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君のいない船  作者: 羊毛
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無糖アイスクリーム (4)

  4.


 私はハナダビルの屋上にいた。

 一口に屋上と言っても、大企業のビルの屋上というのはプール付きの家が十軒建ちそうなくらい広いのだが、その一部はヘリポート兼飛行船発着場で、残りの部分にはいろいろな建造物が並んでいる。エスターの倉庫とか、蓄電所とか、焼却施設とか、あれやこれや。通常は、屋上と言うとヘリポートの部分を差す。もっと高い所は沢山あるが、貯水槽の上なんかで待ち合わせても手間が増えるばかりで全く意味が無いだろう。私はだだっ広い真っ平らな広場の一番端で、屋上を縁取るフェンスを目の前にして佇んでいた。

 ハナダ出版社の救護班が塗りたくってくれた軟膏は、擦りむいた両手の平にすうすうと染みた。本当はガーゼを当てなければならないのだが、手が使いづらくなると何かと危険だ。痛いのを我慢してそのまま風に当てているしかなかった。大介を見習って、今度からはもっと手を大切にしようと思う。手を怪我するとこんなに痛いという事をここしばらく忘れていたのだ。

 屋上には有り難くもない生温い風が吹いていて、首から下げたリングを揺すった。私が転んだ拍子にリングに傷を付けてしまったのを知った八羽島は、急いで金物屋に回して磨き直してくれた。リングは元通りぴかぴかの銀色だった。こんなつまらない仕事まで人まかせにしないで責任を持ってくれる八羽島が、私はちょっと好きだった。

 その八羽島は私にアイスクリームをおごってくれた。十五階のサンドイッチ屋でこの夏新しく開発された新商品だそうで、その名も無糖アイスクリームと言う。屋上の風に当たりながら、傷だらけの手にコーンを持って、ぺろぺろと食べていた。クリームは白と黄色の中間、つまりクリーム色で、味は、変だった。全く甘みが入っていない。微かにラベンダーらしき香りが付けてあるようだが、あとは牛乳と卵の味、つまりアイスクリーム本来の原料の味がした。素材の味を生かすとはこの事か。いつの世にも、くだらない商品を思い付く人がいるらしい。そして、明らかに不味いと予測できるのに思わず買ってしまうのが人間て奴なんだな。

 アイスを食べ終えたら喉が渇いてきた。大介くんに早く来て欲しかった。あいつはまだペットボトルに水を持っていたはずだ。早く来い阿成大介。早く来いペットボトル。ひとけの無いヘリポート、高いフェンス、飛び交うエスターに林立するビルに架橋に……なんて事だろう、何もかも、宝石みたいに輝いて見えるのは。空を見上げた。星は少ししか見えない。ここの空は明るすぎる上に、私は視力が低いときた。だけど、その眠たい灰色の夜空でさえ私の目には七色に映っていた。この世界が、この時代とこの空とこの街と、この夜が、全て自分のものだと思った。自分はこの世界に包まれていると思った。風が吹き込んで通り過ぎて行くように、様々な考えが私の胸を訪れては駆け抜けて行った。体中がどきどきして私はただ立っていた。大介を待つだけの事がこんなに楽しい事なら、一生待っていたいと思った。私は落ち着こうと思って深呼吸した。だけど落ち着こうと思い過ぎて何度も繰り返してしまったので、逆効果だった。ますます息が切れた。さあ困ったぞ。

 音もなく、フェンスが揺れた。

 私は動かずに、そこを睨んだ。

 綺麗な指がフェンスを絡めて、はだしの足とポケットがいっぱいの服と、ベルト通しに括り付けた杖が乾いた音を立てながら、するっと登ってフェンスの上の鉄条網を乗り越えた。彼は格好付けて屋上に飛び下りたが、あまり成功しなくてバランスを崩した。それから立ち上がって、薄汚いTシャツの肩で顎までたれた汗を拭いながら、鋭い瞳をちらりと光らせて私を見た。

「追われてるの?」

「別に」大介はいつものように素っ気無かった。この喧嘩売ってるような口調と目付きがたまらなく好きだと思った。私は大介にそう言った。大介は不意打ちをくらったようでちょっと俯いていた。それから、私の手を取って傷の様子をじっと見つめた。

「怪我してる」

「転んでしまったのです」

「手の平は、すぐ治る」大介は無感動に言った。

「そういう時はね、『君は怪我なんかしちゃいけないよ。箸より重いものは僕が持たせない』と言いなさい」

「そんなに長い科白は、覚えられない」大介はそっと腕を回して私を抱き締めた。初めてだと思った。本当は五回目だったが。いつも初めてだと思うのだ。服の中にいろんな武器を仕込んでいる男なので、抱かれ心地が悪かった。私は目を閉じたかったけど閉じられなかった。風が寒くなった。体温急上昇。大丈夫か?

「日付が変わったね」私は言った。「誕生日おめでとう」

「え、誰の?」大介は呑気な事を言った。

「あら……誤解でしょうか、八月四日だったと思い込んでましたけど……」

「何処で調べた?」大介はいきなり警戒した様子だった。

 私は首の後ろの止め金を探った。リング型のペンダントを自分の首から外して大介に付けてやった。大介はリングの内側に彫った文字を眺めて、私を眺めて、途方に暮れた様子でフェンスを見やって、また私を見た。

「お返しが出来ない……」

「ああ別に、気を遣わないでね。プラチナとかじゃないから。ステンレスですからね」

「青の誕生日を知らない」

「別にいいよ。もう過ぎてるから」

「教えて下さい。来年まで覚えてる」大介は真剣だった。

「いや別にいい。歳は取りたくないね……」

 私達はしばらく黙ってフェンスに持たれていた。私の耳には自分の呼吸と心臓の音ばかりよく聞こえた。世界が狭くなったような気がする。

「なんでステンレスなんだ?」大介が突然聞いた。

「私の趣味です」

「俺はアルミの方が好きだ……ジュラルミンとか」

「私は磁石に付く金属が好きなんです」

「アルミだって付くんだ。磁石が強ければ」

「貴方、博識なのね」

「実用的な事は知ってる」

「あらそう……」土星の地面が液体だっていうのも、実用的な知識なのだろう。

 大介は俯いて何事かずっと考えている様子だった。それから顔を上げてふと、私を見た。夜の湖のように深い瞳だった。この色を忘れないでいたいと思った。最近、私は混乱しているみたいだな。次は何をするんだったか。そう言えば大介に水を貰うんじゃなかったっけ。でも、もう喉が渇いているかどうか感じ取れない。

「リンの所に行かないと」大介が低い声で言った。

「それじゃ、予定通りですね」私は自分が何を言っているのか分からなかった。「よきに計らって下さい。私はその、気分が大変悪くなく……頭が悪くなったような気がするけど……まあ、貴方がいれば、何も心配いりませんね」

「それじゃ困る。少しはしっかりしてくれないと」

「任せたよ大介さん」

「西第三ゲートから出るぞ」

「了解了解」

「本当に分かってるのか?」大介は屋内に入る扉を押しながら、不安そうに振り返った。

 その目が笑っていた。


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