必殺アボカドサンド (4)
4.
赤波書房の事務所は空っぽになっていた。会議机とパイプ椅子が運び出され、すっきりと広くなっている。宮凪玲磨は予告通りゼリーカップの一つまで残さず売り払ったようで、食器の替わりになる物は何一つ無かった。私は流しに屈んで体を捻り、蛇口から出る水の柱を口で受け止めて飲んだ。心行くまで、それ以上飲めなくなるまで。三十秒以上は飲み続けたと思う。Tシャツの前がびしょびしょになった。大介は私より上品な奴で、両手で水を受け止めて飲む。それでも、その後でシンクに頭を突っ込んでざあざあ水を浴びたので、濡れ具合は私と同じくらいになった。
「第一ステージは、終了かな」脇で待っていた漁さんが私と大介に一枚ずつタオルをくれた。
「下層に話が伝わったかどうか」大介はぼそぼそ言った。彼は両肘に大きな擦り傷を作っていた。階段から落ちたと言うが、不注意で落ちたわけではないだろう。鮮やかな赤い血が滲んでいて、タオルをぽつぽつと染めた。「時間を食ったわりに、接触できた人数が少ない」
「貴方が心配しなくていいんです」私は遮って言った。「商店街とはネットワークの仕組みが全然違う。これだけ接触できれば充分」
「僭越でした」大介はすぐに謝った。これには漁さんが吹き出した。
「その怪我、大丈夫?」私は聞いた。
「大丈夫」
「包帯巻いたら?」
「邪魔になる」
「私の命令だって言ったら?」
大介は無表情で私を見た。「却下」
「おい」
「ハナダの元社長なんぞに誰が従うか」
「なんぞと言ったな、この野郎は」
「赤波書房の標語なんだ」大介は微かに面白そうな目で言った。「『頭は下げても話は聞くな』と」
「四字熟語で言うと、慇懃無礼だね」
「面従腹背だ」
軽口を叩いているだけだったのに、漁さんは気を利かせて奥に引っ込んでしまった。私と大介は会議室のような食堂(の跡)に二人きりで残された。困ってしまった。
赤波書房のケチは徹底しているらしく、既に冷房は切られて久しかった。水を飲めるのと座って休めるのはありがたいが、室温と湿度に関してはありがたみの無い事務所だった。私が壁に背を預けて床に座ると、大介は「そんな汚い所に」というような事を言って少し顔をしかめた。しかし椅子もソファも無いんだから仕方ない。社員の個室にそれぞれ入っていた家具だって、全部売り払ってしまったのだろう。つくづく身軽な一家である。
私が座り込んで一息ついている間、大介はシンクに持たれて明後日の方を向いていた。この人は暗闇の中でないと積極的になれないのかも知れない。彼の横顔に、疲れは見られなかった。肘の傷から流れ出した血が指まで伝って、小指の先から床に落ちている。この街で、この状況においては大した傷とも言えないだろう。でも、普通に痛そうだった。身軽な彼が階段から突き落とされたくらいでどうしてこういう怪我をするのか、私は知っていた。彼は自分の両手を、特にその繊細な十本の指を死ぬほど大事にしているのだ。笛を吹く為だろうか。大介はどんな危険な転び方をしても、絶対に手をつかない。肘や背中で受ける。それで、さもない転倒でも大袈裟な怪我をするのだった。
「背中、打ってない?」私は聞いた。
大介は黙ってこちらに顔を向けた。素朴な黒い瞳が二つとも私を見ていた。
「背中打たなかった?」私は自分の声がうわずるかと思った。
「少し打った。大丈夫」
「できるだけ、怪我しないで」
「治らないような怪我はしない」大介は穏やかに言った。「青を困らせたりしない。心配もさせない。そのつもり」
「死なないでね……死ぬ時は私を側にいさせて。一人で逝かないで欲しい」
「どうかしたのか?」大介はすぐさま私の目の前までやって来て、身をかがめた。「弱気じゃないか」
「うん、弱気な振りしたの」私は大介の胸倉を捕まえた。「立って側に行くのが面倒だったから」
「あ、そう……」
よこしまな事に気の利く大介は、右手を壁について体勢を取りながら、素早く私に顔を近付けた。そんな所を丁度入って来た赤波柾社長に見られてしまった。私は自分がまた得意の馬鹿をやったと分かった。抜け落ちと言おうか不注意と言おうか、私は一体何なんだろう。
「出発、いつにします?」私は柾さんがするだろう質問を先回りした。
「いつでもいいですよ」柾さんは平和な口調だった。「ハナダさんの都合に合わせます」
「今、何時ですか?」
「十六時三十七分です」
「十七時に出発しましょう。お願いできますか?」
「こちらはいつでも準備が整ってます」柾さんはそこで私を見下ろしてにっこりした。柾さんはいつもの茜色の浴衣を羽織っていた。帯は無い。よれよれで色の抜け落ちたジーパンに、真っ黒な袖無しのシャツを着て、その上に浴衣を羽織っている。
大介はちょっとだけ私から離れて、床に膝をついたまま父親を睨み上げていた。
「その怪我大丈夫か」柾さんは大介を見て言った。
「ほっとけ」大介はつまらなそうに言った。
「ハナダさんを泣かせるなよ」
「お前、切田霞に何と返事した?」
「そんなこと気になるんか?」柾さんはわざとっぽく不思議そうに言った。
「タイロスの息子に会ったか?」大介は突然聞いた。
「え?」柾さんの笑顔に影が差した。その素早い変化は、見逃しようもなく明白なものだった。
「タイロスの息子が昨日からうろうろしとった。狙いはお前かと思ったが」
「そうか……いや、会っとらんな」
「背中に気を付けとけ」
「彼になら殺されてもいい」柾さんは目を細めてそっぽを向いた。
大介は杖も使わず、弾けるように立ち上がった。「お前っ」
「仕方ないだろう。止めてくれるなよ」
「馬鹿っ」大介は肩を震わせた。「もう終わったんだ……時効だ」
「時効なんか無い……忘れる事ができないんだから。俺も、そいつも」柾さんは背を向けて、廊下に続く扉の方へ歩いて行く。大介は石になったようにじっと睨み付けて、しかしもう言葉は出て来なかった。
私は床に手をつき、弾みを付けて立ち上がった。
「柾さん」
「はい」柾さんは扉を開けた所で振り向いた。
「貴方は、貴方だけのものじゃない。分かっていらっしゃるはずです。貴方はもう、一人で勝手に死ぬことなんかできないんですよ。いろいろな人と、しっかり繋がってるじゃないですか」
柾さんは何とも答えないで、哀しそうに笑った。
「死ぬなら、許可を取りなさい。四大組織の棟梁と総長、それに私とハナダの現社長、赤波書房の社員全員、ご両親とご兄弟、全員の許可を取ること。ちなみに、私は許可しませんよ」
「俺も許可しない」大介が言った。
「残念ながら」柾さんはもう一度笑った。「俺も、許可しない」
それから廊下に入って行った。彼の機智と機転には参ってしまう。回転の速い人だ。
大介はいらついた様子で溜め息をついた。
それからちらりと私を振り返り、「俺の周りにはなんで死にたそうな人間しか居らんのかな」と、ぼやいた。
「すみませんねえ」
「いい加減、疲れてきた」
「申し訳ない」
「そうやって毎日死ぬ事ばかり考えて、楽しいのか?」
「柾さんの分まで私に怒らなくたって……」
「怒ってるんじゃない、分からないんだ」大介は再びシンクに持たれた。彼の横顔に初めて疲労が浮かんだ。
私は彼の隣に行った。
「甘えているのです」大介の両腕を交互に取って、シンクの縁に掛かっていたタオルで肘から流れた血を拭いてやった。傷は乾き始めていた。「貴方に甘えているのですよ、柾さんも」
「巻いて貰えないか」大介は空いている手でポケットから包帯を一巻き取り出して言った。
「大丈夫だよ。乾かしてた方がいい」
「また転ぶと痛いから」
大介は傷口を水道の水でざっと洗い流して私に腕を差し出した。包帯の巻き方なら彼の方が絶対うまいに決まっていた。彼はアト外科赤波書房に四人いる『執刀医』のうちの一人だ。本格的な外科手術の技を持っている。自分で自分の腕の手当てがしにくいという事も考えられない、何故なら彼は両利きだからだ。
「直に巻いていいの?」
「ああ」
「私が巻いていいの?」
「ああ」
「僭越ながら申し上げますが、この場合ご自分で巻かれた方が安全かと」しかし言いながら私は巻き始めていた。「私達、ピクニックしてるわけじゃないのですよ」
「そうか。知らなかった」
「後でご自分で巻き直すことをお勧めします。包帯って最後どういう風に終わらせればいいのかな」
「先を二つに裂く」
「きつくない? 緩くない?」
「大丈夫。もう少しきつくてもいい。それからな、お前、包帯はそうやって握り締めるものじゃない。手垢を付けないように気を付けるんだ、特に患部に直接触れる部分は清潔に」
「やっぱさあ、自分でやれば……?」
大介にぶつくさ言われながら包帯を巻き終え、それから一息ついてぼやっとしていると午後五時になった。
漁さんがまた出て来た。細い体にぴったり合うシャツとズボンを身に着け、その上に黒い厳ついベストを羽織っている。羽織るというより、仕方なさそうに肩に掛けているという様子だった。ベストに武器を収めているのだ。ショートの髪は義妹の切田霞とお揃いだったが、色は霞の破天荒な水色ではなく落ち着いた黒だった。それに霞はくせ毛で飛び跳ねているが、彼女は真っ直ぐで質素な髪だ。だいぶ印象が違う。
「出発する?」漁さんは私に確認してから廊下を振り返り、華奢な体に似合わない太い声で「おい組長、出発!」と柾さんを呼んだ。
「はいはい」柾さんが出て来た。洋服の上に浴衣を突っ掛けた姿は先程と変わらず。彼は今夜の紛争をこのファッションで乗り切るつもりのようだった。「じゃ、行きますか」
「あれ、これだけですか?」他の連中が出て来ないので私は拍子抜けした。
「他七人は、先に行かせました」柾さんは戸棚や流しの下を開けて最後の点検をしながら言った。「そろそろ自分の持ち場に収まった頃だと思います」
すると、他の皆が次の準備をして待機している間、私は呑気に休んでいたという事だ。
「準備ができてるってそういう事だったんですか。申し訳ない、私はてっきり――」
「気にしないよ。出発」漁さんが白い歯を見せて笑った。「持ちつ持たれつ、でしょう?」
共同ビルから出るまでは、柾さんと漁さんと大介と私、四人で前後しながら同じ道を行った。架橋を二つ渡って竹組ビルに入った所で、まず漁さんが私達と別れて別な道に逸れた。続いて柾さんとも別れ、最後に大介とも別れて、私は一人で灰色の階段を上った。十五階、十六階、十七階。中層商店街の喧騒が途絶え、張りつめた静寂が私の足音を包む。十八階まで一息に上がり、息切れと軽い眩暈を感じながら、立ち止まらずに進んだ。簡素な扉が一定の間隔で並ぶ通路は、しんとして私を睨んでいる。白けた素っ気無さで、しかしまた微かな敵意をはらんで、全てが黙りこくっていた。
通路を抜けると、エレベータの三つ並ぶホールに出た。私は丁度来ていた中央のエレベータに近付いた。両腕に包帯を巻いた大介が「開」ボタンを押して待ち構えていた。彼の他に乗客は無い。ここまでは順調のようだ。
私が乗り込んでも大介は表情を変えず、口もきかなかった。緊張しているのが分かった。浮かれたピクニックはついに終わってしまったようだ。ここから先、私はハナダの創始者で、大介は赤波書房の社長補佐。懐かしいビジネスライクな関係に戻ったのだ。上への加速度がずんと身に染みた。
何事もなく二十五階まで行く事ができた。冷房が効き過ぎて冷え冷えとしたその階に、私と大介は踏み入れた。エレベータの戸は私達の背中で閉まり、役目は終わったとばかり階下へ戻って行く。
竹島ミハルは正装してエレベータの前で待っていた。紋付きに羽織袴で出迎えたのだ。いやはや恐れ入った。
「オガサの者がハナダ様に手を出したとか」竹組の棟梁は挨拶もそこそこに切り出した。
「ええ」私は彼の服装に気圧されないよう気を張り直しながら、慎重に応えた。
「まことに謝罪の言葉も無い。こちらの不行き届きでございます」竹島ミハルは日本人種らしいちんけな体格の男だったが、いきなり床に両膝をつき両手をついたものだから、ますます小さくなってしまった。
どこまで本気でやってるんだか。
「どうぞお手を上げて下さい」私は仕方なしに言った。「こちらこそ、このような略装で失礼いたします」略装も略装、こちら二人はジーパンにTシャツ姿だ。さすがに場違い過ぎて恥ずかしい。こういう婉曲な嫌がらせは竹組のお家芸だった。このぶんだと座敷に通されてジーパンで正座させられる事になりそうだ。足が痺れて立てなくなったらきっと末代までの恥。ハナダ青、竹組棟梁との会見後、去り際にずっこける。私が気にしなくても向こうは子々孫々語り伝えて笑い草にするに違いない。嫌な一族だ。
竹組棟梁に案内されて奥へ進む。大介は二歩ほど間を置いて付いて来る。日本庭園のような雰囲気を装った、凝った造りの内装だった。黒い石畳の通路が気まぐれにうねりながら続き、その両脇に部屋がぽつりぽつりと並ぶ。襖や障子で閉ざされ、竹の縁側を備えているものもある。空いた場所は小さめの岩で囲われ、玉砂利が敷かれるとともに盆栽のような植え込みや、石燈篭で飾られていた。
石畳が途切れる所に木の小橋があり、その下を清水が流れていた。上品に抑えられた照明の下で、水は暗く煌めいた。冷房の涼しさも相まって、夜更けの庭園を歩いているような錯覚に陥る。
橋を渡り終えて間もなく、客室に辿り着いた。竹島ミハルは形式的に大介にも席を勧めたが、私は断って彼を廊下に待たせた。ともかく、そういう姿勢を装った。大介は直立不動で部屋の外に留まり、私だけが座敷に通された。足が棒のようになるのを覚悟していたが、竹島さんは早々に「どうぞ足を崩して」と言ってくれた。彼に恩を売っておいて良かった。情けは自分の為だというのは本当だった。
私と竹島はサシで向かい合って少しばかりお喋りをした。内容は世間話の域を出なかった。一度だけ会話が途切れたのは、彼に指輪を見せた時だった。彼がどうしても見たいと言うので、私はそれを左の中指から抜いて彼の前に置いたのだ。
「触ってもよろしいですか」
「なるべく、触らないで下さい」私は思わず言った。
「触ると減るものですか?」竹島は笑いを含んだ目で私を見た。
「私にとっては、そのような意味のある物ですので」
「そうなんですか……ああ、ああ」竹島はリングの内側に刻んである文字に目を留めて、納得したような声をあげた。少しの間、客間に沈黙が流れ、それから竹島は目を上げた。
「明日、なんですね」竹島はこちらの気が抜けるような柔和な笑顔を私に向けた。
「ええ、まあ」私はリングを取って自分の指に戻した。
「ハナダ様にとっては、風波との闘いなんて片手間なんでしょう」
「そのようなつもりはありません。……余所見しがちになってしまうのは、確かですが」
「父が、もうすぐ帰るのですが」竹島は急に話題を変えた。「会って頂けますか。それとも、お忙しいでしょうか」
「いえ、是非お会いしたいと思います」帰るなんて言って、どうせ出掛けてもいないくせにと思いながら私は答えた。四大組織の中で、私に事実上の権力を奪われた事を一番根に持っているのが竹組の総長だった。私の方から会見を断って欲しかったのだろう。しかし私がここで「急ぎますので」なんて断ったら、それこそ暗黙のルール違反だ。こっちだって断りたくても断れない立場というものがある。
総長は間もなく現れた。これまた紋付き羽織袴の老人を相手に、私は型に沿った挨拶を心がけた。老人はこの世の苦悩と不快を一所に集めたような顔をしていた。私に会うからと言って特にそういう顔を選んでいるわけではなく、元の顔がこれなのだ。阿呆面の息子は母親似なのだろう。でなければ育ってきた環境が極端に違うのだ。苦悩の顔をしたこの父親は、一人息子をこれ以上無いほど可愛がり、純粋培養した。その見境ない親馬鹿ぶりは、ミハル少年が元々持って生まれた悪い性質を健やかに伸ばす事となったようだ。竹島ミハルは呆れるほどの甘ちゃんであり、神経質で完璧主義で、プライドが高い割に志は低く、自分の思い通りにならない事からは必ず目を背けてやり過ごすという人間だった。それが全て父親の教育の所為とは言えないが、責任の一端はあるだろう。
「ハナダさん、貴方は、年寄りのたわ言なぞ耳に入れたくないかも知れないが」と、総長は言った。
「いいえ、そのような事はありません」
「そうか? なら、この際、言っておくが……」老人は重々しく、言葉を区切った。「松は信用ならない。松は風波と繋がっている。最終段階、つまり今、たった今、あそことは手を切るべき……切り離すべきだと私は思っておる」
「松組さんの動向は私も気にかけている所です」
「松は、こんな言い方は悪いかも知れないが、松は捨て子の血筋だ。分かるかな?」
「ええ」何度も言われてきた事だ。松組の創始者は、孤児院で育った。
「所詮、これは差別ではない……事実なのだ、ハナダさん。松と我々とは相容れない。根っこの所で、違っているのだから。松が創始以来ずっと力を注いできたのは、貧しい子供達の教育。教育を受けられなかった失業者の救済。それはそれでいい、それはそれで立派な仕事だ。だが我々とは相容れない。松は、闇町の独立より子供達の安全を取る。松は慈善事業の為ならば裏切りも破産も辞さないつもりだ。風波は恐らく孤児院の子供達の扱いについて改善をほのめかして、松組を操ろうとしている。要するに、松組の孤児院で教育を受けた子供達を、シャバの風波社会に受け入れるという体制。そういう体制をこれから強化するか、逆になくしてしまうか、それは風波の気分次第という事。松は子供達を人質に取られたも同然の状態だ」
「考慮に入れておきます」
「手を切れ、と私は申し上げている。もちろん、聞く聞かないは貴方の勝手だが……では、失礼」総長は心のこもらない挨拶をして客間から下がった。
私と竹島ミハルは世間話を再開した。無駄な時間が過ぎて行った。私が会話を切り上げようとしているのを嗅ぎ取って、竹島は逆に会話を引き伸ばし始めた。しつこいオッサンだ。私が本当に帰ろうと思ったら誰も引き止める事などできない、それはとうの昔から分かり切った事なのに。
私は頃合を見てお喋りを打ち切り、立ち上がった。竹島も仕方なさそうに立ち上がり、しかしこれが最後とばかり、はっきりと誘った。
「ハナダ様、うちの船に乗りませんか。最高の待遇をさせて頂きます」
「私は他に乗りたい船がありますから」
「ハナダ、青様……いや、水無絵馬さん」竹島は僅かに、語調を強めて言った。「貴方のその頭脳は、市井に埋もれるには勿体無い。きちんとした教育を受けたいとは思わないのですか。貴方の頭脳なら、一年か二年で大学に……どんな大学の、どんな学部にも」
「買い被りです」私は遮った。
「入れるはずです。海外の大学でも構わない。貴方という人材の育成の為なら、我々はいくらでも投資する準備がある」
「私は事実上、十歳までしか教育を受けていません」私は内心、揺れていた。こんな提案をされるとは思ってもみなかった。私を引き込む為に四大組織が様々な餌を用意してくる事は予想していたが、その餌がこんなものだとは。
「絵馬さん、貴方は今、混乱している。他の事で頭が一杯になっている。無理もない事。けれども、考えておいて欲しいのです。貴方にはこの先の人生があるのでしょう。貴方は他の人間が持たないものを持って生まれた。その資質は生かすべきです。伸ばすべきです。それでなくとも貴方のような人間にとって、知識の大成はそれ自体が有意義なものではないでしょうか?」
「私は十歳までしか教育を受けていないのです」私は繰り返した。「今さら体系的な教育を受け直したいとは思いません。時間が立ち過ぎてしまいましたし、知りたい事があれば本を探して読む程度で満足しています。竹島様がお考えのような高い志のようなものとは全く無縁なのです」
「この話は保留にしておきますよ。いつでも、気が変わった時にはご連絡下さい」
「ええ、覚えておきましょう」
部屋から出た時、私は努めて大介の事を考えないように気を付けた。ここで彼に甘えたら、もう終わりだという気がした。私は自分を保てなくなってしまうだろう。非常時だというのに。むしろ非常時だからこそ、こういう事が起きるのだろうけども。大学か。体系的な教育。考えなかったわけじゃない。だが、自分の中では結論を出し、決着を付けたつもりだった。未練は持たないつもりだった。私達は社会から弾き出された。結局、人間とは認められなかったのだ。長い寿命、あるいは奇形、あるいはその他の何かの為に。だから妖怪。それでもいいだろう。妖自連か。そんなのも悪くはない。所詮この社会に居場所の無い人間が、体系的な教育を受け、その能力を評価される事に何の意味があるだろう。世の中の片隅でひっそりと生きて死んで行く以外に道が無いのなら、私は自分にどんな知識も能力も望みたくはない。何も知らず、何もせず、何の力も持たずに暮らしていきたい。
なのにこうして改めて他人から問われると、途端に気持ちが揺れだしている。
一瞬の間、全てを断ち切って竹組の養子になろうかと考えていた。そう考えさせるだけのものが、その提案にはあった。竹組のくせに生意気な事をしてくれる。駄目だ、しっかりしろ、高瀬青。竹組は私という人材の育成なんかに興味は無い。私を仲間に引き込んで、力を得たいだけなのだ。
庭園風の廊下を大介を連れて戻ろうとすると、竹島は不意に私の腕を掴んで引き戻した。
「ハナダ様、シークレットガードは?」彼は囁くように聞いた。
「このビル内には居ます」
「非常階段をお使い下さい。エレベータは、封鎖された可能性があります」
「どこに?」
「松組です、恐らくは」
はいはい、左様でございますか。
「二十五階より非常階段から出ます」私は首に下げた無線機に向かって言った。
「竹ビルの非常階段は二つあります」イヤホンから無機質な調子で返ってきた。
「階段が二つあるのですか?」私は竹島を見た。
「ここから使えるのは、西側です」竹島は私を促して歩き出した。
「西側の階段から。架橋まで下ります」私は無線機に告げた。
「竹ビル二十五階より二十階へ、西側の非常階段より、了解しました」
玉砂利の間に頭を覗かせる飛び石を踏んで、竹島ミハルは私達を客間の裏手へ案内した。奥まった所に鉄扉があって、緑色で非常口と書かれたぺかぺかの蛍光灯が、それを照らしていた。その周辺だけは玉砂利も払われ、取って付けたように文明の面影が現れていた。
「今、お開けいたします」時代がかった服を着た竹島ミハルが銀色のドアノブに手を掛ける様は、ちょっと滑稽だった。
「待って下さい」突然、鋭く大介が言った。彼はいつの間にか私のすぐ後ろに追い付いていた。
竹島ミハルは犬に吠えかけられたような顔で振り返り、私を見た。
「もう一つの非常口を」大介は私の耳元に低く囁いた。
「すみません、別な非常階段を使わせて貰いますよ」私は大介の言いたい事を察して素早く言葉を整えた。「もう一つは東側ですか?」
「南です。そちらは使えません」竹島は迷惑そうに言った。
「何故ですか?」
「壊れているので」
「急いだ方がいい」大介がまた囁く。
「すみません、お願いですから、南側の非常口を教えて下さい」
「……いいでしょう」竹島は仏頂面で、私達の脇をすり抜けて先に立った。が、二歩も行かないうちにばっと振り返り、両腕を突き出した。
二つの腕の先に一丁の拳銃があった。
ほぼ同時に大介は私の前に立って懐に手を入れた。
「ごたごた言わないで頂きたい。そこから出たまえ」竹島ミハルは見せ付けるような動作で安全装置を外し、撃鉄を起こそうとした。
大介の方が早かった。
彼の抜いた武器は短刀だった。右腕を振り上げ、左腕を下げて反動を取り、玉砂利をバシンと踏み付けて右足を踏み出した。切っ先が相手の顔をかすめた。
竹島ミハルは声を上げてのけ反った。大介はすかさずその足を払って踏み倒した。私と大介は彼を置き去りにして走り出した。
「南ってどっち?」私は大介の背中に聞いた。
「黙って走れ」大介は迷いなく方向を定めて、玉砂利も石畳も無視して庭園を突っ切った。石燈篭に手をかけ、小岩を飛び越え、清水の流れる水路も飛び越える。知らない部屋の縁側を足蹴にして、先程と同じような場違いな非常口に辿り着いた。
大介が開けた。
涼しげな夜の日本庭園から、蒸したような夕方の非常階段へ。
私は音を立てないよう、ゆっくりと扉を閉めた。
空はまだ明るかった。見下ろす地上は暗かった。大介は黙って下り始めた。
私は、彼に並んだ。
「大学に行ったらいいかなあ」独り言のように口にした。部屋のすぐ外に居た大介は、私と竹組棟梁との会話を全部聞いていたはずだ。
大介は少しの間考えてから、「分からない」と言った。
「自分が何処に居るのか分からないよ。そういう気持ちって分かる?」
「少しは」と大介は言った。
「俺はね……」私は何か喋っていたかった。しかし大介は、振り向いて私を押し退け、階段を三段引き返した。
私達の出て来た非常口が開こうとしていた。
大介の手元で、耳が痛くなるような銃声が四つ続いた。銃声と言ってもこれは競技用のピストルと同じで、音しか鳴らないやつだ。非常口は怯んでバンと閉じた。私と大介は階段の続きを駆け降りる。下へ下へ、薄暗い地上の方へ。黒い鉄の階段はガンガンと鳴った。大介はもう杖を使わず、手すりや柱を掴んだ腕で体のバランスを取りながら走る。私も走る。次々と段を飛び下りて、飛び下りて、何段飛ばしても足は痛まなかった。宙を飛んでいるようだ。
階段の手すり越しに、視界一面は林立するビル。私達の灰色の視界を、エスターが横切る。耳につくエンジン音と排気、鮮やかなボディに銀色の羽。その羽に黒々とした帯が二本。エスターハーフだ。赤、緑、青、三機が順に羽を翻し、向こうのビルとビルの隙間に消えて行った。
隣の松組ビルへ渡る架橋が見えてきた。二十階だ。追っ手の足音はまだ二階か三階上だ。声は聞こえない。黙って追って来る、こちらも黙って逃げる。折り返し折り返し、何処までも続く階段に目が回りそうになる。「南階段を下りてる」私は無線機に告げた。「これから松ビルに渡る」
「そちらは松組に押さえられています」イヤホンから忠告された。「避けるのであれば、もう少し下りてエスターに」
「下りない。二十階から一度竹ビルに入る」
「松組に正面から突っ込む事になります」
「彼の思いやりに期待しましょう」私は次の瞬間、言った事を実行していた。二十階の非常出口にまず大介が飛び付いて開け、私も屋内に転がり込んだ。ズン、と扉は閉まった。
人集りで壁ができていた。
充分に武装した集団だった。真っ先に大介が四人がかりで取り押さえられた。大介は暴れなかった、むしろ、暴れる暇も無かったようだ。私も気付いた時には両腕を後ろで押さえられていた。私を押さえた男がかなり手加減していたので、最初気付かなかったのだ。
「彼に手荒にしないで」私はぎりぎりに押さえられている大介を見やって言った。「怪我してるんです」
「しかし青さん、こちらも命が惜しいのでね」男は私を見下ろし、色黒の顔にほがらかな笑顔を見せた。私は呆れてしまった。私を取り押さえたのは有松勇気本人だったのだ。
「あなた、暇な方ですね……」
「どういたしまして、お嬢さん」松組の棟梁は陽気に答え、私を引っ立てて歩き出した。随分なお出迎えだ。竹組が良かったとは思わないが、こっちの組にはもう少し礼儀を学んで欲しい。このガサツな棟梁は、決して悪い人じゃないんだが、いかんせん何をするにも悪ふざけが過ぎるから困る。確かにこの手のイベント向きの性格ではあるが。できるだけ暴走しないで欲しいところだ。
腕を封じられたままスライド・エレベータに乗った。上下ではなく、架橋の内部を水平方向に移動するエレベータだ。四方がガラス張りになっていて夕方の街並みを見渡せる。松組ビルに着くとふわっと扉が開いて、やっと腕を放して貰えた。有松勇気は部下を下がらせ、私と大介だけを連れて上へ行くエレベータに乗り替えた。三十一階のプライベートルームまで直行。最上階だ。やはり冷房は効き過ぎていた。冬は暑く、夏は寒く暮らすのが闇組織の長の義務なのだろうか。
総長の有松元気がにっこり笑って出迎え、簡単に挨拶を済ませてすぐに立ち去った。
有松勇気は私と大介を応接間に引っ張って行って、大きな窓際の見晴らしのいいソファを勧めた。大介は席を断ろうとしたが、松組棟梁は彼の肩をぐいぐい押して無理やり座らせた。大介は不愉快そうだった。人に触られるのが嫌なのだ。
棟梁は私達の向かいに座り、煙草に火を点け、ワイシャツの襟を緩めて風を入れた。
「いやもう暑いねえ、ねえハナダさん?」
「この部屋は寒いですね」
「そうですか? 上着を持って来させようか」
「有松さん、地球温暖化現象って知ってます?」
「知らん知らん。冬が温かくなって皆ハッピーじゃんか」
ここでも世間話を三十分ほどした。有松勇気は自分で冷たい麦茶を出してくれた。竹組では熱いお茶しか出されなかった事を思い出した。私はありがたく飲み干した。
大介は出された飲み物にも手を付けず、置物のように黙って座っていた。そこらへんの礼儀は徹底した男だ。彼が一度だけ身じろぎしたのは、有松勇気が急に私に向かって手を伸ばした時だった。大介が身構えたので有松の方がびっくりしてその手を引っ込めた。
「これは失礼」有松は丁寧に言った。「コップをお下げいたしますよ」
「こちらこそ失礼しました」私は頭を下げた。「どうしても過敏になってしまうもので」
「いやいや、俺が悪かった」有松は立ち上がって私と大介のコップを下げ、すぐ戻って来た。「大事なお姫さまに傷でも付いちゃ大変だ。なあ、赤波大介?」
「阿成大介です」私が訂正を入れた。
「あれ、名字違う? 息子じゃないっけ?」
「柾さんは息子だとおっしゃってます。彼は逆に柾さんの事を弟だと言います」
「へえ。ほお。そう」有松は何度か頷いた。「家での赤波坊ってどんな感じ?」
これははっきりと大介に向けた質問だったので、私が答えるわけに行かなかった。
大介はかしこまって答えた。「最近はおとなしくしています」
「あっそう? 家でもおとなしいんだ。あいつって普段いつストレス発散してるのかね」
「物を投げます」大介は短く言った。
「あ、それ聞いた事あるぜ」有松は嬉しそうに言った。「暴れるんだろ?」
「ええ」
「物、壊すの?」
「壊し尽くしました」
「壊し尽くした」
「割れ物は全部なくなりました。だからうちにはプラスチックの食器しかありません」
「すげえすげえ。俺も今度やってみるかな」有松は声を立てて笑いながら新しい煙草に火を点けた。彼は引っ切りなしに煙草を吸っていた。酸素の替わりにニコチンで生きているのかと思うほどだ。
「では」私は部屋の隅に立っている大きな置き時計で時間を確かめ、有松に別れを告げた。ではという言葉は便利だ。続きを言わなくても相手に通じる。有松は「あ、では」と立ち上がり、私も大介も立ち上がった。
「青さん」有松は改まって言った。「俺は楽しかった。あなたに会ってから、この三年間、楽しかった」
「ありがとうございます、私もです」
彼は私と大介をエレベータまで送った。エレベータが階下から上がってきて扉が開いた時、有松はその扉を押さえたまま私達が乗ろうとするのを阻み、再び「青さん」と言った。
本当の用件は別れ際に言うのが闇町流なのだ。
「俺んとこの船に乗らないか」
「私は他に乗りたい船がありますから」
「初恋はいつか冷める。あなたに必要なのは、休息じゃないかな?」有松勇気はぐさりと言い切り、不敵な目で私を見下ろした。
私は息を詰めて彼を見返した。
「これからの生活をどう作っていくつもりで? あなたはもう闇町でもシャバでも暮らしていくつもりは無いんだろう。人里離れた山奥にでもひっそりと静かに暮らしたい、違うかな?」
「山奥なんて、不便ですよ」
「あなたが望む程度のものは、所詮お金で買える。静けさとか、きれいな空気とか、美味しい食事とか、お望みなら優しい、満ち足りた家族も。買いなさい。全て買い揃えなさい。あなたは今はそうやって張り詰めてるけど、いずれこれがすっかり終わったら、気が抜けちまう。絶対そうだ。俺の別荘を丸ごとやってもいい。本気だぜ」
無責任な事言わないでくれ、と私は怒鳴りかけた。いずれこれがすっかり終わったら、気が抜けてしまう。そうに決まっている。それこそ私が最も恐れている事だった。だからこそ私は未来の予定を立てたくなかった。私はきっと全てを終わらせた後、気が抜けて寝込むだろう。そのまま起き上がれないかも知れない。私という人間はそこで終わるんだろう。残りの命を、どう生きようか。有松が言うように静かな場所で、美味しい食事ときれいな空気と、満ち足りた家族でも買って、買い揃えればそれはまた、別な人生なのかも知れない。大介の事も妖自連の事も、忘れてしまえばいいのか。
「残念ですけど」私は有松を押し退けてエレベータに乗り込んだ。大介も乗り込む。「私はまだ、夢を見ていたい年頃ですから」
「いいよなあ。そういう事言えるってのがさ」有松勇気はまだ扉を放さなかった。「青さん、じゃ、今の話は無しだ。その替わり、何があっても許してくれ。あんたや他の組織に迷惑は掛けない。松組は多分、カゴ島には行けない。風波に縛られちまったよ。許してくれ。本当にさ」
「何に手を出したんです? あれほど言ったのに」
「何にも手を出しゃしません、ただ、考え直したというだけ。向こうの島に渡って、子供達の就職先を一から作ってかなきゃならない、それにウンザリしただけ。ここに留まれば、少なくとも子供達は風波の社会に出て行ける。そういう体制を作ってくのに祖父の代からウン十年かけてきたわけだ。それを今更ぽいとは捨てられない」
「リバウンドをどう乗り切ります?」
「そんな事どうとでもなる。復興に時間は掛からない。俺はそう思ってる。こちらの政府に賭けてるんだ。青さん、水無絵馬さん。俺は、有松勇気は、孤児なんだよ」松組の棟梁はきらきら光る目でじっと私を見下ろした。「俺は孤児なんだ。俺の親父も孤児なんだ。祖父も孤児なんだ。祖父はパトロンに拾われて、教育を受けてこの地位を築いた。親父は孤児院で十歳まで育った。十歳の時、祖父に選ばれて養子になった。頭が良かったからさ。俺も九歳まで孤児院で育った。親父が俺を選んでここに連れてきて、新しい名前をくれた。青さん、分かるか? うちは三代血が繋がってないんだ。三代続けて孤児院の優等生をスカウトしたんだ。誰にも内緒だ。誰にも。いつかはばれるが、今しばらくは内緒だ。俺は子供ができない体にされてる。だから次の松組の息子も、孤児院育ちだ。俺は祖父の気持ちが分かる、親父も祖父の気持ちが分かる、何故なら俺も親父も孤児院育ちだからだ。親父と祖父は仲が良かったし、俺と親父は仲がいい。何故かって、他人だからさ。語り合わない限り、分かり合えない。親子の情で通じ合うという事は無いんだ。有松の家系はこの先ずっとこういう十字架を背負って続くんだよ、だから……」
「何故」私は口を挟んだ。「そこまでして、そんな犠牲を払ってまで拘るような事ですか? 何故、血の繋がった後継ぎを作らないんです」
「それが、祖父の遺志を確実に継がせる唯一の方法だ」
「そんな事にそれほどの意味がありますか?」
「自分以外の人間の為に、何ができるかという事だ」有松勇気は、熱に浮かされたような目で言った。「水無絵馬さん、意味なんて無いんだ。意味なんか無い。俺が生まれてきた事に、意味なんか無い。だけど生まれてしまった限りは、居心地良く暮らしたいし、少しでもそういう風に計らってくれた人が居れば俺は嬉しかった。誰かが俺の為に何かしてくれて、そういうのが多ければ多いほど俺は居心地が良かった。結局社会ってそういうものじゃないの? 俺が誰かの為に何かできるなら、精一杯そうするべきだ。だって、そうしてくれた人が居たから俺はまあまあ暮らしてこれたし、そういう人がもっと沢山居れば、俺はもっと居心地良く暮らせたんだろうから」
「そうでしょう。そう思いますよ。だけど、私は……」有松勇気が羨ましかった。
「おっと、時間切れだ」松組の棟梁は何か感付いたらしく、扉を押さえる手を放した。するする閉まるエレベータの扉の向こうから、「十五階へ下りろ」と彼は叫んだ。
大介が十五階のボタンを押した。ぐんぐん下がって行く。これでまたポテンシャルエネルギーを失ってしまう。がっかりだ。
さすがに十六階分を下りるのには大層な時間がかかった。私はずっと大介を眺めていた。大介は緊張し切って、俯いて何かに耳を澄ましている。彼の逞しい、無駄のない体つきは見ていて飽きなかった。以前より少し背が伸びたように思えた。
大介が身じろぎしたかと思うと、一瞬で私の側に来た。エレベータが減速し、止まった。十九階だった。乗客があるのだ。扉がゆっくりと開く。大介は私の前に立って麻酔銃を構えた。
「おい、撃つなよ」乗り込んで来たのは赤波書房の前副長、悟淨切真だった。素早く「閉」ボタンを押して壁に持たれる。エレベータは黙ってまた動き出した。
切真は普通の灰色のズボンにワイシャツという姿だった。両腕を折り目正しく肘まで捲っている。しかし襟元の第一ボタンは行方不明のようだ。
「状況は?」彼は大介に聞いた。
「おおよそ順調」大介は短く答えた。「そちらは?」
「俺以外は、おおよそ順調じゃないのかな」切真は呑気とも他人事とも取れるような口調で言った。「ご覧の通り、武器を剥ぎ取られてしまった」
「誰に?」大介はきっと目を光らせた。
「火事場泥棒だろう。二人組の追い剥ぎだった。Cランクの使い捨て麻酔銃だから三文の値打ちも無いって言ったのに信じてくれない。丸腰でうろついても皆の迷惑だろうし、お先に退場するよ」
「それは困る。人手が足りないんだ」大介は自分の背中から小銃を引き抜いて渡した。
「おいおい、こんなごっついの使えねえよ。俺は片腕だぞ」
「それ持ってりゃ取りあえず追い剥ぎには遭わない」
「スタンガンか何か貸してくれ。とにかくポケットに入るくらいのがいいよ。こんなでっかいの素で持ち歩いてたらカッコ悪いだろ?」
「お前みたいな腰抜けは何を持っててもカッコ悪いんだ」大介は小銃を仕舞い、ポケットから小石のような物をいくつか取り出した。「これはな、花火だ。頭のとこを壁にこすってから相手に投げると、ちょっとだけ火花と煙が出る。なるべく目を狙って投げる事」エレベータが十五階に着いたので、彼は先に下りた。私と切真が続く。商店街は、しんとなっていた。
これから怪獣でもやって来るのではないかという様子だった。段ボールや家具、荷車、台車などが通路に溢れ返り、引っ越しの最中のまま人影だけが絶えていた。誰もが作業を中断して立ち去った事が明らかだった。何かが起こり、住民を脅かしたのだ。
大介はたびたび私と切真だけを家具の影に残して、一人で先の道を偵察に行った。どうも武器の臭いがした。やがて闇町中央広場に続く架橋の入口に着くと、そこの曲がり角の壁が大きく吹っ飛んでいた。店の窓ガラスは割られ、不吉な事に、瓦礫の中に染みだらけのスニーカーが片方だけ転がっていた。
闇町中央広場は松組と梅組、竹組と桜組を結ぶ二本の架橋が中央で交わってできた四つ辻だ。内部構造の工夫で普通の架橋よりもかなり丈夫に作られていて、中央の広場には噴水や時計塔があった。その時計は秒針まで備わった非常に精巧な絡繰り時計だが、常に現在より五分後の時刻を示すようになっている。
私達三人は黙って架橋を渡って行った。明るく照らされた広場に対して、架橋は真っ暗だった。暑くて汗が流れていたが、私は不意にぞわぞわと背中が寒くなってきた。大介は私の斜め後ろに、ほとんど引っ付くようにして歩いて行く。足音は三人分、硬く素っ気無く響いた。架橋も広場も静まり返っていて、噴水の水音が微かに聞こえていた。
広場の入口で、大介はぴたりと立ち止まった。
切真も立ち止まり、ポケットに手を入れた。切真の横顔には何の感情も浮かんでいない。不安なのかも知れないし、何も感じていないのかも知れない。何かに怒っているのかも知れないし、この状況を楽しんでいるのかも知れない。彼の表情や態度からは何も読み取れない。若くはあったが、年齢もまた不詳だった。私が十七年前に見かけた陽気な片腕の少年は、何処へ行ってしまったのだろう。彼の左腕は沢山の機能が組み込まれた義腕だった。
大介は私の耳元で息を詰め、私を両脇から抱え込む形で小銃を構えた。私の目の前で彼の両腕が小刻みに上下した。大介はろくに狙いも付けずに、広場中に乱射した。心臓の縮むような激しい鋭い音と、硝煙。大介の気配。汗のにおいがする。静まり返った広場は、音もなくざわめく。大介は右手に小銃を持ったまま、左腕で私を半ば抱きかかえて広場に踏み込んだ。切真が私の左側に立った。私達は中央の噴水まで速足で真っ直ぐ歩いた。多分、速足だったが、カタツムリのようにのろのろ進んでいる気がした。そこのベンチの影から、そこの柱の影から、そこの掲示板の影から、私は大勢の人間に見張られているのだ。
丸い池から噴き上がる水の柱。水中に静められた大きなライトが、それを照らし上げていた。きらきら輝く水の前に私達三人は立ち止まった。
「よう」
辺りは水の音だけ。仕組まれたように静かだ。水の柱の向こうに、その噴水の縁に、彼は腰掛けていた。裸足になって、その両足を池の水に浸して。両手で腹の辺りを押さえて石のように俯いていたが、私達が立ち止まった時に顔を上げた。
高橋愛史だった。
「大丈夫か」大介はほんのりと濁った池を見やり、腹から下が真っ黒に染まった彼のシャツを見やった。傷口を押さえる彼の両手は血の色だった。時間が経っているらしく、その色は乾いて錆び付いた茶色と吐き気のするような赤黒い色との中間だった。
「かすり傷」黒猫議長は青ざめて脂汗の浮かんだ顔に笑みを見せた。
「鉛弾か」
「そう。痛いのな、これ」
「立てるか」
「どうかな。竹ビルで撃たれて、病院まで行こうと思ったんだが、ちょっと、疲れたんで、ここで休んでた」
私達は池を回り込んで彼の側まで行った。黒猫議長は細かくあえいでいた。
「傷は何処だ。弾は抜けたか」大介はポケットを探して、四角く畳んだ小さな紙を取り出した。
「弾、残ってる。それ、知ってるぜ。モルヒネだろ。麻って言うんだ」
「歩いて貰わないとならん」大介は紙包みの中の粉をペットボトルの水とともに怪我人に飲ませた。
それから大介と切真は黒猫議長の両足を噴水の内側から外側に移動させ、苦労して立ち上がらせた。切真が肩で黒猫議長を支え、大介は私の護衛に戻って、四人で梅組のビルに向かう架橋を渡った。四人とも口をきかなかった。
「風波機動隊、闇町中央に向かっています」イヤホンからぷつっと連絡が入った。「予想経路、共同第七ビルから竹ビル、闇町中央。あるいは共同第一ビルから松ビル、闇町中央。十五階は危険です。すみやかに上階に向かって下さい」
私は無視した。しかし思い直して、大介に報告内容を告げた。
「先に行け」聞いていた黒猫議長は落ち着いた声で言った。
「まだ来そうにない。松組も竹組も、自分の縄張りをただで通過させるはずがない」大介は言ったが、少し足を速めた。私と大介はだんだん議長達を引き離して、先に梅組ビルに入った。
こちらの商店街も引っ越しの準備が打ち切られて、住人が消えていた。がらくたで一杯の通路の向こうから、人影が二つやって来た。梅組棟梁と総長だった。二人とも普通のスーツ姿だったので、ほっとした。梅組は棟梁が女性である事もあってか、一番常識的で良心的な気がする。
「赤波書房で怪我人が出ました」私は挨拶を省略して梅組棟梁に言った。「そこの架橋に居ます。担架をお願いできます?」
「負傷者は一人ですか?」
「そうです。付き添いが一人付いています」
彼女は頷いて携帯電話を取り出し、連絡を取った。梅組は闇町で病院を経営している唯一の組織だ。棟梁の村里証も看護師免許を持っている。
「担架が来ます。すぐ、治療に当たらせます」村里証はてきぱきと指示を終えると電話を切って、私達を案内して歩き出した。はっきりして冷静な喋り方は、こちらを不安にさせない。精悍で張りのある顔つき、落ち着いて優しげな眼、私は彼女が割と好きだった。移動ベッドが乗せられる大きなエレベータに乗って、二十八階へ。その階の部屋の一つに通された。来客用の応接間のようだった。
南に面した窓が大きく取られ、部屋は夕方色の光が差し込んで明るかった。それほど広くはないが、落ち着ける部屋だった。柔らかい絨毯、壁に掛かった印象派風の絵、上品な木のテーブルと椅子、そして適度な冷房。席に着いてから、私と梅組の棟梁、総長は改めて挨拶を交わした。大介にも席が与えられた。何処からか若い女性が一人現れて、私と大介にアイスティーを置いて行った。
「高橋さんの治療は、こちらで責任を持って行います」村里証は最初にそう言った。「場合によってはカゴ島への移動もこちらの船でという事になるかも知れません」
「お手数おかけします」
「治療が一段落したら、病室にご案内します。顔を見たいでしょうから」
「そんなに早く終わりますか?」
「いえ、私は状態を見ていないので何とも。銃創ですよね。かすり傷程度なら、この後、三十分後くらいに面会できるでしょう。それより長くかかるようなら、後はハナダさんの方を通して貴方に連絡を入れます。余裕があれば、お見舞いに来て頂くという形で」
かなりの出血量だったし、弾も体に残ったままだ。しばらく会えそうにないと私は考えた。ひょっとしたら移動のどさくさに紛れて二度と会えないかも知れない。最悪の場合、天に召されるという可能性もある。まあ、あの男はこの世に未練は無いくらい生きたはずだが……。
ここでも半時間ほど世間話をした。梅組の総長は気のいい爺さんで、私と村里証との会話に黙って頷きながら、時々口を挟んで議論を実りあるものにしてくれた。世の中にはこういう人が沢山居て欲しいものだ。竹組の馬鹿親子とは大違いだ。
最後に、やはり梅組棟梁は、私を自分の船に誘った。
「他に乗りたい船がありますから」今日三度目の科白を、私は口にした。
「ほかの三組がどんな餌で貴方を釣るつもりなのか知りませんが」村里証は歯に衣着せず言った。「うちで用意した条件は他のどこよりもいいという自信がありますよ。貴方を買う為に一財産つぎ込むつもりです。具体的には、貴方にうちの重役ポストに就いて貰うか、うちの子会社の経営を持って貰います。共同経営者、に近い形を目差したいですね」
「私がそんなものを飲むとでも?」
「一財産つぎ込む用意があります。貴方が望むだけいくらでも払いましょう。それに、わたくしどもの勝手な憶測で恐縮ですが、貴方には生き甲斐のある、張り合いのある生活が性に合っているようにお見受けします。ハナダの社長に舞い戻る事はできないとしても、結局はそれに近い、経営に携わるような地位に就く事がいろいろな意味で望ましいのではないかとお察しします」
なんとも現実的で理に適った誘惑だった。しかも他の二組の提案と比べてずっと前向きで将来性がある。これは参った、かも知れない。ひとまず今の私には未来の自分がどうなっているか全く見当が付かないのだ。全てが終わってしまった後で、昔の張り合いのある毎日が懐かしくなるという可能性も大いに考えられた。何しろ、こんなに長い事この場所で生きてきてしまった。私はきっとこの町に馴染んでしまったのだろうし、だとしたら二度と他の場所では暮らせないかも知れない。する事が無くなって気が抜けてしまうくらいなら、自分の築いたこの国に、この地位に、とどまる事が賢明なのだろうか。
「困りましたね」私は正直に言った。「私は自由になりたいんですよ……今のポストとかこういう生活から逃れて。その気持ちは、変わりません」しかしこの場所から逃れて、他にどんな場所があるのだろう。静かな山奥でひっそりと生きるのか、学問に没頭して自分を深めるのか。それとも、今の場所が恋しくなって、成り行きに流されるように戻って来るのだろうか。
「今すぐ決めろというのは無理でしょう」村里証は優しい口調で言った。「いつでも連絡をお待ちしています。何年後になっても、きっとお待ちしております」
「覚えておきます……恐らくご期待に沿えないとは思いますが」
そうして私は別れを告げて、最後の一組、桜組に向かったのだった。
黒猫議長の手術はもう一時間か二時間ほどかかるという話だった。腎臓か何かが傷付いていたらしい。大した事ではないと思う、と大介は言った。私にはその方面の知識が無いので、彼が慰めで言っているのか本当にそうなのか分からなかった。
「桜組はどんな餌で釣ってくると思う?」私は下に向かうエレベータの中で大介に聞いた。
「さあ」大介は相変わらず緊張していて、ろくな返事をくれそうになかったが、少し経ってから呟いた。
「え、何?」私は聞き落とした。
「餌で釣ってくるかもな」大介はぼそぼそと言った。
「だから、どんな?」
「本当の餌。食べ物。だって、もうすぐ夕食だから」
「まさかねえ」
「約束を忘れるな。夕食は中華だ」
「ああ、忘れてた……」
エレベータで二十階まで下りた。イヤホンからの報告がまたやかましくなってきた。
「風波機動隊を梅ビルに誘導して」私は首に下げたペンダント型無線機に向かって小声で言った。「負傷した仲間の見舞いの為にとどまっている、と」
「了解」
「その後、できればもう一度、闇町中央に誘導して欲しい。こちらは二十階の架橋を渡る」
「了解」
桜組のビルに入ると、メイド服のようなエプロン風の服を着た若い女性が出迎えた。
「ハナダ様ですね、ご案内いたします」
かなりの美人だ。百年か二百年くらい前のエレベータガールみたいな素敵な作り声だった。桜組の棟梁は男性が好きだそうだから、これは総長の趣味かも知れない。折れそうな細い足で階段を上って行くので、「エレベータ、使えないんですね」と話し掛けたら彼女は黙って微笑みを返した。謎めいた人だった。非常に賢明な判断力を備えていてわざと答えないのか、非常に知能が低くて私の質問が分からなかったのか、見かけでは判断できなかった。彼女は私達を案内して二十五階まで階段で上がり、それからエレベータに乗って三十階まで上がり、それから小さなエレベータに乗り換えて最上階の三十三階まで上がった。エプロンの女性はエレベータからは降りず、
「廊下を左手に進まれまして、突き当たりのお部屋にお入り下さい」
と指示して私達を送り出した。
「きれいな人だったね」広間のように大きな廊下の中央を大介と二人で進みながら、私は言った。
「気味が悪い人だった」と大介は呟いた。
「え、なんで?」
「機械みたいだ」
「ああ、うん、そうだけど」
「人間じゃなかった」大介は不気味な事を言った。
廊下の天井には様々な植物と動物の入り乱れた、アジア調の文様が荘厳に描かれていて、それも何かと不気味だった。フローリングの床と白い壁は簡素なのに、時々現れる仰々しい彫刻入りの扉と、仰々しい天井の文様だけが、見る者に迫って来るような威圧感を醸し出していた。
「人間じゃないって?」私は隣を歩く大介を見た。
「機械みたいに振る舞うように大変な訓練を積んでるか、それとも、本物の狂人か」大介は容赦なく断言した。
「そこまで変だった?」
「仕草がおかしかった。あんな人間、見た事無い」
「へえ……」ここも冷房が効き過ぎている所為もあって、なんだか寒くなった。
突き当たりの扉は音楽室の防音扉のようにぶかぶかで厚かった。ノックしても中に聞こえそうもないので、そのままそっと押した。
「おお、やあ、いらっしゃい」男の声がした。「ハナダさんに阿成大介君?」
「失礼します」私はもう少し扉を押して大介と共に中に入った。
変な部屋に変な男が居た。
天然の木材で作った妙な形のテーブルの周りに、丸太を輪切りにして磨いただけの不揃いな椅子が適当に置かれている。天井からいくつも吊り下がった籠からは怪しげな姿をした食虫植物が垂れ下がり、壁中に打ち付けられた棚に木彫りの象とか猫とか鳥とか漆塗りの小箱とか針金細工とか壷とか何とも表現しがたい何かとかがびっしりと、整然と、陳列されていた。このまま店が開けそうだ。
そして桜組の棟梁、本塚高蔵は真っ黒な浴衣風の衣装を身に着け、人魚の形をした安楽椅子に収まって体を揺らしていた。
「この部屋に入って頂くのは初めてでしたか」本塚高蔵は鷹揚な動作で立ち上がり、何の印か不明だが両手を軽く広げて、私に挨拶した。
うん、いや、変な人は嫌いじゃない。
しかしこの部屋、部屋の機能を満たさないくらい水瓶とか木馬とか椅子とかで埋まっているが、そもそも客を招くような部屋なのだろうか。
「どうぞ、お好きな椅子に座って下さい。大介君も」桜組の棟梁は安楽人魚椅子にどっかり深々と座り直し、「今、お茶をお出しします」
え、何処から誰が?
「冷たいのがいいでしょう? 先日、中国から買い入れたのがお勧めなんです。ハーブティは飲めますか?」
「ええ」
「大介君もそれでいいかな?」
「俺は結構です」大介は冷たく言った。
「まあまあ、遠慮なさらずに」本塚高蔵は言ったかと思うとパチンと指を鳴らした。
すると、棚の隙間にあった細い木の扉が開いて、現れたのはさっきのエレベータガールだった。
「お茶。赤い缶のやつ、冷たくして三人分」
「かしこまりました」彼女は私達三人に一度ずつ頭を下げてから、退場した。
「あの人、何人居るんです?」私は切り株の椅子に腰を下ろして聞いた。大介は立ったままだ。
「え? ミーナですか? 三人居ます」本塚高蔵は髭もじゃの顎を片手で撫でて答えた。「三つ子でね、ミーちゃんとイーちゃんとナーちゃん……冗談だよ。一人だ」
「ここの隣の部屋って、下の階と繋がってますか?」
「え、どうして分かった?」
「うーん、いや、推測です」
「推測かあ……」
本塚高蔵は会話の合間合間に物思いに耽って椅子を揺らし出すので、お喋りより沈黙の時間の方が多いような気がした。数分後にミーナという女性が素焼きのコップに注いだアイスティを三人分出して、また礼をして下がった。石鹸のようないい匂いのする、そして石鹸のような変な味のするお茶だった。もしや石鹸水では。ちょっと振って泡が立たないか試してみたかった。
本塚はのったりくったりと沈黙を挟みながら喋った。やがて彼は赤波柾の事を話題にしたがり、安楽椅子に収めていた体を起こして身を乗り出し、嬉しそうに目を輝かせて喋り出した。大介は身じろぎ一つしないで立っていたが、明らかに不機嫌になった。
「坊やどうしてる? あのメロン食べたかな」
「焼いて食べてましたよ」私は教えてやった。
「え、焼いて?」
「柾さんは、俺が高さんから貰ったメロンだから、自分の好きにしていいんだと言っていました」
「だからって焼くのか? ああ、摩訶不思議」
「柾さんは本塚さんを、高さんと呼ぶんですね」
「うん」本塚は子供みたいな返事をした。
「柾さんと仲がいいんですか?」
「うん、いや、抱かせて貰った事は無い」
「……はあ」
「ガードが固くてね。彼がハートを捧げたのは、雨陰信条だけなんだな、結局」
「私は、柾さんと雨陰という人はただの先輩後輩だったと聞いていますが」
「だからこその、純愛ですよ青さん。ピュアでスピリチュアルな関係。実際、雨陰は……俺は雨陰と直接の知り合いでしたがね、彼は夢見る少年でした。悪っぽい振りだけは上手だったけど、しっかりしていたのは案外、一見振り回されているように見える赤波の方だったな」
興味深い話だったが、大介が不機嫌になるので私は話題を変えないとならなかった。しかし本塚高蔵は事あるごとにこの話題に戻りたがった。
「柾さんが好きですか」私は何回目かに彼の話題に戻った時、本塚に聞いた。
「どうかな」意外に控え目な返事だった。「可愛いことは可愛いけど。好きかって聞かれると、俺は誰も好きになれないんじゃないかと、最近思いますね」
「そうですか?」
「そう。赤波が誰か女の子見付けて結婚しちゃっても、俺は多分悲しくならないな。あれが、だんだん大人になってくのを見てるのが楽しみでね。とにかく、何と言うかな……」
本塚は中途半端な所で言葉を切って、物思いに耽り出した。
「柾さんが殺したタイロスの前社長の、息子が、昨日から闇町に入っています」
「あ、そうなの?」本塚は瞑想をやめてまた身を乗り出した。「なんで? 何の為?」
「さあ、復讐でしょうか」
「坊や、自分が悪かったとか懺悔してあっさり殺されそうだな」
「私もそれを心配しています。先程もそういう事をほのめかしたので、勝手に死なないように釘を刺しましたが」
「うーん、でも、ハナダ青さんも勝手に死にそうな所あるかな」本塚は人魚の安楽椅子をゆらゆら揺すった。「自分の事より、人の事を優先して考える、それで人の為だったら、自分を犠牲にしちまうような所がありますよ、坊やも、貴方も」
「そうですか? そんなこと無いと思いますけど……」
「俺は、人の為に、人の気持ちになって、自分を犠牲にして行動するなんて、なんにも偉い事だと思わない。そういう生き方は、周りも自分も悲しいだけです。何か上手く行かなくても、人の為を思ってやった事だって言い訳がきく。そういうのは無責任な生き方だと俺は思ってる。けど、そういうもんじゃないんだろうな、と感じる部分もありますね、最近は。赤波とか貴方みたいな人間は、人の気持ちにならずにいられないんでしょう。だから……あんな事を。あんな事をなあ、赤波が。人殺しなんて。自分の為だったら、あいつはあんな事しなかったでしょう。雨陰の為だったから、あそこまで頭に血を上らせて。けったいな奴も居るもんだと当時は思いましたけど、最近はそういう人間ばかりが目に付きますね……自分の為じゃなくて、人の為に動く。自分の感情には鈍感なのに、他人が目の前で泣いてたりすると極端に同情して、共感する人間が。貴方もそうでしょう?」
「あ、そうなんでしょうか」真面目に考えると暗くなりそうな予感がしたので、私は流した。
「だってさあ、そうでなかったら青さん、あんたは今頃こんな地位にはいなかった。あんた、この十年だか二十年だか知らないけど、一秒でも自分の為に働きましたか?」
「さあ。でも、人の為になりたいと思っている自分の為に、働いたんだろうと思います」
「それは言葉遊び。意味は同じですよ」本塚高蔵は悪戯っぽくにっこりした。
沈黙の多い会話だったので、大した話もしないうちに三十分が過ぎていた。
「赤波書房と一緒に、うちの船に乗りません?」本塚高蔵はちらっと大介を見やって言った。
「私は他に……乗りたい船がありますから」
「どんな船?」
「貴方の知らない船です」
「うちの船には彼が乗るってのに」本塚はまた大介を見た。「お嬢さんがうちの船を断る理由が分かりませんな」
「本塚さんに分かるはずがないでしょう。だって私も知らないんですから」
「親父に会ってくれる?」
「あ、そう言えばご挨拶していませんでした。是非お会いしたいです」
「おーやーじーさーん」本塚は両手でメガホンを作って部屋の奥の方に叫んだ。奥に別な部屋が繋がっているらしく、引き戸を開ける音がして間もなく桜組の総長がやって来た。つるつるに禿げた老人だ。
「これはこれは、こんなゴミ溜め場にお呼びして」総長は頭を下げた。
私も立って挨拶した。「お久しぶりです。ご無沙汰しておりました」
「聞き及んだ所では、船にお乗りにならないとか」
「子供の我儘とお思い下さい」
「うちのにもお乗りになれないと」
「はい。申し訳ありませんが……」
「どうしても?」
「どうしてもです」私は老人の目を見て答えた。
老人はわざとっぽく溜め息をついた。「はあー。残念ですなあ」
「私も、残念です」
「残念ですなあ。今日の夕食は、是非ハナダ青様をお客様に迎えてと思っておったのですが、船にお乗りになれないのであれば……まこと、残念至極」
これはもしかして、夕食で釣っているのか?
「残念も残念、今宵はハナダ様の好物ばかりご用意させて頂いたのに」
うわあ。
「ご夕食はまだでしょう?」
「ええ……」なんだか急にお腹が空いてきた。一日中走り回ったし、朝食も昼食も赤波書房で軽くパンを食べただけだ。考えれば考えるほど空腹になってきた。ちらっと横目で大介を見たら、凄い顔で睨まれた。中華を忘れるな、と顔に書いてある。
「本当に、私も残念ではありますが、今夜の夕食はもう決まっておりまして、変えられないので……」
「おや、それは、本当に残念」桜組総長は、とぼけた調子で繰り返した。「格式ばったフルコースなぞは却って煩わしいかと思い至りまして、貴方様の大好物と存じ上げていたアボカドを……サンドイッチにして、ご用意しておりましたに」
餌で釣ってる!
「ええ、私の大好物ですアボカドは……よくご存じで……本当に大好きで……」涎が出てきた。「船に乗らなきゃ食べさせて頂けないんでしょうね……いえ、はい、とても、残念ですね……」一瞬、全てを切り捨ててアボカドサンドを食べ、桜組の船に乗ろうかと考えている自分が居た。そう考えさせるだけのものが、この提案にはあった。他のどの組織の提案よりこの提案は痛かった。「残念ですが……船には乗れませんので……。では、私はそろそろこれで……」
「実はわたくしもアボカドは大好きでねえ」老人はねちねちと誘惑した。「最近は体調も良くないので、お迎えが来ないうちにと毎日アボカドばかり食べておるのです。その所為でますますコレステロールやらが高くなるという話もありますが……最近はサンドイッチにするのが何より気に入っておりまして、是非同好のよしみでハナダ様のお口にもと今日この日を待っておりましたが……」
「申し訳ありませんが、私の決心は揺るぎません」人生最大の嘘をついた。「本当に、ご好意に感謝いたします。本当にありがとうございます。その、アボカドだけじゃなく、全ての事に。沢山の我儘を聞いて頂いて、ご協力頂いて、ご助言頂いて、こういう形でこの国を変えてゆく事ができて、本当に皆様のおかげと思います……」
「ええ、無論、無理なお誘いである事は承知しておりましたが」老人は微笑んだ。「いつでもお気が変わった時には、ご連絡を」
「はい、よく覚えておきます……」
黙って事の成り行きを見守っていた本塚高蔵が、笑い出した。「いやいや青さん、意地悪を言ってすまないね。そんなにアボカドがお好きだとは」
私はもはや身を翻してここから逃げたかった。これ以上ここに居ると誘惑に溺れてしまいそうだ。
「船の事はともかく」本塚高蔵は安楽椅子から立ち上がって両手を広げた。「どうですか? 折角ですから、ご一緒に夕食でも」
「ええと……」私は瞬時に希望を抱いて大介を見やったが、今すぐ断れと顔に書いてあった。「すみません、本当に……本当に先約がありまして」涙が出そうだ。
「おや、そうですか……。じゃ、お土産に持ってお行きなさい。今、包みますから」
「いいんですか?」私は叫ばないように声を抑えなければならなかった。「私は、船には乗りませんよ」
「いやいや、そんな事の交換になるような物じゃありませんよ、アボカドなんて……」
「アボカドがお嫌いですか?」
「俺は、親父が好きな物は嫌いですね……」
本塚高蔵はさっきのミーナにアボカドサンドを包んで持って来させた。私はその紙包みを大切に受け取った。結構沢山入ってずっしりしていた。
桜組の棟梁と総長と、二人に見送られてエレベータに乗り込んだ。これで第二ステージが終了だった。下がって行くエレベータの中で、私は四大組織の八人のリーダー達と、アボカドサンドと、四つの提案の事と、昔の事を思った。大介は例によって体をこわばらせ、異変が無いかどうか耳を澄ませていたが、二十階に着いてエレベータから降りる時に私を振り返ってサンドイッチの包みを見た。
「良かったじゃないか」
大介は言って、ぽろりとこぼしたように無邪気に笑った。私はびっくりしてしまった。彼のそんな顔を初めて見たと思った。こんな時にそんな発見があった事が、思いがけなかった。大介は背を向けて先に立って歩いて行く。良かったじゃないか。彼の言葉を胸の中で繰り返す。良かったじゃないか。今日会ったいろんな人やいろんな言葉や、思い出やそういう物を何もかもいちどきに思い出すと、何が良かったか分からないのに喉がつまった。桜組ビルの二十階はひとけも無くて安全そうだったので、私は気が緩んだかと思うと理由は無いのに泣き出してしまった。




