無糖アイスクリーム (2)
2.
「まあ、こういう事もある」青はすぐに懐中電灯を消して一歩下がり、軽く目を閉じた。こういう時、宗教を持たない人間は不便な思いをする。言葉が出て来ないのだ。結局「ご冥福を」と言ってみたが、まるで重みが無い。青は死者の冥福なんて信じていなかったし、そもそも冥福という言葉にどんな意味があるのか知らなかった。死んだものは、死んだのである。
「死体を発見した」青は背を向けて逆方向に歩き出しながら、無線機に告げた。「私には関係無いけど。自殺だと思う。頭が潰れている」
「手を触れないように」相手も淡々としたものである。「すぐその場から離れて下さい」
「もう離れてる」
「お気を確かに」
「確かです。平気です」
「シークレットガードが只今到着しました」
「ありがとう」
青と死体との関わりはそれだけだった。
ビルに沿って曲がり、湿った空気を肌に感じながら歩く。目が慣れてくると、暗闇の中にも様々な光を見付ける事ができた。例えば、ビルの窓から洩れ出す明かりが別な窓に跳ね返って、地表まで降りて来る場所。そういう場所はほの明るく照らされて、横切る時には自分の影ができる。注意深く見なければ、アスファルトの上に落ちたその影は見付からないが。辺りに散らばるゴミの中にも、光る物があった。蛍光塗料か何かだろう。光る布きれ、光るビニル袋、光るペンに光る傘……光る落書もあった。落書は見付かった時点で消されてしまう。それでも性懲りもなく毎週書きに来る奴がいるのだろう。生き物の姿も目に付きだした。音も気配も無く不意に横切る犬や猫やネズミ、藍色の空を翔るコウモリ、そしておびただしい数の虫。青は虫が嫌いではない。どちらかと言えば好きな方だ。しかし、手の平ほどもある真っ白な蛾や、冴えない羽音を立ててぶつかって来る黄金虫や、腐ったゴミの山に群がる黒くて足の速い甲虫なんかはどうだろう。蚊が耳元を横切ったので、青は全身が内側から痒くなった。連中には可愛げが無い、と青は分析した。彼らの姿も、動きも、音の立て方も、つまり全てがどうしようもなく可愛くないのだ。連中の一番いやらしい所は、感情が無い事である。少なくとも人間が感情と名付けたような精神とは無縁の存在、だからこそ計り知れなく不気味なのだろう。
無数の生き物の気配のおかげで、青の意識はぴんぴんと針を立てたように尖ってきた。触れればポキリと折れそうな、毛のように細い針だった。それが青の意識の表面に、ハリネズミの針のように立ち上がっている。全てを聞き取る事ができ、見える限りの物をはっきりと見る事ができた。微かな足音と衣擦れの音が、青に追っ手の存在と位置を知らせてくれた。何故か、人の気配に青はほっとした。知らずそちらの方へ足を速めていた。
結局、思ったよりすんなりと行きそうだ、と青は思った。少なくとも今の所、予期していたようなトラブルは起こっていない。日本政府は約束を守ってくれそうだ。それが何よりの奇跡である。有り難いことに、風波政府はいまだ状況を把握していない。この調子であと数時間を持ちこたえればいいのだから、予定よりも楽な仕事だ。
人の気配を求めて進むうちに謎のオブジェに突き当たった。誰が何の目的で建設したのか分からないが、空き缶を人の背丈ほども積み上げて作った塔だった。壊すととんでもない音がするに違いないので青は一歩下がり、用心深く迂回した。
カッと視界が真っ白になった。ライトはたがわず青の顔を照らし付け、すぐ消えた。罠だったようだ。
「ハナダ青を発見。『底』です」五歩と離れていない所で興奮した声が言い、青が気付いた時には腕を掴まれていた。
「梅組です」イヤホンから無機質な声が告げる。
「粋な真似するんだね」青は取りあえず動かなかった。視力がなかなか戻らない。明るさには一瞬で慣れるが、暗さに慣れるのには時間がかかるのだ。「私は安全かな?」
「勿論、貴方の対応次第です」掴んだ男は紳士ぶった口調で答える。
「シークレットガードに、銃器使用許可を」イヤホンの向こうの男が言う。
「許可する」青が言った途端、数メートル先で火の玉が弾けた。その明かりでビルとゴミと人影が一瞬に浮かび上がる。人影は二十から三十もあった。
「こちらへ」梅組の手先らしい男は、青を掴んだまま逆方向へ歩き出す。青は仕方なく無数の足音や抑えた人声に背を向けて付いて行った。角を二度曲がり、一分ほど無言で行った所で青は立ち止まった。
「どうかなさいましたか?」
「いや、別に?」青は銀色の小さな拳銃を左手に持っていた。右手は掴まれたままだ。
「お止しなさい」男は柔らかく言った。「怪我をしますよ」
「貴方は死にますよ」青は興奮しないように、全ての感情を抑え付けた。この武器は大介からの預かり物だ。胸に言い聞かせる。慣れない左手で引金に指を掛ける。中指の指輪が邪魔だった。
「お止しなさい」男はもう一度言った。
「阿成大介は見付かった?」
「居場所は分かっている」
「へえ、そう……」青は思わず微笑んだ。
男は怪訝そうな顔をしたが、急に思い当たった様子で後ろを振り返った。「待て」青を放し、両手を上げて後ずさる。「撃つな。悪かった。もうしない」
ハナダ出版社のシークレットガードが取り囲んでいた。全員、麻酔銃を構えている。
「四大組織が裏切る可能性も排除はできない」一人が言った。
「まさか。そんなつもりじゃない。予定の範囲内だ」梅組の男はにわかに慌て出した。「おい、撃つなよ。それ、Hだろ。冗談じゃない」
「Iかも知れませんね」青はうっすらと笑ったまま言った。「武器を下げて。これ以上死者を出しても、処理する機関が無いから」
シークレットガード達は武器を下げた。青は全員に軽く会釈して、一人で歩き出した。
張り付きそうなほど近付いたビルとビルの隙間に潜り込んで、それから青は駆け足になった。
真っ暗だ。何処からも光が差してこない。緊張で腹の底から震えた。踏みしめる地表は塵一つ無く、滑らかな床のようだ。ズックで蹴るたびに、硬い音を立てる。その音は不思議と響かず、何処かに吸い込まれて行く。大介が居てくれたらいいのに。彼が居たら、この暗闇も全く違う風に見えたはずだ。青は冷たい闇の中で、たった一人だった。初めから、ずっと今まで、独りだったような気がした。体の芯まで闇が染み込んで行く。
がくん、とバランスを崩した。あるべき位置に、床が無かった。
地に足が付くまでに、予想より半秒多くかかった。段差だ。青は前のめりになってもう一歩を踏み出したが、その先にあるべき床も予想より低い位置にあり、更にその先もそうだった。下りの階段である。気付くのが遅過ぎた。体勢を立て直すのは無理と悟って、青は両手を顔の前に突き出した。ふっと、ずっと幼い頃に習った水泳の飛び込みを思い出した。
着水。
右手で段の一つ、左手で脇の壁を捉えた。ざらざらした剥き出しのコンクリートだった。熱い。摩擦で熱いのだと思ったが、次の瞬間痛みに変わった。渾身の力で両手を突っ張り、落ちて行こうとする体を引き止めた。ぎりぎりで食い止めた。額から汗がこぼれる。漸く段に足を付けて立ち上がり、両手を持ち上げると手の平全体からじわりと血が溢れ出した。両手を代わる代わる舐めながら青は残りの階段を降りて行く。割となだらかな階段だった。
降り切った所に立ちはだかった扉を肩で押しながら、青はまだ少し息を切らしていた。扉の向こうはこれ以上無いほど殺風景な通路だった。まるで洞窟のようだ。空気がむっとしている。大人が一人やっと通れるだけの、何の飾りも無い四角いトンネル。天井には一定の間隔で照明が埋め込まれ、空気全体を眠たい黄色に染めている。青は背中で扉を閉めて、明かりの下で手の平の状態を眺めながら通路を歩き出した。傷痕は筋のように細く無数に並んでいる。指輪には微かに傷が付いていた。
突き当たりで通路は直角に折れた。曲がると、突然重い扉が立ちはだかった。銀色のノブを肘で回して引く。僅かに開いた隙間に足を入れて押し広げた。目の前に柱があり、その向こうに車があった。
地下駐車場は賑やかだった。普段は最低限に抑えられている照明が全て灯されて、眩しい光の下で人が行ったり来たりしていた。大きな荷物を抱えている人間が多い。エンジンをかけた車が列をなして通路に連なり、その隙間を荷物と人が行き来する。商店街の住人の引っ越しラッシュだった。
怪我をした両手を軽く握って青は俯き加減に歩いた。ときおり柱に掲げられた区画表示を確認しながら、速足に進んで行く。暗記した区画番号と車のナンバーを思い浮かべる。昼の打ち合わせの時に赤波柾に教わったのだ。特に迷う事もなくワインレッドの乗用車を見付け、トランクを引くと予定通りそこだけ鍵が開いていた。トランク内のマットの下から鍵を引っ張り出す。その鍵で助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。乗り込んですぐに鍵を閉める。椅子の足元にうずくまり、一息ついた。
「三十分、眠ります」青はペンダントのように下げた無線機に向かって言った。「赤波書房の社長に、三十分後に闇町を出るように、と」
「了解」
体を丸めて膝を抱え込む。両手の血は汚い色に固まり始めている。ひりひり、ずきずきと痛んだ。指輪も汚れてしまった。溜め息をついたが、車内は沈黙している。そこに大勢の人間が居てわざと黙りこくっているかのような、密度の濃い沈黙だった。青は額を膝に押し付けて目をつぶり、大介の気配を感じようとした。




