祝杯ブルーサイダー (2)
2.
彼はまるで当然のように侵入してきた。あまり堂々としていたので誰も止められなかったのだろう。堂々というか、切羽詰まったような、ただならない顔だった。若い男だった。私が言うのも悪いが、闇町の基準で言えば「坊や」だ。汗をびっしょり浮かべて、なのにその顔は蒼白だった。連れの黒人の姐さんはいないらしい。彼は一人だった。
「タイロスか」柾さんがすっと前に出た。「昨日会ったな。調査員かと思ったが」
屋上は静まり返った。皆はじっと若者を見つめて、また歩み寄る柾さんを見つめていた。自然に、不規則な形の半円ができていた。半円は若者に向いていた。
「台露大鷹」柾さんは穏やかな声で、静かに言った。「俺が赤波柾だ」
「あなたに用は無い」台露大鷹は、視点の定まらない目で相手を見やり、いらいらした声で言った。「ハナダ青に会いに来た」
「私ですか」私はその場を動かなかった。状況がよく分からなかった。何故彼は柾さんに用が無いのだろうと思った。自分の父親を殺した奴に、用が無い人間が居るのだろうか。居るかも知れないが、この若者はそういうタイプには見えなかった。
「ハナダ青さん。あなたはもうすぐ捕まる」台露大鷹は、一度私を見付けるともう目を逸らさなかった。彼の目は殆ど理性を置き去りにしていた。私はそんな目を見ていたくなかった。飽きるほど、うんざりするほど、こんな目を見てきた。沢山だった。
「無理ですよ」私は言った。「風波政府は、今となっては何もできない」
「そんな事は無い」
「そんな事があるんです。この国はお終いです。闇町も、風波も、これからは日本政府の支配下に入ります」
「日本政府?」
「十七年前に日本に拉致された高橋愛史は、そのまま日本側に寝返りました。リバウンドが迫ったのを機に、計画が始まりました。闇町は宿主を乗り換える事にしたんです。その事を風波に悟られないように、日本政府との対立を演出しました。貴方がたの目を逸らす為に、この三日間も私は他の組織から追われているふりをしました。全て、演出です。蚊帳の外にいたのは、風波政府だけです。貴方のパートナーの……高島さんでしたか。彼女のIDを複製してハナダ出版社はずっと情報局のネットワークにアクセスしていました。機動隊の動きはこちらに筒抜けだったし、こちらから間違った情報を送って機動隊の動きを制御する事もできました。今も、こちらでは情報局の動きを全て把握しています。住民の移住が軌道に乗った今となっては、風波が何をやっても無駄です。私を捕まえようとすれば、四大組織とハナダ出版社と、それに日本政府を相手にする事になります」
台露大鷹はぼんやりした目で聞いていた。まるで理解していない様子だ。
「私の言う事が分かりますか? 結局風波は私を手に入れられなかったし、SKの情報を手に入れられなかった。ただ、その情報が埋もれている闇町というものを所有している、というアドバンテージで日本と張り合って来たんです。闇町が、かなめだった。その闇町が今回をもって日本政府のものとなりました」
「寝返った?」台露は熱に浮かされたような目のまま、呟くように聞いた。「どうして高橋愛史が――。日本政府がSKをやったんじゃないか」
「関係ない。常に、より強い方に付いて生き延びる。妖自連はそういう道を選んだから」
「風波は無くならない」
「風波は秘密を持ちすぎている。地殻変動の時は、日本が秘密を持ちすぎていた。今は、秘密を持っているのは風波の方でしょう。私を覚醒させるまでの間、研究機関を立ち上げてSKの調査をしてたんでしょう。SKで生まれてきた奇形児達に対する人体実験まがいから始まって、徹底的に資料をあさってSKで行われていた事をたどろうとした。揚げ句、水無貴流が開発した薬の復刻版という触れ込みで、誰かがLSDを闇町に流した……ミナタクル、という名前で」
ミナの名前を聞いた途端、台露の顔色が変わった。
「初めにこの麻薬を闇町に流したのは風波政府の研究機関の誰かです。タイロス社の幹部がその中卸しをした。雨陰信条という少年がこの薬のせいで亡くなりました。その後輩の赤波柾が……」
「分からなかったんだ」台露は喚くように言った。「彼には分からなかった。僕の父親が、張本人だと思い込んだ。タイロスの社長がいなくなれば、ミナタクルで苦しむ人間はもういなくなると思ったから。彼の立場ではそれ以上調べられなかったから」
「考えれば分かった」柾さんが口を挟んだ。「考えようとしなかった。大鷹さん、今のあなたも同じだ」
「うるさい!」
「手を出さないで」私は武器を取ろうとしている大介や他の連中に言った。「情報局に保護させましょう。殺さないように」
「お前は……」台露は恐ろしい顔つきで私を見ていた。何が恐ろしいって、彼が動物じみて見えるのが恐ろしかった。それでいて、動物がこんな顔をするはずがないとも私は思っていた。まるで得体の知れない、別な生き物なのだ。こんなに興奮している人間を数年ぶりに見た。いつ見てもこういう顔が私には理解できない。いったいどれほどの怒りに駆られれば、こんな奇妙な生き物になれるのだろうか。
「水無絵馬……お前のせいで……お前の母親のせいで、あいつが作った薬のせいで……」
「水無貴流は何も作ってません。もう一度言わなきゃいけませんか。SKの中央研究所では、末期癌の患者にLSDが投与されていました。それを知った風波政府の研究機関の中の誰かが、これをSKで使われた新種の麻薬と偽って闇町に流しました。話に尾ひれがついて、それが水無貴流の作った薬という事にされたんです。他にも、彼女が作った事にされている薬が沢山あります。大抵は、中央研究所で使われていた、というだけの理由で。私や妖自連の皆の体質を変えてしまったあの薬も、彼女が作った事になっています。これは今では『ミナタクル』が正式名称になってしまいました。本当は……」
「黙れよ……黙れよ、お前……気持ち悪いんだよ。気持ち悪いんだよ。いつまで生きてるんだよ、僕よりずっと年上のくせに……!」
「うるっせえよてめえが」ムカつく奴だと思った。「それようき余計な口たたっとぶっ殺すぞクソガキが。なんしにここに来た」みんな驚くんだがこれが私の母国語だ。下層貧困街で通じる言語の中では、一番上品な発音を選んだつもりだったが大介はとても嫌な顔をした。ごめんなさい、もうやめます。
「お前を殺しに来たんだ」
「ふざけんな帰れ」この程度は標準語だと思う。
「殺しに来たんだ」台露はナイフを抜いた。刃の片側がギザギザのやつだった。馬鹿馬鹿しいほど長かった。とんでもない野郎だ、使えもしないくせに。
「手を出さないで」私は大介達に繰り返した。「何もできません」
「何もできなくなんかない」台露は二歩三歩私に近付いて来た。
「聞くけど……」私は思わずあとずさりたくなるのを抑えてその場に留まった。八羽島や、他の四大組織のリーダー達が私を庇おうとして近付く。大介は勿論私と台露の間に立ちはだかっていた。
「何故、私なのかな。恨むなら柾さんじゃないの?」
「赤波は被害者だ」台露はうわごとのように呟いた。「お前の母親の被害者だ」
「私の説明、聞いてた?」
「うるさいな、うるさいなお前は、うるさいな!」台露はもう一歩踏みだした。
大介の体が、こんなに機敏に動いたのを見た事が無い。
彼は杖を取り上げ、ぱっと持ち上げたかと思うと撃っていた。それで、彼の杖に麻酔銃が仕込まれていたのを初めて知った。大介はそのまま杖で薙ぎ払うように台露のサバイバル・ナイフを弾き飛ばした。その半秒後には相手をうつ伏せに組み敷いて、両腕を背中に捩じり上げていた。
台露は意識があった。彼は暴れて喚き散らした。大介はますますきつく押さえ込んだ。そこへ、戸が開いてばたばたと足音が駆けて来た。情報局の機動隊だった。もう滅茶苦茶だ。私はこいつらにもう一回説明しなきゃならないわけだ。先頭にやって来たのは高島エリナで、地べたに組み伏せられているパートナーを見てほっとした顔をした。
「大鷹くん。大丈夫か」
「風波は裏切られましたよ」台露は軽蔑したような調子で叫んだ。「エリナさん。全部無駄でしたね」
「そいつを放してやって」高島エリナは大介に向かって言った。「私が引き取るよ」
「そう願いたいですね」と私は言った。
「お怪我はありませんか」高島エリナは私に向かって丁寧に言った。「本当に申し訳ない。ちょっと油断した隙に逃げられて」
「まあ、そんな事どうだっていいんですよ。いい加減慣れてますしね。こんな人は掃いて捨てるほど居るんです」
「同行して貰えますか」高島は他の機動隊員を目で示しながら言った。
「別に、同行したって同じ事ですよ。闇町の出口で日本政府が待ち構えてます。要するに我々が勝って、風波が負けたんです」
「え?」
「もう一度言わなきゃいけないんですか? そこの台露さんにも二回以上説明したつもりなんですがね」
「そんな事は無い」機動隊員の一人が言った。「他の誰が裏切ろうと、松組は風波政府側だ」
「ああ、あれ、嘘嘘」有松勇気が口を挟んだ。「あんた達が盗聴器仕掛けてたの知ってたからさ、わざと聞こえるように言ってみた。孤児院の子供達はもうカゴ島に発ったから」
「なんだ、嘘だったの」心配して損した。「私も騙されました」
「敵を欺くにはまず、味方から……」
「松組が、裏切りました」機動隊員は襟元に止めた小型無線機に向かって呟いた。
大介は台露大鷹を立たせて高島に引き渡そうとしていたが、台露はまた暴れ出した。八羽島も横から手を出して彼を押さえ付けた。
「大鷹くん」高島エリナは彼の正面に立った。「大鷹くん。もう帰るんだよ。お終いだ」
「あなたは僕をほっとけないんですか」台露大鷹はすっかり取り乱していた。「もう結構ですよ。あっちへ行って下さい。僕は、こいつを殺したいんです」
「大鷹くん。君は滅茶苦茶言ってるだけだよ。自分で矛盾した事を言ってるの、分かってるね」
「あっちへ行け」
「昨日も言った事だけど、君はハナダ青の事を何一つ知らない。赤波柾の事は随分詳しく調べたのに……どうしてなの?」
「知ってる事を聞くな」
「分からないから聞いてるんだ」
台露大鷹はしばらく答えなかった。大介と八羽島は押さえる手を少しも緩めなかった。
「……知ったら恨めなくなる」やがて台露は俯いたまま顔を背けて言った。
「やっぱりそれだけ? 私には分からない」高島エリナはちょっと途方に暮れたような目をしていた。「君が恨んでいたのは、最初は赤波柾だったのかな。彼を恨めなくなったから、替わりにハナダ青を選んだ」
「あなたになんか分からないんです。高島さんには分からないんです」
「ああ、分からない。君はね、馬鹿だ」
「僕には他に何も無いんですよ。何も無いんです……誰かを恨む事しか!」
「分かっているなら、変われるはずだ」
「あなたになんか分からないんです。ハナダ青にも分からないんだ」
「分かってたまるか」私は頭に来ていた。「言葉で説明しろ。何回でも、分かって貰えるまで説明しろ」それができないんなら消えてしまえ。
本当に我慢ならなかったのは、誰にも分かって貰えないという気持ちを知っていたからだった。説明する気にもなれないほどの冷たい気持ち、下らない理屈を捏ねて使えもしないナイフを持ち出して、そんな事をする以外に伝える術の無いかなしみを、私は知っていたからだった。




