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君のいない船  作者: 羊毛
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無糖アイスクリーム (3)

  3.


 助手席に座った私は、赤波柾がそうするように言ったので、野球帽を目深にかぶって俯いていた。私はハナダ青なのだ、追われているのだ、と心の中で繰り返した。誰にも見られないように、ひっそりと出国しなければならない。そういう事になっているのだ。

 渋滞した地下駐車場の通路をのろのろ進む間、私は膝の上に乗せた自分の両手を見つめていた。その手は、沢山の人間の血に濡れてきた私の両手だった。けがれているとは思わない。私は死んだ人の体を刻んだすぐ後でも平気で食事ができる。生々しいと言うのなら、食事の方がずっと生々しいと思う。ずっとそんな事ばかり考えていた。

 真新しい、濃いブルーのTシャツの着心地が悪かった。いい生地には違いないけど、私が普段着る薄っぺらなTシャツよりもよそよそしい感じがしてならなかった。ブラックジーンズは固すぎるし。緊張しているせいか、そういう細かい所が気になった。私にしては珍しい事かも知れない。何事もなく駐車場を出られて、車が普通の速さで走り出すとだんだん気持ちが楽になった。

 そっと腕時計を見ると、ようやく十時を回ったところだった。今日はさんざん働いたので、とっくに日付が変わったつもりでいたのに。今夜は、すごく長い夜になるのかも知れない。

「音楽、かける?」ハンドルを握って前を見たまま、赤波柾が言った。私は黙って首を振った。エンジンの音と、振動を感じているだけで私は満足だった。小刻みな振動が私をどんどんリラックスさせた。眠ってしまいそうになった。

 闇町からシャバへ出る一本道の道路は、間もなく国道にぶつかった。首都の国道は当たり前のように沢山の車が往来していた。外灯がきらきらと灯って、華やかで明るかった。シャバはこんな場所だったか、と思って、少し寂しくなった。何も後ろめたい所のない、開けっ広げで無邪気な沢山のライトが、私には眩しかったからだ。

 赤波柾は黙ってハンドルを握り、ワインレッドの車はハイウェイに乗った。

 私は少しだけ目を上げて、こっそりと窓の外を眺めた。夜空に星がたっぷり輝いていた。百年もの昔から、この星空だけは変わっていない。空にとっては、星にとっては、人間の数える百年なんて一秒と変わりないのだろうか。私の奇妙なこの体も、無数に生まれた取るに足らない命のうちの一つでしかないのだろうか。

 ハイウェイは高台を、海と並行に走った。私は重たい夜の色に沈んだ海を眺め、海も変わっていないと思った。海だけじゃなかった。魚も、鳥も、虫も、木や花も、変わっていなかった。何も変わっていなかった。変わって行くのは人間と、人間が造る物だけ。人間だけが、取り残されている。何故だろう。

「風波が追って来る」赤波柾が急に言った。

「分かるんですか?」

「さっきからずっと付いて来る車がある」

「日本政府かも知れませんよ。四大組織のどれかとか」私は言ったけど、その可能性はほとんどない事を知っていた。日本も闇町も、そんな無駄な事をする理由がない。ここまで追って来る者がいるとしたら、それは風波政府だけだ。

 それからずっと二人は無言だった。私は全身が柔らかく解放されていくと感じた。車に乗っているのが好きだった。赤波柾の運転は心地良かった。私はとてもリラックスして、助手席のシートに体を任せていた。この沈黙がたまらなく好きだと思った。

 車は突っ走った。私は何度か浅く眠った。眠りながら、車が雲の中を飛んでいるような気がした。ときおり追い越して行くトラックの轟音が、不思議な獣の吠える声に聞こえた。

 昔の夢を見た。哀しい夢を見た。私は、自分が友人達の足手まといになると分かっていたので、風邪を引いた振りをした。風邪をこじらせて、もうすぐ死んでしまう振りをした。それから私を捨ててくれるように頼もうとしたけれど、彼女達は私が頼む前から私を捨てて去って行った。薄暗い路地にうずくまって二人の足音が遠ざかるのを聞いていた。涙が止まらないのは、彼女達が地獄に堕ちてしまうからだと思った。私は二人が地獄に堕ちないように神様に祈った。神様は私の願いを聞き入れると約束してくれた。それでも私の涙は止まらなかった。

 彼女達が私を捨てて良かったと思った。足手まといの私から解放されて本当に良かったと思った。私は嬉しいから泣いているのだろうか。それとも、これが、哀しさなのだろうか。哀しむという事は、こんなに透明で綺麗で、ずっと泣き続けていくうちに、私は洗い流されていくのだろうか。

 夢の中で私は、繰り返し繰り返し祈った。

 どうか、遠い未来に、私も何処かへ行けますように……

 かなり長い事走って、それからハイウェイを降りた。ふわふわした夢から覚めて頭がはっきりした。私は急に帽子を取って窓を開けて、そこから顔を突き出したくなった。それくらいすがすがしくなって、楽しい気分になっていた。でも赤波柾は駄目だと言った。追っ手はまだしっかりと付いて来ていた。

 やがて海沿いの一本道に出た。片側が崖、もう片側がガードレールで、その向こうに砂浜と、海。この道を走っているのは私達だけだ。市街から少し離れて、ひっそりした場所だった。

「柾さん……」私は窓の外の景色にかじり付いたまま。「岸実生が、好きなんでしょう」

「え?」赤波柾はくすっと笑った。「どういう意味?」

「言ったままです」私は急に胸が締め付けられる感じがした。「岸を愛しているでしょう」

「うーん……」と赤波柾が言ったので、私は酷いショックを感じて彼を振り返った。何故すぐに否定しないのだろう。もしかして、本当に本当に本当? 彼の横顔は微笑んでいる。

「柾さん」

「どう答えれば誤解が解けるのかと思って……」赤波柾は楽しそうに、穏やかに言った。

「柾さん、あんたはおかしいです」私は声を荒げてしまった。「そういう事聞かれたら、普通はもんのっすごく強く否定するものじゃないですか? その、嬉しそうな顔は、なんです?」

「嬉しくない。誤解せんといて下さい」

「岸が好きなんでしょう?」

「冗談じゃない。そんな趣味は無い」

「じゃ、桜組のボスが本命ですか?」

「まさか……」

「じゃ、雨陰信条?」

「黙ってくれへんか」彼の笑顔が哀しそうになったので、私は後悔した。悪い事をしたと思った。だけど、私は冗談で聞いたわけではなかったのだ。あの時何があったのか、本当に知りたかったのだ。

 車は海岸へ下りる細い小道に入ったので、速度を落とした。砂利を敷いた空地にロープを張っただけの、小さな駐車場が現れた。その先に誰もいないビーチが横たわっていた。赤波柾は律義に、ロープで示された区画通りに駐車した。私達が車を降りないうちに、後ろから追ってきた車が三台、凄い勢いで駐車場に入って来て、区画も何も全部無視して乱暴に止まった。バタバタとドアが開いて透明な盾を持った男達が飛び出してきて、私達の車を取り囲んだ。真っ白な大きなライトを浴びせられた。その間にも車がもう二台到着した。

「なんか用ですか」赤波柾は開けた窓から顔を出して男達を見上げた。

「風波政府情報捜査局、機動隊です」逆光ではっきりとは見えなかったけど、答えた男はたぶん勝ち誇ったような目をしていた。「そちらのお嬢さんを引き渡して貰います」

「え、誰です?」赤波柾はわざと迷惑そうに言い返した。「今、取り込み中なんですが」

「ハナダ青を引き渡してもらう。ご了承願います」

「ハナダ青?」彼の呆れたような聞き返し方が堂に入っていたので、私は吹き出しそうになった。「ハナダ青、居ませんけど」

「そちらのお嬢さんの事を言っています」男は私の事をゴツゴツした手で指差した。

「ああ、この人ですか?」赤波柾はさも不思議そうに私を振り返った。「この人は、ハナダ青じゃありません」

「じゃあ、誰です」男は怒ったように言った。

「切田霞です」私は帽子を取って顔を上げた。覗き込んでいた風波の機動隊の面々は揃って間抜けな顔で私を見つめた。成功した事が分かった。

「まさか」追っ手は慌てた。「そんなはずはない。この車に乗っているはずだ。後部座席とトランクを見せて貰いますよ」

「どうぞ、ご勝手に」赤波柾は男を突き飛ばすように勢いよくドアを開けて、車を降りた。私も助手席から運転席に移って、同じドアから降りた。最高のデートになりそうだった。

 赤波柾が歩き出すと、風波の機動隊員達は気色ばんで妨害しようとしたけど、彼は一番近くに居た男の手をぱんと鋭く払いのけた。それから、初めに話しかけてきた男を真っ直ぐ見据えて、「お好きにご捜索下さい……ただし、車を持ち去らないで下さい」と言った。

 赤波柾は、そして私の手を掴んで歩き出した。駐車場を出て、砂利の小道を踏んで、砂浜に降りた。波打ち際までずっと、靴に砂を入れながら歩いた。私は手に力を入れないように、彼が握ってくれている手に力を入れないように、ずっと気を付けて歩いていた。こちらから握り返したら、きっと彼が嫌がると知っていたからだ。


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