無糖アイスクリーム (5)
5.
どろどろと絡みつくような不快な夢から引き剥がされて、大鷹は目を開けた。
女の背中が見えた。狭苦しい部屋。無機質な。女はパソコンに向かっている。
高島エリナ。
情報局の基地。そういう場所だったと思う。
いつからここに寝ていたのだろう。一瞬不思議に思って、すぐに思い出した。かっと頭に血が上った勢いで、欠片ほど残っていた眠気が消え失せた。
壁から引き出された簡易ベッドから、大鷹は転げ落ちるように降りた。
「今度こそハナダ青の出国が確認されたよ。西側第三ゲートから、一時間前」エリナは振り返らずに、穏やかな調子で言った。「闇町の外では、日本も闇町も彼女に手が出せない。風波が彼女を保護するのは、時間の問題だ」
「それは、ハナダ青の意志ですか」大鷹は自分の声が上ずっていると感じた。床がスポンジのように頼りない。エリナに近付こうとするが、距離感が掴めない。あのとき麻酔銃で気絶させられた後、更に睡眠薬を打たれたに違いなかった。
「おおむね、彼女の意志なんじゃないかな」エリナは振り返った。「闇町と彼女の対立も、単なる演出だったらしい。松、竹、梅は追うふりをして、ハナダ青は逃げるふりをしていただけだった。ちょっとした反抗ってとこかな」
「あなたは僕に嘘をついた」大鷹はエリナの広い額の辺りを見据えて口にした。「手伝う、と」
「私、言ったよね、君が身投げしたいから川に案内しろって言ってるって。私は、自分が後ろめたい思いをしない為なら、わざと遠回りな道を案内するし、手伝うふりをして君の邪魔だってする。大鷹くん、君は勝手だよ。自分の事は、自分だけの責任でできると思ってる」
「黙れ」大鷹は目を逸らさなかった。「お前の上司に会わせろ」
「もう少しそこに居なさい」エリナは再び背を向けてパソコンの画面に向かった。「君のような人を説得するのは、実は簡単なんだ。言葉はいらない。少し時間が必要なだけ」
「局長に会わせろ。約束が違う」
「少し黙ってそこに居なさい」エリナはぴしゃりと言った。
大鷹はそれに従ったが、黙っていたのはほんの十秒ほどだった。
「高島さん、僕は、父親と口をきいた事が無い」
「そうか」とエリナは言った。
「高島さん」
「エリナでいい」
「僕は父親を知らない。そいつが死んでも僕は悲しくもなんともなかった……。でも、母親は、泣き崩れて、病気になって、息子の顔も分からなくなった。十六だった僕を置いて母親は入院して、それっきり家に戻って来ません」
「辛かったろうね」
大鷹は次の言葉に詰まった。「僕は」
「ハナダ青を殺して、君に何が残るかな」
「何も残らない」
「傷が残るよ。君は、傷が欲しいんじゃないかな」
「そんな事、どうだっていい……」大鷹はエリナの真後ろに立っていた。腕を無意識に上げていた。灰色の回転椅子を座っているエリナごと突き飛ばし、もう一方の手をキーボードの上に叩き付けた。パソコンの画面を背にして大鷹はエリナと向かい合った。「局長に会わせろ」
「いい加減にしなよ」エリナは椅子から立ち上がろうともしなかった。力強い瞳を真っ直ぐ大鷹に向けていた。「今、悲しい辛い思いをしてるのは君じゃなくて、私なんだよ。勘違いしてるんじゃないか」
「なんだよ、それは……!」全身を震わせながら大鷹はベストの下に隠し持っていたナイフを抜いた。狭い白い部屋の中で、その刃渡りは初めて手にした時よりもずっと長く思えた。大鷹は何も考えていなかった。エリナは顔色を変えるわけでもなく、ただゆっくりと立ち上がった。
部屋のすぐ外で足音がした。
「おい、高島さん?」男の声が呼んで、鋭く二回ノックした。一方通行のこの扉は、今は外側から開ける事ができない。「変な入力があったぞ」
「ああ、大丈夫」エリナは面倒くさそうに言った。
「台露さんが起きてるのか?」
「ああ、うん」エリナは大鷹のナイフの先をじっと見ていた。
「さっきの入力でログが流れちゃったんだけどさ、ハナダ青の再入国が確認されたんだ。ついさっき」
「再入国?」エリナはおうむ返しに呟いた。
「機動隊の目を盗んで、また闇町に入った。共同ビルのどれかに居るらし……」
殺すつもりだった。だが、エリナは無駄のない冷静な動作で躱した。扉を突き開け、外から話し掛けていた男の顔に切っ先を振りかざす。
「……どうせ機動隊が、うわっ」男は飛びすさった。「てめえっ!」
顔に刺されば良かったのに。血塗られてしまえば良かったのに。大鷹は通路を走り、ゲートを突き抜け、基地を飛び出した。灰色の廊下。灰色の空気。共同第五ビル十四階、住民の気配は無い。移住が完了しつつある。ハナダ青は何処だろうか。
乾きかけていた汗が、再びじわりと浮かんできていた。
※ ※ ※
「小村くん、合言葉が欲しかった」エリナは閉まらないように押さえた扉をバンと廊下側に開け放って、まだ青ざめている同僚に微笑みかけた。「『黙れ』っていう意味の合言葉」
「高島さん。あいつはまずいぞ」
「責任は取る」
「待て、もう手を引け。あんたの責任じゃない」
「今のが合言葉。『責任は取る』」
「高島さん」
「聞こえてなかった? 『黙れ』って言ったんだ」エリナは歩き出した。
小村は溜め息をついてその背中を見送った。半ば以上諦めていた。




