松組コンソメスープ (2)
2.
闇町はいつだって殺気立っているけど、何か起こりそうな時はことさらピリピリなるってもんだ。何か起こるのは大抵上層部だけど、上が荒れれば下まで波風が立つ、ここが闇町の結束の固さってやつ。どこもかしこも繋がってるから、対岸の火事では済まされない。
闇町がピリピリしだすと、共同ビル辺りにもシャバからのシロウト客が少なくなって、ライみたいな人間は仕事がしづらくなる。何しろシャバのシロウトどもときたら時計にしろ財布にしろ『スッて下さい』って看板かけて歩いてるようなもんだ。四つや五つの赤んぼだって、シロウト相手ならしくじらない。ところがそういうありがたい客というのは例外なくみんな臆病で、闇町が少しでも荒れ出すと、もう一夜にしてきれいサッパリいなくなっちまう。おかげで『観光客』相手に荒稼ぎしている飲み屋やスリ屋は商売あがったりだ。戦争好きの上層部の畜生どもめ。
シロウト客が少なくなると、スリ屋同士での競争ががぜん激しくなる。人のスッたものを横から取り上げるような奴が多くなって喧嘩が絶えなくなる。挙げ句、この不況を協力し合って乗り切ろうとか言って徒党を組む連中が現われるわけだが、これがまた一昔前のヤクザよろしく掟の厳しいギルドで、これができた日にゃ入っても入らなくても命は無いって。ライみたいにちょっと腕の立つスリ屋なら、早々に狩場を変えてしまう。
狩場を変えると一口に言うけど、これはそう生易しいことじゃない。普段からシロウト客のありがたさに頼っていて腕を磨くのを怠る奴は、不況になればギルドにつぶされるのがオチだ。不況を乗り切れるのは、居心地のいい中間層地区の縄張りを捨てて下層貧困街に降りて行くだけの度胸と腕のある一握りの人間、無様な言い方をすればスリ屋のエリート。ライもそうだが、このエリート達はたいてい松組の孤児院出身だ。松組の孤児院では先輩が後輩にスリの技術を伝授し、徹底的にしごいて鍛え上げるのが伝統になっている。かく言うライもまだ兄いからしごかれる修行中の身だ。
下層貧困街がどういう場所かと言うと、まず相当に汚く、狭く、暗い。年中無休、二十四時間ごったがえしているので空気が悪く、悪臭がただよっている。通路の両脇に並ぶ空き店舗はテナント待ちの広告こそ掲げてはいるが、そのじつ浮浪者達の巣になっていて、通路をぞろぞろ歩いているのもほとんどが浮浪者で、みんな飢えて目が血走っている。この浮浪者達が時々寝床を争って一大戦争を巻き起こすと、これを治めるのに闇町四大組織とハナダ出版社(まあこれが、闇町を牛耳る五大ヤクザというわけ)が揃って機動隊を出してきて、人は死ぬわ空き店舗は跡形もなくなるわ、架橋が一本、渡っている人間ごと叩き落とされることもある。五大ヤクザだって好きでやってるわけじゃなくて、そうでもしないと収まりが付かないのだから、ここはもう人間の住む所じゃないってこと。ここでスリをやるにはかなりの覚悟が必要だ。
その朝もライが見る限り貧困街はいつも通りだった。降りる前に着ている服を念入りにズタズタに引き裂いてから行く。でないと問答無用、剥ぎ取られる。移動には共同ビルのエレベータも使えるが、密室だと何が起こるか分からない、逃げるすべもないので絶対に使わない。階段を下りて行くと中間の踊り場あたりからもう物凄い人いきれと熱気で胸が悪くなる。入り混じって鼻をつく汗の臭い。頭がおかしくなりそうだ。苔の生えたようなボロっちいジイさんが下から三段目に座っていて、なにやらブツブツ歌っている。シャバにこんなのがいたら間違いなく気違いだが、この辺りではこれくらいが標準だった。階段の下にたむろする黒服の集団(これも何かのギルドだろう)の視線をすり抜け、いよいよ貧困街に入る。入っていきなり、人がぶっ倒れている。
誰も見向きもしていないから、既に死体なのだろう。息があれば誰か彼か仲間が寄り集まって騒ぐのだが、死ぬと誰もめんどくさがって近寄らない。まもなく梅組だかどこだかの見回りが来てこれを見つけ、回収して売り飛ばす。でも、なんかこれ老衰で死んだみたいに見えるからあんまり価値無いかもな。生きてても死んでても、体は若いほうが断然高値が付く。若い死体に何の使い道があるのかライには分からないが。多分臓器でも取るんだろう。
貧困街でスリをしようという時、下手に歩き回るのは良くない。ここの連中はたいていが用も無くうろうろ歩いているんだから、用がありそうにスタスタ歩いているとひどく目立ってしまう。これはライが何度もここに出入りするうちに身をもって学んだことの一つだった。焦って手を出さない事も肝心だ。浮浪者相手にスリはできない。浮浪者は何も持っていないし、もし持っていたとしたら絶対にスリ取られるようなヘマはしないし、そして現場を取り押さえられたら命は無い。つい一年前にもライの知ってる少年がここでしくじって殺されてしまった。まあアイツは元から馬鹿だった。たいして苦しまずに死んだらしいから却って良かったと思う。あれ以上生き長らえていたらきっともっとひどい死に方が待っていただろう。
油のようにべたべたした汗が背中と言わず顔と言わず玉になって流れ落ちる。どこを見ても人、人、人。テナント募集の看板、廃虚と化した店舗。松組出資のボランティアが向こうでスープを配っているので、そこに黒山の人集り。松組は四大組織の中でいちばん貧困層への福祉事業に『金を入れて』いる。ライの育った孤児院にしろそうだ。なんでも松組の初代総長は孤児院育ちだそうで。まあ三代目ともなればどこまでその遺志が受け継がれているのか疑問なところで、あのクソ劣悪孤児院には恩のかけらも感じないが。
どこまで歩いても、人と廃虚とスープのボランティアしかない。このスープってやつは、ライも一度もらってみた事があるが、まあまあな味だった。ただし二口も飲まないうちに自分よりずっと年下の浮浪児に脅されて取り上げられた。浮浪児は怖い。容赦がないし、トカゲみたいな思考回路を持っていて次の行動が予測できない。そして、バックにどんな黒幕が付いているか分からないのだ。ライに飛び掛かってきた子供もか細い女の子のようだったが、反撃したら後でどうなるか分からないので回れ右して逃げた。
スープ鍋の辺りの壁際には老若男女が長い列をなして座り込み、ちらちら目を光らせながら自分の貰ったお椀を大事そうに抱えて朝食の時間を過ごしている。よく、闇町の典型的な光景としてシャバの新聞記者なんかが写真に撮っていくのがこれだ。そのせいでシャバには、闇町は上から下までスラムの集合体だと思い込んでる人間がけっこういるらしい。ライには関係ないことだが上層部の連中はカンカンに怒っている。曰く、闇町は街ではなく一つのれっきとした国家だ、貧乏人もいれば金持ちもいる、政治もあれば経済もある、決してはみ出し者の溜まり場なんかじゃない、と。ライに言わせりゃ、なあに人間の溜まり場なんかじゃない、コウモリの溜まり場だ。闇町みたいに暗くて臭いところは、岩穴なんかよりよっぽど住み心地がいいらしくて、コウモリがどっさり住み着いている。
向こうから『占い師』の集団が歩いて来たので、ただでさえごった返していたスープ鍋の前は大騒ぎになる。『占い師』は貧困街に不定期的に出没する謎の集団で、七色にきらめく紫色の大布を身にまとってその端をフードのように深くかぶり、俯いてものものしく歩くので顔が見えない。たいてい五、六人で連れ立って、足音も立てずふわふわと歩くさまはまるで幽霊のようだ。何の目的があって何をしているのやら不明だが、彼らが来ると浮浪者達は一斉に道を開けて口々に「占い師様」と拝みだす。誰も本気であがめている訳ではなく、ただ皆がそうしているからそうしている、というヤツらしい。あの大仰な七色の布の端を間違って踏んだりすると呪い殺されるという噂もある。七色の光をふりまきながら人の波の中を歩いていく『占い師』の一団、その幽霊のような一団を無意味に拝み倒している亡霊のような浮浪者の群れ。この世の光景とも思えないが、慣れると大したもんでもない。
『占い師』が通り過ぎると辺りは少し静かになって、祭りが終わったようにもの寂しくなった。少し切れ間の見えてきた人集りの向こうに、ライはカモを見つける。この階に降りてきてまだ二十分も経っていない。今日は運がいい。
風波政府情報捜査局の調査員だ。闇町が殺気立ってシャバからのシロウト客が減ると、替わりに貧困街に調査員が出入りしだす。闇町のごたくさには風波政府が何かの形でからんでいる事が多いのだ。調査員はたいてい二人一組で行動し、一目でそれと分かるような公務員ぽい服装をしている。彼らは闇町のどの通りでも『暗黙の客人』として丁重に扱われる。政府ともめ事を起こすと闇町全体が困るからだ。そういうわけで、調査員という連中に手を出すのはスリ屋だけだった。
情報捜査局のほうでもスリに対しては多少おおらかで(というより諦めていて)、調査員には小金の入った財布を複数持たせてわざとスらせるようにしている。そのほうが安全なのだ。しかしライが狙うのは悪いけれどお恵みの小金じゃない。松組孤児院仕込みのこのスリ業師、狙うのは彼らの血色のいい手首に嵌まる腕時計だ。
カモの動き、人の波の流れ、腕時計の形状を見ながら頭の中で一連の動作をイメージする。イメージは真剣に行わなければならない。決して都合良くイメージしたり、都合悪くイメージしたりしてはならない。事実に即した予測、事実に即したイメージ。明確で綿密で、抜けのない確かなイメージ。相手の動き、掴んだ手ごたえ、床を蹴る感触、止め金を外すかすかなカチリという音、すべてを滞りなくイメージでき、その映像の中で成功した自分をしっかりと思い描くことができれば、仕事は終わったも同然だ。後はイメージをなぞって動くだけで、すんなりと勝つことができる。
二人組のうち、歳の若いほうが金属バンドの腕時計をしていた。一時期、革バンドの腕時計をペンチでちょん切ってスリ取る『ペンチ屋』が手軽だというんで、スリ屋は腕のいいのも悪いのもみんな阿呆みたいにペンチを手にして貧困街に向かったものだったが、腕の悪い奴はほとんど浮浪者相手にヘマをやってひねり殺されたようだ。調査員のほうでも時計をスられちゃかなわないんでみんな金属バンドのしか持たないようになった。だが松組孤児院の連中は引き下がらない。若い奴のほうが闇町に不慣れと見て、ライはそちらに狙いを定めた。
少し速足でカモの方へ近付く。人が多いのでカモの注意がこちらに向くことはほとんど無い。体が小さいと却ってスリ屋かと警戒されるが、ライはもう充分大人の体格になっていた。黙って顔を背けていれば、子供と見破られる事はない。人の波に押し出されたふりをして、若い調査員の目の前に立つ。相手は慌てて避けた。馬鹿め。
すれ違いざま肘の辺りを取り、肩が抜けるほどの勢いでぐいと引く。
「うわっ」
よろけたが、反射的に引き返して踏み止まったところを見るとそれなりに心得はあるようだ。でも、腕時計はもうライの手の中だった。
「あー!」
「諦めろ」先輩調査員がぼそっと言うのを耳の端に入れ、ライは人の波にもぐりこむ。仕事が終われば目立つ目立たないは関係ない。逃げるが勝ちだ。のろのろした人の群れをぬって小走りに通路をつっきり、階段を駆け上がって離脱。涼しい。
南極のように涼しい。
手つかずの森の奥のように、空気がおいしい。
素晴らしい。闇町の貧困街以外の場所が、こんなに美しい整った清潔な場所だったとは。知らなかったよ、本当に。生まれ変わったような気分だ、まったく。
まったく今さらながら、あそこは地獄のような所だ。毎回、この階段を上がってくるたびにそう思う。二度と行きたかねえ。だけどこれからしばらく闇町はごたごたなって、共同ビルの辺りに観光客は寄り付かないだろう。今回のごたごたは長引きそうだ、なんとなくそんな予感がする。兄い達の間では、近いうちに『粛清』があるらしい、なんて奇妙な噂まで囁かれている。粛清とは何なんだろう。まさか、風波政府がこの無法地帯の住人を皆殺しにするとか、そういう事だろうか。まあ、やれるもんならやれよって話だけど、最近妙に引っ越す奴が多いし、どことなく不安で落ち着かない空気だ。この街は、このままでは済まされない、きっと近いうちに大きな変革がある。そういう予感。闇町に生まれ育った者だけが、このただならぬ気配を感じ取れるのだ。さて、この時計を売りに行かないと。いや待て、あれは誰だ?
通路はどういう都合なのか、十歩ほど先で直角に折れ曲がっていた。その角を曲がって、誰か来たぞ。杖をつき、足を引きずっている。左、じゃない、右足だ。Dか? Dだ。本物だ。ライは通路の端に飛びすさって道を開けた。胸がバクバク鳴りだした。
赤波という死体加工屋の社長補佐である。歳はライより四つか五つ上だ。それくらいの若者である。シャバから来たと聞くけど、本当とは思えない。彼はライみたいな不良少年なんかとは違って、正真正銘のヤクザだし、殺し屋だ。そして、スリの神様だった。
彼にスれない物は無いそうだ。赤波の経営は常に赤字で、Dのスリだけが唯一の収入源と聞く。一体、一つの組織の赤字を補い、一族郎党(と言っても赤波の社員は全部で十人もいないらしいが)を養うだけの収入を、スリだけで稼ぐとはどれほどの才能なんだろう。これは神業としか思えない。彼は神である。もしそういう噂が全部デマだったとしても、構わないのである。そういう噂があるというだけで、彼は充分神なのだ。彼の噂をする時、ライみたいな少年どもは自分たちの仕事が誇らしく、神聖で、高貴なものに思えるのだ。ああそうとも、デマだというならデマで結構、ますますそれを助長して彼を天の高みまで持ち上げて、崇めたてまつって、一大神話に仕立て上げてやる。神様仏様、スリのD様だ。どうか俺たちに光を。どうか俺たちに希望を!
Dは足を引き引き、長い前髪に顔を半分以上隠して、通路の隅のライには目もくれないで通り過ぎて行った。まあヤクザ様に目をくれられたら不良少年は終わりだけどな。いわゆるガンつけられるというやつだ。おお怖い怖い。
ライはちょっと浮かれていた。一仕事終えて気が緩んだ所に、Dとすれ違って興奮していた。孤児院の兄いからはいつも「売るまでが仕事だ」と怒られるが、ライに限らず誰だってスリ終わると気が抜けるもんだし、嬉しいことがあれば注意力散漫になるもんだ。そして、許しがたいことには、そういう浮かれ気味の少年ばかりを狙ってカツアゲをする連中がいるのだった。
不用意に角を曲がったのが失敗だった。先に何があるか確かめずに角を曲がるのは、闇町では最も初歩的なヘマだが、仕事あがりで気が抜けてるとよくやってしまう。曲がった途端、床に倒れていた。待ち構えていたのは三人、ライとさほど歳も違わない少年二人、少女一人。
「スラム帰りって格好だな。時計スリか」
少年の片方がライの胸を靴で踏み付けて身をかがめた。ライは抵抗せずに相手を見上げながら逃げ道を考えた。卑怯者のカツアゲ屋にしては人数が少ない。たいてい五人も六人も寄ってたかって、もみ合っているうちに伏兵がさらに五人くらい加わるもんだがな。しかも、一人が女ときた。下手なプライド張ってるだけならいいが、何か隠し武器を持ってると厄介だ。最近麻酔銃も安くなったしな。
「こっちが何の用か分かってるな」
「ああ」ライは力なく言ったが、素早くポケットに手を入れて盗んだ腕時計を握りしめた。ついでに体を起こして胸の上の足をはねのけ、それから相手の鼻っ柱を腕時計を持った拳で殴りつけようとしたが、これはうまくいかなかった。だが三対一くらいで負けるつもりはない。ライが抵抗する気なのを見て、やはり相手は隠し武器を出してきた。少女がライに向けたのは、ドンピシャリ麻酔銃だ。えいくそ、どうせそう御大層な薬は買えないはずだ。麻酔銃に仕込む薬には、AからIまでのランクがあるのだと聞く。Aは数十秒後にめまいが来る程度、Iは即死、処置なし。そうだな、不良少年の地位と小遣いでは、Bが買えれば上等だろう。ひょっとしたらAすら買えなくて、空針か。
構わず少女に殴りかかると、首筋に冷たい痛みが走った。手で、針を引き抜いて捨てる。痺れるように染みる、これは空針ではない。空針ならこんな風に染みたりしない、それくらいは経験で分かる。畜生これはちょいと面倒だ。さっきから突っ立っていた少年が少女を庇ってライを突き飛ばす。まるでお粗末な、力の入れ方も突く位置もまるでなってない突き飛ばし方だったが、次の瞬間ぐらぐらときて壁に叩き付けられた。Bか。早まった。
最初の少年が後ろからライを壁に押し付けて、腕時計を握った手をとらえた。振り切ろうとするが、指先に力が入らない。ライは観念した。手をとられてしまったら、あがいても無駄だ。抵抗して獲物を握り続けようものなら、玩具みたいなちっちゃなナイフでその手の爪を剥いでいくのがこいつらのやり方だった。とても耐えられそうにない。
「分かった、分かったって」ナイフを抜く気配を感じてライは叫んだ。「渡すってば」
「何がだこのクソど間抜け」
と真後ろで別な声が言った。
押さえる手がゆるんだので振り返ってみると、いつの間にか三人のカツアゲ屋は床に倒れていた。替わりに立っていたのはライより少し年上、十八、九くらいの若者だった。少女から取り上げた麻酔銃をしげしげと眺めている。
「ほほーう。ガキの玩具にしちゃ上物だ」
ライや床に伸びている三人のほうには見向きもしない。麻酔銃を調べながら背を向けて去っていこうとするので、ライはその正面に回り込んで頭を下げた。
「あのっ……ありがとうございました」
「はー?」若者は汚い物でも見るような目でライを見下ろした。まあこれは闇町においては、先輩が後輩を見る際の一般的な目つきだった。
「どうもありがとうございましたっ」
「松組の子だろ。腑抜けのくせに時計スリなんてよくする気になるよな」
「はいっ」こう答えないと殴り倒される。
「てめえ助けたんじゃねえよ、失せろ」
「はいっ。失礼します」
「おい待て、誰が行っていいって言った」
ライが背を向けようとすると若者はいきなり怒り出した。誰がってあんたが失せろって頼んだんだろなどと言い返してはいけない。これも闇町の慣習だ。
「てめえこれで撃たれたのか?」若者は麻酔銃をもてあそびながらライのことを睨んだ。
「はいっ」
「ふーん」若者はライの首筋に流れる血を見た。「ふーん。ふーん。で、効き目あった?」
「はい、少し、くらっと……」
「馬鹿かてめえ」若者はさえぎった。「この得物に何が仕込んであったか分かってんのか? 食塩水だ」
え、と言いそうになってライは言葉を飲み込む。「え」なんて言ったら絶対に殴り倒される。
「食塩水、ですか?」
「そーだよ。塩水だよ。ちかごろ流行ってんだ、この手の冗談。撃たれたほうは偽薬効果で力が抜けるんだ。ひっかかんのはクズの、腑抜けの、プライドばっかり高いガキだけだよ。てめえみたいな」
「……はいっ」
「名前は?」若者はうんざりした感じで聞いた。
「ライです」
「ライ? はあ? コード貰ってんのか生意気に」
「はいっ」
闇町に暮らす少年達の間では、コードを貰えるのは一つのステイタスだ。本名とは別に、伝説に名を残した偉大な不良少年の名にちなんだコードネームをもらう。たいていは歴代の番長の本名から一字を取って、音読みする。
「誰の字だよ。ライ? そんな奴いたか?」
「はいっ。デスカーズのジョーカー二世、高瀬継優隊長の瀬の字をいただきました」ライは思わず背筋を伸ばして言った。
『デスカーズ』はシャバを駆け回る暴走族の名で、本来闇町の不良社会とは何の関係もないどころか敵同士と言ってもいいくらいだが、その二代目の族長だけは例外だ。高瀬族長はジョーカーの座を引退後、闇町に住み着いてここの不良どもを統制した。シャバ出身のこの男がこの街に何の義理があったのかは誰にも分からないが、上層部のヤクザに押しつぶされて虫の息だった不良社会を、ここまで建て直した彼は伝説に名を残すにふさわしい英雄だった。確か、去年の秋までこの近辺に住んでいて、ライも二、三度姿を見かけたことがある。背の高い、気さくそうなお方だった。
「へっ。随分な名前じゃんか。高瀬の瀬ってライって読むのか」
「はいっ」
「ふーん。まあ名前に恥じぬようにだな。どけよコラ邪魔だ」
若者はライを突き飛ばして歩き出した。ジョーカー二世の事を考えていてまたも気がゆるんでいたライは、不意をつかれて通路に思いきり叩き付けられた。転び方が悪くてかなり痛かった。ああまったくやってられねえ。
時々こんな街とはそろそろおさらばしてシャバで人生をやり直そうかと思う。でもなんだか来週でいいやとか思っているうちに十何年もここで生きているわけだ。さあまたカツアゲ屋につかまんないうちにこの時計を売って売上金をちょっとごまかしてから兄いんとこに持ってかなきゃならない。それからハナダ出版社に行く。最近ちょっとしたツテで紹介されたアルバイト口だ。割のいい仕事じゃないが、コピー取りとか掃除とか身の安全が保証されてる仕事だからいい。このアルバイトをしているのは、兄いには内緒だ。ヤクザ屋さんに小遣いもらってるなんてバレたら殺されるかもしれない。だけど、だったらどうしろって? 十五にもなってあのクソ幼稚園で『一般家庭』のガキと一緒に算数だとかイングリッシュだとか、そんなオベンキョウができるかってんだ。外をほっついてりゃ、金が必要になる。スリの稼ぎは全部兄いの懐。ハナダ出版社に出入りするくらいでなきゃ昼飯にもありつけねえ。どうせ闇町で暮らすんなら一度でいいからハナダ出版社の社長になってみたいもんだよ。頂点に立って何もかも見下ろすのってどんな気分なんだろうな。