松組コンソメスープ (5)
5.
暑さが心地良い。
部屋は尋常でなく暑い。クーラーは今朝出かける前に切ってしまった。汗がどんどん噴き出し、体から水が失われて行くのが分かる。なのに、それが心地良くて、ベッドの足元に蹴りやっていた布団を頭の上まで引き上げた。熱があるのだ。
柾は目を開けた。
布団の中は暗い。布団は精一杯清潔にしてあるが、黴臭い。闇町の上層部より下に売っている布団は、全て黴臭くなければならないという法律が多分あるのだ。その事を考え出すと息ができなくなるから、忘れる事にして目を閉じて、深呼吸。吸って。息を止める。一、二、三、四、五、六……十二数えて吐き出す。深く。長く。吐息が熱い。自分で分かる。八度五分はあるな……寝ている場合ではないのに。布団の中の空気がむっとしてくる。顔だけ外に出す。
柾は大抵うつ伏せで、顔だけ横向けて寝る。枕は使わない。顔の下に、タオルを入れる。薄目を開けるとタオルが波打っている。端がぼやけて、滲んで見える。焦点が合わない。頭の内側に、さざ波が寄せ返すように、痛みが繰り返し訪れる。時々大波が巻き上がると、それは痛みを通り越してすうっと血の気が引くような、苦痛と快楽の入り混じった不思議な感覚になる。その瞬間は、意識が体から引き離され、自分の四肢が何処にあるのか感じ取れなくなる。寝ているのか、立っているのか、落ちて行くのか、区別ができなくなる。その先に死があるのだろうか。
部屋の戸が開いてすぐに閉まった。入って来た人影は、ベッドの脇にすぐさま膝をついて屈み、柾の顔色を見ながら額に手を触れる。
冷たい。
「上がりそうだな……」小さく呟いて、また立ち上がる。長い、すらりとした手足。彼の白い肌は不感で、痛みを丸っきり感じないそうだ。暑さもあまり感じないのか、いつでも涼しい顔をしている。金の瞳、金の髪。名は岸実生と言う。何から何まで凄く変だが、赤波書房の社員の中では一番の働き者だ。ガラッと戸を開けてさっさと出て行き、かと思うとまた戻って来た。手にコップを持っている。
岸実生はまた膝をつき、空いている手で布団の上から柾の肩をそっと叩いた。
「柾さん」
「………」寝たふりをしようかと思うくらい、体が重かった。指一本動かすのも億劫だった。目を開けるのでさえ億劫だった。疲れた。疲れている。
「柾さん、薬」
「……いらない」
「飲みなさい」
「金の無駄だ」声が掠れた。寝てしまいたい。死んでしまいたい。もう二度と、起きたくない。
「ここに置きますよ。気が向いたら飲んで下さいね」
岸は立ち上がってコップと薬の瓶を机の上に置き、それから何かごそごそしていた気配があったが、柾はもう夢の中だった。ふっと目を開けると、岸の姿は掻き消えている。もう一度目を閉じた。眠りは波のように、そして沈み込んでゆく。深く、暗く、死の底へと。
部屋はベッド一つで埋まっていた。箱のように閉ざされた、窓の無い部屋。息詰まるような部屋である。幅がベッドの長さぴったり、奥行きがベッドの幅プラス一歩。その一歩も、随分足の短い人間の一歩と考えるべきだろう。ベッドはいわゆるシステムベッドというやつで、机と一体になっている。普通のシステムベッドと違うのは、ベッドが下段で机が上段になっている所だ。普通のを入れるには天井の高さが足りなかったのである。おかげでベッドは大人の男が寝るにはちょっと小さかったが、机は馬鹿みたいに大きかった。パソコン一台、プリンタ一台、段ボールが三箱、満杯のペン立てとファイル、ナイフ、手動の鉛筆削り……射的用のモデルガン。この背の高い机に釣り合うように、ビール瓶を入れる黄色いプラスチックボックスが積み上がって、椅子の役割を果たしていた。ついでにこの椅子は箪笥と引き出しも兼ねているようだ。黄ばんだ壁には業務用の針の長い画鋲が容赦なく何個も打ち付けてあって、こまごましたものが掛かっている。中でも多いのは輪ゴムである。あちこちの画鋲に二、三個ずつ引っ掛けてあった。
赤波書房株式会社の事務所は、共同第八ビルと呼ばれる雑居ビルの十二階に位置する。第八ビル自体は『ビルと名が付くだけマシ』というレベルの建物だったが、その中だけで見れば赤波は羽振りがいいほうだった。それほど上の階ではないものの、フロアの半分近くを間借りしている。と言ってもショバ代は自分達で払い切れないので、桜組がほぼ立て替えているが。
仕事の都合上、最低限の設備はきっちり揃えてある。間借りしている場所の大部分が、その為の空間だ。残りの僅かな空間に、社員八人分の個室と、共同のキッチンと食堂(兼居間、兼事務室、兼会議室)、そしてそれらを繋ぐ一本の廊下が詰め込んである。柾の部屋だけが狭い訳ではない。どの個室も平等にこの広さなのだった。柾は自作のシステムベッドを置いて場所を節約しているが、他の社員達もそれぞれ布団を敷いたり、ソファで代用したりして自分なりに工夫している。闇町の外に自宅を持つのは副長の岸実生一人だが、その岸にしてもこの春、男手一つで育ててきた息子を全寮制の学校に入れてしまってからは、ここに寝泊まりする事が多くなった。共に寝起きし、頼りない食い扶持を分け合って暮らす、会社組織というよりは家族のようなものだった。
次に岸が覘いた時、半時間程が経っていたが、柾は昏々と眠っていた。岸は思わずちょっと目を細めた。不安になったのだ。今朝早くから社長補佐の大介は外出していた。この神経過敏な若者は溺愛している『里子』の大介が側にいないと普段にも増して情緒不安定になるのである。倒れて眠っているだけなら害は無いが、錯乱して暴れ出すと手が付けられない。腕力で無理やり抑え込む岸を別にすれば、これを止められるのは大介だけだった。
二年前、岸がこの会社に初めて仲間として加わった時も、大介は不在で柾は譫妄状態だった。岸に与えられた仕事はその柾社長の介護である。興奮と虚脱を繰り返し周囲に当たり散らす柾を、宥め賺して食事を取らせ、安らいで眠れるまで付き添う。それだけの事だが、生易しい仕事ではなかった。岸が悩まされたのは、柾がしょっちゅう治ったふりをする事だった。それまで荒れ狂っていたのが急にぴたりと治まって、嘘のように穏やかになる。「もう大丈夫」「良くなった」「生まれ変わった気分だ」などと言って嬉しそうに食事をし、起き上がって仕事を始める。こちらの気が緩んだ途端、再び元の状態に戻って荒れ狂うのだ。これを何度もやられた日にはどんな介護人だって身が持たない。結局、大介を連れ戻して引き会わせる以外に治療法は無かった。
今も、赤波柾は大丈夫なふりをしているだけで、本当はあの時と同じように崩壊寸前なのではないだろうか、ちらりとでもそんな事を思うと岸は正直言って恐ろしかった。自分にとって何が大切なのかは分かっている。守らなければ、優先しなければならないのは家族だ。赤波書房の他の社員とは違って、岸には闇町の外に妻と二人の息子があった。柾の介護などは岸の人生において片手間のボランティアでしかない。なのに、この若者を見放す事ができない。一度目は、できなかった。二度目も多分、できないだろう。
体を真っ二つに裂かれるような選択だった。家族を守るべき時に、同時に柾が荒れ出したら、どうやって切り捨てられるだろう。柾は大介を失えば他に頼るものが無いのだ。赤波書房の他の仲間は、過去の確執を引きずっているが為に柾に立ち入る事ができない。それでどうにもならなくなった二年前、岸は昔の仲間三人から助けを懇願されて入社したのだ。柾の信頼を損なわないように、正体を偽って三人の同志とは他人のふりをした。半年前にとうとう隠し切れなくなるまで、ずっとその事実を伏せていたのも、結局のところ自分の身勝手な感傷なのかも知れないと岸は感じている。柾にとって唯一の、絶対の、ただ一人頼られる存在でありたいと、何処かで無意識に願っている自分をうすうすと感じている。何なのだろう。どうすればいいのだろう。二人の息子とその母親に対しては、こんな気持ちを感じた事が無い。打ち消し、変えて行こうと思っても、柾の体調が崩れるたびに惹き付けられるように強まる。この子には自分しかいない、だから、この子を見捨てられない。社員だが昔の仲間ではない瀬川からは率直に、典型的な共依存だと言われた。
「度が過ぎればあんたも病気ですよ」働き始めたばかりの頃、一度だけ忠告された。「そうなったら互いに互いを悪化させるだけ。共倒れです」
「治療薬はありますか?」
「共依存の?」岸は冗談半分で聞いたのに、瀬川はすっかり呆れて怒りだしたのだった。「あんたにしろあんたのお仲間にしろ、なんで何でもかんでも薬で治ると思ってんだ? いいか、俺があんたの状態を改善の余地が無い共依存と判断した時には、あんたにここを出て行ってもらう、それが一番の薬だ!」
とは言え、この治療薬は一度も処方されなかった。共依存だろうが何だろうが、赤波書房は岸なしではやって行けなかったのだ。息子の全一が失踪し、岸が次第に嵌まり込んでいっても、瀬川はそれきり何も言わなかったし、皆はますます岸に頼った。落ち着くまでの十ヶ月ほどは、本当に大変だったのだ。
岸は引き戸を自分が通るのに必要な分だけ開けて、するりと体を滑り込ませた。柾の眠りは、浅くなろうとしていた。
柾は自分がベッドでまどろんでいる夢を見ていた。夢の中で、大介の帰って来る音を聞く。だるい体を無理やり起こして、柾は立ち上がり部屋を出るのだが、それは夢で、気付くと柾は元通りベッドに横たわっている。なんとか目を覚まして立ち上がろうとするのだが、立ち上がってみるとそれはやはり夢で、気付くとベッドに横たわっている。起き上がる夢と、布団の中でそれが夢だった事に気付く夢。循環する短い夢の繰り返し。布団の中で途切れ、振り出しに戻り、終わらせようとして、また同じ場所に迷い込んでいる。何度も繰り返すうちに意識はぼやけて紛れ込み、暗い深い眠りがまた波のように渦巻いて柾を呑み込んで行く。
柾がやっと本当に目覚めたのは、結局委員会から担がれて帰って来たその一時間後だった。目を開けた時、ベッドの前に岸が椅子(と言う名の黄色いプラスチックボックス)を持ってきて座っていたので、柾は嫌な気分になった。
「なんか用?」と岸。
「俺の科白だ」柾は呻いた。「出てけ」
「これが終わったらね」岸は使い込んだ様子の大学ノートを開いていて、そのページに何やら熱心にボールペンを走らせていた。琥珀色の瞳が、両方とも活き活きと輝いている。岸がこういう目をするのがどんな時か、柾は知っていた。
柾は寝返りを打って仰向けになった。何しろスペシャルなシステムベッドなので、仰向けになると目の前に机の裏が見えた。「それ、いつまで続ける気」
「え?」岸はとぼけたような声で返した。
「今でも漫画家になりたいんか?」
「失敬な。僕は漫画家ですよ」
「売れてないだろ。お前の本、見たこと無い」
「柾さんが見ないような所に、ね」
「俺はこう見えて詳しいぞ」
「世界は広いんですよ」岸は絵に夢中で、どこか上の空に言った。「とても、広くて……何年生きても、知らない事ばかり……」
「ああ、ああ、黙ってくれ。ポエムなら俺に聞かせないで出版しろ」
「うちで出版しませんか。うち確か、なんとか書房とかいう会社でしたよね」
「そうだったのか。初耳だ」柾は半身を起こして手を伸ばし、机の上からコップと薬の瓶を手探りで取った。「解熱鎮痛剤カッコ強力。飲み過ぎに注意。一回一錠、一日三回まで。乱用によるリスク、肝臓に悪影響。酒と一緒に飲まない事、非常に危険……こんなこと俺だって書ける。あいつ、瀬川って本当は馬鹿なんじゃないか?」薬の瓶はブルーベリージャムの空き瓶で、側面の注意書きは瀬川がマジックで書き込んだものだった。
「柾さんはいいんです」岸はノートの上にでっちあげた恐ろしく理想化された美少女の脇にフキダシを付けて、科白を英語で書き入れながら、「困るのは霞さんです。薬を飲む事自体が楽しいみたいで……脅し文句を書いとかないと、際限なく飲み続けます」
「だけど、あいつ医学部じゃないか。書いてあろうとなかろうと、自分で分かって飲んでんだろ?」
「そこが僕にも分からない所ですが。下手に専門知識があるから、かえって恐怖心が無いのかも」
「じゃ、瀬川が何書いたって無駄だな。消しちまえ」柾は言っただけでなく机の上から油性インク落としスプレーを取って瓶に吹き付け、枕の代用にしていたタオルでゴシゴシこすって本当に消してしまった。
「ああ、柾さん」岸は溜め息をついた。「そのタオル洗ったばかりなのに」
「大丈夫、揮発性だ」
「そういう問題じゃないでしょう。相当ご機嫌ですね……」
「ご機嫌? 誰が?」
「柾さんが」岸はノートから顔を上げて、弱く微笑んだ。
柾は首を傾げて考え込み、それから何か言いかけたが結局黙った。床に置いていたコップを取って瓶の中の錠剤を一錠飲むと、再び布団を被って横になった。
「見て下さい、今日のはいい出来栄えです」岸はノートを無理やり柾に手渡して嬉しそうに言った。
「ふーん」柾は仰向けになったまま岸の描いた少女の絵を眺めた。おそらく十歳くらいの、ウサギのように柔らかそうな女の子だった。彼女は柾の方を見上げながらはにかんだように微笑していて、しかし、フキダシの中に書き込まれた英語の科白は、柾の知識の範囲で和訳すると非常にいかがわしい文章になりそうだった。「これは、ひどい」
「どうして?」
「『あなた、まだソレでヤれるの?』……それともこう訳すのかな、『あなたのソレってまだ役に立つわけ?』」
「今年になってからこの手のやつの注文が多いんです」岸は大真面目に言った。「基本的に、頼まれればなんでも描きますがね。絵はそれでいいんですが、科白の方は語彙が足りなくて困ってまして……」
「得意の英語を使えばいい。全部カタカナにしてそれらしい語尾を付ける」
「風波で出版するんじゃないんです」岸は柾からノートを取り返した。「アメリカですよ、アメリカ。困りましたね……僕はもともと日本語で育ったのに」
「ああ……それで見かけない訳か。この国じゃ元から売ってないのか」
「まあ、いろいろ都合がありましてね。ねえ柾さん、何か変態っぽい科白思い付いてくださいよ。あまり直接的にならない範囲で、ぎりぎりのラインを踏め、と編集者からの注文です」
「俺がそんなもん知るかよ」
「柾さん、小さい女の子とか好きじゃありません?」
「はあ?」柾は顔をしかめた。「好きだけど、それがどうかした? 岸、お前なんにも分かってないんだな……その手の漫画が好きな奴は、女の子が好きなんじゃないよ。そういう『絵』が好きなんだ。自分の妄想にひたってるだけで、子供の事なんてなんにも知らないし、知ろうって気も無いんだよ」
「いや……」岸は困ったような顔をした。「すみませんでした。僕の失言でした」
「お前って無茶苦茶だよ」柾は呆れたように言った。「そんな間抜けな仕事やってないで、まっとうな画家になれ。才能が無いわけじゃないんだろうが」
「なかなかコネクションが無くてね……」岸はまた新しい絵を描き始めた。「こういうイラスト系の絵の方が需要がありますから。描けばその月のうちにお金になるんです。これが、真面目な絵だと、売れるようになるまでが長い」
「困りゃしないんだろ。金はあるんだろ」
「そうですね……。でも、僕はね。職業の定まってない男って、カッコ悪いと思いますよ。真面目な絵ばかり描いて遺産で食いつないでるより、間抜けな仕事でも定期的に収入があった方がマシですよ。そこらへんは、息子への見栄ですね」
「……ふーん」
岸はそれから黙って、描き始めたばかりの絵をじっと見つめていた。柾は仰向けに横たわったまま、岸の様子を見上げていた。
「でもさ」柾は少し考えた後言った。「お前自身は、描きたいものとか無いわけ? そうやって人からいろいろ注文付けられてさ、自分の描きたいものと違ってたりすると、ムッときたりしないの?」
「仕事ですからね」岸はそう言ってからまだ、絵を見つめたまま考えていた。
「それは、納得できない事もあるっていう意味?」柾は食い下がった。
「あるんでしょうかね」岸はいい加減ぽい返事をした。
「お前って……」柾はゆっくりと言った。「お前って、自己中の反対やな。自分の好き嫌いとかは、いつも後回しなんだ」
「僕はいつも自分中心ですよ」岸はにやにやした。
「お前が人から嫌われる事があるとしたら、そういう所だ」
「なんですか? 僕にからんでますね」
「ああ、八つ当たりだよ。気分が悪いんでな」
「僕は自己中でないから嫌われるんですか?」
「何考えてるか分からんからな。相手を不安にさせる。でも、お前って、抜けてるだけだよな。自分の好き嫌いを我慢してんじゃなくて、忘れてるだけなんだ。ぼうっとしてんだ」
「そう、きっとそうですよ」
「お前がここに入って来た時、皆困ったんだぞ……気付いてなかっただろ」柾は寝返りを打って、うつ伏せになった。「お前、自分の希望を何も言わないんだもの。ここはこういう街だし、何か裏があるんじゃないかって皆で勘繰るじゃないか。ほんと傍迷惑だった」
「おや、それは、すみません」岸はとぼけたように言った。「僕にも好き嫌いはありますよ。ふだん忘れてるだけで」
「その、忘れるってやつが皆には分からない。俺にもよう分からんな。いい加減慣れたけど」
「そうですよ、慣れが肝心です」岸は無責任に頷いた。「いろんな人間が居て、いいじゃないですか。僕みたいなのも、たまには居るって事です」
「たまに居るだけで充分だ。お前みたいなのが二人も三人も居てみろ……」
「ああ、そりゃ、傍迷惑」岸はにっこりした。「勘弁してくれって感じ?」
柾はわざとっぽく大きな溜め息をついた。
「柾さん、こんなのどうです? 『それであなた、あたしを満足させられるの?』」
今度岸が描いた絵はさっきのよりもだいぶ適当で、輪郭と目だけだった。科白の方をよほど考えていたようで、英語と日本語のちゃんぽんでいろんな馬鹿馬鹿しい事が書いてあった。
「なんでも構やしないんだろ。その手の変態には、どんな単語もおかしく聞こえるんだ」
「日本語を入れてみようかと思います。漢字か、ローマ字で『満足』を入れるんです。ぱっと見、意味が分からない所が想像を掻き立てるでしょう」
「おう、そうか。その路線で行け」柾は心にも無い事を言った。
「柾さん、真面目に考えて下さいよう」
「玲磨が詳しいぞ」
「玲磨に相談したら、柾さんの方が詳しいと。意外ですね、お二人に共通のご趣味があったとは」
「ぶっ殺すぞてめえ」
「あ、それで行きましょう」岸は素早く英訳して書き留めた。「そうですね、あと、一見いかがわしそうだけど実は意味の無い科白とかも、いいかも……」
「じゃあ、こうだ。『そしてスナークとは、結局、ブージャムだったのだ』」
「何ですか、それ」
「ルイス・キャロルじゃないか」
「ルイス? キャロル?」
「不思議の国のアリスの作者。筋金入りのロリコンだ」
「ほおう。やっぱり詳しいね、柾さん」
その時まったく突然だったが、戸が開いた。「柾さあん」切田霞である。明るすぎるほど明るい水色の目に、同じ色の髪をしている。その髪は短く刈り上げていて、着ているものは綿のズボンに派手な色のTシャツ。外に出る時は野球帽をかぶって行く。しかし今は、上に白衣を着ていた。
「岸。いたの」霞はプラスチックボックスの椅子に腰掛けている岸を見た途端、無表情になった。
「何か御用」岸も素早く大学ノートを閉じて、にやにや笑いを引っ込めた。
「昼をどうしようかと思って」霞は柾の方だけ見て言った。「柾さんだけまだでしょう? 食欲が出ないならうどんでもお作りします?」
「いや残り物で結構だ」柾は素早く起き上がった。「その顔はなんだ? 他に用件があるな」
「体が来ました」霞は淡として言った。「共同第二ビル三階、今朝十時に回収されました。おそらく死亡は昨夜。男性で推定年齢七十歳前後、外傷なし、死因は十中八九老衰」
「回収は誰?」
「梅組です」
「取りあえず十万ふっかけるか」
「いえ、料金は既に受け取ってます。十二万。処置も僕と瀬川でだいたい終わらせました。ただ、CTを見てもらいたいんです」
「分かった」柾は立ち上がった。「何か出たんか?」
「それらしい骨格があります。年齢的には、考えられない事だけど……」
「DNAは?」
「解析中です。あと四十分かかります」
霞の後について、柾は部屋を出た。岸も立ち上がって付いて行った。「やれやれ」
「やれやれ」と柾も呟いた。
「これで午後も仕事漬けですね」
「長引くようなら大介を呼び戻さないと」
「この忙しい時に?」
「何処の誰だか知らんが面倒な時に死んでくれた」
「仕事があるのは有り難い事でしょう?」霞は廊下の突き当たりのドアを開けながら、二人の男達を振り返った。