松組コンソメスープ (3)
3.
「社長、お電話です」
他人が呼ばれるのを聞いているような気分だった。この俺が社長? 何かの冗談だといいのに。
「誰から」と八羽島は聞いた。
「先代社長から」
小島は目だけ笑って保留ボタンを押し、受話器を置く。どういう意味の笑みだろうと思いながら、八羽島は自分の手元の受話器を取った。
「お電話替わりました」
「おはようございます」青の声は低く、沈んでいる。いつもそうだが、今朝は特に落ち込んでいるようだった。それとも久しぶりに聞くからそう感じるのだろうか。
「その後どうですか? 八羽島社長」
「貴方まで社長なんて言わないで下さい。俺はもうどうしたらいいのやら」八羽島は苦笑混じりに言ったが、本当は笑うどころではなかった。
近頃、闇町は八羽島の手に負えないところでどんどん動き出している。裏で糸を引いているのは結局青のようだが、表向きは八羽島が闇町の中心だ。何処にいても、重圧を感じる。殺気に満ちた視線を浴びせられ、知らないうちに責任を負わされ、覚えの無い事で恨まれ。最近だれと口をきくのも億劫になってきた。
「もうそう長くありませんから、辛抱して下さいね」
「俺の方がそう長くないかも知れないです」
「明日、そちらへ伺います」青は柔らかに言った。「今週中に決着が着くでしょう。リバウンドも間近のようですし」
「先月の地震、すごかったっすね。てっきりあれで終わりかと思いましたよ」
「その方が楽で良かったんですけどね」青はちょっと笑った。八羽島に気を遣って、わざと会話を長引かせているのが分かる。彼女は普通、電話口では用件しか言わないのだ。「結局私は、闇町とは縁があるみたいですよ」
「俺もそうですよ」八羽島はちょっと悲しく言った。
「北泉のことだけど」青はいきなり言った。
八羽島はどきりとした。
「彼、生きてます?」
「ああ、ええ」思わず口ごもった。あれは生きていると言うのだろうか、と八羽島は自問した。
「どんな様子ですか?」
「仕事をしません。人と顔を合わせません。先月、ひどく荒れまして……閉じ込めました」
「閉じ込めた?」
「北泉がそう望んだんで。今、檻の中で寝起きしてます」
青は黙り込んだ。
「ベッドじゃ眠れない、と言います」
「私、彼が自殺する夢を見ました」青は急に思い詰めた声で言った。「狭い、天井の低い部屋で……首を吊って、手首を切って。私がドアを開けました。そういう夢です」
「だから、何ですか?」八羽島は感情を抑え、事務机の上のメモ帳をじっと見据えた。
「何でも……何でもありません。明日午前九時にそちらに伺います」
「今日中に闇町にいらっしゃるんですよね」
「はい。出迎えは要りません」
「青さん」八羽島はメモ帳の端を無意識に片手で千切りながら、「北泉は、閉じ込めてから落ち着きました。心配ありません。俺もあいつも、あなたとの約束は忘れません」
「皆そう言って死んでいきましたよ。でも……」青はそこで言いかけた言葉を仕舞い込んで、「お土産、何がいいですか?」と聞いた。
「お土産? 食べ物がいいです」近頃八羽島は食欲が全く無かったが、口が自然にそう言っていた。そう、それは何か浅はかな、希望的観測なのだろう。もしかしたらこの先、食欲が戻ることがあるかも知れないという、希望的観測がそう言わせるのだ。
「じゃ、蕎麦でも買ってきますね」と青は、こちらも本気なのか冗談なのか分からないような事を言い、挨拶もなく電話を切った。青の電話はいつもこうだった。しかし今朝は彼女にしては珍しい長電話だろう。こんな用件なら「あ、八羽島さん、明日午前九時に伺います迎えは不要ガチャ」で五秒で済ますのが普通だ。何を隠そうハナダ青という人は電話が大嫌いなのだった。
「北泉が自殺……か」
事務室には次から次へと仕事が飛び込んできて皆パタパタしていたが、八羽島は重役社員達に断って席を外した。この地位に就いたばかりの頃は、緊張して一日中事務室の様子を把握していたが、近頃疲れるばかりで意味が無い事に気付いた。結局八羽島には何もかも背負い込むような才能は無いし、周りもそれを期待していない。型通り、自分の役目を果たせばそれでいいのだ。目的は無い。未来も無い。闇町の各組織の長達が集まって開く会議『非公正取引委員会』に出席するたびに、八羽島は自分だけが傍観者だと感じる。委員会では、八羽島よりずっと年上のおっさん達が少年のように真剣になって怒鳴り合う。それぞれ何かしら野心があり、目標があり、ロマンを持ってこの街を変えようとしている。何をしたいわけでもなく義務的に生きているのは八羽島だけなのだ。
階段を登って行く。エレベータを待ったほうが楽なのだが、じっと立って何もしないでいると余計な事ばかり頭に浮かんでくる。急がずのろのろと登れば、十階くらいは息も切らさず行ける。体だけはまだ若い。だが、心はどうだ。
目の回るような毎日。仕事は山積み、心は空っぽ。死を想った事はない。そんな事を想う余裕がない。それでも時々、疲れ切って布団に潜り込む瞬間、このまま明日が来なかったら、と考える。このまま、眠ったまま、それが永遠になったら。それはどんな事だろうか。嬉しいだろうか。救われるだろうか。喜びも悲しみも、何もかもすべて無くなるとは、どういう事なのだろう。それは神聖な浄化にも思えたし、絶望の行き着く先にも思えた。
最上階は丸ごとワンフロアが社長の私室だ。無論、いくつもの部屋に区切られていて、八羽島が使うのは一番狭くて殺風景な部屋だった。他の部屋なんて見る気もしない。一人でいる時くらい、自分が社長だという事を忘れていたかった。
最上階の一郭に、二十日ほど前から北泉を閉じ込めている。大きなホールのような部屋で、最初置いてあったいろいろな家具やら装飾やらは片付け、四角いケージを置いている。広さは三メートル四方、高さは三メートルに少し足りないくらい。まあ普通の鉄格子の檻だ。通販で安く買えるのだ。その中にパソコン一台と北泉を閉じ込めている。というより、鍵は北泉自身が持っていて、自分で勝手に閉じこもっている。ガキみたいだ、馬鹿馬鹿しい。
「北泉」八羽島はうんざりしながらケージに近付いた。ケージには外側全面に段ボールが張ってあって、中が見えない。出入り口のところだけ段ボールの替わりに内側から布がかけられている。格子の隙間から手を入れてその布を掻き分けた。
「北泉。死んでるのか?」
「生きてるよ。おあいにく様」北泉は床に寝転がって腕を枕にしていた。「なんだい、社長」
彼は血色が良かった。毎日毎日、何もしないでぐうたらしているのだから当然だった。ここに入れた当初はやせ細っていたが、近頃では健康そのもので、馬鹿みたいにいつも機嫌がいい。青には仕事をしないと言ったが、実際はパソコンがネットワークに繋いであって、多少事務にも関わっていた。
「今、青さんから電話があった」
「ああそう。良かったな」
「お前が自殺する夢を見たって、泣きそうな声で」
「へー。そう」北泉は寝返りを打って、背を向けた。床にも段ボールを敷いているが、鉄格子の形が浮き上がっていて寝心地は悪そうだった。
「どうする気なんだ。これから」
「どうでもいいさ」北泉は鼻で笑った。ずっとこの調子だ。本当に自殺しかねない顔つきだった先月よりは、ましなのかも知れないが、八羽島は今の北泉の方が嫌いだった。見ていると吐き気がする。何処にも希望は無いはずなのに、この明るさ、軽さ。この会社を立ち上げる時からずっと付き合ってきて、この男がどれだけプライドの高い人間だったか、八羽島はよく知っている。何もかも無責任に拒否して、犬みたいに檻の中で暮らすなんてこの男にとっては最低の選択肢だったはずだ。なぜ笑うのだろう。本心を隠して? それとも、この笑顔が本心なのか? だとしたら既にこの男は崩壊しているのだ。理解できない。気色悪い。
「いい加減にしろよ」八羽島はすごみを利かせて言おうとしたのだが、もう疲れた溜め息混じりの声にしかならなかった。「明日青さんが来る。このザマを見せる気か、彼女に」
「俺はそれでもいい。いいジョークじゃないか。北泉帆斗のオリって看板を出しとくよ」
「北泉。この街は、ここはもう無くなるんだぞ。リバウンドが来る前に移転するんだ。お前は――」
「同じ事じゃないか?」北泉は腹筋だけでぐいと体を起こして、八羽島を振り返った。「お前も俺も、同じ事じゃないか、本質的には」
「何が」八羽島は相棒を睨み付けた。
「俺は確かにこのザマさ。じゃ、お前はどうなんだ。彼女に見せられるようなザマなのか?」
真正面から聞かれて、八羽島はとっさに返事ができなかった。
「お前こそどうする気だ」北泉は追い打つように言った。「移転した闇町で、今の続きを生きるつもりか。誰の為に? 青ちゃんは来ないんだ。あの子はこのまま消える気だよ」
「分かってる」
「お前は分かってないと思う。お前は自分があの女の子の何なのか分かっているか。踏み台だよ。彼女の道具だ。使い捨てのな。ただあの子は自分で自分のしている事を割り切れないから、俺達の為に泣いてくれるんじゃないか」
「分かってる、俺はこの騒ぎが終わったら……」
「分かってる、分かってる、分かってる」北泉は陽気な調子で続けた。「分かっているから、何をする? お前も俺も何もしてない。生きる責任を彼女に押し付けてるだけだよ」
「俺はこのバカ騒ぎが終わったら闇町を出て行くつもりだ」
「出て行く? 何の為に?」北泉は軽蔑したような目で見上げた。
「別に……」実際の所、八羽島は何も考えていなかった。出て行こうなんて本気で思っているわけではなかった。出た所で、他に行くべき場所も無いのだから。
「別に? それがお前の答えか」
「じゃあなんだよ」八羽島は声を荒げた。「お前の答えは、この馬鹿馬鹿しいケージがお前の答えか? 俺より数段マシな答えでうらやましいな、この気違いが」
「俺は、気違いじゃない」北泉は座ったまま急に真っ直ぐに八羽島を見上げた。彼の顔は表情が読み取りにくく、今も、彼の真剣な目が何を意味しているのか八羽島には分からなかった。
「俺は、答えを出したんだ」
答えなんか何処にもないはずだ。この街には、答えなんか。あるとしたら、それは、
「死ぬのか?」
「回りくどい、馬鹿馬鹿しいほど込み入った、そして、青ちゃんが笑って認めてくれるような方法で、消えたい所だな」
「彼女は認めない」
「認めさせるさ。俺は考えたんだ。ここは考え事をするには最高の環境だ」北泉は立ち上がって、パソコンの前の回転椅子にどさりと腰を下ろした。
「さ、始めようか」
「何を?」
「予行練習だよ」
※ ※ ※
リバウンドが迫っている。一世紀前に沈み込んで小さくなった日本列島は、まもなく浮かび上がり、元の位置に戻る。その変動は浮かび上がると言うような生易しいものではない。たわんだ合板のように、押し縮められたバネのように、一世紀の間押さえ込まれていたエネルギーが解放され、列島は撥ね上がるのだ。前回と同じ、あるいは前回以上の、とてつもない大地震になる。都市は崩壊し市民は立ち往生するだろう。誰もこの厄災からは逃れられない。自由都市闇町と言えども、例外ではない。
風波と日本との国境付近に、カゴ島と呼ばれる小さな島があった。いつ頃からそう呼ばれているのかは分からない。もとは活火山の頂上だったらしく、岩だらけで緑の少ない、殺風景な孤島だ。この島が、闇町の移住先に選ばれた。地震後の大混乱の中で廃虚と化した街を建て直すよりは、あらかじめ何も無い土地を確保しておいてそこに移り住んだほうが、リスクが少ない。いま闇町で進められている計画とは、そういうものだった。街を丸ごと移転するという、大それた引っ越し計画。当然その先にある究極の目的は、風波からの完全独立だ。
最上階からエレベータに乗り、八羽島は事務室のある十八階まで降りた。時刻は九時半を回っている。今日も非公正取引委員会に出席しなければならない。毎回毎回なにをそんなに怒鳴り合う事があるのだろうと思う。移転作業は既に始まっているのだ。リバウンドがいつ来るか、それは誰にも分からない。今さら闇町の住人にすべき事があるとしたら、せいぜい移転作業がリバウンドまでに無事間に合うように祈る事くらいだろう。なのに今になってあちこちにケチを付けて覆そうとする連中がいるからいちいち会議を開かなければならない。
「社長社長」事務室に入ると、待ち構えていたように木山が近付いて来て紙束を手渡した。「もう委員会でしょ。いちおう今朝のニュース、プリントアウトしたんで。持ってって下さい。政府からの脅し文句、その他」
「あ、すみません」八羽島は歩きながら受け取った。自分の事務机の所へ行って引き出しを開け、委員会で使う資料やメモを引っ張り出し、いま受け取った紙束と一緒にアタッシェケースに詰め込む。ボールペンを確認。今日の会場設営は梅組の担当だから気楽でいい。腕時計を気にしながら事務室を出た。遅刻は許されない。
エレベータが来そうにないので、階段で十五階まで降りる。この階で働くのはハナダ社本来の仕事である出版業に携わる社員達だ。八羽島が顔を出すと口々に「お早うございます」と頭を下げた。
「悪い、今から委員会なんだけど忘れないうちに頼んでおきたい」八羽島は適当に手近な社員を捕まえてメモ帳の切れ端を渡した。
「あの、俺、部長に……」
「誰でもいいんだ。あんたでもいい。明日の午前中、非常ベルの動作確認をしなきゃいけない。大地震による火事を想定して、ビル持ってる所は何処もやんなきゃいけないんだ。この紙に書いてある時刻に、ベルが鳴るから、誰かこの紙に書いてある通りに非常階段を通って屋上まで来て欲しい。非常通路の確認だよ。若くて身軽で暇な人に、この紙渡しといて」
「通路の確認……ですか?」
「階段登るだけですか?」側を通り掛かった女性社員が割り込んだ。
「そう、それだけで充分」
「カン坊に頼んだら」女性社員はメモを持っておどおどしている若い社員を見て言った。それから彼女は八羽島を見上げる。「若いという点では、完璧ですよ」
「誰でもいいんだ」
「アルバイトみたいな感じで編集部の使い走りさせてるカンヤって子がいます。十五歳ですが」
「ああ、それでいい。その紙渡しといて」
「分かりました」
八羽島はさっさと背を向ける。また思わず時計の秒針を見てしまう。時間は誰にも平等に、容赦なく、コチコチと過ぎて行く。「挨拶する前に用件を言え」と言う青の気持ちも、分からないではない。だけど、青にしろ誰にしろ闇町のお偉方は皆、勘違いしていないか。闇町では確かに皆忙しい。だが、それと仕事を沢山する事とは別だ。なるほど皆ずいぶん忙しいには違いないが、事実上は殆ど何もしていない。しなくても良い事ばかりして自分達で忙しくしているのだ。時間が惜しいなら委員会なんて開かなければいい。でも、皆八羽島と同じ思いを抱きながら無駄に忙しい毎日を送っているのかも知れなかった。