シーと蒼き衣
ミーへ
大都会に浮かぶ森のような定禅寺通りの欅並木は、深碧色の豊潤な葉叢に覆われていた。仕事を終えたオレは、いつものようにビルの合間の欅並木を見上げ、地下鉄の勾当台公園駅に向かって歩きだした。夜の帳をむかえた街は、ビル群の照明や車のヘッドライトが乱反射し、あらたな喧騒がはじまっていた。
国分町通りとの小さな交差点を渡ると、道端に街灯の仄かな明かりに照らされて、ほんとに小さな白い仔猫が1匹鳴いていた。
驚いた。
なぜ人や車の往来がさかんな道路に、ぽつんと小さな仔猫がいるのだろう。道端の白線のすぐ内側あたりで小さな声で鳴いている。
──ミィミィミィ。
このままでは車に轢かれてしまう、とにかくオレは白い仔猫を抱き上げようと思った。
オレを見上げて鳴いている小さな白い仔猫。その純真なひとみに吸い込まれそうになった。
そっと手を差し伸べた。
すると仔猫は、突然、オレの指に噛みついた。
──イタッ!
激しい痛み。薬指が血で滲んでいる。
とても小さな口だけれど、歯はしっかり生えていた。
この子は、小さくても野生の生き物なんだ。
しかもとても怯えている。
オレはポケットからハンカチを1枚取り出し、それを仔猫に噛ませた隙に素早く抱き上げた。
少し震えている。
──こわくない。
こわくないよ。
白い仔猫は、こんなに小さな身体でも温かく小さな呼吸を繰り返していた。
──生きている!
こんなに小さくても、
懸命なんだ!
オレは、壊れそうな小さな命を包むように抱きながら、ゆっくり歩きはじめた。ちょうどすぐ近くに、少し前に古くなった雑居ビルが取り壊された小さな空き地があった。
──ここなら。
あたりは真っ暗だったが、空き地の奥にハンカチで包んだまま小さな白い仔猫をそっと置いた。
──これでとりあえず安全だろう。
すると偶然なのか、空き地の奥の古い塀の上から1匹の白い猫が、じっとこちらを睨んでいた。
──母猫?
白い猫はじっとしたまま動かない。
──母猫なら大丈夫か。
オレは、ハンカチの上の白い仔猫を見つめた。
──ミィミィミィ。
──元気でな!
白い仔猫の小さな鳴き声を聴きながら、暗晦な空き地をあとにした。ビルの隙間から、大都会の明かりに仄かに浮かぶ欅並木がちらっと見えた。薄められた夜空には、小さく煌めく星たちがあった。
翌朝、朝陽が東天にならぶ雲を赫く染め、上空は、初夏らしい碧水のような青空がひろがりはじめていた。
オレは、いつもより早く家を出ると近所のコンビニで猫用の缶詰を買った。昨晩は、あの白い仔猫が気になってどうしようもなかった。
定禅寺通りの欅並木は、深碧色の豊潤な葉叢が朝陽に照り映えていた。いつものように見上げると、葉叢が風に揺れた瞬間、欅たちが何かをささやいたような気がした。
足早に、あの空き地に向かった。汗が頬を伝う。
左右の低いビルに挟まれた小さな空き地は、朝陽に照らされ眩しかった。いくぶん目を細めて見渡した。
しかし、白い仔猫の姿はなかった。母猫らしき白い猫もいない。
空き地の奥まで入って、瓦礫の混じる地面を慎重にもういちど見渡した。奥の塀の外も確認した。
やはり、あの小さな白い仔猫も、母猫らしき白い猫も見当たらない。
──もうどこかに行ってしまったのか?
上空は碧水のような青空がひろがり、朝陽が差し込む瓦礫混じりの地面が輝いていた。
──もう探しようがない。
諦めて空き地を出た瞬間。道路の端に、蒼いハンカチが落ちているのが目にとまった。ハンカチは人に踏まれたのかひどく汚れている。
そう……
オレが、あの小さな白い仔猫を包んだ蒼いハンカチだった。拾い上げると、たくさんの小さな白い毛がついていた。
なぜだか全身が熱くなった。
──どこに行った?
言い知れぬ怒りが込み上げてきた。どこに向かっていいのかわからない。
振り向いた。しばらくのあいだ、朝陽に輝く瓦礫混じりの空き地を見つめつづけた。
数日後、オレは、洗濯した蒼いハンカチをブルーのハーフパンツのポケットに忍ばせて、愛犬シーズーのシーとあの空き地に戻ってきた。
空き地は瓦礫が混じったまま、やはり朝の日差しに包まれていた。
シーは、じっと空き地を見つめていた。
ふたたび、定禅寺通りの陽光に揺れる深碧色の欅たちが、何かを語りかけてくるようだった。