祝杯ブルーサイダー (3)
3.
夜が明けた。
約束通り、飛行船が五機飛んできた。
私はハナダビルの屋上の中でも一番高い所に上がっていた。貯水塔のてっぺんだ。人が上がれるようになっていて、見晴台のように手すりがついている。気持ち良い風が吹いていた。私の髪を揺すった。私は見下ろしたり、見上げたりした。飛行船は涼しげな水色や白だった。胴体に大きく横文字で社名が入っている。レンタルなのだ。
いろいろな思いがまた私の胸を横切って行った。いろいろな人がいろいろな言葉が、長い時間と長いかなしみが私を通り抜けて駆け抜けて行く。もやもやと漂う不安だけが私の手元に残される。私はそんなもやもやの灰色を沢山抱えて風に吹かれていた。風は私の手から少しずつそれを、もぎ取って行く。もうすぐ私は全てを失う。全てのかなしみと灰色の不安を。私が空っぽになっていく。誰にも止められない。
大介と同じ船に乗れば良かったと思った。
まだ間に合うだろうか。いや、もう遅い。それに、これでいいのだ。これでいい。長い事考えて決めた。いろいろな事を思って決めた。だからこれで、きっといいのだ。
飛行船は思ったよりも速く近付いていた。
これは『環境に優しい』乗り物だそうだ。本当かどうかは知らない。音も静かだと言われている。これは大いなる嘘だと思った。航空機やヘリコプターに比べれば静かなのであって、比べる相手を間違っている。
四大組織とハナダ出版社、それぞれの屋上でそれぞれの組織が出発の準備に駆け回っていた。リーダー以下二十名程度の幹部と重要書類が飛行船に詰め込まれる。私は梅組ビルの屋上に、車椅子に乗せられた黒猫議長を見付けた。皆には生命の危険は無いと言ったけど、どうも完治には遠そうだった。彼はぐったりと座っているだけで、自分で車椅子を動かしてもいなかった。押して貰っていた。
桜組のビルには赤波書房の面々が揃っていた。私の視力を基準にして言えば、かなり遠かったが、大介の様子だけは手に取るように分かった。彼は荷物を詰めた段ボールを運ぶ合間に柾さんを捕まえて話し掛けていた。桜組の幹部達も手伝って十個ほどの段ボールが屋上に運び出され、準備が整ったらしかった。皆は飛行船を見上げていたが、大介と柾さんだけは積み上げた段ボールの山を見ながら何かぶつぶつと話し合った。その二人の上に飛行船の影が落ちていた。影は大きくくっきりとして、ゆったりと同じ場所に留まっている。空は眩しく晴れ上がって、真っ白な朝日はもう既に暑かった。左手を握り締めようとして、もうそこにリングが嵌まっていない事に気付いた。リングは大介の首に掛かっている。これからもずっと、掛かっているだろう。
ちらりと松組のビルを見た。ヘリポートは倉庫か何かの影にあって見えなかった。有松勇気には参った。今回の計画で、見事に二重スパイを演じたのだ。風波政府とはよほど親密に取り引きしていたようだった。私は全く知らなかったのだが、八羽島は知っていたらしい。今回の成功は松組の貢献が大きいかも知れない。ただ、気になるのは風波側の反応だった。
(松組が、裏切りました……)
予想していたのだろうか。機動隊員の反応は冷静だった。まだ何か切り札があるのだろうか。松組は何処まで情報を漏らしたのだろう。だいたいあの夢見がちな親子は、二重スパイなんて微妙な立場にはまるで向いていない……
まずいのではないか、という気がした。
あのとき有松勇気が「何が起こっても許してくれ」と言ったのは、そもそも別な意味ではなかったのか。見落としてはならなかった。彼の目は真剣だったのだ。松組は風波側に付くふりをして、最終的には裏切る事を決めていた。裏切った後の、風波の反応は?
誰にも迷惑は掛けない。何が起こっても許してくれ。風波が、松組が裏切る事を予測して、あらかじめその報復の準備をしていたとしたら? 有松勇気はそれを勘付いていて、だから、自分達だけはカゴ島に行けないと知っていたのだ……
「八羽島を呼んで」私はまだ耳にイヤホンと、襟元にマイクを付けていた。
「俺ですが」直通だった。ハナダビルのヘリポートに佇んでいた彼は私の立つ貯水塔の上を振り仰いだ。姿が見えているのに無線で話すなんて変な感じだ。
「松組に、飛行船に気を付けるようにと」私は短い言葉を選んだ。「出発を遅らせるように。最低一時間、できれば半日以上」
「俺も心配しています。竹組の総長が松組に対して貴方と同じ事を言いました」
「それで、松組はなんと?」
「来るものは来るし、来ないものは来ない、みたいな返事でした」
「私の命令だと言って。どこまで聞いてくれるか分からないけど」
「了解しました、連絡を取ります」八羽島は手近に居た部下をつついて何やら説明し、二人で屋内に入って行った。
鼓動が速まっていた。不安だった。凄く、嫌な感じだ。五機の飛行船はそれぞれのビルに向かって降下を始めている。腹の底に響く轟音だった。他に何も聞こえない。動きは想像した以上にスムーズだった。宙返り以外ならなんでもできる、と日本の飛行船レンタル会社は大変な威張りようだったが、確かに自慢するだけはあった。これくらい優雅に繊細に動ける乗り物は、他に無いかも知れない。威張りたくもなるだろう。
着陸が終わると、すぐに荷物の積み込みが始まった。私は自分が立つビルではなく、大介の居るビルを眺めていた。段ボールがリレーされ、積み込まれる。紙に印刷してもいい程度の資料だから、重要書類とは言っても大した物ではないだろう。赤波書房で編集したあの研究所についての資料は、何処にあるのか私も知らない。黒猫議長が何処かに保管しているのだが。私が知っているのは「ヘンダリム7749」という謎の呪文だけだ。これは資料を引き出すためのパスワードの前半部分で、後半は妖自連の中の誰かが知っている。議長が突然死んで資料が行方不明になった時は、それぞれが少しずつ教えて貰っているキーワードを繋ぎ合わせて解読し、資料を取り戻すのだ。一見用心深い賢明なやり方だが、実はふざけているだけかも知れない。いや、絶対にそうだ。高橋愛史はそういう男だ。
荷物が無事に収まって、それから人間の乗り込む番だった。桜組の総長、幹部がぞろぞろ、柾さんの背中を叩いて先に乗らせる本塚高蔵。本塚は最後に乗るつもりのようで、赤波の社員達をどんどん先に乗らせた。切田霞と漁さん、瀬川吉郎に悟淨切真に宮凪玲磨。玲磨は帽子を被って額の目を隠しているようだった。杖を使っていないから、完全に目を塞いではいないのだろう。岸は、ぼんやりと空を見ていた。それから乗った。お終いが大介だった。大介は乗り口に足を掛け、脇に立っている本塚高蔵に何か言った。それから振り向いて、はっきりと私の方を振り向いて、あの鋭く研ぎすぎたナイフみたいな目を、きらりと光らせた。私は身じろぎもできなかった。それは、一瞬だった。気が付いた時には大介も本塚も乗り込んで入口が閉じられ、飛行船は浮き上がろうとしていたのだ。
再び轟音だった。ハナダの船も出発したのが分かったが、私は桜組の飛行船から目が離せなかった。ヘリウムを積んだ大きなエンベロープの下に張り付いた、小さなキャビンから目が離せなかった。小さな窓から、大介はどんな景色を見ているのだろう。彼には私が見えるのだろうか。浮き上がる感覚はどんなものだろう。飛行機の離陸とは全然違うのだろうか。海を渡る間、漁船や海鳥の頭上を行くのだろうか。カゴ島。空から見下ろす新しい島は、どんな風だろうか。
私は三分近くも飛行船だけを凝視していたと思う。機体がすっかりビルから離れて「空」と呼べる高さまで上がった時、ようやく他の物を眺める余裕が出てきた。私は船から目を離し、桜組ビルの屋上に目を戻し、そしてそこに大介を見付けた。
「おい」
乗らなかったのだ。
いつ、降りた? ふざけるなだ。何考えてんだあの石頭。離陸の直前に窓から飛び下りたな。祝杯を上げた時、台露大鷹が来る直前に彼が言おうとしていたのは、この事だったのだ。
大介は私を見ていなかった。こちらに背を向けていた。自分が乗るはずだった船を佇んで見送っている。じっと見送っている。
私はどうしようかと思った。どの船も、松組の船でさえ(私の警告を無視して)もう出発してしまっていた。架橋を渡って駆け付けて、怒鳴りつけてやるべきだろうか。それとも、気付かなかった事にしてもう行こうか。私は最早闇町の住人ではないのだ。今この時をもって永久にこの街と決別したのだ。終わりにしようか。いや、できない。
私は駆け出そうとして、自分の体が貯水塔のてっぺんにあったのをようやく思い出した。危うく無意識に飛び下りる所だった。まったく飛び下りたいくらいだ。こう、一直線に飛んで行きたいくらいだ。エスターが欲しい、と思った。
※ ※ ※
私は最初の瞬間を見逃した。貯水塔を降りようとして梯子を探した一瞬だった。雷のような音が耳に飛び込んで、私は反射的に松組の船を見ていた。松組の船は平然と空にあった。崩れ落ちて行くのは、大介が見送っていた桜組の船だった。ぞっとしない光景だった。私はそれを見ているだけだった。何もできるはずがなかった。
風は生温く、私の内側は冷たかった。風波政府は的確な対応をしたのだと思った。松組に裏切られた復讐なんかしても仕方なかったのだ。彼らが押さえなければならないのは赤波書房と妖自連であり、彼らはそれを忘れていなかった。彼らはたぶん黒猫議長が梅組の船に乗ったのを知らなかった。知っていたら梅組の船も消しただろう。
火と煙と破片の雨が桜組ビルの屋上に降り注いだ。私は大介を見失った。彼の居た所は一瞬で戦場になり、真っ黒な煙が筋のように立ち上がって空へ昇って行った。ここに居ては危ないと、取って付けたようにそんな考えが浮かんできた。風波は、黒猫議長があれに乗っていなかった事は知らない。だが、私が乗っていない事は知っている。さんざん乗らないと言いふらして来たのだ。彼らは私を消す方法を何か講じているはずだ。
もう一度煙の中に目を凝らした。大介は見付からなかった。最悪の事態も予想しなければならないと思った。私は梯子を降りながら、八羽島からの無線連絡を受けた。私が貯水塔を降りると、間もなくハナダの飛行船が戻って来た。船は隅から隅まで検査され、安全が確かめられてから再び全員が乗った。私もそれに乗った。
不思議な事だけど、私は飛行船に乗っていた間の記憶が無い。長い事、小さな椅子に座って自分の手を見ていた事だけは覚えている。皆が言うには、島に着くまでの間ずっと泣いていたそうだ。でも、私の記憶では私は黙って呆然としていただけだった。言葉がすっかり消えてしまったからだ。




