必殺アボカドサンド (3)
3.
階段を駆け上がって来た男は引っ繰り返った。麻酔銃でこの威力を実現できる人間は、闇町にもそうそういない。男の抱えていた小箱がぽんと飛んで、ぽんと弾けた。爆発はしない。発煙筒だった。辺りは白っぽくなる。大介は私の腕を掴んで階段をほとんど飛び下りた。足が痛くなった。通路に出る所ですれ違った奴を銃身で殴り付け、大介はなおも私をぐいと引いて手近な木の扉の向こうに押し込めた。やれやれ闇町らしくなってきた。
自分の居る場所を確かめる暇も無く再び扉は開き、大介が私を引き摺り出した。多分パブか空き家か物置きだったろう。そういう事にしておこう。大介が逃げ場所に迷う様子を見せたので、私は向かいの白い戸に入るよう指示した。勿論自分もその戸をくぐる。そこは目立たないながらも公共の通路であって、梯子が床と天井を貫いて上下に続いている。飛び付いて下へと逃げた。
「ランク、いくつだった?」私は上から付いて来る大介に訊ねた。
「ランク?」大介は興奮していた。
「麻酔薬のランク」
「Cだ」麻酔銃の針に仕込む薬にはAからIまでのランクがある。Iなんて代物は私もお目にかかった事が無いが、FやGくらいなら普段着のような物だ。増してこんな非常事態ならHが最低装備だろう。D以下なんぞは、はっきり言って食塩水と大差無い。赤波書房の財力を買い被った。もっとハナダ出版社から出させるべきだった。
二階分下りると、梯子は終わっていた。下りた所は汚い木箱の山積みになった倉庫だ。大介は通路に出る扉に背中を押し付け、外の様子を窺った。案外、様になっている。彼は右手に麻酔銃を持ったまま左手で細い杖を握り締める。杖は彼のお守りなのだ。彼はそうっと扉を開け、猫のようにするりと外に出た。私も付いて行く。通路はしんとしていた。誰もいない。胃もたれするような、こもった空気が辺りを埋め尽くしているだけだった。
私の後ろで戸が閉まる。その音が通路のずっと向こうまで響く。灰色の通路。汚れてくたびれた、貧困街の残骸だ。住人は皆移動してしまった。祭りの終わった後の野外ステージのような、寂しいけれど心地良い静けさが、そこらを支配していた。私はそんな場所に来ると嬉しくなってしまう。誰も知らない場所を自分だけの物にしているような気分になる。ここは全部私のものだ。もしそうでなくても、誰も文句は言わない。
突然、すぐ先の角を曲がって誰かが現れる。大介は問答無用で撃った。首に刺さった。相手は倒れた。Cランクの麻酔薬とは思えない。撃ち所が完璧なのだ。彼なら食塩水で闘ったって誰にも負けないだろう。最高だ。
倒れた男の後からもぞくぞくと人の群れが出て来る。蜂みたいに。ハナダのボディガード一団の報告によれば、こいつらは日本政府一味らしかった。大介はそれを分かっているのかどうか。彼は任務に夢中になっている。武器を構えたまま後ずさり、私を後ろに押しやる。麻酔銃の射程距離は長くない。走って逃げると、だいたい振り切れる。今回の場合、よほどの事が無い限り鉛弾が飛んで来る予定はなかったから、そこで全力で走れば取りあえず助かるはずだった。ところが日本政府一味はとんでもない事をしやがった。いまどき何処の幼稚園でも流行らないような事をしてのけた。挟み打ちである。
身を翻して走り出そうとした途端に、その先の角を曲がって別な一団が飛び出して来たのだ。二人乗りのオートバイが五台。廊下中に響き渡るエンジン音。怒鳴りたかった。こんな事して何が楽しいんだ。ジョークのつもりなのか? 仕方無いから側の戸に飛び付く。錠が下りていたが腕力に訴えた。錠自体はびくともしなかったが、戸とその枠が木製で朽ちかけていたので、あっさり壊れた。あっさり開いた。そう来なくっちゃ。大介も素早く飛び込んでくる。バンと閉めて、薄暗い室内にあった箪笥のような変な箱で戸口を塞いだ。勿論こんな物は一時の足止めにすらならない。部屋は思ったより広い。大介はためらわず奥の扉を開けた。奥もまた部屋だった。空っぽの、埃だらけの、薄暗い、捨て置かれた部屋。次の部屋も次の部屋もそうだった。扉はいくらでもあった。私と大介はどんどん適当な扉をくぐって奥へ奥へと進んだ。最後に、妙に小さな扉を見付けて、開けると梯子のごとく急な階段が現れた。私と大介はそれを登った。足の悪い大介は手だけで体を引き上げる。それでいて私よりよほど身軽なのだ。階段は上がれば上がるほど暗く、息苦しくなっていく。そして、とうとう行き止まりだった。階段の行き止まりなんて初めて見た。蓋が被せてあるんだろうと思い込んだ私は背中で天井を押し上げようとしたが、びくともしなかった。
「追ってくる」大介が低く言った。彼は私のすぐ下にいた。
「開かないよ」私はなるべく落ち着いた声で言った。
「そこだ。上じゃなく、右」
「行き止まりだよ」
「右に扉がある」彼は物凄く視力がいい。暗いところでも何でも見える。私は真っ黒にしか見えない右の壁を探ったが、壁は黙っていた。嫌われているようだ。大介はもう三段上がってきて私に体を押し付け、その壁に手を伸ばす。壁がガサリと音を立てて左にずれた。引き戸だったようだ。人が通るように作られたとは思えないくらい小さかったが、私はその穴をくぐった。昔、この辺りに住んでいた頃を思い出し始めた。そう、この辺りの扉とか通路というやつは使う人間の体の大きさなんかは眼中に無いのだ。何から何まで手前勝手だった。使う側がそちらの都合に合わせてやらないといけない、つまり人間より通路様やトビラ様の方が偉いのだ。くぐった穴の向こうは更に暗くて、何も見えなかった。天井がどの辺りにあるのかも分からないので、うずくまったままでいた。後ろから来た大介はしかしすぐに立ち上がって、私の事も立たせた。辺りは微かに酒の匂いがした。酒ではないかも知れない。もっと甘ったるくて、それが吐き気を催すような香りだった。正体は詮索しないでおこう。大介に引っ張られて歩いて行くと、何かとんでもなく固いものに躓いた。大介は私が転ばないように支えながら大丈夫かと聞いただけで、私が蹴ったものが何であるかは教えてくれなかった。教えてもらっても何の足しにもならなかったに違いないが。
まもなく部屋の端に辿り着いた。ぎいぎいと唸る扉の向こうは輝くように明るい場所だった。太陽が五つくらいありそうなほど眩しかったが、目が慣れると元通り、灰色の汚い通路だった。静まって捨て置かれた通路だった。こんな風景ばかりだとさすがに気が滅入ってくる。今のところ辺りに人影は無いようだ。大介は私の半歩後ろを歩いてきたが、角を曲がる時だけ私の先に立った。常に、より危険な位置に立つ、それが彼の仕事だ。
二度目に角を曲がった時、大介は片手を上げて私が続くのを制した。曲がった先に何かあったらしい。大介は息を詰めて行き先を睨んでいる。私も息を詰めた。大介の真剣な横顔を見て、私は不意に、この馬鹿げたイベントの全てを今すぐ終わりにしたいと思った。八羽島に連絡を取って、中止を告げる。それから二人で図書館に出掛けるのだ。手をつないで、お菓子と水筒を持って。途中でかき氷を買う。彼は必ずメロン味を買うだろう。それで何が悪い? もう二度と、そんな日は来ないかも知れないのに。私はどんなに何もかも無駄にしている事か。大介はどんな気持ちでこの茶番劇に付き合っているのだろう。このイベントの最も馬鹿げた所は、これが命懸けだという事だ。大した失敗が無くても、私はあっさり死んでしまうだろう。そんな下らない何もかもに、大真面目な顔で。どんな不安も彼はただ退けて、私の前に立つのだ。もし私を狙う弾丸があったなら、彼が先にそれを受けるのだろうか。そんな事は考えてもみない。彼自身も考えてはいないだろう。彼はただ身に付いた仕事の手順として、無感情にそうするだけだ。
曲がった先に居たのは、歳のいった女性だった。杖をつき、腰を曲げ、コツコツとやって来る。
「カナエさんだよ」私は大介に小声で教えた。「ここら一帯の、まあ、仕切り役というやつ」
「ただもんじゃない」大介は唸るように言った。「殺気だ」
「本物だからね」私は大介の先に立って彼女を迎えた。
老婆は鋭い二つの瞳を、皺だらけの顔の奥からきっと光らせた。こういう種類の気迫は、上層部の重役にはあり得ないものだ。毎日美味いものをたらふく詰め込んでいるような人間がこんな仕草をしても、だだをこねる子供のようになってしまう。引き換え、下層の人間を突き動かしているのは、財力や権力への渇望ではない。飢えだった。
「お久しぶりです」
「その子かい」カナエさんは、その目付きからは想像も付かないような柔らかな声を出す。大介を見ていた。
「阿成大介です」私は、ここに来て初めて緊張した。「赤波書房、社長補佐」
「あっそ」婆さんは何かを振り払うように首を振って、私を黙らせた。大介と直接話す気なのだ。彼を信用しないわけじゃないが、私は大介がきちんとした応対をできるのか物凄く不安になった。
「それで!」カナエさんはちょっと間を置いた後、大介に向かって投げ付けた。「いい気分だろうな、あんたは」
「分かりません」大介は待っていたかのように答えた。端から真面目に答えない気だ。この野郎。
「分からない」カナエさんの声は通路にぴんと響いた。「じゃあ、いい、帰んな」
「いえ」大介は普段よりははっきりと言った。
「いえって何だ?」
大介は答えなかった。無駄な会話はしない男だ。私としては、ここは無駄な会話でも何でもするべき場面だと怒鳴ってやりたかった。本当に頼むよあんた。ここで殺されたら洒落になんないって気付かないか?
「帰れったんだ」カナエさんは大介を睨み据えている。「あんたの仕事は、うちで引き継ぐ。邪魔だから帰りな」
「お断りします」とんでもない野郎だった。彼は婆さんを睨み返していた。「嫌です」
聞いてよ柾さん。
「嫌ですたァ何だ」カナエさんは口調を変えなかった。「そんな言葉、初めて聞いた」
「すみませんでした」謝ってない。謝ってない。
「帰れったんだ、聞こえなかったか?」
「嫌です」
「嫌ですたァ何だ」
「俺がそうしたくないという意味です」
ああ、我ながら素晴らしい奴を彼氏に選んでしまった。
「それは何故?」カナエさんは変な抑揚で語尾を上げた。
「俺が」大介は言いよどんだ。考えている。この期に及んで、呑気に考え事だ。「……分かりません」
「あんたが分からないんじゃ、あたしにも分からないね」
「そうしたくないという事が、好きだという事ですか?」大介は生真面目に切り返した。
「何?」カナエさんはどうでもいいように聞き返す。
「それとも、好きだからそうしたくないという事ですか?」
「どっちでも同じだろ」
カナエさんはまた首を振って、私に向き直った。どうやら危機を脱したようだった。
「船に乗っていただけますか」私は急いで言った。
「気が向いたら」この人の返事はいつもこうだ。
「港へのシャトルバスは、足りていますか」
「知らん」ひどいババアだ。こちらが頭下げて頼んだ仕事を、知らんと来た。引っ越し計画の為のシャトルバスの手配を、彼女に一任していたのだ。
「足りていなければ……」
「中層の連中は、車を持っとる」カナエさんは気に食わなそうに言った。「うちは貧乏貧乏、かつかつカツカツ、明日には一族路頭に迷う、とか言いながら、みいんな車を持っとるんだ。バスなんか燃やしてしまえ。車でも抱えて死んでろってんだ、あたしらに言わせりゃあね」
貧富の差ってやつは、辛いものだ。
黙っていると、カナエさんはじろじろと私の全身を眺め回した。私の服がどれくらい上等か見ているのだろう。
「出世したもんだ」とカナエさんは言った。いろいろな人からそう言われてきたが、彼女から言われたのはこれが初めてだった。
「それを恥じてはいません」私はいつものように答えた。
「誰も恥じてはいない」カナエさんはそろそろ会話を切り上げたい様子だった。「皆、お前を誇りにしている。下層からお前みたいなのが出た事を」
「皆ではありません」
「勿論皆ではない。だけど、あたし一人という事でもない」
「そう思います……そう感じる時は、少し気が、落ち着きます」
「気を付けな」カナエさんは杖を持たない方の手で私の腕を軽く押して擦れ違って行った。それは下層街での一つの挨拶だった。親しい仲なら、更なる親しみを込めて。そして初対面なら、これから覚悟しておけとか、まあそんな意味だ。彼女と初めて会った時を思い出した。あれは酷い場所だった。あの時と比べて、彼女はすっかり老け込んでしまった。時間が経っていく。私は何処までも、行く。
隣のビルに移る為に、いったんビルから出なければならなかった。下層まで来ると、ビルを繋ぐ架橋がほとんど無い。エスターの為の発着場も無い。高い所に住んでいる人間は何も知らないので、架橋もエスターも無いとなれば溜め息をつきながら地上まで下りる。そしてビルから出て湿っぽいアスファルトの上を歩き、隣のビルに入って階段を上り直す。威張りくさった上層部の連中が間抜けな事をしているのを見てあざ笑うのが、下層貧困街の貧乏人達の数少ない楽しみだった。
橋も乗り物も無くても、ビル間を渡る方法はあった。私は通路の突き当たりの大窓を引き開けて、窓枠によじ登り、振り返って大介を見下ろした。
「こういうの、知ってた?」
「飛び下りは止めとけ」大介は無表情で言った。「死体の処理に手間取る」
「それ、ジョーク?」
「本当の事だ」大介は自分も窓枠に身を乗り出して外を見た。隣のビルとの間は十五メートルほどあった。林立する灰色の建物。真下の黒いアスファルト。その黒は、色あせている。高さは三階だ。地上が近い。日当たりが悪いので、ひやひやした空気がそこらを這い回っていた。
私の開けた窓から隣のビルの対面する窓まで、二本の鉄鎖が伸びていた。どちらも緩く弛んでいる。一本は窓枠の上、一本は窓枠の下。上の一本を掴み、下の一本に足を乗せて渡る。
「話にならん」大介は断言した。「この鎖は切れるぞ」
「大丈夫」私はちょっと引っ張って鎖の手応えを確かめた。
「あそこで切れる」大介は上の鎖の中央辺りをぴたりと指差した。「鎖が擦り切れてる」
「行ける所まで行くよ」
「他の経路を取ろう」
「風波の追っ手と鉢合わせしたくない」
「なら、俺が先に行く」大介は決意をみなぎらせて言った。
「だ、め」私は引き止められないうちに渡り始めた。鎖は私の手に丁度収まるほど細い。左手の指輪が鎖と触れてカチリカチリと鳴る。頭上をエスターが飛び交っていた。見上げなかったが、エンジン音で分かる。鎖は初めのうち少し揺れたが、すぐに私の重みでぴんと張って静かになった。よしよし聞き分けのいい子だ。
「青」こちらは聞き分けの悪い子だった。「引き返せ。俺が先に行く」
「体重が軽い方が先に行くの」
「頼むから。本当に切れる」
「知ってるよ」高くないので、怖くなかった。私は高い所が好きだ。安全である限りはどれだけ高くても構わないし、多少危険でもかなりの高さを許容できる。まったく不安が無いとは言えないが、この程度の高さなら何が起きても対処できそうだった。こういう場合に問題となるのは、実は高さではなく、どれだけ冷静に対処できるかなのだ。
「ダン」私はどんどん渡りながら、振り返った。大介は窓枠に立って、無表情を保っていた。不安を顔に出して私を怖がらせないよう、無駄な努力をしているらしい。ちっとも信用されていない。
「高所恐怖症じゃないよね?」私は声を張り上げて聞いた。距離が離れてきたし、丁度エスターのエンジン音が近付いていたのだ。
大介は嫌そうな顔で首を横に振った。
その時、掴んでいた鎖がぱちんと切れた。
大介の言葉通り、それは予期されていた事だった。私はその鎖に体重をかけていなかった。大介なんかに指摘されなくても、私は元から鎖という物を信用していない。常に、どちらかが切れる事を想定して渡る。それくらい常識だ。
切れた鎖を放し、身を屈めて下の鎖を掴んだ。体をそっと反転させる。私は残った鎖にぶら下がる。
中央から切れた上の鎖は、両側のビルにそれぞれ打ち付けられてガシャンビシャンと鳴った。
すうっと涼しい風がTシャツの背中に潜り込んで通り抜けて行った。気分が良かった。まだ、半分まで渡っていなかった。私はぶら下がったまま大介を振り返った。思わず笑ってしまった。
「引き返せ」大介は、憮然として言った。冷静な奴だった。心臓が止まるような思いをしたに違いないのに、顔には絶対に出さない。
「このまま行くから。付いて来れるね?」
「引き返せ。その鎖も切れたらどうする」
「ターザン式で」
「こっちに戻った方が近い」
「大ちゃん、怖いなら自分だけ下から回っといで」
「俺が怖いんじゃない」
私は腕を交互に移動させてぐいぐい進む。向こうのビルの壁が迫った。
「俺の言う事、聞く気無い?」大介は大声で言った。
「無い無い」私は笑いながら言い返した。
「後で、俺の言う事を、聞いてくれるか?」
「ちゃんと渡って来れたらね」私は向かいのビルに辿り着いた。ここからが少し難しい。上の鎖が切れてしまったので、私の頭は窓枠より下にある状態だ。かと言って下の階の窓に足が届く距離でもない。壁を蹴り、切れて垂れ下がったもう一本の鎖も引っ張りながら、体を引き上げた。それから片手を伸ばして、窓を開けた。開きやすかったので助かった。開きにくかったらさすがに汗が出る所だ。カブトムシのように窓枠にしがみ付いて鎖から解放された。足を掛け、立ち上がる。向こう岸を振り返った。大介が窓枠に片膝をついた格好で、武器を下ろしたところだった。私は、ぞっとした。彼が本物の小銃を向けていたのは、地上だった。
大介は十秒ちょっとで渡って来た。窓枠に上がるのにも私のように手間取らなかった。敵わないな。本当に、敵わない。
「スナイパーが居たんだね」
「威嚇したら引っ込んだ」大介は何事も無かったように床に飛び下りる。ベルト通しに繋がれた杖が、大介を追う。私も追って下りる。振り返って窓を閉める。どっと汗が噴き出した。頭は冷静だったが、窓を閉める手は震えていた。足から、力が抜けていった。渡っている間じゅう、私は地上から狙われていたのだ。移動は遅い。逃げ場は無い。格好の標的だった。上の鎖が切れた時に、大介は気付いたのだろう。軽口を叩いて私の気を逸らせ、地上に武器を向けて狙撃手を威嚇し。彼なら、そうだ、そうするに決まっている。泣きたくなりそうだった。
こちらのビルはごった返していた。闇町の中央部に八つある共同ビルにだけは、人を残してある。風波政府情報捜査局の入国ゲートと基地があるし、中層の不良連中もよく出入りする。ここを無人にするわけには行かなかった。逆に言えば、ここにさえ人を残しておけば、下層の人々の移住に気付く者はいないという事だ。私はそう確信していたし、実際その通りになった。この事に関しては、四大組織の石頭どもを見返してやった気分。上層の人間はなかなか私の言い分を信じようとしなくて、説得に骨が折れた。
「なんでも言う事聞いてくれるんだったよな」人の波を縫い、杖をついて歩きながら、大介はぼそっと言った。
「なんでも、とは言ってない」
「じゃ、今言って」
「なんでも聞く」仕方あるまい。
汗臭い、人臭い、食べ物臭い、むかむかする下層の空気。久しぶりに吸った。いつ吸っても吐き気がする。擦れ違う奴の何割かは、私の事に気付いて大袈裟に避けたり、軽く触れて行ったりした。知っている顔もいくつかあった。イヤホンの無線連絡がやかましくなった。風波の機動隊が下層に集まり始めたらしい。
「早く、言わないの?」私は大介を見た。
「まだ、考え中」
「早く言わないと時間切れにするよ」
「そんなのは無しだ」
「有りだよ。あと三秒だよ」
「夕食は中華」大介は急いで言った。
「はあ?」
「今夜の夕食は中華がいい」
「そっちに逃げるの? 普通、もう少しこう……」
「中華だからな。絶対に」大介は言い張った。
「分かりましたよ……承知いたしました」夕食をとる時間があるかどうか不明だが、承知するだけならタダだった。存外安い男だった。他の男を知らないので何とも言えないが。いやいや、なんでも言う事聞いてくれと言っといて、次の句が夕食は中華なんてあんまりだ。私はそんなに中華嫌いに見えるのだろうか。麻婆豆腐は大好きなのに。
手をつないで歩きたかった。我慢するけど。彼に触れていたくて堪らなかった。さっきの事もあったし、思い返すと、気弱になりたかった。完全に無防備だった自分と、黙って守った大介。きっと今までずっとそうだったし、これからもそうだろう。それは、珍しい事ではない。私が守られるのは、いつもの事だった。何度も、そうだった。彼だけが特別ではない。皆、私の側に付いた人間は皆、私を守ってくれた。その時いつも、嬉しかった。泣きたくなるのも、いつもだった。何も特別じゃない。だけど、こんな風に無茶苦茶に寂しいのだけは初めてだ。彼がどれほど近くにいても、我慢ならなかった。もっと近く。もっと強く。彼を私だけのものにしたかった。繋ぎ止めて縛っておきたかった。大介はきっと、私のこんな気持ちを知らない。
角を曲がる所で、そこにたむろしていた男六人に素早く取り囲まれた。大介は背中の武器をいつでも抜けるように掴んだ。この高さまで下りると、この程度の警戒は必要だ。
「あおいちゃん、久しぶりじゃんか」一番腕っぷしのいい、小汚い奴が私の正面に立った。友好的なのか、その逆なのか分からない声色、これは下層の者に共通だった。こういう普通っぽい挨拶は、この界隈では良い兆しではない。本当に親しみを込めて声をかける時は、悪口とか罵声を浴びせるのが普通だった。
「すっかし大人っぽくなったんじゃん? かあいい男の子連れてんね」
「野田さん」私は逃げ道を確認した。大介が早まらないでくれればいいが。「皆に伝えて貰えると嬉しいです。明日のビル爆破の件で」
「よう喋るようになったんだ。綺麗な言葉でなあ」
「ビルの爆破の件、伝わってますか?」
「偉くなったんだよな、あおいちゃん」野田は重そうな腕を猫のように機敏に動かして、私の腕を掴んだ。私は力を入れなかった。大介が何か言おうとするのを目で黙らせる。野田はちらりと大介を見て、馬鹿にした仕草で目を逸らした。私の腕をくいと引き上げ、顔を近付ける。
真っ昼間から相当飲んでいる。腐った果物みたいな酒のにおい。
「野田さん」話が聞ける状態でいてくれると助かるんだが。「明日の件が伝わっているなら」
「おい、舐めた真似してくれんじゃねえかよ」野田は呂律の回らない調子で言った。「ビルごと蒸し焼きか? 俺らは。偉くなったもんだな、てめえ。え? いつになったら移動させて貰えんだ? 来年か。世界最後の日か。どの道明日でこのビルは吹っ飛ばすんだもんな。ゴミは厄介払いか」
「ビルの爆破は、デマです」私は声を落ち着けて言った。「爆破はしません。そういう準備は全然、していない。無駄な事でしょう。どうせリバウンドで吹っ飛ぶものを」
「デマ?」野田は掴む手に力を入れた。指先の血管がきゅっと締まる感じがした。
「皆に伝えて貰えますか? ビルは爆破しないと。あれは、中層の商店街の連中を早く移動させる為のデマなんです」
「はん? それで、俺らがぬくぬく寝てる所に、ドッカンか」
「放してくれます? 私の言いたい事はそれだけなんで」
「てめえはスカした顔しやがってよう」野田はかなり酔っていた。困った奴だ。「なんだっていいじゃねえよ、てめえは。てめえはてめえのいいように動かせるんだからな。俺らが生きるも死ぬもてめえの手の上だろ?」
私が思わず下がると、野田は腕を掴んだまま前に出るし、他の五人も合わせて立ち位置を移動する。大介は背中に手をやったまま、臨戦態勢を保っている。
「撃っていい」私は苦い思いで大介に言った。本当は野田は大きな連絡網を一つ持っている、重要な伝達者なのだが。こんなに酔っていては役に立たないだろう。下層ではこんな手違いもままあるのだ。
近距離戦だったので、小柄な大介は不利だった。野田は真っ先に撃たれて床に崩れ込んだが、残りの五人が私を壁際に追いやった。面倒なんで全員殺してしまいたかった。大介は私を背にして自分の二倍も背丈のありそうな五人に対面した。
「どけよ、坊や」真ん中のが、がたがた揺するような声で言う。「そっちの女の子に用があんだ」
「ぶち抜くぞ」大介は相手の顔に麻酔銃を向けていた。目に狙いを定めているのだろう。私のパートナーになった男が射撃の名手だという事くらいは、ここまで伝わってきているはずだ。男達は無闇には動かなかった。しかし引き下がりもしない。まずい事になったかも知れない。もう少しやばくなれば、ハナダのボディガードが出てくれるから、命の心配はしなくてもいいが。でも、怪我の心配はするべきだ。無傷で済んだら儲け物。
「そこ、どけて貰えないかな」私は口だけ動かした。「なんでこういう事すんのかな?」
返事は無い。嫌な感じだ。酔っていたのは野田だけのようだ。この五人は野田の普段の取り巻きじゃない。この連中が野田を酔わせて洗脳したのだ。すると、組織の臭いがする。オガサ土建か。今の所、そこしか思い浮かばない。竹組の子会社で、経営の傾きだした竹組をほとんど乗っ取っている野心家だ。私のする事なす事気に食わないといった感じだった。竹さんがしっかりしてくれないから困るのだ。
「誰からお金貰ってる?」私は真ん中の奴の目を見上げた。落ち着きの無い目。この男には腕力しか無いだろう。
「お金、貰ってるでしょう?」誰も答えてくれないんで、いらいらしてきた。
「関係ねんだよ」男は答えた。
「肯定だね。オガサ土建?」
「口を閉じろ」男は顎を上げた。「そのガキに、武器を下ろさせろ。竹組を敵に回したいか」
「竹さんが私を敵に回したいのかな。考えられない」
「オガサの、意向だ」そう言えと言われてきた様子だった。言っている本人は意向という漢字も知らないだろう。
「意向は分かった。もう下がってくれない?」
「そういうわけに行かねんだなあ」男はにやにやした。他の四人も多かれ少なかれそんな顔だった。「腕の一本は折れとの事だ」
「自分のを折って帰るといい」大介が言った。
「黙れ」私は彼の踵を蹴った。
「そうだ、黙れ」男が言ってげらげら笑い出した。
「すっこめよ」私はドスを利かせて言った。「貴様が出る幕じゃない。失せろ。今、すぐ」
「勇ましい事」
「殺すよ」私は手の平に入るほどの銀色の拳銃を握って、大介を押し退けて、男の胸に向けた。「言っとくけど鉛弾じゃないから。肉片になるよ。あんたの体、全部」
「怖い怖い」男は下品な笑いを抑えなかった。「撃つのも怖いねえ」
怖くはない。が、ためらってはいた。人の溢れる往来で使うような武器ではなかった。細工がしてあるのは弾の方で、内部に火薬が仕込んである。当たった一瞬後に爆発する。内臓を吹き飛ばし、角度が良ければそのまま体を貫通する穴が開く。銃の大きさに対して弾が重過ぎるので、こちらも無傷ではいられない。反動で肩が痺れ、手は火傷する。そもそも反動に耐えられればの話だが。十回以上使った事があると思うが、三度ほど得物を取り落として大変な目に遭った。
「使うなよ」大介がこっそりと、低く這うように言った。分かってる。私のこの武器は一発しか撃てない。撃った後はダメージが大きくて逃げる事もできないだろう。そういう武器だ。だが、撃つ気で向けなければ気迫は伝わらない。
「殺すよ」もう一度言った。「本当に殺すよ」
「やった事あんの?」男の目には動揺が浮かんだ。もう、口元しか笑っていない。
「聞こえなかった? 下がんない?」
「やれるの?」殺せるのかという意味のようだ。
私は引金に掛けた指に力を入れた。
「待って」男は下がった。そうそうもっと下がれ。馬鹿。
「あと五歩、下がれ」私は低く言った。
「何もしないから、金ちょうだい」男は他の四人に目で下がるよう指示する。
「撃てるわけない」右端の男が、そう言った。「撃てたとしても、二対五だ」
「武器を抜いたら、目を潰す」大介はいつもより通る声で言った。「最初に抜いた奴は右目、次の奴は心臓だ」
「今の状況って何?」左端の男が茶化すように言った。「話し合ってんの? 俺は、もう飽きちゃった」
「私が無駄に話し合うように見えた?」下らない科白を言ってみた。というのも、ハナダのボディガードが出る前に、通り掛かった私の友人がちょっとした人数を連れてやって来たからだ。やれやれ、オガサの組員だか雇われの不良だか知らないが大変な馬鹿で助かった。五人揃って私と大介と壁を睨んでばかりで、後ろを全く気にしていなかったらしい。加勢が来たと見て大介は中央の奴の首筋を撃った。そいつはよろめいたところを私の友人にぶん殴られた。残りの四人もしたたかぶん殴られた。私は武器を仕舞って、それから見物していた。楽しくはなかった。男ってやつは、血を見るのが苦手な奴ほど血気盛んだよな。殴り合ったり撃ち合ったり、楽しいのかな。そうか、血を見るのが珍しいわけだ。その点、女は冷淡だ。
「早く呼んでくれりゃ良かったんに」事が終わると私の友人は振り返って、精一杯友人らしい笑顔を浮かべた。彼は右手の指が二つ欠けている。三本しかない指で煙草を挟んで、ライタで火を点けた。
「どうも、助けを呼ぶのが苦手でね」私は通路の隅を見やった。オガサの間抜け五人組は見るも無残にやられて、打ち捨てられていた。なおも私の助っ人達が脅し付けると、ごそごそと立ち上がって逃げて行った。その必死だけど何処か呑気な逃げ方で、連中が下層街の住人でない事が分かる。オガサにしちゃ気の利かない事だ。金をケチったに違いない。私を潰すのに不良気取りの五人や十人で済まそうなんて、野暮な話だ。
武器を収めた大介は人見知り屋の自分を思い出したらしく、顔を俯けて私の側に来た。私は指の足りない友人とその仲間達に丁寧に礼を言った。野田がいつの間にか何処かへ消えているのを視界の隅で確認しながら、私は大介を引いて歩き出す。友人は十歩ほど付いて来てつまらないお喋りをしたが、終いに「じゃあ、お幸せにィ」とか余計な事を言って引き返して行った。ともかく大きな騒ぎにならなくて良かったというのが私の感想だ。
「青って怖いんだな」大介が俯いて歩きながら、ぼそりと言った。これが彼の感想らしい。
「知らなかったの?」
「お前が知らないんじゃないか?」
私達は元通り人込みの中を歩いていた。むせるような空気を掻き分けて歩いていた。
「どういう意味?」
「自覚してないって意味」大介はわざと杖に体重をかけて歩いていた。「さっき得物を出した時、怖かった。自分で気付いてないんなら、これから気を付けた方がいいと思う」
「何に?」普通に聞き返すはずだったのに、突き放すような口調になった。自分を制御できていない。最近、ずっとそうだ。
「俺には殺す事を指導してくれた祖父がいた」雑然とした通路の喧騒の中を行きながら、大介は考え考えという感じでゆっくり説明した。「ほんのガキの頃。直接の記憶は無いけど、厳しい人だったとは覚えている。俺は彼に、生き物の殺し方を教わったんだ。あそこで教わった事が、体に染み付いてる。祖父が怖かったし、今でも怖い。彼の教えに背かない。それが、自分を……守る事になるんだと思う」
「漠然とした話だね」
「そうじゃない」大介はもどかしそうに、言葉を探していた。「青……、そうじゃない。これは、はっきりした事なんだ」
「分かる。多分、感覚では分かる」
「相手を殺そうとする時、あんな風に興奮しちゃ駄目だ。絶対に駄目だ」
「分かってる」相手の表情の変化で、ちらりと感じ取っていた。私は多分、興奮していた。殺すという事に対して冷静になれないのだ。それが自分の身を滅ぼす事になると大介は言いたいのだろう。
「私にも教えを受けた人はいたよ」私は大介の横顔を窺いながら言った。「その人は死んでしまった。全部を教え切らないうちに」
「そいつは、ろくでなしだ」大介はいきなり言い出した。
「なんで?」
「俺の祖父は俺に全部を教え切らなかったけど、大事なことは真っ先に教えてくれた。だから今、不自由はしていない」
「私も不自由はしていない」
「お前は不自由している。自分で自分の得物を支配できないじゃないか。こんな時じゃなかったらその物騒なものはお前から取り上げるところだ」
「いいよ、取り上げても」私は本当に大介に渡してしまいたかった。「こんなもの、持ってて良かったなんて思ったことは無い」
「貸して」大介は手を出し、私はその指の長いきれいな手に銀色の拳銃を渡した。大介は歩きながら、小さな兵器をいろいろな角度から眺めた。「精巧な造りだ」
「特注なんだよ」
「無茶な武器だ。撃ったら手が焼けるだろう」
「そう。指から肘まで腫れる。十日くらいは、箸が持てないね」
「こういうのも、有りか……」大介はぶつぶつと私の得物を評価した。「戦闘用でも護身用でもない。最後の手段という事か。実用的な道具ではない」
「実は、自殺用なんだ」
「自爆用だな」大介はそれを私に返した。「持っとけ」
「自爆して欲しいの?」
「脅しには使える。さっきみたいに」
「貴方が、持っててくれない?」
大介は私の方に顔を向け、その黒い曇りない目でじっと見た。
「いつでも、側に居られるとは限らない。俺のものだと思って持っててくれ」
それはちょっといい考えだった。私は彼の提案が気に入った。
通路には段差が目立つようになっていた。何か知らないが無闇に段差があるのだ。公共の通路のはずなのに、コンクリートブロックの壁が道を塞いでいたりする。その壁はもともと天井近くまであったらしかったが、既に壊されて一メートルほどの高さになっていたので、通行人は勝手に乗り越えて行った。薄暗い隅っこにボコボコにへこんだ自動販売機があって、それにもたれて真っ黒な人影が煙草をふかしていた。そいつは私に穴を開けようとでも言うようにじりじりと睨んでいた。あいにく私は彼に用事は無かったので素通りした。
汗がべたべたと流れ、喉が渇いて仕方なかった。大介に水を貰おうかと思ったが、この悪臭の中では何も飲み込む事ができそうになかった。もう少し切羽詰まってくると、こういう我儘は言わなくなるんだが。大介は真剣な顔をして歩いて行く。彼の不真面目な顔というのは見た事が無い。
鎖を渡ってビルからビルへ移動し、入り組んだ分かれ道を辿って何人かの知り合いを訪ねた。明日のビル爆破がデマだという事を知らせて回る。連絡網を持っている人間は沢山いるんだが、こちらが会いたいと思った時に会える奴がなかなかいない。それが商店街と明らかに違う所だ。誰それを呼べ、と言ったところで、まず言われた奴はその誰それというのが誰なのかという調査にかかる。さんざんいろいろな人に聞き回って、私にも無駄な質問を沢山した上、その誰それというのが自分のよく知る人物の別名である事を発見する。ここまでで十五分が過ぎている。それから、「ハナダ青が誰それ、もしくは別名をなにがし、さらに別な別名を何とかという者に会いたがっている」という知らせが五人くらいにリレーされて、そのリレーが引き返してきて、私の元にやっと届く知らせは、「そいつは何処にいるか分からない」という答え。で、私は「ああそう」と言って歩き出す。
酔っ払いに絡まれる。大介が脅し付ける。さっき半時間も探して見付からなかった知り合いと、通路の角で擦れ違う。その男は多少信用できるので、私は野田が酔い潰れて使い物にならなくなった事を告げ、相談する。彼は野田の配下の者を何人か知っているので、そちらに知らせてどうにかさせると約束してくれた。
階段を一つ上がると、その階は人の流れが淀んでいた。大勢が床に車座になって座り込んでいる。酒を飲み、煙草をふかし、サイコロのような物を使ったつまらない賭博をしている。そういう輪がいくつもあって、私と大介はその輪と輪の隙間を縫って歩かないといけない。
「ビルは爆破しない」
ひときわ大きな輪の脇を通り過ぎる時、その中心の人物が私の知り合いだったので、私は低く彼女に告げた。
「はあ?」彼女は奇妙に刺激的な香りのする煙草の煙を私に吐きかけた。「爆破しない?」
「皆に知らせて下さい。爆破は、中層の商店街の引っ越しを急がせる為のデマです。爆破はしないし、そういう準備は全くしていません。シャトルバスも船も、滞り無く来週まで定期的に運行します。のんびりと移動して下さい。席は有り余っている、という事です」
「何処までホントだかね」彼女は水着のように露出の多い服を身に付けて、体のほとんどを下種な見物人に公開していた。辛うじて布が掛かっているような処も、その布がどうにも目の荒い、スカスカなもので、ほとんど見せているに等しかった。肩に羽織ったショールは金銀きらきらという艶やかなもの。黒い髪をいくつもの細かな三つ編みにして、油で固めている。私は昔の素っ気無かった彼女を知っていたので、こんな派手な衣装と化粧を物珍しく眺めた。
「薄着だね」と私は言った。
「そういうこと言うんだ」彼女は意地悪い感じに笑った。「何? 気に入らない?」
「いいえ。変な感じには見えません」本当だった。私が女だからかも知れないが。
「君は、格好付けてるわけ」彼女は私の黒いジーパンを顎で差した。
「そう。そういう事かも知れない」
「そっち彼氏君でしょ?」彼女は他の皆と同じく、思い付いたように大介を見た。
「いい男でしょう?」私は出来心で言ってみた。ところが彼女は、
「美形だね」とかなり真面目な調子で言うのだった。
「そんなこと言う人って初めて会ったよ」
「え、嘘、顔で選んだんじゃないのか?」
「違う……と思います」本当は顔で選んだのかも知れなかった。自分の事ながら、私には知り得ない事なので、はっきりとした事は言えなかった。
爆破が無い事を知らせに立つ彼女と別れて、私と大介はまた人を縫って歩いた。座っている人間ばかりなので、うっかりすると片っ端から蹴ってしまいそうだった。そして三人くらい本当に蹴ってしまった。それはそいつらがわざと蹴られるような動作をするからだ。それで、蹴ったと言っていちゃもんを付けて強請りをかけるのが彼らの商売だった。だが私と大介で強請り返してやった。三人目の奴は特にムカつく野郎だったんで、もう五度か六度蹴ってやった。それから飼い主を呼ばせた。飼い主が出て来ると、そいつも駄目野郎で、そのまた飼い主を呼ばせた。今度来た奴は私の知り合いの直属の部下だった。ボスに、ビルを爆破しないという事を伝えるように言った。蹴った事は謝らなかったし、向こうからの謝罪も受け付けなかった。
耳に押し込んでいたイヤホンが喚き出した時、私は見知った顔が沢山集まった輪を見付けたところだった。
「共同第三ビル、五階」イヤホンから連絡が入った。
「今、その下の階に居る」私は首にかけた鎖に通しておいたマイクに向かって呟いた。
「危険です。風波機動隊が入ります」
「具体的に」
「八人。重装備。まもなく階段を下りて行きます」
精鋭隊という感じだ。風波政府も馬鹿じゃなかった。
「なるべく誘導して。なんとか切り抜ける」
「シークレットガードに、銃器使用許可を」
「許可しない。人が多過ぎる」
「了解。続行します」
私は知り合い達の輪の所へ行った。連中は双六をしていた。勿論子供が正月にするやつではなくて、いにしえの頃から伝わる賭け事だ。コンクリートの床に白墨で碁盤の目を描いて、空き缶に入れた二つのサイコロを振っている。駒は中身の入ったビール瓶だった。勝者への賞品を兼ねているのだろう。
「あのさ」サイコロをがらごろと振っている奴に声を掛けた。耳が遠い奴で、なかなか振り向いてくれない。四回目に振り返った。
「おう」薄汚れてずたずたに裂けたシャツを体に貼り付けた男だった。「青だ。ハナダ青。そんな名前だったよな」
「そんな名前でした」
「おめえもやるか?」
「この階から、階段以外の経路で出られます?」私は少し焦って早口になった。
「階段以外? 梯子、あったっけなあ、おい」サイコロを振る手を止め、彼は床に屈み込んでいる連中に怒鳴った。賭博の参加者はぽかんとした顔や警戒した顔や、怪訝そうな顔を上げた。
「何?」猫っぽいにやにや顔の爺さんが私を見た。
「ここから今すぐ逃げなきゃいけないんです。階段以外の経路で」
「追われてんのか? あんた、トラブルメーカーだもんな」
「梯子あったか聞いたんだよ」サイコロの彼はもう一度怒鳴った。自分が耳が遠いので、他の連中にも怒鳴らなきゃ聞こえないと思っているのだ。
「梯子、無いよ」誰かが言った。
「いや、あったよ。西か東に」その隣の誰かが言った。
「ここで一緒に双六やってようぜ」猫顔の爺さんが浮かれた調子で言った。「ばれねえって」
「ばれるって」私は言い返した。「相手は風波政府だよ」
「なあんでそんな面倒のに手え出すかな? 普通出すか?」爺さんはいよいよにやにやした。
「青」大介が私の肩をつついた。「時間が無い。ここで別れよう」
「え?」私は一瞬、言われた意味を取り損ねた。頭の中が白く霞みそうだった。状況を確認。落ち着け。これは遊びじゃない。浮かれてる場合じゃないぞ。
「分かった」と私は言った。
「赤波書房で、三十分後に」大介は言うなり背を向けていた。決断の早い人だ。正攻法で階段を強行突破する気だ。つまり、囮になるのである。
私は、双六の参加者の中から梯子の場所を知っているという人を引き抜いて、案内を頼んだ。橋田と呼ばれている女性で、それが本当の名字なのかどうかは知らないが、長いことそう呼ばれ続けている。徹底して無口な人なので、彼女が黙って速足で行くのをこちらも黙々と追うだけだった。途中、通路が急に開けて広場のようになっている場所で、彼女は一度だけ立ち止まった。
「アイツ」橋田は目を細めて広場の向こう端を睨んだ。ごちゃごちゃした人の群れの中に、一人だけ目立っている男がいた。普通の格好、つまり下層の住人らしく粗末で薄汚いなりをしている。暗い目と、丸めた背中。それも珍しくはない。おかしいのは足取りだった。ふらふらしているようでいて、油断が無い。自信ありげな、慣れた歩調を装っているが、よく見ると緊張している。とりわけ、輪を作って座り込んでいる人々を避けるのが下手だった。かなりぎこちない。風波機動隊の精鋭だろう。
男がこちらを振り向いたので、私は顔を背けて橋田の陰になる位置に動いた。橋田は側を横切った赤い髪の男に掴み掛かり、「政府が」と小声で叫んだ。
赤い髪の男は体をこわばらせて私を見た。
「アイツを捕まえて」橋田は人込みの向こうの追っ手を指差した。「政府だよ」
「あと、七人来る」私は急いで付け加えた。
「あんた、ハナダ……」
「アイツを捕まえて!」橋田は叱り付けるように言い、私の腕を掴んで先へと走り出した。辺りの空気が微妙に変わり始めていた。闇町は、上層から下層まで共通して、侵入者に敏感だ。独特な慣習や不文律が厳しく守られている為、余所者は非常に目立つのだ。そして、余所者は敵に決まっていた。
今や車座になっていた何百もの人間が立ち上がっていた。
雰囲気というものは、噂よりも早く伝わるものだ。隣のグループが立ち上がれば、こちらも不穏を感じて何とはなしに立ち上がる。それを見てまた向こうの一団が立ち上がる。侵入者を見付けた者は、身構える。それを見た者もまた身構える。何かが起こっている事は空気で分かり、何が起こっているかは想像で補える。こうして言葉を介さずに、情報が伝わる事もある。団結などでは決してないが、一つの流れとは言えるだろう。協力し合っているわけではない。同じ向きに流れているのだ。
所狭しと立ち並び、それぞれに動き回っている人の群れ。その中を逃げるのは楽だった。誰も私を見付けられるわけがない。風波機動隊ご愁傷様。面白いのは、下層街の連中は私を守ろうとしているわけではないという事だ。単に警戒し、不安になり、あるいは好奇心から、あるいは何となく、全員が立ち上がっているだけ。そしてそれぞれが自分の思うように勝手な動きをしている。余所者は目立つが、よほどの事が無い限り攻撃は受けないだろう。珍動物のように眺められ、睨まれ、歩くのを邪魔されるくらいが関の山だ。その程度の事で、私が逃げるには充分だった。
橋田は黙って走り、やがて通路の隅の、柱の陰になった暗い場所に飛び込んだ。そこに灰色に汚れた木の扉があった。元は白い扉だったに違いない。橋田はそれをぐいと開けて、私を中に押し込んだ。扉は私の背中でバタンと閉められた。さよならも何も無く、彼女とはお別れだ。
部屋は真っ暗だったが、扉が閉まる直前に梯子の位置を確認できた。飛び付いて足を掛ける。登る。二段抜かし。三段抜かし。疲れるだけで効率が悪い。一段ずつ上がる。階数を数えた。五階、六階、次が七階。九階まで上がる頃には緊張が取れ、深く息をつく事ができた。勿論、手と足は止めない。四肢に疲労が溜まって、じんじん痺れてきた。鉄の梯子は少し冷たく、微かに揺れた。錆が浮いて、手触りは悪い。何処まで上っても真っ暗だ。何階まで上がればいいだろう。ペンダントのマイクに向かって尋ねる。十階より上は、大きな違いは無いとの事。でも悪い方の違いが無いのか、良い方の違いが無いのか、これは大きな違いではないか?
十二階で梯子を下り、床に立った。いや、思い直す。共同ビルの天井は低いから、他のビルとの兼ね合いの為に十上階とか十下階とか、そういう、二つの階に同じ番号を振る制度があるはずだ。赤波書房が居を構える共同第八ビル十二階というのも、十二というのは通称で、実は十三階なのだ。もう一階分上がる必要がある。
膝に手を当てて深呼吸し、耳を澄ました。暗闇の中、梯子は微動だにせず黙っている。この梯子を使っているのは今は私だけだ。しかし、いつそうでなくなるかは分からない。風波機動隊にこういう種類の経路を知られてしまうのは、時間の問題だろう。もうとっくに知られているという事も考えられる。始めのうちは知らない振りをしておいて、いざという時の切り札にするのだ。
気を取り直して再び梯子に取り付き、残りの一階分をあがった。これでやっと赤波書房の事務所と同じ標高に辿り着いた。なるべくこの位置エネルギーを維持したいものだ。下りるたびに、上がらなければいけなくて、上がるたびに体力が消耗される。私の体内からはエネルギーが減り続ける。これは熱力学の法則に適っていない。上がる時に消耗するなら、下がる時には回復してくれるべきだ。何しろエネルギーは保存されるものだと、物理の本に書いてある。そうか、ニュートンは嘘つきだな。
梯子から下りて、外に出る扉を探そうとした。暗闇だった。次の瞬間、私は後ろから誰かに拘束された。あまり、驚かなかった。私の行動は誰にだって予測可能だった。待ち伏せくらいできるだろう。問題は、これがどの組織の追っ手かという事である。風波政府だったら、私の運もこれまでだ。
「誰?」私は体の力を抜いて聞いた。
「絵馬さんだよね」意外な名前で呼ばれた。「そうでなかったら、突き落とすけど」低めだが、女性の声だった。私を拘束する手も、強さは充分だがしなやかで細い。
「私は水無絵馬です。貴方は?」
「赤波書房社員。切田漁というんだ、覚えててくれた?」
「良かった」私は掴まれたままその場に座り込んだ。「いや、もう、本当に良かった」




