うらろじ
…
…お腹が空いた
とにかく食べ物が欲しい
何か食べるもの 食べられるものが欲しい
お腹を満たせる お腹が空かなくなるものが欲しい
この空腹を凌さえすればなんだっていい
無機物だって空気だってなんだっていい
とにかくお腹が空いて空いて空いて仕方がない
今にも死にそうなほど
お腹が空いて仕方がない
薄暗く冷たい空間。
温度にしても人情にしても決して温かいとは言えない路地で、少女は足を動かしていた。
ところどころで稼働している室外機が狭いそこを満たすように不気味な音を立て、吹き出る風には生温かさが乗っている。
少女の鋭敏になった五感全てがそれを捕らえ、さらにうざったらしく感じられる。忙しく回る羽、唸るような音、生温い風、それに運ばれてきた香水と食べ物の混ざった臭い。意図せず強制的に吸わせられた刺激臭が過敏な舌まで放り込まれる。反射的に嗚咽をし、続く嗚咽を堪えてその場から離れる。
今は空気でさえも吐き出すのが惜しい。唾なんてもってのほかだ。真面目に唾の一滴、呼吸の一つが命取りだと思考する。
ここは今日は駄目だ 食べ物は無いし臭いに釣られてお腹が空く 離れて別の場所にしよう
少女は再び歩き始める。
建物と建物が背比べをするように建っているその間、日の光が一度も届いたことのない路地を徐に覚束ない足取りで行く。
それらが何の建物なのかは少女にとってどうでもいいことだ。食べ物を売っていようが食べれない物を売っていようが少女にとっては腹の底から無関心なことだった。食べ物を売っていたら食べ物の臭いがし、食べれない物を売っていたら食べれない物の臭いがして、それによって気分が少しばかり変動するだけであった。食べ物を売っているからと言ってその付近で食べれる物が手に入りやすいとは限らない。むしろお腹が異様に空くだけだった。
少女は路地を右に曲がり、鋭いままの感覚を頼りに食べれる物を探す。
先程嗅がされた臭いが鼻と口に重たく残り、思わずごくりと生唾を飲み込む。僅かに飲み込んだ唾を惜しんでいると、恨めしそうにお腹が鳴った。獣の唸り声にも似たそれに、理不尽にも腹を立てて不愉快な気持ちを瞳に込める。いくら睨んだところでお腹が満たされないことなど分かり切っているが、怒りを抑えるほどの余裕もない。
少女はしばらくそうした後、また食べれる物を探しに戻る。
目を動かし、耳を澄ませ、鼻を利かして、全身の肌で空気の流れを感じる。これらを無意識下で行い目標物を探す。ただただ食べれる物を探す。
しかし目に入る物は到底食べられそうにない。廃棄された自転車。敷いてある段ボール。放置された空き瓶。外れて落ちたままの竪樋。吸い殻。ボロボロのトタン板。etc..
歩けど歩けど食べれる物は見つからず、研ぎ澄まされた感覚で多量に集められた無用の情報に苛立ちが募る。そこへ更に、早急に食べれる物を見つけなければ動けなくなるかもしれないという焦りが混じり、水分の惜しい身体で冷や汗を掻く。
死ぬかもしれないという恐怖は無い。少女はそんなものとはとっくに戦い終えていた。いや、戦い続けて戦い疲れたと言うべきだろう。ここへ最初に来た時は第一に死に怯えて暮らしていたというのに、ここでの暮らしに慣れていくと共に死への恐怖心にも次第に慣れてしまっていた。
そして、それは同時に生への執着の習慣化でもあった。
食べれる物、食べれる物と未だ動く足を動かし続ける少女の横を一匹の鼠が走り抜ける。
鼠…
少女はそれをただ横目で追い、大して思案する風もない。食べたら食べた分以上に体から出て行き、余計に空腹を誘う悪魔の生き物だということを少女は知っていたからだ。それに今にも倒れそうなこの状態では逃げられるどころか追いかけることすらままならない。
鼠は建造物の下、コンクリの穴に消えていく。
そこを素通りし、少女は穴開きの靴を引っ張るように歩を進める。ここへ来てから毎日酷使されてきた靴底はもう既にその役目をほとんど失っている。
虫だったらよかったのに
少女はそう、暗く黒い小さなコンクリ製の洞穴に後ろ髪を引かれる。虫であればあの洞穴に手を忍び込ませて捕らえ、食べることも可能であったかもしれない。勿論、食べれる虫なことが前提ではあるが。
想像してお腹が鳴ってしまうのも癪なので、頭を振って早々にこの考えを止める。
別の事を…と思い、鋭敏な五感に集中する。
「ーーーー、ーーー」
「ーー。ーーー」
前方の曲がり角から声が聞こえる。誰か人がいるらしい。
少女は曲がり角に入る数歩前から視線を左下に向ける。脂や泥の染み込んだフードを深く被り、猫背になって声の主達、つまりは道を曲がった先にいる男共の横を通る。
心拍が上がって行くのを感じる。瞳孔を動かす筋肉が強張って、視点が小刻みに揺れる。息は殺してただただ通り過ぎるのを待つ。普通の呼吸、普通の歩き方、普通の速度を意識してゆっくりに感じられる時間を歩いて過ごす。
「もう××の方は駄目だな」
「そうかい?俺ぁまだ待てると思うがね」
「もう1週間もなんだ。行くのはやめた方が良い」
「まあ、あの近辺に居たお前がそう言うならそうするよ」
「ああ、そうしとけ」
「でもよぉ、ーーー」
通り過ぎ終え、少女はやや歩いた先で、今になって上がってきた息を整える。フードは下ろさず聞き耳を立てる。男共の声はもう聞こえない。
ゴゥン
聞き慣れた室外機の稼働音。それに心臓を一瞬締め上げられる。
男共は変わらず情報交換をしている。
少女は安心したようにして、しかし音を立てずに歩き始める。
先ほどまでと大して変わりもしない光景が角を曲がっても伸びている。相変わらず食べられる物は見当たらない。
少女は苦虫を噛み潰したように顔を顰める。いっそ苦虫なら良かったのにと、皮の張り付いたような手で空腹に喘ぐ腹を撫でる。
あまりにもお腹が空き過ぎると痛くなるなんてこと、ここに来るまでは知らなかったな
痛みを伴って空腹を訴えてくる腹を宥め賺していると、不意に一番古い記憶が脳裏を過った。
門の如く両脇に聳える建物。その隙間。暗い暗い、真っ暗な世界に一歩足を踏み入れる。
過った光景は、沼底の泥が舞うように当時の事を想起させる。
踏み入れた足を引き戻そうかと躊躇うが、建物の影を踏んだ右足は地面に縫い付けられたように動かない。一度決めてきた覚悟を二度決めて、左足も暗い世界へと踏み入れる。
さっきとは2歩分しか変わらない筈なのに異様なほど空気が重苦しい。首筋の横を抜ける風に冷酷さを感じ、思わず身震いをする。
肌で感じる異質さに気後れしつつ前方に進み出す。ついさっき退こうとして退けなかった右足は、尚も糸が通されているかのようにぎこちない足取りで進む。
昼間にも関わらず灰色と黒に覆われた空間を注意深く観察していく。放置自転車、タバコの吸い殻、虫の死骸、錆びたトタン板、変色したダクトetc..
初めて見るその光景に微かな好奇心と多大な忌避を抱く。
ごくり、と生唾を飲み込み先へ行く。
幽霊屋敷を歩くように暫く行くと、人が一人入りそうな不透明な袋が壁際に放置されていた。警戒しつつ、よくよく見ようと近づいてみる。中には形も大きさも不揃いな物がいっぱいに入っているようで、袋の見た目は球でありながらかなりの不恰好さだ。袋の頭は、手を通す部分二つで蓋をするように固結びがされている。
少女はこの袋に見覚えがあった。
しかし、それ故の迷いもあった。
恐る恐る、この将来に比べれば幾らかまだ肉付きの良い手で袋の頭を解いていく。
ここに来た時からずっと呼吸が辛くなるほどだった異臭が、一つ目の結び目を解いた途端に一変した。
少女は屍肉に群がるハイエナの如き勢いで袋の口を開けにかかる。
食べ物 食べ物だ
解けた持ち手を広げて廃棄物の中に両手を突っ込む。流石に食べれる物だけが入ってるわけじゃない。そもそも食べ物じゃなかったり、腐っていたり、カビに塗れていたり、虫が湧いていたり。
食べられる物、食べられる部分を求めて一つ一つ吟味していく。
しかし、捨てられていただけあって食せるような物はなかなか残っていない。
それでも餓死するよりはマシだろうと、カビや虫を避けて大丈夫そうな所を口に運ぶ。
「おい、何やってんだよそこの」
突然、真正面から話しかけられた。
咄嗟に、少女は話しかけてきた方の男の目を見つめる。
「あ?なんだその目」
「まあまあ。ここら辺じゃ見ない顔だしどっかから流れてきたんだろ。見窄らしいがここよりはまだ良いとこいたんじゃないか?」
「あぁ、そうだろうな。少なくとも表で捨てられた感じはしねぇ」
「だろ?てことはここの決まりも知らないんじゃないか?」
少女は直感的に手にしていた物を隠す。
「おい、そこの。それは俺達が見つけたもんだ。大人しく譲れ。お前も下手に疲れたくないだろ?」
片方が袋を指差して言う。
それに対して少女はその瞳に困惑を滲ませ、居座ることで意志を訴える。
けれど、睨み続ける男共に、気付かぬうちに口で息をし出す。
「ここは俺たちの縄張りだ。ここら辺じゃ自分の縄張りだけで漁るのが決まりなんだよ。お前が今それを返してくれるなら適当に後でどっか空けてやる。だから今はどっか行け」
少女は自分の呼吸を数え、男を見、袋を見る。
そしてもう一度男を見据える。
暫く耐えるようにそうした後、少女は脳内の全てを飲み込んで男共に背を向けた。
「おい」
言うのと男が少女を蹴るのは同時だった。まるで足でドアでも開けるように、少女の背中を蹴った。
予期しない後ろからの衝撃に、少女は抵抗できず体が正面に流れて、そのまま倒れ込む。
アスファルトの固く冷たい感触を顔面で痛烈に感じる。
「盗ったやつも置いていけ」
男共が少女に寄って来て強引に起こし、少女の胸元に手を入れて食糧を漁る。
少女は男の腕をを掴み、退けようと力を込める。
「それは、わたしの」
「あ?何言ってんだよ。俺の縄張りにあったんだから俺のに決まってんだろ」
「やっぱり目が変な奴は中身も変なんだろうな」
「目が緑で髪が茶色ってどんなことしてたらこんな風になるんだよ。こいつ自身カビてるようなもんだな」
男共は少女の手を払って、嘲笑しながら袋を漁り始める。
目…
少女は翡翠の瞳を数回瞬きし、立ち上がってその場を後にした。
逃げるような足取りの最中、少女は依然見た自分の瞳の色を思い出そうとする。
水だったかガラスだったかに反射した、たった一度だけ見る機会のあった自分の顔。
緑色…
思い出せない。自分の顔についてどう思ったかすらも思い出せない。こんなもんか、と無関心だったような気もするし、もっと特段の感情を抱いた気もする。
歩き続けた足がゆっくりになる。
そんなに強く蹴られてないのに、蹴られた足跡が背中に残っている感じがする。背中よりも痛むのは強打した顔面であるはずなのに、背中の存在感の方がより大きく感じる。
お腹 空いたな
今にも音を立てそうなお腹を摩る。
腹の底に溜まった感情達をどうにかしたくて、強く強く自らの腹を擦った。
なんでこんなことを思い出してるんだろう
遂に立ち上がれることも出来なくなった両足を引き摺りながら、少女は四つん這いで色の無い道を徘徊する。
最早、走馬灯を見る余裕も無くなっていた。
何でもいい 口にできれば何でもいいから…
しかし、周囲には石ころ一つ見当たらない。
こんな時は不味くたって消化できなくたって、腹に溜まる物を入れてきた。木の皮も紙も土も砂利も布も糞尿も。
けれど今は地面を舐めることしかできない。建物の壁も地面も舐めてるだけじゃ腹は満たされない。それでも口にしたという既成事実を作るためだけに、腹を誤魔化すためだけに地面を舐め続ける。
死ぬ 生きれない このままじゃ 生きれない
生きたいとか、死にたくないとかそんなんじゃない。兎に角、生きれないという状態から脱したい。このままいけば確実に死が待っている。それを本能が許さない。どうにかして足掻いてもがいて食べ物を手に入れろと、腹の奥の底から湧いてくる本能以外、少女には存在しなかった。理性はとっくに無くなっていた。
食べ物 何か 何か 何か 何か 何か 何かないか
その時、これまでになく鋭敏になった鼓膜に音が届き、ほとんど同時に鼻腔に臭いが流れ込んできた。
少女は四つん這いのまま、子供が漸く通れそうな隙間を素早く通って右に曲がる。
そこでは、少女よりも小さな体躯の少年が座り込んで、腐る前のパンを食べていた。
それを見るや否や、少女は四足獣のように走っていき、突然の事に怯んだ様子の少年に覆い被さる。そしてそれを奪い取り、自分の口に勢いよく捩じ込んだ。
今までカラカラだった口内に、どこに貯めてあったのか唾液が溢れる。必至に噛んで小さくし、唾液で溶かして喉に押し流す。
「このやろう!」
冷静になった少年に顔を叩かれて、その拍子に壁に頭を打つ。
もう一度手を振り上げた少年に、少女は目で応戦する。安堵から壁にもたれダラリと垂れた四肢は少女の非力さを助長してはいたが、それを補って上回る程の攻撃的な目線に少年の動きは停止する。少女は殺意の全てを瞳に乗せて少年を射殺さんと睨みつける。
少年は冷血な視線に耐えかねて手を下ろし、少女が来た曲がり角に消えていった。
「バケモノが」
少女は微かにそう聞こえた気がしたが、少年はもう近くにはいなかった。
何はともあれ今日は食べ物が手に入って良かった、そう思い横になって、フードを深く被り、体を丸めて寝る体勢を取る。
今回は食べれた 今日は生きれた 今は生きている
少女はそうしていつも通り眠りについた。
後書くことがない。
なんかあればなんかしていただけたらと思います。