闇町フラッシュパンチ (1)
1.
「台露くん? 大鷹くん?」
女は大鷹を認めると、迷わず近付いて来た。写真で確認していたらしい。大鷹の方では、相手の名字が高島だという事しか知らされていなかった。部外者が無理を言ったのだから、これくらいの冷遇は仕方ない、とは思う。しかし相手が自分を知っているのに、自分は相手を知らないという状況は、あまりいい気分とは言えなかった。特に、ここは普通の街ではないのである。風波政府情報捜査局ごときが、そんなに偉いのだろうか。
「高島さんですか」大鷹はやや素っ気無い声で尋ねた。情報捜査局員が闇町に出入りする為の専用ゲートは、諸事情の為、闇町の中でも特に治安の悪い貧困街に直結している。ゲート前の広場には、殺伐とした気配が染み付いていた。こんな所で初対面の人間同士が待ち合わせする事自体が異常である。大鷹の表情は自然と険しくなっていた。
「高島、エリナです」女は長身だった。黒人の血が混じっている。厚みのある顔立ちに、日焼けのせいばかりとは思えない黒い肌。黒人の女性は美しいと思う。生物として非常に均整の取れたとでも言おうか、そういう無理の無い美がある。あるけれど、大鷹の好みではない。嫌がらせか、と一瞬大鷹は思ってしまった。日本語は喋れるんだろうな。下っ端を寄越したんじゃないだろうな。あまり馬鹿にするようだと、こっちにだって考えがある。
「気に食わなそうな顔だ。おなかがすいてるの?」エリナはやや大きな、力を感じさせる瞳で大鷹を見つめた。「台露くんとお呼びしていいかな」
「大鷹と呼んで下さい」大鷹は短く応じた。「宜しくお願いします、高島さん」
「君が大鷹くんなら、私はエリナでいい」
「そうですか。エリナさん」
「機嫌が悪いみたいだ。私と組まされた人は最初みんなそう」エリナは大鷹を促して歩き出した。「だけど君は運がいい。私と組んだ人はみんな出世するからね」
「出世……」大鷹は、この女性が何も知らされていない事に気付いた。大鷹を新人の調査員だと思っている。まあいい。その方が都合がいい。「でも、僕は、出世は望んでません」
「そう。じゃ、何を望む?」
「僕、地図をなくしてしまいました」
「そんなもの使わないよ。それに、なくしたんじゃなくてすられたんだと思う」エリナは真っ直ぐ右端のゲートに向かった。ゲートは自動改札で、十機ほど並んでいる。誰がどれを通っていいかいろいろと規定があるらしかったが、大鷹は知らなかった。
「これ、君のパスね」エリナはポケットから磁気カードを二枚取り出して、片方を大鷹に渡した。「このゲートと、闇町内の捜査局基地に入る時必要。それと、基地のネットワークにアクセスする時も。なくさないように。まあ、このカードの他に掌紋照合もするから、他人が拾っても使えないけど」
「あのー」エリナが今しもゲートのスリットにカードを通そうとする時、後ろから声がかかった。「高島エリナさん。台露大鷹さん」女の声だ。エリナはぎょっとしたように素早く振り返った。大鷹はエリナの驚きように驚いて、振り返った。
背が低い、と思ったら子供である。十四五ほどの少女である。茶色みがかった大きな瞳に、華奢な体。髪は、ポニーテールにするにはちょっと短いようにも見えたが、青いゴムで一つに括っていた。黒いジーンズに、淡い水色のTシャツを着ている。闇町をうろつく子供はだいたいそんな格好だが、この少女の服は生地がかなり上等だった。貧困街の浮浪児ではない。
「何か」エリナはもともと大きい目を更に見開いて、少女を見下ろした。
「落としましたよ。お節介かとも思いますけど、無いと困るんでしょう、これ」少女は利発そうな、はっきりした喋り方をした。
「何も落としてません」
しかし、少女が差し出したのは二枚のパスカードだった。エリナと大鷹が一枚ずつ持っているのと、瓜二つである。『風波政府情報捜査局』という飾り文字も、カタカナで刻まれた名前も、右上の顔写真も、磁気部分も、左のへりに一定間隔で開いた謎の小さな穴まで、そっくり同じなのである。
「なんで?」大鷹は思わず自分の持っていたカードを少女に見せようとした。少女はその瞬間、ぱっと手を伸ばして大鷹のカードを取り上げた。
「あ」しまったと思った。
しかし少女は、悪戯に成功した幼い男の子のような目で笑って、ちょっと眺めてから返しただけだった。「そっくりですね。二枚目は予備ですか?」
「一枚しか無いはずです」エリナは少女に向かって丁寧に言ったが、その目はひどく険しく、警戒をあらわにしていた。「どちらかが偽物です」
「通してみれば、分かりますね」
「拾ってくれてありがとう」エリナは少女が持っているカードを、受け取ろうとした。
しかし少女はすぐには渡さないで、「そっちのを、見せて貰えます? 気になることがあるんです」
「肌身離さないように、これは組織の命令ですから」
「見せて頂くだけですよ。こう、天井の明かりにかざすっていうか……表面が反射するように持って貰えると」少女はエリナの持つカードの角度をちょっとずらして、目を細めた。「あ、これは偽物ですね。私の拾った方が本物です」
「何故分かるの?」大鷹は聞いた。
少女は黙ってまた笑った。それからやっと、持っていた二枚のカードをそれぞれエリナと大鷹に渡し、背を向けて人込みに消えて行った。エリナはその華奢な後姿をまるで睨み付けていた。
そして結局、少女の予言が正しかったのだ。二人が初めに使おうとしていたカードは無効で、少女の拾ってくれた方が本物だった。エリナはむせ返るような悪臭のただよう貧困街を突っ切る間、大鷹の質問に返事もしなかった。表情は固く、目には険しい猜疑と不安の色が張り付いたままだ。このまま永遠に口をきいて貰えないんじゃないか、と大鷹が思い始めた時、エリナは急に呻くように言った。「なんでこんな……不覚」
「どういう事ですか? なんだったんですか?」
二人は階段を上っていた。人込みと汗のにおい、尋常でない暑さから次第に解放されていく。階段はほとんど人影も無く静かで、エリナの声はちょっと響いた。
「すられて、摩り替えられたんだ。どうして気付かなかったんだろう。『スリのD』の神業だって、見破れなかった事は一度も無いのに。それともDのやつ腕を上げたか」
「Dって誰です?」
「赤波書房の息子。知らないの?」エリナは呆れたように大鷹を見た。「阿成大介っていう名前」
「あ、その子なら知ってます。ちなみにさっきの女の子は?」
「ハナダ青じゃないの。君、さては何も知らないね」エリナは初めて微笑んだ。「どんなコネで入局したの? 親の七光?」
「まあ、そんなところです」大鷹は曖昧に答えた。
「大丈夫。そんな子でも、私が手をかけた子は出世した」
「出世には興味ありません」
「でも、いつまでも低能でいたくはないでしょう?」エリナはきっぱりと言った。「プライドは持って貰わないと困るよ」
「さっきの、なんだったんです?」
「ハナダ青からのご挨拶。ハナダ青は知ってる?」
「ええ。ハナダ出版社の社長で、この街の最高権力者でしょう」
「今は社長じゃないけど。でも、今でもこの街は彼女が中心。近頃スリのDと仲がいい。Dにカードをすらせて、私達に接触する口実を作ったんだ。先制攻撃かな、だいぶ挑発されたね」
「挑発だったんですか?」
「自分で、すっといて平然として返してくるんだから、挑発でしょう」
大鷹が闇町の事情に全く疎いのを知ると、エリナの態度はどこか急に穏やかになった。本当はすぐに情報局の基地へ行って闇町への『入国』を報告する決まりだったが、エリナは脇道に逸れて大鷹を商店街へ連れて行った。
浮浪者でごった返す貧困街よりも十五階付近の商店街の方が、大鷹には意外性があって新鮮だった。闇町と言ったらごみ捨て場のようなスラムだと思っていた。だがこうして『中間層』と呼ばれる商店街まで上がってみると、まるで普通の繁華街である。飲食店、弁当屋、時計屋、花屋、居酒屋、薬屋、全国チェーンのドーナツ店まである。売っているものもごく普通だ。すれ違う人間は、作業着の若者、背広姿の男達、モップと掃除用バケツを持った中年女性、自転車をすっ飛ばす姉弟、ピザ屋の出前の三輪車、乳母車を押して行く母親……当然なのである。街があり、人が住むとはそういう事なのだ。外の人間は誇張された特徴的な部分だけを見せられて、それが全体だと思い込むが、実際は一部でしかない。闇町と言えども住人は闇を食って生きているわけではないし、空から降って来た物を着ているわけでもない。大鷹の驚きはエリナの意図通りだったようで、彼女は満足げだった。
「もう少し寄り道して行こう」と言ってエリナは大鷹を喫茶店らしき店に連れ込んだ。
「入国に手間取っていると思われたら本部が心配しません?」
「いや、しない。私は今まで大きな問題を起こした事がないから。一週間くらい音信不通でも、誰もそれほど気に掛けない」
「それは、信頼してるっていう意味で?」
「うん、そういう意味」
喫茶店でエリナが二人分注文したのは、闇町フラッシュパンチという名前の奇妙なデザートだった。一見、パフェに似ているようだ。ソフトクリームのコーンで出来た背の高いカップに、白いクリームが盛りつけてある。砕いたキャンディ、カラフルなチョコチップなどが上に振りかけてあって、ピンクのウエハースと砂糖漬けのサクランボが添えられていた。
「この馬鹿っぽい味が好きなんだ」
エリナがそう言ったのは全くその通りで、クリームに見えたのは口に入れてみるとメレンゲだった。しかも、何の香辛料が入っているのか口の中に入れるたびにピチピチパチパチ、弾けて音を立てるのだ。ハッカのような鼻をつく香りが付いているが、味は無い。大鷹は持て余した。もともと好き嫌いの多い方で、食べ付けない物は一口だって食べたくない質なのだ。
「残していいよ」エリナは面白そうに言った。「いろんな人にご馳走するんだけど、賛同を得られたためしが無い」
「失礼ながら、当然だと思います」
「美味い不味いはともかく、これより面白い食べ物は他に無いよ」エリナはコーンのカップをぱりぱりかじって、底の部分だけ残した。底を割ると、中からアルミ製の小さなコインが出てきた。「これ、知ってる? 一円硬貨」
「一円硬貨?」大鷹はまじまじとコインを見た。確かに、オリーブのように見える変な枝の絵を囲んで、『日本国 一円』と刻み込んである。裏はもっと胡散臭いデザインで、二重丸の中に大きくただ『1』とあった。その下の『平成元年』は製造された年のようだ。九十年前だ。
「なんで? 本物?」
「どうかな。本物と区別は付かない」
「『統一日本』の時代ですね……」
「統一日本? そんな言葉があるの?」エリナは不思議そうに言って、笑った。
「僕には、実感の湧かない事ですよ。この国が、昔はもっと広くて、昔は風波なんて呼ばれてなくて、闇町なんて何処にも無かった。こういうふうになってからまだ百年も経ってないっていう事が」
「風波の人間はあっという間に過去を忘れたからね。それが良かったのか悪かったのか」
「いい事でしょうよ、きっと」大鷹は思わず暗く言った。「昔の事をいつまでも覚えてたって、なんにもならない」
「そうかな」エリナは真面目な顔だった。「それがいい事だって、あるかも知れないよ」
「地図を何処でなくしたか思い出したんです」大鷹は唐突に言った。「電車の駅ですよ。切符を買う時、財布を出した拍子に落ちたんです」
「それって闇町の地図なの? 一度見てみたいね」エリナは一円硬貨を上着の内ポケットに入れてから、大鷹の残したフラッシュパンチに手を伸ばした。