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君のいない船  作者: 羊毛
20/28

無糖アイスクリーム (1)

  1.


「俺は頭が悪くってなあ。あの通りの母親なもんで、一生懸命、英才教育に身を入れたんだが、俺の反応はさっぱりだった。絵馬が生まれてからは母親は絵馬に夢中だった。お前は小さい頃から切れが良かった……母親はそう言った。俺はほったらかされるようになって、嫌んなっちまって……親父が俺の味方だった。結局、それで、お前が五歳の時に離婚だ」白い寝台の上に横たわった青年は、目を閉じたままぶつぶつと寝言のように説明した。「俺があそこのアルバイトなんかになれたのは、所長の息子だったからだよ……アルバイトなんていう枠は無かった。無いに決まってる。親父が死んで、おばあちゃんが死んで、おじいちゃんは寝たきりになって施設に入った。身寄りがなくなって、俺は仕事も無いし家も無い。母親が見かねて呼んでくれたんだ」

 青はなんとも呆れ返った、あるいは白けた、とでも言うような顔をして黙り込んでいた。当然、この突然正体を明かした兄の弁解めいた説明は彼女の耳を素通りしていた。高橋愛史の昔話を興味深く聞いていたのはむしろ、隣に立っていた阿成大介だった。しかし勿論、彼は場を弁えて石のように黙っていた。

「俺は、絵馬、妹が生まれた時……」

「それじゃ」青は全くもって冷たい調子で遮った。「父も母も同じというわけで? 五歳まで一緒に暮らしていたと」

「そう、それで……」

「知らなかったのは、当然、私一人なんでしょうね?」

「さあな。俺は誰にも自分から言いふらしてはいない。ただ、母親がお前を瓶詰めにしたと知った時、母親に向かって怒鳴ってやった。『馬鹿! 気違い! 死ね! 絵馬はてめえの持ち物じゃない、俺の、俺の妹だぞ!』と、それを妖自連全員に目撃された」

「そういうの、大声で言いふらしたって言いません?」

「岸はいなかった。岸はアメリカに渡った後だった。でも、帰国して合流したらすぐに察したみたいだった。あれは勘がいい。赤波さんにも直接言ってはいない。でも、まあ、今回の事で居候になった時点でばれただろうな。それでも隠せる限り俺は隠したつもりだ。日本や闇町や風波のお偉方は、多分知らない。知られたらもっと厄介事が増えたに決まってる」

「知ってましたか?」青は大介を見た。

「まあ」大介は困ったように答えた。「顔、似てるし」

「似てるの?」青は大きな溜め息をついてうなだれた。「何それ。何それ何それ何それ。最悪、最低、みんな大嫌い」

「絵馬、許せ」高橋愛史は大きな綺麗な目を開けた。「すまん。ずっと黙ってるつもりだった」

「私が馬鹿みたいじゃない」青は兄を睨み付けた。「議長と私を身近に見ている人には、一目瞭然だったって事? どうりで皆が笑うわけね。馬鹿みたい。私が忘れてるのを見て貴方は楽しかったんでしょうよ、この馬鹿野郎。変態。シスコン。さっさと死んでしまえ」

「死にそうなんだ」高橋愛史の目はまた潤んだ。「絵馬の顔がぼやけて見える。全部ぼやけて見える。長くないのが自分で分かってて、医者にもそう言われて、絵馬の事ばかり考えてたら絵馬がここに来た。言うつもりじゃなかったんだ。絵馬、悪かった。黙ってるつもりだった……」

「私は、何故知らせてくれなかったのかと、聞いてるんです」

「苦しめたくなかった」

「充分苦しんでますよ。今さら兄の一人や二人、増えようが減ろうが何の変わりも」青は言葉を切り、興奮と混乱を振り払うように溜め息をつき直した。「とにかく、今さら、遅すぎる」

「悪かった」高橋愛史は目の上に片腕を当てた。「全てにおいて、俺が悪かった」

「誰もそんなこと言ってんじゃない」

「ごめんなさい」

「もう一度謝ったら殴るよ」青は半ば怒鳴るような口調で言った。

「お前と俺は似てるよな」高橋愛史は腕を下ろして微笑んだ。

「ああ、そうでしょうね、特に直進型で融通が利かないところとか、何でも自分で背負い込みたがるところとか、非公正取引委員会とか世界妖怪自治連盟会議とか変な名乗りが好きなところなんかが!」

「そして、兄妹揃ってこの美貌」

「黙れ!」

「分かった、もう分かった」高橋愛史はにやにやしながら非常な苦労をして体を起こした。その顔はこの数時間の苦痛でやつれて青白くなり、冷たい汗で湿っていた。彼は妹を側に寄らせて、寝台の上から軽く手を回して抱いた。「絵馬、元気で」

「別れが辛くなりましたね」青は静かに言った。

「すぐまた会えるだろ」

「そうだといいけれど」

「それに、俺が誰だろうと、お前は別れを惜しんでくれただろう」

「そうだといいけれど」

「愛してる。お前を愛してる」

「ほどほどにして下さいね……」

 イヤホンから警告が入っていたが、青は別れを告げかねていた。緊張感が戻って来ない。この小さな病室だけが、戦場となった闇町からぽつりと切り離されているようだ。そろそろ死んでもいい頃だ、と青は胸の内で呟いた。急に傍観者になったような気分だった。逃げようという気になれない。風波機動隊、梅ビルに侵入。十五階。十六階。非常階段が封鎖されます。先代社長応答願います。まだ二十一階にいらっしゃいますか?

「青、安全か?」大介は遠くを駆ける複数の足音を微かに聞き取って、身を固くした。

「実は、安全じゃない」青は表情を変えずに言った。「機動隊が十七階まで上がって来ている」

「それじゃ」大介は青の腕を掴みながら同時に高橋愛史に会釈したかと思うと、杖を握り締め引き戸を開けて病室を飛び出した。明るい照明に照らされた清潔な廊下を、ずんずん歩き出す。

「もう、君って、ほんと決断早いよね」青は引っ張られて仕方なく足を速めながら楽しそうに言った。

「え?」大介は緊張していたので、返事の替わりに聞こえなかったふりをして会話を終わらせた。ほぼ走るような速さで階段まで辿り着いたが、丁度追っ手が上がって来たところだった。それを見た途端、大介は回れ右して来た方向へ駆け出した。青もようやく緊張が戻ってきて、後を追いながら息を詰めた。長い廊下の途中で、角を曲がって現れた白衣の看護師を突き飛ばしそうになった。看護師はのけ反って避けた。

「架橋は使えない」イヤホンからの情報を青は大介に叫んだ。「非常階段も封鎖」

「真っ直ぐ」大介は短く言った。突き当たりはエスターの発着場だった。

 この街でビル間を渡る手段はいくつもあるが、エスターは架橋の次によく利用される。エンジンとヘリウムの浮力を補助に使いながら飛ぶ、小型の滑空機だ。材料の改善とヘリウムを効率良く留める技術の進歩により小型軽量化が進んでいる。ワンサードと呼ばれる機体が最新型であり、重量が初期のものの三分の一。まもなくクォータが商品化されると言われている。事故の多い不安定な交通手段だが、カラフルで玩具のようなデザインと空を飛ぶという華々しさが若い世代には人気だ。闇町の各ビルはその財力に応じた数だけエスターの発着場を持つ。手すりの無い巨大なバルコニーのようなもので、四角い柱のような鉄筋ビルから飛び込み台のように突き出ている。この建築様式は何故か不幸な人々の悲壮感を煽るらしく、闇町での自殺はここから地上に飛び込むというのが主流である。

「乗るの? 羽、あるの?」青は自動扉の向こうに見える薄暗い発着場に目を凝らして、隣を走る大介に聞いた。

「どれか盗めばいい。お前は羽で行け」

「あんたは?」

「工事点検用の足場がある」

「何?」

 二人は発着場の入口に辿り着いた。自動扉は二人の剣幕に気圧されたのか、開くのに手間取った。青は舌打ちして立ち止まろうとしたが、大介が走って来た勢いに任せて扉の片方を蹴飛ばした。強化ガラスの板はレールから外れてバシャンと倒れ、真っ白にひび割れた。警報が喚き出した。青が何か言いたげに相方を見やると、大介はちょっと得意そうに「コツがあるんだ」と呟いた。

 微かに涼しい外の風が、二人の頬を打って出迎えた。発着場の明かりは半分以上灯っていなかった。通常、この時間ならどの発着場もエスターの出入りが激しいが、今は人影もなく静まっている。商店街の連中が次々と街を去って行くからだろうか。

 大介は発着場の隅に詰め込まれているエスターの一つを引っ張り出そうとしたが、その瞬間、ぎょっとしてあとずさった。夜目の利かない青には明かりの落ちたエスター置き場の暗闇に何があるのか分からなかった。ただ大介に促されるまま、数歩下がった。

 音は無かった。羽を休める無数の滑空機の陰から、五人が姿を現した。全員が麻酔銃の先を青か大介に向けている。そう広くない発着場の上では、射程の短い麻酔銃でも充分だった。

 大介は青の腕を掴んでじりじりと後ずさりながら、ちらりと闇町の夜景を睨んだ。ビルからぼんやりと漏れる黄色やオレンジの光。街の構造的な性質上、建物の外に向けた広告や電光掲示板、明かりの類は無い。蜘蛛の巣の糸のように巡らされた架橋と、ヒマワリの葉のように方々に突き出る発着場が、月明かりの下で陰鬱な影を作り出す。その闇の中を夜空の星のように、エスターの鼻先に括り付けた強力ライトが飛び回る。辺りにはそのエンジンの音だけが、複雑な形の建造物に跳ね返って響き渡っていた。

「武器を捨てろ」五人の内の一人が静かに言った。「風波政府は平和的な解決を望んでいる」

 大介は黙って後ずさり続ける。青も下がりながら、発着場の端まであと何歩あるか考えた。発着場の縁に手すりは無い。突き出した板状の飛び込み台なのだ。大介がどうする気なのか、青には分からない。二人が下がるのに合わせて五人は少しずつ踏み出してくる。縁まで追い詰められたらどうする気なのだろう。工事点検用の足場は何処にあるのだろうか。大介に算段がある事を青は疑っていなかったが、これから何が起こるのかまるで予測が付かなかった。

「武器を捨てろ」相手は繰り返した。「何故、逃げ回る。こちらは何もしない」

 二人は下がり続ける。ついに縁まで来た。後ろに体を倒せば、地上に飛び込む事ができる。

 壊れた自動扉をくぐって、廊下を走って来た追っ手が到着する。完全に退路は断たれた。

 エスターのエンジン音が耳につく。

「もう一度」相手は麻酔銃をぴたりと向けたまま繰り返した。「武器を捨てろ。逃げる必要は無い」

「俺は足場を行く」大介は素早く青を引き寄せて耳元に言った。「お前は羽で行け」

 青は左手の指輪を握り込んだ。エスターは全て、麻酔銃を構えた敵の向こう側だ。どうやってあの中の一機を奪い取り、鍵無しでエンジンをかけ、出発できるだろう。青は呆然と背景の暗闇を眺めた。エスターが一機、こちらに迫って来る。真昼の太陽のような明かりが、みるみる膨らみながらまっしぐらに飛んで来る。あれに乗れと?

 追っ手は囲みの輪を狭め始める。青は大介の説明を待つ。大介はエスターの接近を待つ。落ちるような速さである。武器を出したきり何もできないでいる風波機動隊の頭を、爆音と排気ガスがかすめた。

 衝撃。光。

 喉が締まる。目が眩む。足元が無くなる。

 大介は兎のように駆けてビルの外壁に取り付き、するすると上って行く。確かに、足場がある。ホチキスの針を垂直に突き刺して並べたような、最低限の足場が。通風口やダクトに入る為の工事点検用の足場だ。信じられない速さで遠ざかって行く。その腰からぶら下がった杖が何処かの光を反射してきらめくのを見ながら、青は既に滑空する機体の上に引き上げられていた。

 Tシャツの生地がしっかりしていなかったら、服が千切れて青は闇の底に堕ちていただろう。操縦士は片手で機体を操りながら、擦れ違いざまにもう一方の手で青の襟首を掴み、掻っ攫ったのだった。梅組ビルは最早、遥か後ろ。

 命知らずな離れ業に苦情を言おうとして、青は振り返った。機体はぐらりと揺れた。

「おい、お嬢さん」操縦士は高感度ゴーグルを片手で額に押し上げながら、陽気に叫んだ。「おとなしくしてろよ、こいつは一人乗りなんだ」

「兄貴じゃないか」青は叫び返した。「何やってんの?」

「前向いてろ」高瀬継優つぐひろは両腕で青を挟み、青の前の操縦桿を握った。エスターは鋭い弧を描いてビルを避け、架橋を掻いくぐった。

「ちょっとお!」青は機体と二人を包み込む突風に向かって有らん限りの声で怒鳴った。「兄貴! ゴーグルかけろ!」

「大丈夫!」

 機体はまた弧を描く。S字にカーブを繰り返し、ビルの間を縫って行く。飛べば飛ぶほど加速していくようだ。コンクリートの塊が鼻先を擦るほどに迫ったかと思うと、次の瞬間に機体の向きは九十度変わっている。右や左への反転、急上昇による回避。背筋が冷えるのは、急降下。重力が消える。それでいて、自分の体の重さをこれほどはっきりと意識する瞬間は無かった。継優の両手と両足以外に青を繋ぎ止める物は無い。強力ライトから出る白い帯が暗闇に伸び、輝くような黒と白が視界を入り乱れる。何もかもが回転し、反転し、堕ちては昇り詰め、切り離されていく。まもなく青にも、継優がわざと危険な経路を選んで楽しんでいる事が分かった。

 継優がようやく曲芸飛行に飽きた時、青は涼しい風を体中に浴びながら汗だくになっていた。

「とにかく助けてくれてありがとう」青は両手が興奮で震えているのを感じながら言った。

「いいって事よ」継優の操るエスターは、少し速度を落として飛んだ。真下に道路が見える。闇町に一本だけ存在する『車の通れる道路』である。片側二車線の自動車専用道路で、共同ビルの地下にある大駐車場からシャバの道路へと繋がる一本道だ。好き勝手に隙間無く林立する闇町のビル群も、この道路だけは避けて建てられている。おかげで障害物は少なく、エスターの進路は単調だった。

「昼間も見かけたのよ」青はバランスを崩さないように首だけ曲げて継優を振り返った。「オレンジのジャンパー着てたでしょう」

「ああ。今も着てる」継優は片手を操縦桿から放して上着のチャックを少し下ろし、裏地を見せた。オレンジだった。「リバーシブルなんだ」

「忍者みたい」

「お嬢さん、どちらまで?」

「このまましばらく飛んでて。燃料が尽きるまで」

「それはできねえよ。これ、引っ越し用の羽なんだぜ。エスターでカゴ島まで渡るとなると片道分の燃料しか積めない。行きは飛んでって、乗り手は島に着いた所でその羽を乗り捨てる。それをお偉さん方が回収して、Fっつう無人島の学校の食糧船をだな、ちょっとカゴ島まで寄り道させて、回収した羽を乗せて本土に帰す。戻って来た羽にまた燃料を積んで、別な奴が引っ越しに使うという寸法」

「あんたが説明してくれるって事は、その計画上手く行ってるんだね」

「うん、まあ、大体はな」

「竹組の提案だったからあんまり期待してなかったんだけどね」

「竹組はエスターには理解がある。とにかくこの羽は借りもんなんだ。すぐ降りて貰わねえとな」

「あなた、ところで何してたの?」

「散歩。あんたを見かけたんで、あの少年に合図送ったんだ。ライトを点滅させて」

「散歩ねえ……」

 二人を乗せたエスターは次第に高度を下げながら闇町の外れまで来た。大駐車場から伸びた道路が、シャバの国道と交わろうとしている。継優はその交点を見届ける辺りで機体を回れ右させて、引き返し始めた。

「今度こそお別れか? 青」継優は青の耳元に顔を近付けた。近付けたのに、普通の声で喋るものだから、青は耳が痛かった。

「お別れなんてしみったれた言葉は、俺と兄貴には似合わないと思ってね」青は前を向いたまま素っ気無く答えた。

「ふうん。そう格好付けなくたっていいじゃねえか。俺はあんたがいつまでもラーメン屋の看板娘で収まってるとは思ってなかったぜ。つんつんするこたあねえだろうが。それがあんたの生き様ってヤツじゃん?」

「何言ってんのか分からないから黙ってくれない?」

「黙ってこっそり出てっちまうのもあんたらしいけどな。でも、俺が追い掛けて来るのも予想はしてただろ?」

「まあね。でも、それだけの為にここに来たの?」

「まさかまさか。さっき、ガキ共を集めて演説をぶってきた所だ」

「兄貴が演説? 演説されるガキ共が可哀相……」

「引っ越しに取り残されるな、とな。世の中、突っ張っていい時と悪い時ってやつがある。今は悪い時だ。どんな方法使ってもいい、絶対にカゴ島へ渡れ。一番簡単なのは、今だけ大人の言う事を聞いてやる事だ、と」

「へえ……」青は松組棟梁との会見を思い起こした。有松勇気は何と言った? 自分達は風波に縛られて動けない。迷惑は掛けないから何が起きても許してくれ、と。松組は孤児院の子供達を移住させないかも知れない。闇町に溢れる手の付けようもない悪ガキ共の半分が松組孤児院の落ちこぼれだ。大人の言う事を聞いてカゴ島に移れるのはそうでない残りの半分だけ。孤児院の子供達は風波の施設に吸収される事になるかも知れない。継優の主張は、微妙な所だ。

 もし、カゴ島がその名の通り加護を受けた島、噂通りの夢の国なら。

 しかし松組はそれを信じなかった。信じるものが違う、それは仕方のない事だ。どんなに素晴らしい移住先だろうと、子供達の就職口が無い限りそれは夢の国ではあり得ない。それが松組の信念だ。それが有松三代の築いてきた生き様だ。

「闇町流……ってことかな」

「あ?」

「どいつもこいつも自分の信じるように、好き勝手なこと言ってるからさ。みんなバラバラなこと言ってんのに、一つ一つ聞くとどれも筋が通ってるからおかしいよね」

「筋はどうとでも通せんだよ。ところでお嬢さん、俺は本気で聞いてんだぜ。何処で降ろせばいい?」

「うーん」青は素早く考えを巡らせた。「共同ビル辺りで、なるべく下の方にお願いする」

「おう合点だ、急ぐのかい?」

「全然、急がない」

「了解了解」言った途端、継優はエスターを急降下させていた。

 激しい曲芸飛行を繰り返し、擦れ違った別なエスターと接触しかけて相手を罵り、明らかに燃料を浪費しながら継優は共同ビルへと向かった。この羽でカゴ島に渡るには出発前に燃料を入れ直す必要があると青は思った。無線で風波機動隊の動向を確認し、共同第四ビルの五階の発着場に降りる事にする。継優は巧みな操縦でぴったり着地して青を降ろした。

「ありがとう。楽しかった」

「俺も、だな」継優は高感度ゴーグルを掛け直してから、片手を上げて再び飛び立った。

 見送る青は体がまだ小刻みに揺れているように感じていた。エンジンの振動が全身に残っている。

 共同ビルの発着場は、梅組ビルのものより数段小さい。頼りない裸電球がぽつりと一つ灯っているだけで、それでも明かりは全体に行き渡っていた。青はそっと歩き出した。ビルに入るつもりでいたが、ふと外壁に巨大なホチキスの針が刺さっているのを発見した。工事点検用の足場。上にも下にも、目が届く限り続いている。青の脳裏を大介の身軽な姿が横切って遠ざかった。案外、楽しそうだった。

「第四ビルの五階。今から外壁を下りる」青はペンダントの無線機に告げた。

「すぐ、向かわせます」イヤホンから素早く無機質な声が返ってきた。「今の飛行でシークレットガードが貴方を見失いました。第四ビルですね」

「地上を経由して地下駐車場に入る」

「了解」

 それから青は足場を睨んだ。発着場と足場の間は、二歩ほどの隙間があった。片手を伸ばしてもぎりぎりで届かない。

 風が生温い。幸いな事に、暗いので下は見通せない。五階というと二十メートルほどだろうか。数字にすると大した高さにも思えない。青は両手の平を合わせて湿り具合を確認し、余分な汗をジーパンに吸い取らせた。発着場の縁に足を掛け、一度だけ深呼吸する。深呼吸は一度だけで止める事が大切だ。何度も繰り返すと逆効果になる。くよくよ考えずに飛んだ。

 二つの手でしっかりと鉄の棒を掴み取る。飛ぶ必要も無かったと思えるくらいの距離だった。灰色に沈んだ壁を見ながらどんどん降りた。足場は時々横にずれたり、二メートルくらい途切れている所もあったが、特に危険もなく進む事ができた。下に降りるにつれて空気はぐんぐん湿ってきた。闇町の底は沼なのかと思われるほどだ。服が急に重たくなって、肌に張り付こうとする。

 地上が見えてきた。真っ黒に塗り潰したように見えるのは、一応アスファルトで舗装されているからだ。猫か何かの黒い影がするりと横切った。闇町の底は四大組織やハナダ出版社が分担して三日と置かずに掃除をしているが、いつでもゴミだらけだ。ここに住めば食べる物には困らないのかも知れない。

 足場は二階で終わっていた。青は窓枠と庇と雨どいを伝って地上へ下り立った。辺りはひとけが無かったが、コウモリが二匹か三匹、微かに羽音を立ててばらばらな方向へ飛び去った。とにかく真っ暗である。青は一度息を詰めて耳を澄まし、それから勘と記憶を頼りにゆっくりと歩き出した。間もなく何かを蹴った。ポケットから小型懐中電灯を取り出して照らすと、男の死体だった。


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