそくさと店を出て行ってしまった。。
ルビスはただ呆然と男が店を出るのを眺めることしかできなかった。
土曜の朝、ルビスは早く目が覚めた。
ルビスの毛布の上で寝ていた猫のモルシャンも早く起こされて不機嫌そうだ。
仕事上、寝るのが遅いルビスは、早く起きても10時頃だ。
でも、まだ7時15分。
モルシャンが不機嫌になるのも無理はない。
まだ、待ち合わせ時刻まで半日もあるのに。
そうは思ったものの、なんだか気分は悪くなかった。
朝日が少し眩しく、薄暗い筈の屋根部屋の小さい窓からキラキラと差し込んできて綺麗だった。
ルビスは父親のような温かい朝日を見て、あの頃を思い出していた。。
ルビスがまだ7歳になったばかりの頃、父親が産まれたばかりの子猫を抱いて帰ってきた。
生まれてからすぐ母を亡くしていたルビスは、幼い頃から大抵独りで寂しい時を過ごしていた。
一番若い家政婦のアンナが相手をしてくれたが、アンナも家政婦成り立てで、仕事が忙しかった。
ルビスは、ドキドキしながら近寄った。
「パパこの子どうしたの。」
「パパの仕事のお客さんから貰わないかって言われて、最近ルビスが寂しそうだったからから貰うことにしたんだよ。」
「そうなの?」
「心配してくれてありがとう。」
「うん、パパもルビスのうれしそうな顔をみたら安心したよ。」
「うん、うれしい。」
「パパ、この子なんて名前なの?」
「まだ、名前ついてないよ。」
「本当?」
「まだ名前ついてないのね、猫ちゃん。
はじめまして、私はルビスよ、この子はアンジェリーヌ。」
ルビスはいつも遊んでいる人形の紹介をした。
「パパ、この子の名前私がつけていい?」
「いいよ、つけてあげて。」
「う~ん。」
その時、大好きな絵本の猫の名前を思い出した。
「モルシャンは、どう?」
「変った名前だね。でも、ルビスが決めたんだからパパは何も言わないよ。」
と笑顔で言った。
「うん、モルシャンでいいの。」
「モルシャン、これからよろしくね。」
「ニャ~オ」
その日からモルシャンとの生活が始まって、一人でいる時の寂しさは、あまり感じなくなっていた。
そんなルビスを見て父親も安心していた。
ルビスの父親ジャンは人望があり、一代で貿易をの会社を成功させた逸材だった。
英語が話せたジャンは大きな取引がある時は、世界中を船で航海し何日も家を空けることが多かった。
そして、帰ってきたら決まってその国の話をしてくれた。
ルビスは地球儀をクルクルと回しながら、その国の空想するのが好きだった。
ジャンが外国で買って来た地球儀は、ルビスの宝物だった。
ジャンが居ない時もそれを回しながら、聞いた事のある国の空想ばかりしていた。
そのせいか、友達はあまり居なかった。
それでも、猫のモルシャンと家政婦のアンナがいてくれればなんの問題もなかった───。
そんな平穏な暮らしが一変したのはルビスが9歳の頃だった。
一通の電報が届いた。
内容は、アメリカ、ニューオリンズ出航、フランス、トゥールーズ行きの客船が行方が途絶えた。
海域で数十人の遺体が上ったということで、おそらくその付近で、なんらかの事故があり転覆したのではないかというような内容だった。
名簿に、ジャンの名前も載っていたらしいが、ルビスは到底その事実を受け入れられなかった。
「ニャオニャォー」
モルシャンがお腹を空かして擦り寄ってきた。
時計を見ると、ボーっと父親のことを思い出している間に時間がたっていた。
家にはチーズもパンも無く、あるのは飲みかけのワインボトルだけ。
そして窓からは、春の優しい風が吹いていた。
普段は家から出るのが好きではないが、久しぶりに出掛けたくなった。
家を出ると、町は目新しい物や人で溢れていた。
いつも暗くなってから家を出るルビスにとっては、別世界だった。
見たことも無いシルエットのデザインの洋服やエレガントな帽子がショウウィンドウに飾られていた。
洒落た似たような格好をした女性達がおしゃべりしながら楽しそうに歩いていた。
あまりに着飾るマダム達をよそに、ルビスはシンプルな絹に、体のラインがでるシルエットのドレス、大きめのハットかぶった。
母親が着ていたものだから、流行遅れもいいとこだったが、
ルビスは十分に着飾ったマダム達よりも際立っていた。
髪は絹の様に細く、金髪に程近いブラウンに、左目がエメラルドグリーンに近いブルーに右目はルビーの様な色のレッドで、オッドアイの目が神秘的な美しさを放っていた。
町を歩く男達は魅了され、声さえかけられない程だ。
女達からは憧れの眼差しで見る人もいれば、突き刺さるような鋭い嫉妬の視線がルビスに向けられた。
しかし、ルビスはそんな視線などお構いなしだった。
ルビスはアンソニーのサロンに行くことにした。
アンソニーとはルビスを支えているピアノをひいてくれるパートナーでもあり、兄弟のような男。
それ以外に画家の仕事をやっていて、そっちが主な仕事だ。
アンソニーは伯爵家の血筋で、顔立ちも良くスタイルも悪くなかった。
だから、いつも女達から寄って来て、自らヌードになってモデルを志願するほどだった。
だが、アンソニーはルビスばかりを描いた。
そして、いつもこんな事を言っていた。
「ルビスは僕のインスピレーションを刺激する唯一のモデルなんだ。」
と、普段のルビスなら断るところだが、彼には恩があったしそれをするだけの才能もあった。
そして夜は、ルビスの歌の伴奏を引き受けてくれるのだから。
今日はアンソニーがそのサロンに来ない事を思い出して、
バラや絵画、美しい音楽のあるサロンで一人静かに過ごそうと向かったのだった。
客はいつもの画家や音楽家達もなく、本当に静かに過ごしていた。
しかし読書をしながらボーとしていると、誰もいないと思っていた隣の部屋から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
よく見ると隣の部屋の扉は少し開いていた。
そして恐る恐る覗くと、なんと今晩会う筈の男、リックがそこに居た。
驚いて後ずさりした瞬間、そこにあったピアノの鍵盤にあたって音を出してしまった。
慌てて彼の様子を見たが、彼は仕事の取引しているようで、まるで気付いていなかった。
そこにいた彼はいつもの笑顔はなく、母国語の英語で真剣に仕事の話をしているようだった。
(やっぱり、アメリカ人なのね。)
ルビスは、そう確信した。
一瞬、貿易の仕事で英語を使っていた父親とリンクした。
朝から父親の事を思い出していたせいか、自然と涙がこぼれていた。
その時だった。
何かを感じとったのか、男が少し開いていたドアを押した。
その瞬間、リックと顔を合わせてしまった。
驚いたルビスは、慌ててサロンから飛び出した。
リックも急いで追いかけて、ルビスの腕をつかんだ。
「ルビス・・・君だよね?なぜ、逃げるんだ」
涙に気付かれないように、下を向いた。
「今晩、来てくれるよね?」
YESと言わないと、彼が離してくれないような気がして下を向いたまま頷いた。
「じゃあ、また後で。」
と言って、振り返ることもなく家路に着いた。
その日ルビスは、リックに父親の面影のようなものをを感じ、耐えきれそうもなかった。
大好きな父親ジャンに、会いたい寂しさで孤独に押しつぶれそうになっていた。
到底、彼と話す気にはなれなかった。
約束の20時に『ル・シャ・ノワール』に向かう事はなかった。。
一夜明け、いつもの日常が始まった。
店に行き、彼が来たらなんて言い訳しようと考えていた。
だが、来る日も来る日も彼は現れなかった。
きっと、彼を怒らせてしまったんだと思っていた。
アンソニーも何か気づいていたのか、
「最近、ルビス狙いのあのアメリカ人来ないね。もしかして、なんかあった?」
冗談まじりで聞いてきた。
「そんな訳ないじゃない」
慌てて返した。
「いつものクールなルビスじゃないけど、どうしたの?」
とアンソニーは、からかった。
ルビスはしばらく黙っていた。
いつもと違う空気を感じ取ったのか、アンソニーは話題を変えてきた、
絵画のモデルの仕事の依頼をしてきたのだ。
8ヶ月後の12月にサロンでアンソニーの絵画の展示会をする為、何枚か描く必要があったからだ。
海外からも客が来るような少し規模が大きいものだった。
「だから、明日からサロンで寝泊まりしてくれる?いつもの3倍のモデル料と食事3食、部屋も好きに使って構わないし、モルシャンも連れて来て大丈夫だから、よろしく」
断る理由はなかった。
ニューヨークに行く為にいつもギリギリの生活なのだから。
そう、ルビスには幼い頃からの変わらない夢があった。
なにか試練ある度に、純粋だった性格もすこしずつルビスを大人に変えたが、夢だけは変わらず同じ夢を追いかけた。
いつしかルビスもシャルロットの様なシンガーを目指すようになったのだ。
そう、母のシャルロットだ。
ある時から彼女のレコードの存在に気付き、それを聞いて過ごすうちに彼女に憧れをいだいていった。
母シャルロットには、いろんな顔があった。
伯爵家として何不自由なく育ったように見えたシャルロットは、実は祖父がアメリカで作った子供だった。
つまり、愛人の子供。
そんなこともあり、彼女の生活は肩身の狭いものだった。
そして、そんな生活から早く抜け出したかった。
18歳になってすぐ、彼女は逃げるようにしてニューヨークでシンガーになる。と言い飛び出したのだった。
周囲は、すぐに彼女のうわさをした。
歌もまともに習った事がないのに、シンガーなんかなれる訳がないと。
だが、子供の頃から孤独だった彼女の唯一の友達が歌だった。
祖父がアメリカで買って来た数々のレコードを聴いて歌いこんでいてた。
また、歌うことで全ての嫌な事が消えていくようだったから。
そんなことも知らない周囲は噂をし、そしてその噂は大きくはずれることとなった。
あっという間に、有名な大物シンガーになったのだ。
彼女の人生は180度変わった。
それからしばらくして、彼女に人生の伴侶ができた。
運命のイタズラか、彼女が愛したのは奇しくも同郷パリの男ジャンだった。
そして、彼女は人生の中で一番幸せな日々を送った。
しかし、彼女に過去と向き合わなければいけない日が訪れた。
彼女が妊娠しルビスを身ごもって、しばらくしたある日のことだ。
どういう訳か、それを聞きつけた伯爵家の祖父が、
「一度帰ってきなさい。今まで肩身の狭い思いをさせて悪かった。パリで子供を産みなさい。」
というような内容の手紙を送ってきた。
彼女は辛かった過去を封印したつもりだったが、その手紙を読み身震いがするほど背筋が凍りついた。
そして、帰ることなくニューヨークでルビスを産み、体が弱かったシャルロットはしばらくして逝ってしまった。
かわいそうな彼女を最後まで見送ったのが、ジャンだった。
喪に伏す間もなく、ジャンは仕事の関係で、幼いルビスとパリに戻る事になった。
いつもどこから噂を聞きつけるのか、シャルロットの父親がすぐ会いにきた。
娘と最後の別れも出来ないままで、辛い思いをさせてきた娘に何もできなかった後悔からか、大分弱っていたらしい。
そして、せめてルビスには何かさせてほしいと頼んできたが、ジャンはそれを拒んだ。
しかし、ジャンも子を持つ父親として同情からかその時、一度だけルビスを抱かせたのだと、幼かった私に話したことがある。
そして、しばらくして祖父もこの世を去ったのだった。
アンソニーとの絵画の仕事が始まった。
モデルの仕事は意外と体力のいる仕事で5ヶ月間、サロンにこもりきりで疲れ果てていた。
でも、ニューヨーク行きの資金をもう少し貯めなければならなかったから耐えることができた。
展示会まで残り3ヶ月、アンソニーも数枚かの絵画を書き上げ満足げだ
アンソニーは当たり前の様に、「展示会にはルビスもよろしくね。」
というものだから驚いた。
アンソニーはこう続けた。
「君はもうすぐニューヨークに立つだろ。展示会には海外から客が来る、もちろんニューヨークの客だっているんだ。今のうちに、パトロンでも見つけておいたほうがいいと思うけど。」
考えてもいない事だったが、現実にずっと生活していく為にはスポンサーは必要な存在だった。
そして、私以上に真剣にニューヨークの生活の心配してくれていることに驚きと感謝の気持ちでいっぱいになった。
さらにアンソニーはこう続けた。
「そこで提案なのだけど・・・」とアンソニーが切り出した。
「きみは挨拶とかそういうのは苦手だろ。だから、展示会の時に歌を歌えばいい。」
夜の歌の仕事と違って緊張するのは目に見えていた。
しかし、歌手になる為の第一歩だと思った。
「本当に歌わせてくれるの?アンソニー、あなたには感謝してもしきれないわ。」
「それは、僕だって同じさ。お互いにこの展示会を成功させよう。」
成功を祈って、二人でシャンパンをあけた。
ニューヨークが近づいてるようで、嬉しかった。
母や父が愛を育んだ場所に行けるのは夢のようだった。
「アンソニー、本当にありがとう。」
と言ってルビスはアンソニーにハグをした。
アンソニーは描きあげた絵を展示できるまでに仕上げ、ルビスもニューヨーク行く為の準備を着々と進め、ついに、に展示会の時がきた。
雪が深々と降る12月。
町はクリスマス一色。慌しかったが、サロンは嵐の前の静けさのように静まりかえっていた。
「アンソニー私、緊張して水も喉を通らないわ。」
「ルビス、珍しいね。あのクールなルビスはいったいどこに行ったの?僕は、クールなルビスが好きなんだけど・・・まあ、そんなルビスも可愛くて好きだけど。」
そんなことを平気で言うアンソニーに意地悪したくなって少し睨むと、アンソニーは、
「そうそう、その絵が好きなんだよ。このクールな目が。」
そう、言ってアンソニーは写真を撮る時の様なポーズで指の間から、ルビスを写した。
ふたりは、笑いあった。
そうこうしているうちに時間が過ぎ、客が次々にやって来た。
アンソニーは対応に追われ、ルビスは行き場を失ったように別室で右往左往していた。
そんな時、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
ドアを開け少し覗くと凄い数の客とその中に、あの男がいた。
(リックだ!)
店に現れる彼とは違い、パリッとベスト&スーツを着こなし、栗色の髪を軽く後ろにながし、大人の色気を感じた。
ますますルビスは、ドキドキして普通じゃいられなくなった。
しばらくすると、アンソニーがやってきた。
「こんなところにいたのルビス。さっそく、歌ってもらうからね。そんな状態じゃあニューヨークが飛んで行っちゃうよ。今日はニューヨークに行く為の第一歩だろ。ねえ、分かるかい?君と出会って、君が歌手を目指してることを知ってから僕がピアノを弾こうと思ったのは、君に幸せになって欲しかったからだよ。音楽を聴いたり歌ったりしているルビスはとても良い顔していたから。僕はずっと応援してるからね。」
緊張が頂点に達していたルビスだったが、10歳から今まで一人でなんの為に生きてきたのか振り返った。
一瞬にして、ルビスの表情は変わり我に返った。
美しいオッドアイに溜まった涙をアンソニーが胸ポケットから出したハンカチーフで拭い、黙って二人ハグをして、観客が集まるサロンに向かった。
いつもの様にアンソニーがピアノを弾き、ルビスはピアノの前に立った。
衣装はいつも店で着ているシンプルな装いではなく、母シャルロットが大事にしていたと思われるルビーカラーの背中がざっくり開いたセクシーな衣装で、観客はどよめき、一気に視線を集めた。
そして、あのリックもいつもと違うルビスに視線を奪われていたが、ルビスがここで歌うことを分かっていたかの様に中央に立ち、いつものように微笑んでいた。
歌いながらルビスは、幼少の時から今までが走馬灯の様に頭を駆け巡っていた。
ルビスは、自分では気付かなかなかったが、また自然と涙がこぼれ落ちていた。
そんなルビスを見ていたリックは、胸の中で熱いものを感じていた。
歌い終わった時、一斉に拍手や歓声が上がった。
それは、今までにない歓声だった。
一番驚いたのは、ルビスだった。
なぜか心が落ち着いていた。
覚えているはずもない母が、まるでそこにいた様な感覚だった。
いや、居たのだろう。
一緒に歌っていたのだ。
ルビスはそう、思った。
歌い終わると、いろんな国の人たちがルビスの周りに集まって来た。
社交的では無かったルビスは困惑していたが、つたない英語で会話した。
リックもそれを、心配そうに見守っていた。
そのうちルビスも、その視線に気がついて二人は目が合った、リックはテラスの方に指をやった。
二人は自然に、テラスに向かった。
周りにいた観客も二人が特別な関係の様に見えたのか自然とばらけていった。
テラスに着くと不思議と普段見ているエッフェル塔が、一層輝いていて見えた。
二人が顔を合せるのは、このサロンで偶然にあったあの日依頼だった。
お互い照れて、あまり目を見ることが出来なかった。
そしてあの日、待ち合わせ場所に行けなかったことをルビスは謝った。
すると、リックはびっくりして、
「実は私も急用でアメリカに帰らなくてはいけなくなって、行けなくて、ずっと心配していたんだ。」
といって、お互い安堵して目を合わせて微笑んだ。
「君、ニューヨークに行くんだね。私はニューオリンズなんだ。それに、仕事でパリにいることが多いから、もう君の歌も聞けなくなるんだなあ。」
と寂しそうに遠くを見つめて言った。
「でも、君の成功を祈ってるよ。」
と続けて、軽くウインクした。
その行為を見て、ルビスが
「そんな風にいつも口説いているのね。」
ちょっとクールな表情でそれを言うもんだから、リックは調子に乗って「まあね。」
と言ってルビスの顔を覗きこんで、ルビスの反応を楽しんだ。
そして、また二人は向かい合って笑った。
その瞬間、もう会えなくなる寂しさからか、熱いものがこみ上げていることにルビスは気付いてしまった。
リックもまた切ない気持ちになっていた。
急に恥ずかしくなったルビスは
「もう、そろそろアンソニーが私を捜してる頃だわ。」
そう言ってもう、会えなくなるかもしれないリックから離れた。
心は動揺していたが、どうすることもできなかった。
あれから3ヶ月、ルビスはいつものように夜は歌っていたが、リックは来なかった。
そして、ルビスがニューヨークに旅立つ日が来た
ルビスは父親ジャンが消息をたったあの日からやっとの思いで、このアパートに辿り着いたことを思い出していた。
ジャンの消息が経ってから何ヶ月かたったある日、ジャン不在の為に取引先に大損失を与えたと屋敷は奪われた。
ルビスは猫のモルシャン以外何もかも失った宝物にしていた地球儀も。
ただ、アンナは父から「何かあったらルビスに渡してくれ」と鍵の入った封筒を渡されていた。
なんの鍵かも分からないし、住む家はなくなるし、途方にくれていた。
家政婦達も職を失い、一番仲良しだった家政婦のアンナももちろん、パリ郊外にある実家に帰る事になった。
優しいアンナはルビスとモルシャンを実家に呼んでくれた。
大家族の長女で12歳で出稼ぎに来ていたぐらいなのだから、当然そこでの暮らしは大変だった。
幼い兄弟達の食事すらままならないのに、そこにルビス、モルシャンまで加わるとアンナの両親も参っていたが、アンナは断るすべを知らなかった。
そんな大家族の様子を見ていて、10歳になったばかりのルビスは申し訳なさから、置手紙を置いて出たのだった。
ルビスは持っていたわずかなお金をポケットにいれて、首に父から貰った鍵をぶら下げ、モルシャンとパリに向かって歩き出した。
歩いていると小さい頃の記憶が蘇ってきた。
そして、幼い頃のある記憶にたどりついたのだ。
パリに昔から物置として使っていた屋根部屋を思い出したのだ。
そこは幼い頃、父親のジャンとしか来た事がない場所で、他の誰も知らない場所だった。
5才くらいの頃の記憶で、正しいとも限らなかったが、これから生きていく為に必要な記憶だった。
パリについて2,3日して、小銭もなくなってしまった頃、やっと、あの記憶の片隅の場所にたどり着いたのだ。
そこは、シャンゼリーゼ通りからのわりとすぐの繁華街で、その中でも最も古い5階建てのアパートだった。
最上階だったのは覚えていたから、モルシャンを抱きあげ疲れきった体でようやく階段を上がりドアの前に立った。
そして、アンナから貰った鍵がここの鍵であることを願った。
胸が張り裂ける様な思いの中、ドキドキしながら鍵を入れ、差し、回すことができた!
ドアを開け、入ってみるとそこにあったのは、父と母の思い出の品ばかりが置いてある秘密の部屋だった。
ベッドもあり、2、3日ろくに寝れていなかったせいか、安心してか翌朝まで目覚めなかった。
朝起きて改めてあたりを見渡すと、ジャンはそこに大事なものは全部しまっていたのだった。
シャルロットのレコード、身に着けていたと思われる香水。洋服。生まれたばかりのルビスと三人で撮った写真。
そこは、ねずみ、夜にはコウモリも飛んで来たが、宝の宝庫だったのだ。
シャルロットが亡くなって、ルビスと二人で生きていたが、ジャンはここにたまに来てシャルロットを感じていたのかもしれない。
自分に何かあったときに会社が大きな損失を出してお屋敷が無くなることは想定していたのか、そこにはお金も置いてあった。
その頃から学校に行けなくなったが、ルビスはそこにあった英語の資料やレコードで英語を覚え、シャルロットのような歌手になると心に誓ったのだった。
しかし、世間ではドイツ軍侵攻、対独戦争に入っていた。
子供がパリで一人で暮らしている事など、気付かない程、世間は静まりかえっていた。
アンソニーに出会ったのは、それから5年くらいしたパリ解放の後だった。
置いてあったお金もそこを尽きそうだったある日のこと、声をかけてくるルビスより若そうな少年がいた。
その頃は食べ物も不自由でやせ細っていたし、着るもの、履物もぼろぼろで、裕福そうな少年に声をかけられた時はからかわれるのではと無視していた。
少年を見かけなくなって2、3日ぐらいして、執事のような人間が現れ、こう言って来た。
「アンソニー坊ちゃんの絵画のモデルになってくださいませんか」
「これは、お仕事なのでちゃんと報酬は払います。」
お金に困っていた15歳の私には悪い話ではなかった。
ただ、若かったルビスは(執事にものを言わせるなんて最低。)
と思ったが、自分が無視していたことを思い出し、そこへ向かったのだった。
あれから8年アンソニーに支えられた、と言っても過言ではない。
アンソニーとの別れの時間がやってきた。
アンソニーは珍しく顔を赤らめながら、こう言った。
「なにかあったら手紙書いて。飛んでいくから。僕のインスピレーションの君が近くに居ないのは淋しいけど、ルビスが悲しむのはもっと辛い事だから、」
告白のような事を平気で言うアンソニーの事を見て、心から愛しい友達だと思った。
「ええ、辛いことがなくたってもちろん、手紙書くわ。あなたは私にとっての一番の親友だもの。」
そう言って、二人ははぐをして別れのキスをした。
みるみるうちにアンソニーの綺麗な顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。
ルビスもそんなアンソニーの顔を見て「じゃあね。」と言って後ろを振り向くことなく、堪えていた涙を流しながら船に乗り客室に向かった。
展示会のあの日、ある女がスポンサー是非をやらせてほしいと申し出て来たらしい。
ニューヨーク在住で、ルビスがニューヨークに来たら、出来る限りの面倒も見てくれると言って、船のチケットまで用意したのだという。
しかもチケットは一等室だった。
ルビスの胸は高鳴った。
一番良い客室だからではない。
そんなことはどうでも良かった。
個室だからだ。
ようやく客室に着くと、ルビスはボストンバッグを開けた。
すると、勢い良くモルシャンが飛び出した。
そう、モルシャンはいつもの澄ました顔で、一番乗りでベッドに飛び乗った。
「まったく、モルシャンったら・・・」
涙を拭いながら、いつものルビスの口癖が出てた。
自分の貯めた予算で船に乗るとなるとこんな客室は到底無理で、モルシャンをアンソニーにお願いするしかなかった。
でもモルシャンは、ルビスの唯一の家族、離れるなんて考えられなかった。
だから、この時ばかりは神に感謝した。
もちろんスポンサーのお陰なのだが、幼い頃から苦労の連続で、子供の頃信じていた神の存在を封印していたが、この時ばかりはその存在はあるのではとルビスは思った。
そして子供の頃していた祈り、両手を合わせ、いままで出会った人に感謝した。
船の汽笛がなり、船が進み始めた。
ブーブーーーーーーーーー。




