⑤詐欺師の親指
私(渡尊)の診療室に、知り合いの奇術師、平野が運ばれて来たのは、初冬の深夜のことだった。
平野は、大道芸で奇術を見せることを生業なりわいとしているが、ショバ代などの関係からあまりよろしくない組織と関係があるのは知っていた。
「……渡尊、の…… 旦那ア」
「おお! カード師の平野じゃないか、どうしたんだ」
「ちょっと…… 手を……」
「どれ、見せてみろ」
一目見て私の顔から血の気が引くのが分かった。
右手の付け根を押えていたハンカチはもう血でどす黒くなっている。
右手の親指は付け根からブランとブラ下がり、骨もむき出しになっているようだった。
「とにかく! 緊急に手術だ」
私は事情でもう戸籍が無いので、ブラックジャックのような無免許医ではあるが、私の腕を頼って知り合いが訪ねてくることが多いので、診療の出来る施設は常時準備をしている。
手術は数時間に及んだ。何とか親指の縫合に成功したものの、元の様に動かすのは難しいかも知れなかった。
手品師にとって、手先は命の様なものだ。
「いったいどうして、こんな重症を……」
「……へい、チンピラと、少々揉めまして」
「少々って傷じゃないだろ、チンピラってあいつか? ガスライター木村か?」
平野は無言で頷いた。
ガスライター木村は、この辺りを取り仕切っている巨竜会のチンピラで、平野につきまとって事あるごとに嫌がらせをしたり、違法カジノのポーカー賭博のディーラーを無理やりやらせたりしていた。
「この間、またポーカーのディーラーをやらされてた時なんですけどね…… 流れモンでえらい腕が立つ『アカギ』って奴に、散々に負かされましてね…… で損害も出してしまったし、何より組のメンツを潰されたとか言われまして」
いつの間にか、法結が横にきて話を聞いている。
「だってそんなもんそもそもが違法賭博だし、無理やりやらされたことなんだろ」
「へえ。まあそういうことでは通らない世界でして」
「平野さん、あんたは確かひとり娘を養ってるんだろ、その手じゃしばらくは商売にならんだろ」
娘の話になると、平野の表情にみるみる暗い影が射した。
「娘さんは、いまいくつなの?」
「中学3年になりますかねえ……」
平野は何かを思い出すかのように、傷が痛むのか時々大きく顔をしかめながら
「妻と離婚してからは、あまり良い思いはさせてやれなかったですねえ。せめて高校くらいはまともに出してやろうと思っていたんですが」
その時、私のスマホに着信が入った。
「はい、ああ大岡警部ですか。ええ平野? はい確かにここにいます、いま右手の手術を終わったところですが」
法結と平野は思わず私のスマホの返答に聞き入る
「え、なんですって! ガスライター木村が…… 殺された!?」
⇒ ⇒ ⇒
平野は警察で取り調べを受けた。
事件のあらましはこうだ。
ガスライター木村は、自宅兼事務所の一室で、内側からカギをかけた状態で胸をナイフで刺されて倒れていた。つまり密室殺人だ。
刺された傷口やナイフの入っていった方向などから考えて、左利きの者の犯行と考えられた。
入り口の扉には、何度かこん棒の様なもので外から叩いたような跡がついていた。
木村は、殺される前に通りで平野と揉めているところを、複数の目撃者に見られていた。
平野の証言では、その時に右手を切りつけられたという。
たしかに、右手をハンカチで押さえた状態の平野が、何人かに目撃されている。
右手を負傷した状態の平野が、ガスライター木村を刺すのは難しいだろう。
しかも密室殺人。
捜査はすぐに行き詰った。
「渡尊君は、今回の事件について、どう思う」
「さあな…… 平野は刺殺には関係ないとすると、ヤクザ同士の抗争かなにかなのかな」
「ふむ……」
法結は、急に何かを思い出した様に
「そうだ、大岡警部にお願いして、平野の住まいでも見せてもらおうかな」
「え、君はやっぱり平野を疑っているのかい?」
大岡警部立ち合いで、娘さんの不在の時間を狙って平野の家を見せてもらうことにした。
奇術師の部屋らしく、手品の道具やらネタ帳やらが机にも散らばっている。
法結は、机の上の道具や、ハサミ、筆記用具などを丁寧に調べていた。
「どうですか法結さん、なにか分かりそうですかな?」
大岡警部が声を掛けた。
「そうですね、道具はやはりすべて右利き用のものですし、字ももちろん右手で書いていたようですね」
「奇術師にとって、利き腕を傷つけられることは、何より悔しかったでしょうなあ」
法結は、今度は玄関横にあった野球のバットを調べ出した。
「これは,,,,,,」
「ああ、平野は高校時代野球をやっていたらしい。県大会の予選でいいところまで行ったことがある、なんて言ってたなア」
法結は、その後平野のアルバム帳などを調べた後
「大岡警部、ガスライター木村が刺された凶器のナイフですが……」
「ああ、あれは木村の持ち物なんだが、元々平野が持っていたものをだいぶ前に木村がくすねたらしい。平野を切りつけたのもそのナイフらしくて、平野の傷跡は同じナイフで切られたものだったらしいなあ」
大岡警部に礼を言って平野の自宅を後にした。
「平野ももうすぐ釈放されるようだし、どこかで会ってみるか」
「ああ、それなら釈放されたらすぐに私の診療室に挨拶に来ると言っていたが」
「そうか……」
⇒ ⇒ ⇒
「おお、平野! 自由の身になってよかったな、手の調子はどう?」
「へい…… おかげさまで、だんだんに動かせるようになって来ました」
法結は一瞬、平野を慈しむような目をしたが、すぐに冷静な口調に戻って平野に尋ねた。
「平野さん、いくつか聞きたい事があるんだけれど」
「ヘイ、何でしょう」
「凶器のナイフなんだけど、あれもともと平野さんのものだったんでしょ」
「そうです、たしかアメリカ製だったかな。サバイバルナイフに近いもので……」
「あれ、セットで何本かあるものなんじゃないの?」
平野の顔色が変わった。
「どうして、そんなことを……」
「あと、あなた道具とか字を書くのは右手だけど、もともとは左利きなのじゃない?」
平野は、一瞬ひきつった様な表情を見せたが、やがて観念したように穏やかな微笑みを浮かべた。
「法結さんには、すべてお見通しってこってすね」
「法結、どういうことだか説明してくれないか?」
「いや、それはあっしからお話しましょう」
あの晩の出来事。
やはりガスライター木村は、先日の賭けポーカーの損害のことで、しつこく平野に付き纏っていた。
「あいつはね、あろうことか、娘に客を取らせるとか言いやがったんですよ! まだ中学生の娘にですよ!」
この時に揉み合いになり、木村は威嚇でナイフを取り出して平野に向かって切りつけた
「この時は木村は、右手は狙ったものの、本気で切り落とすつもりはなくて、威嚇で振り回したくらいで、平野さんの右手はそんなに傷ついていなかったのじゃないのかな?」
「ヘイ、おっしゃる通りで、この時はかすり傷でした」
「おい、ちょっと待ってくれ法結君、ではあの重症の傷は?」
平野とガスライター木村は、ここでは一旦離れたものの、娘の身の危険を感じた平野には、木村をこのままにしてはおけないという感情が芽生えた。
平野は自宅からバットと、ナイフを持ち出し、ガスライター木村を自宅の事務所で待ち伏せし、まずはバットで襲い掛かかった。
木村はバットの襲撃は避け、自分のナイフで応戦するが、平野も自分のナイフで応戦し、揉み合いの末、木村のナイフが自分の胸に深く突き刺さってしまう。
さらにバットを持ち直して襲い掛かかろうとする平野に、木村は自宅の事務所に逃げ込んで内側からカギをかけた。
これで密室は完成した。
平野は頑丈な入り口の扉をバットで数回叩くが、扉はびくともしない。
ガスライター木村は、平野があきらめて立ち去る気配を確認してから、事務所の中で絶命した。
「それでその後、あなたは自分のナイフで、本来の利き腕の左手を使って右手の親指を切り落とした、という事だね」
「な、なぜそんな事を……」
「魔が差した、とでもいうんですかねえ。木村も密室の中で絶命し、冷静になってみるとひとり娘の顔が頭に浮かび、このまま、偽装工作っていうんですか? 親指を切ってしまえば、自分も被害者で通せて、事件も迷宮入りになるんじゃないか、なんて」
「ナイフはやはり、木村が持っていた同じものが何本かあったんだね?」
「はい、対になった二本の同じナイフでした」
私はあまりの事件の真相に、しばらく何も語ることができなかった。
「さて平野さん、私は今回の件は誰からの依頼を受けたわけでは無い。たまたま渡尊君の話に途中から首を突っ込んだだけだ。わたくしから事の真相を警察に伝える義理はないのだが」
「いえ、そういう訳にはいきません。あっしは罪を償うために自首する事にします。あっしは自分の奇術の腕は一流だと自負していますんで、詐欺師にまでは落ちぶれたくないんで」
「平野……」
「ですが渡尊さん、法結さん、一つだけお願いがあるんで」
「あなたの娘さんの事だね」
「そうなんす。せめて何とか成人になるまでの間だけでも、どなたかに面倒をみて頂けないでしょうか」
法結はちょっと首をひねって
「分かった、約束しよう」
「ありがとうございます!」
この後平野は、堂々と警察に自首をしに行った。
「いいのか法結君、安請け合いして」
「いずれにしても放ってはおけんだろう。須戸家のお嬢にでも相談してみるさ」
「ああ、あのお嬢なら心配はなさそうだな」
私は事件のことを振り返って、もうひとつ法結に聞いてみた
「それにしても君は、どうして平野が本来は左利きであることが分かったのかね」
「ああ、幼い頃に左利きから右利きに矯正されることは多いし、平野家にあったバットは左利きで打ったような傷がたくさんついていた。アルバムにも、平野の高校野球時代の写真で、左打席に入っていたものが写っていたのが一枚だけあったのでね」
〈 了 〉