松組コンソメスープ (1)
1.
全てが崩れ堕ちて行く。
そうだ、あの時もこんな風に、天井は伸し掛かるように低かった。轟音と闇に感覚がすっぽりと閉ざされ、それでも私には分かっていた。何もかも、今ここで終わってしまうのだと。怖くはなかった。私はただ興奮して泣き喚いた。怖くはなかったのだ。この悪夢が終わってしまうのなら、それはそれで別にいい、全てが無に還るという事は、悲しみと同時に救いでもあるのかも知れない、私にはそれが、分かっていた。
それなのに、私だけが、終わり損ねた。
今また世界が崩れ堕ちて行く。私だけを残して。全てが始まりの無へと還って行く。私だけは還れない。私には分かっている。何もかもここで終わってしまうのに、私だけは、彷徨い続けるのだ。呪われた道。
「北泉。これがお前の『答え』か?」
隣に立つ男が呟いた。私は自分がそう問われたように感じた。これが答えか? これがお前の、答えか?
北泉はまぎれもなく死んでいた。私は自分で扉を開けた事を後悔した。彼は死んでいた。とっくに死んでいた。両の手首から血が流れ出ていた。壁に背をもたれて座り込んでいた。その首に紐が廻してあった。紐の先は天井に括り付けてあった。どうして天井に紐を括る場所があるのだろう……。
北泉は、やつれ果てていた。骨の形が見て取れるほどに。肌は乾いて皺が寄り、頭は白いものが混じって薄く、そして骨格全体が一回り小さくなっていた。体格の悪い男ではなかった。歳も若かった。ここまで変わり果てるには、かなりの期間の絶食と疲労が必要だったはずだ。何故こんな事が起こり得るのだろう。彼の体には既に老いが訪れていた。例え自害せずとも、長くはなかっただろう。
死臭。彼がついさっきまで生きていた、その証し。振り向けば、届いたかも知れないのに。また、逝かせてしまった。目の前で。また、逝かせてしまった。終われない悪夢の続き。
「業者はいつ来るの?」私は隣に立つ男を見上げた。彼もまたやつれて疲れ切っていた。やや彫りの深い顔に、疲労が刻み込まれている。もう一生取れないだろう、諦めの混じった疲れ。そして彼の一生もまた長くはないのかも知れない。私はその男の名を呼ぼうとして一瞬、彼の名を間違えそうになった。
「八羽島さん」かろうじて正しい名を探り当てた。男は私を見下ろした。その瞳の色は前に別な男の目の中に見た事があった。その男とこの男がぴったりと重なって同じに見えた。そうだ、どうせ同じなのだ。ハナダ青にとって、全ての人間は誰かの代わりでしかないのだ。八羽島も、北泉も、死んで行く度にまた新しい代わりが現われ、そして悪夢が振り出しに戻る。もう、何度繰り返したのだろう。何度繰り返せば気が済むのか。
「食事にしませんか」と私は言った。
「食べられますか」八羽島は疲れた色の中に驚きを見せた。
「初めてじゃありませんから……もう四度目六人目です。業者は呼んだんでしょう?」
「今から呼びます」
「何をぐずぐずしてるの?」これくらいの暴言は許してもらいたい。
天井が低い。天井が重い。壁も床も歪む。それを呆れるほど冷めた目で眺めている、自分。
「出ますか……」八羽島が未練がましい、名残惜しそうな目で、北泉の死体に背を向ける。これは、もう、駄目だ。終わりだ。彼も彼の後を追うだろう。これまで何度もそうだったように、今回もまたそうなるに決まっている。この目を見れば分かるのだ。八羽島は扉を開ける。私と八羽島は狭い部屋を出る。扉が奇妙な音を立てて閉まる。奇妙な。
灰色の廊下を行く。迷宮のように入り組んで私の足を惑わす、狭い廊下。ここも狭いのか。それともこれは幻影なのか? 隣を歩く男は誰だろう。果たして本当に八羽島なのだろうか。ぐらぐら揺れる視界。沈んでゆく世界。あの時と同じなのだ。私は永遠にあの大地震の中で揺さぶられているのだ。終わってしまえ、何もかも。二度と浮かんでこなければいい。二度と始まらなければいい。
「青さん」八羽島だか誰だか分からない男は、いつの間にか私の前を歩いていた。辺りは何故だか白く輝き始めていた。最早壁も床も無い。目が眩みそうだ。逆光にどす黒い背中。その背中が静かに言った。
「俺は明日、死にますから」
きっぱりと言い渡した。もう沢山だ。まだ泣ける自分が憎らしい。
「何でもするから」黒い背中に言った。辺りはいよいよ眩しい。
白。
「どうすれば思い留まってくれるの? 何故、何度やっても上手く行かないんですか?」八羽島が見えない。全てが白い。「行かないで。何故置いて行くの。私が悪いなら私を殺して下さい。せめてそう言い残して下さい、そうすれば私は少なくとも……少なくとも、自分を責める事が出来るんだから……」
一体何故なんだ。何故私だけが終われないのだろう。私の周りのものは何もかも崩れ堕ちて行くというのに。どうして苦しみしか残されていない道を辿り続けなければならないのだろう。誰がこんな事を望んだのか。誰がこんな事を頼んだのか。誰も、こんな事になるとは、思いもしなかった、予想も出来なかったと、そう言うのか?
答えて欲しい。誰か答えて欲しい。私をここに閉じ込めた人々、私を取り残して消え去った人々に、戻って来て欲しい。戻って来て答えて欲しい。私に何を望み、何を与えたつもりか。どんな素晴らしい未来を思って、私に全てを与え、全てを奪ったか。一体、どこの誰がこんな事の為に、こんな呪われた救われない悪夢の為に……、寿命を延ばしてくれと頼んだ?
「あ」
自分の悲鳴で目が覚めた。ぐっしょりと湿った布団にうずもれていた。夢だったという事に納得するまで、少し時間がかかった。それから音を立てて息を吸い、音を立てて細く長く吐いた。木の天井。輪型の蛍光灯。天井は低くない。布団を撥ね除ける。
喉の奥に杭で打ち込んである、悲鳴の続き。永遠にそこにいろ。お前の相手はもう、疲れたんだ。
障子越しにほんのりと、朝日が差し込んでくる。畳の匂いがする。あまりにも静かで、穏やかな明け方。
最悪の目覚めだった。
※ ※ ※
沸かした湯をざあっとぶちまける、男。湯気がもわっと立ち込めて、流しを埋め尽くし、男と私の間に白い帳を下ろす。男はひょいと背が高い。顔つきや動作は擦れているが、目だけは妙に優しそうで、本人はそれを気にしてよくサングラスをかけている。名を高瀬継優といった。
「朝飯?」継優は聞いた。朝飯にしたいかという意味ではなく、朝飯は何がいいか、という質問だ。
「何でもいい」私はかなりぶっきらぼうに言った。気分が悪くて、食事の事など考えたくなかった。
継優は黙って作業を続ける。
「何してるの?」私はカウンタを挟んで継優の向かいに居たので、少し身を乗り出して聞いた。
「消毒」と継優は言った。
「あ、そう。効果あるの?」
「青、おめえ元気ねえだろう」継優はちょっと目を上げて私を見た。今はサングラスをしていなかった。
継優は鍋にもう一杯湯を沸かし、その中に包丁や菜箸やへらを突っ込んだ。ご苦労な事だと思う。こんな片田舎の個人経営のラーメン屋、ろくに客も来ないんだからもっと手を抜けばいいのに。働くのが楽しいのだろうか。昨日まで闇町で不良の親玉やってた男に、そんな上等な思想があるとはとても思えないが……しかし彼は本当に楽しそうに毎日を過ごしている。
「青。返事は?」
「ああ」私はだるかった。「嫌な夢を見た」
「朝飯は?」
「コーンフレーク」
「ねえよ」
「じゃあ……」私はカウンタの上に乗る自分の細い腕を見下ろした。「じゃあ、メロン」
「勝手に言ってろ」
継優は別な作業に取り掛かったようで、こちらに背を向けてしまった。こいつ、妬いてるかも知れないな。私は何かと言えばメロンメロンとほざいてる馬鹿な少年の横顔を想った。春に会った時もメロンを食べていた。梅雨の頃会った時もメロンを食べていた。あれからまだ二ヶ月は経っていない。夢のようだ。光のようだ。何なのだろう、この明るさは。彼が私にとってどれほどの存在だと言うのだろう。この希望はどこから来るのだろう。彼を想う時、全てが反転する。影は光に、光は影に。儚さが永遠に、永遠が一瞬に。
「あんた本当に大丈夫か」
気付くと、継優がカウンタを回り込んで私の隣に来ている。
「さっぱり、大丈夫でない」と私は言った。
「なんだ? 熱か? 頭痛か? 生理?」
「最後のは余計だよ」
「心配してんだよ」
そうか。それはありがたい事だ。ありがた過ぎて気が重い。
「朝食は?」
「それ、三度目」少し食欲が出てきたかも知れない。「目玉焼きにしておいて」
「目玉焼きくらい自分で作れよ」
「嫌だ」
「怠け者め」タイマーが鳴ったので、継優は厨房へ戻って行く。私は溜め息をついてその背中を見送った。
私には小さい頃の記憶があまりない。と言うと嘘になる。思い出そうとすれば、それはいくらでも、自分でも驚くほど些細な事まで次々と思い出す事ができるのだ。決してその量は人より少なくないし、取り立てて思い出すのに苦痛を伴うような記憶も無い……少なくとも、まだ子供だった頃の記憶に限っては。子供だった頃、私は幸せだった。私の日常は無邪気で、みずみずしい驚きと不思議に満ちていた。小さなつまらない事で本気で腹を立て、泣いたり笑ったりと繰り返していた。そのありふれた記憶は、確かなものであり、疑いの余地など何処にも無い。けれども私は、それが同じ『私』の記憶だという事が、信じられないのだ。信じられないと言うよりも納得できない、腑に落ちないと言った方が正しいだろうか。
思い出を手繰るたびに、私は不安になる。ありありと思い出される、確かな記憶の数々が、全て、誰か違う人間の物語に思えるのだ。思い出の中の自分と、現在の自分との間に、繋がりを見い出す事ができない。まるで私は、変わってしまったかのようだ。どこかの時点で、違う自分に、入れ替わってしまったかのようだ。記憶とこの体だけを引き継いで。
あまりにも長い年月が経ってしまった。
その間ずっと眠っていた、この体。大地殻変動が起きた時、私は十歳だった。時代が風波八十七年を迎えた今現在、私はあの大地震を生身で体験した数少ない人間の中の一人だ。そして、あの当時とほぼ同じ外見年齢を保ちながら生き続けている、一握りの人間のうちの、一人だ。私は震災直後から七十年間を眠って過ごした。私の子供時代は、十歳までと感じる。目覚めてからの私は、どこかが変わってしまった。何かを何処かに、置き去りにしてきた。でなければ、多分、寝過ごしたのだろう……。
長過ぎる眠りから起こされ、寝起きのまどろみも束の間、私はすぐに保護者を失った。失ったと言うより、放り出されたのだ。私を保護していたのは時の風波政府だった。しかし日本政府からの強引な干渉と仲間の一人が起こした問題行動、それに風波政府の政権交代が重なり、私と私の同志達は風波政府の庇護下から突如として履き出された。行く先は一つだった。風波の手も日本の手も届かない、底無しの無法地帯、闇町。
この呪われた場所で実に十五年あまりを過ごした。その間に出会った最初で最後の友人が、この高瀬継優だった。
彼は私の事を何一つ知らない。短い付き合いではないので、さすがに私の外見上の成長が異様に遅い事には気付いているはずだが、その事についても、一切触れてはこない。彼が知っている事は、私が八十三年から八十六年にかけて闇町で最大の組織『ハナダ出版社』の社長を務めていた事と、その座を去年の秋に突然蹴って、夜逃げした事(因みにこの夜逃げを提案したのは継優自身だ)。そして今、こうして彼と二人で、日本の片隅でラーメン屋をやりながらも、彼に内緒でいまだに闇町の部下と連絡を取り合っている事……知られているからには内緒とも言えないのだが。
気が重い。目覚めてからの私に、これほど良くしてくれた友人は、彼の他に無い。感謝している、このありがたみは重々承知している、なのに多分私は、彼の無償の愛情に裏切りしか返せない。この『駆け落ち』は、彼が私を苦痛の尽きない運命から解放する為に取った最後の手段だったのに、私は当然のようにそれを無下にした。彼との約束を破って、闇町との関係を絶たなかった。継優はそれに気付いている。なのにまだ、楽しそうな振りをしている。私はそれが振りだと知っている。私が知っているという事を継優はまた知っている。私達は無言の誓約の中でそれぞれの役割を演じ、ささやかなママゴトをしているだけだ。私達の間に横たわる唯一の違いは、私がこのゴッコ遊びの終わる時を知っているのに対して、継優はこれがいつまで続くのか知らずにいるという事だ。それは残酷な違いだと思う。でも私にも継優にもどうする事もできないのだ。
「青。その葬式が来たような顔はやめてくれ。飯がまずくなる」
継優はいつの間に作ったのか、私の目の前に目玉焼きの乗った皿を突き付けた。白身の端が焼けてプツプツと音を立てている。
「悪かったね」私はかわいいとは言えない口調で言った。でも本当に悪かったと思っているのだ。
「べっつにいいけどさ」継優は大袈裟に息を吐いて言った。「なぁんかお前って、何も変わった事が無い平和な日が続くとだるくなってきてさ、逆に事件とかなんとか起こって巻き込まれたりすると妙に生き生きしてくるように、見えるんだよな」
意味深い発言だった。ここに引っ越してきてから、このラーメン屋の近辺で事件とかなんとかと呼べるようなものが起こった事は無い。遠まわしに、お前はここにいるより闇町に帰ったほうが生き生きするんだろう、と言いたいのだろうか。彼にしては珍しく際どいところに触れている。気取られたか。虫の報せか。ママゴトの終焉が近い事を感じているのだ。まずい。
引き止められたりしたら、振り切れない。恐らく彼はそんな無様な真似はしないだろうが。しかしそれに近いような事を、彼らしいひねった方法で、やらないとは限らない。そんな事をされたらもう振り切れない。どうしても気取られないうちに消え去らねば。
「黙り込んだところを見ると、図星か」
「あんたの、おめでたい頭の中身について心配しているだけだよ」私は口からでまかせに言った。「事件に巻き込まれて生き生き? 小学生じゃあるまいし。とても二十二歳のラーメン屋店主の発言とは思えないね。せめて中学生からやり直すといい」
「まあ、そういやろくに中学も通ってないしな」と継優は引き下がって論点をずらした。この男は頭は悪くないと思う。ぐれたりしないで真面目に学校へ行っていれば、もう少しマシな職業に就けただろう。
「十四で闇町デビューだっけ?」私は彼がずらした話題をさらに引っ張った。「破格の若さだ。年上の格下の不良さん達から随分と妬みを買ったんだろうね」
「そうでもねえよ」継優は少し懐かしそうに言った。「そこで妬む根性のある奴は、自分から闇町に入って行くもんだ。格下ってのは格上になる度胸がねえから格下なんだよ。望んでそのステージにいるって事だ」
「そうかな? 妬みってのはそういう自分の不甲斐なさを棚上げしてこそ成立するものだと思うけど……」
「誰もがあんたのような合理主義者じゃねえんだよ」
「いや、いま合理的な意見を述べてるのは俺じゃなくて兄貴だと思う」
「理屈じゃねえんだよ、あの世界は」継優はさっぱりとした口調で言った。「気に食わなければ行動で示せ。欲しければ奪い取れ。勝てば英雄で、負ければゴミだ。こういうのは、理屈とは違う。本能ってもんだ。動物と同じさ」
そうだろうか。確かに行動原理は動物と同じかも知れないが、そこに誇りを見い出すからこその人間ではないか。少なくとも私は、そういう動物みたいな生き方をしていた継優に、救われたのだから。
「本能と言えば……」沈黙が流れないように、私はさらに話題をずらそうとした。しかし継優が「青」と呼んで遮った。
「兄貴、今朝はずいぶん俺の名前を呼びたがるね」
「あんた、明日さ」継優は奇妙に何気ない口調で言った。私はどきりとしたが、顔には出さなかった。何を言われても、とぼけ切ろう。それくらいの演技は、できない訳じゃない。
「誕生日だったよな」と継優は続けた。
「は?」突拍子も無い、予想外の言葉だったので、私は演技ではなく本当に呆れた。「気でも狂ったの? 私の誕生日は三月ですけど、お忘れになりました?」
「いや、三月は誕生月だろ」継優はかなり無茶な事を言い出した。「つまり、普通、一人の人間は一年に十二回、誕生日があるわけだ。二十九日以降の人は除いて。で、普段みんなが誕生日と呼んでいるものは、本当は誕生月日だよな」
「散歩に行ってくる」私は皿を重ねて立ち上がった。
「おい、話は終わってねえ」継優はカウンタを叩いた。「折角の誕生日なんだから、店休んでドライブ行こうぜ」
「何がドライブですか。軽トラしか持ってないくせに」
しかも継優は異常な色彩感覚の持ち主で、「白いトラックは嫌だ、俺の好きな色に塗り替える」と言って塗った色が蛍光ドピンクだ。それを初めて見せられた時は、眼科へ行って色盲の検査を受けるように本気で勧めた。
「おーい、青。青っ」
「却下です。明日も休まず働きなさい」私は店の引き戸をカラカラと開けて外へ出た。赤い暖簾をくぐると眩しい日の光に気後れしそうになった。けれども私は既にポケットの中で携帯電話のボタンを押し終わっていた。後ろ手に戸を閉めて歩き出す。回線は裏回線、闇町関係者専用の周波数で、非常に面倒くさいセキュリティがかかっている。私は静かな夏の朝を迎える住宅街を歩いて行く。電話には取り次ぎの者が出て、八羽島を呼ぶ。私は少しの間真上の空を見上げた。