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君のいない船  作者: 羊毛
16/28

必殺アボカドサンド (2)

  2.


 少女は大介の部屋を更衣室か何かと思ったらしかった。部屋の主が目の前で見ているのにも気付かなかったに違いない。今まで着ていた薄水色のTシャツを、いきなり脱いだ。大介は困惑した。目を逸らそうにも他に見るものが無かった。本当に狭すぎる部屋なのだ。大介は畳んだ布団の上に腰を下ろしたまま、仕方なくその少女の白い肩を眺めていた。そこからすっと伸びる彼女の腕は細いながらも、そこそこに引き締まっている。いざという時に自分の体を支え切る程度の腕力は、なんとか確保しているのだろう。

 少女は脱いだTシャツを丁寧に畳んで脇に置き、今買ってきたばかりの新しいTシャツの値札を外して、頭から被った。Tシャツは青かった。濃い、深い、ほんの少しだけ暗い青。昨日からはいているジーパンは黒い。いずれも彼女の好きな色なのだろう。色白な所為か、彼女は暗い色の服を着てもよく似合った。大介を振り返って笑った目は、穏やかな茶色だ。髪はあまり長くないのを一つに結っているので、一瞬短く刈っているようにも見えた。

「何か今、よこしまな視線を感じたよ」青は中指に指輪を入れた左手を軽く握り、逆の手で包んだ。

「うん」大介は自分の装備を確かめて立ち上がった。廊下に出る戸を引く。後ろから青の手が大介の肩を掴んだ。

「何? 今のは肯定?」

 耳元で言われて、大介はちょっと首をすくめる。

「私、昨夜から貴方を見て思ってましたけど……」廊下を行きながら、青はまだ大介の肩をしっかと掴んでいた。「貴方の行動や言動の動機は、八割方が欲望と本能に拠るのではないかと」

「残りの二割は?」大介は切り返した。

「残りの二割は、見栄と体裁。他に何かあれば、『その他』という枠を一パーセント分作って、合計が百パーセントにならないのは統計処理上の誤差であり……」

 またおかしな事を言い出した。彼女は語彙が豊富なので、でたらめを言わせれば天下一品である。大介は食堂に出る戸の手前で振り返り、自分より少しだけ背の低い彼女を見下ろした。

 つられて立ち止まった青は黙り込み、大きな目を見開いた。彼女がどんなに動転して変な事を言い出すのかと思うと、大介は彼女の静かな唇や頬や耳元に何度も触れてから抱きしめてみたかった。それで、ぐらぐらと迷った後に大介はそうした。青の肩越しに狭い廊下が見えた。青の鼓動を感じる事ができた。

「気を付けてね」青は平然として身を任せたまま言った。「食事中と交尾中は無防備になるの。トンボの話だけど。私、虫取りが大好きでね、オニヤンマは簡単なのよあれは決まった道をまっしぐらに通るから――難しいのはシオカラトンボ、あの大きさのは飛翔力もあって敏捷性もある。食事中しか捕まえることができないの、それとメスを捕まえた瞬間ね」

「知ってる」大介は幼い頃の山奥での暮らしを思い出して言った。祖父に教え聞かされたのと同じ事を、ここで彼女の口から聞くとは思わなかった。「物知りだな」

「貴方よりは経験積んでるんでね」青は大介の手をすり抜けて離れ、食堂への戸を開けた。

 食堂には三人の人間がいた。流しで食器を洗っている岸、戸棚の中の物を会議机の上に出して積み上げている柾と玲磨。樹脂製の食器がほとんどだが、クッキー缶や茶筒もあった。

「お出かけですか」柾が呑気な感じで言った。「行ってらっしゃい、お気を付けて」

「引っ越しの準備ですか?」青はパイプ椅子と壁の間、僅かな隙間を苦戦して進みながら机の上を見やる。大介はいつもの習慣で、パイプ椅子の上を渡って青を追い越した。

「捨てるのも勿体無いんで、売ろうかと」柾は段ボールにぽいぽいと食器を放り込んでいた。「闇町で物を買い取って、向こうの島、カゴ島で、新しい住人にそれを売る、という仕事をしてるところがいくつかあります。対応が早いですよね、引っ越しが始まったのは昨日なのに、今朝の時点でそういう店が十も立ち上がってる。これ、売れるかな」柾は手を止めて、ゼリーの容器にしか見えない『コップ』を見つめた。

「売れませんよ。ゴミじゃないですか」と岸が振り返って口を挟んだ。

「お前は黙るんだよ」玲磨がつんけんと言った。「社長、僕は意地でも全部買い取らせますよ。一円の価値も無くたって五十銭か二十銭で買い取らせます」

「更に、その下の単位は厘」青が小さな三和土で靴に足を突っ込みながらにやにや笑って言った。「貴様に一銭も払わんと言われたら五厘か二厘で売るといい。十厘で一銭だね」

「うるさい失せろ」玲磨は敵意をむき出して言った。「早く失せろ今すぐ失せろ目障りだよお前は……!」

 大介は最新式の麻酔銃の長針をこの三ツ目野郎の唯一見える額の目にぶち込んでやりたかったが、青に引っ張られて外に連れ出されてしまった。

「あれで九十五歳だよ、信じられる?」少し歩いてから青は言って吹き出した。

「若いのに苦労してるな」大介は素早く周囲の状況を確認しながら、答えた。

 共同第八ビル、十二階。普段からそれほど和やかな場所ではない。昨日から青に付きまとっているハナダ出版社のボディガード一団は、もう少し警戒を強化した様子だった。ハナダ青とハナダ出版社、桜組、それに赤波書房は、今朝の時点で闇町中の組織を敵に回した事になっている。形だけとは言え、ただ事では済まないだろう。闇町にはこんな言葉がある。「理由は撃ってから」。非公正取引委員会とやらで棟梁達がどんな理屈をこねようと、現場の連中がその理屈通りに動く保証は無い。引金をひくのに理由はいらない、理由は撃った後でいくらでも付けられる。そして、一度死んだ者は絶対に生き返らないのだ。

 今更どうこう言うつもりは無かったが、大介は青のこの計画が不満だった。他にやりようがあったはずなのだ。囮が必要だったにしても、それが青である必要は絶対に無かった。結局ここが彼女の悪いところであり、弱みなのだ。何もかも自分で、自分の手で、自分の目の届くところで、片付けたがる。結果として、全てを背負い込む事になる。もう放っとけばいいのに。

 階段を下りていく途中で、ズシンと建物が揺れた。大介は思わず青の腕を掴んで、却って彼女を転ばせる所だった。

「五階か、六階だったかな」青は足を止めずに言った。「景気良く始めたいからね。しかし火薬ってどうしてあんな高いんだろう。予算が許せば打ち上げ花火もやりたかったんだけど、まあ松組がやってくれるらしいから、いいか」

 発破の音は四回ほど続いた。青の口ぶりからすると、闇町四大組織とハナダ出版社はこの『戦争』を演出する為に、こぞって火薬を用意したらしかった。やはり大企業のやることは次元が違う。赤波書房などは最低限の武器の調達の為に商売道具を売り払い、それでもまだ足りずにゼリーカップを五十銭だか五厘だかで売ろうと言うのである。

 十階まで下りて商店街に出ると、熱気とお祭り騒ぎが二人を出迎えた。どの店も営業そっちのけで荷造りをしているのだ。既に引き払って空になった店舗も多かったが、その空白を埋め尽くして余りある喧騒だった。段ボール、箪笥に本棚に机、商品棚。店の看板。梱包用のテープや布やスチロール、あとはひたすらゴミの山だ。元から広くはない通路が足の踏み場も無くなっていた。その隙間を練り歩くのは、柾の言っていた買い取り屋だろう、繁盛している様子だ。誰も彼も怒鳴り合っていたが、踏んだとか蹴ったとか境界線をはみ出したとかで無意味な小競り合いをする者は少なかった。皆、置いて行かれるまいと必死なのだ。

 青の姿を見つけて、駆け寄って来る者があった。柄の大きな中年の男だ。巨体に似合わないチャチなエプロンをしている。彼が口を開く前に青は先手を打った。

「ここの責任者を呼んで頂戴。チカミチさんだったかな」

「青ちゃん」

「いろんな人にいちいち同じこと繰り返してる暇が無いの。責任者を呼んで」

「青ちゃん、大丈夫なのか? 噂をいろいろ聞いたけど」男はちらりと大介を見やり、青の耳元に顔を近付けた。「死ぬ気じゃないだろうな」

「それはありません、いいから同じことを三度言わせないでね」

「分かった分かった、チカミチさんな」男は近くの空き店舗に入って行き、がらくたの山に腰掛けて一服つけていた老人に声をかけた。老人は皺くしゃの手でポケットから携帯電話を取り、耳に当てた。少しの間もしゃくしゃと喋ってから、彼は意外なほど身軽な動作で大介達の待つ通路に出て来た。

「あんたかいな」老人は携帯を持ったまま、ぎろぎろと大介を睨んだ。「あんたが、その子を責任持って庇うってか」

 大介は見知らぬ人間に話し掛けられた時の常で、返事をしなかった。非礼にはならないのだ。どんなに歳が下だろうと、商店街の一老人より赤波書房の社長補佐の方が目上だった。

「あんたがな」老人は繰り返した。「そう、あんたが。そうか」

「チカミチさんを」と、青は静かに言った。

「今呼んだ」老人は不機嫌に言った。「すぐに来るさ。あれは暇だからな。あれもお前さんが好きだよ、ハナダ、青さん」

「私が青じゃいけませんか」青は微かに笑んだ。「私が誰かを好きじゃいけませんか」

「俺がお前さんを見つけた時」老人はごろごろと喉から唸るような声で言った。「お前さんはそんな名前じゃなかった。お前さんは女でなかったし、子供でもなかった」

「そうですね」

 青は笑い、老人はぷつりと背を向けて去って行く。空き店舗は彼の場所ではなかったらしく、こだわりも無く人込みの向こうに消えた。エプロンの男もいつの間にか自分の仕事に戻っている。大介と青は暫くその場で待たされた。

 やがて人込みを掻き分けてやって来たのは五十過ぎの男だった。チカミチというのは通称だったらしく、彼の姿を認めると青は「近藤さん」と呼んだ。

「ああ、もう、大騒ぎだよ」彼は汗の流れ落ちる顔を二の腕で拭いながら、吐き出す息と共に声を張り上げた。「責任者出て来い、だ。こんな突然、こんな全員引っ越しだなんて。君が思い付いたの?」

「さあ。私は今すぐ全員引っ越せなんて言った覚え無いですけどね」

「君が言ったと、SSの木下が」

「そう、スリーピングショップ。あの辺の眠れるっぽい店は全部早めに移動して欲しかったんで、煽ったんだ。ここはそう急がなくてもいいよ。船はまだ十五時と、十八時と、二十一時のがある。それを全部逃しても、零時丁度に食糧船が来る。貴方の管轄の区域全体に、そう知らせてくれるかな。いちいち私が言って歩くと日が暮れるんで。連絡網くらいあるんでしょう?」

「分かった、そう知らせる。十五、十八、二十一、が大きい船で、零時にも小さい船?」

「そうです」青は頷きながら札入れを取り出して、『カゴ島行き』の切符を一枚近藤に差し出した。「これ、足りてた?」

「うん、梅組から支給があったらしい。何処からともなく回ってきたよ」

「じゃあいいんです。零時までに乗って下さいね」

「もし、それを逃したら?」

「死にはしないけど」青は薄く笑った。「私は、ここの人達には今日中に出て欲しい。だから、それ以降の船については教えられない」

「そう……。なるべく脱落が出ないようにはするよ。しっかし無茶苦茶だ。闇町中の人間を今日で追い出す? ハアア。ようく、そんな御大層な事が思い付くよな、ヤクザ様って奴等は」

「ご無理言ってすみませんね。でも、勝算はあります。向こうの島は、夢の国ですよ」

「そう願うよ」

 青は軽く挨拶して別れようとしたが、近藤はがしっとその細い腕を捕らえた。側で突っ立っていた大介は身構えた。

「聞くけどさ」近藤は大介に顎をしゃくった。「そいつ、信用できるわけ?」

「いいえ、全然」青はあっさりと言った。「でも、殺されても無念じゃない相手って居ません?」

「俺にはいないな。しかし君の決めた事だし、文句は言うまい」

「それは文句だね、どう聞いても」

 近藤と別れた後もたびたび二人は誰かに呼び止められた。皆、言う事は同じだった。ただでさえ道が物で溢れ返っているので、全くはかどらない。一つの階を横切るだけで一時間も費やしたような気がした。漸く隣のビルへ渡る架橋に差しかかった時、青の顔は熱気に紅潮していた。全身汗だくで、深い青色のTシャツの背中も濡れている。心なしか息苦しそうだった。

「こんなんじゃ続かないぞ」大介は架橋の薄暗闇の中で呟いた。架橋は普通、窓も無く密閉された四角いチューブだ。これは強度上の問題で、簡易な工事で安全な空中通路を実現する為には、やむを得ない事だった。気の利いた架橋には隅の方に風穴があって空気が出入りするが、それで涼しくなるわけではない。あくまでも中に住む人間が窒息しない為の空気穴だ。いずれにしろ架橋は暗いものと決まっていた。

「今から消耗すると良くない」大介は懐に入れていたジュースの容器を青に押し付けた。中身は氷の塊が半分と、それが溶けた水が半分だった。青は黙って一口飲んでから、容器を突き返した。

「無駄に消耗してるわけじゃないよ」青はちょっと息を切らして言った。「相応の見返りがある。現場に顔を見せるのは大事なことだよ」

「文句を付けてるんじゃない、ただ……」

「分かった、分かった」

 青は頷きながら茶化すように言ったが、特に笑ってはいなかった。余計な事を言ったと大介は思った。彼女と仕事をするのは非常にやりにくかった。何処から何処までを仕事と割り切ればいいのかさっぱり分からない。大介は、割り切りの良さだけで今まで仕事をこなして来たのだ。隣に彼女が歩いていると、自分の仕事が何なのか分からなくなりそうだった。彼女らしくない人選ミスだ。勿論彼女は、それがミスに当たる事を承知で大介を指名したに違いないが。要は何処まで自覚してやっているのか、それが問題だ。

 昨日の午後から付きまとっていた風波政府情報捜査局の連中は、いつの間にかいなくなっていた。替わりに日本政府の手の者と思われる集団がちらちら出てきている。計画は承知していたが、実際に直面してみるとやはり恐ろしいものだ。遠足に来たみたいな呑気な足取りで行く青が、大介には信じられなかった。

 架橋を渡り切ると、再び商店街に入った。ここも先程のビルと同じ状態だった。青は、「詳しい事はチカミチさんに聞いて」と伝えながら人の波を縫って行く。どうやらあの近藤という男の管轄は広いようだ。複数のビルにまたがって縄張りがあるとはかなりのやり手である。青は主要な店の持ち主と顔なじみのようだった。大介は急にその事に思い当たった。

 青はハナダ出版社の創始者になる以前に、闇町の中下層の住人だった。その事自体は、誰もが知っている。底辺から頂点まで駆け昇った人間。だが今、重要なのはそういう事ではない。彼女が天才であるとかカリスマであるとか、そんな事ではなかったのだ。今、最も重要なのは、彼女が中下層の絶対的な支持を得ているという事だった。

 昨日の夕方の青の言葉が、大介にも漸く呑み込めた。「私の権力はトップダウンじゃない」。闇町の大多数の住人にとって、四大組織の長は顔の見えない怪物でしかない。だが青は、皆がその素顔を知っている。そういう事だ。彼女の権力は、地に足の付いたものなのだ。引っ越しの準備に大騒ぎしている商店街を巡るのも当然の仕事だった。青が来なければ、この引っ越しは上手く行くはずがない。皆は青を信頼しているからこそ、急な引っ越し号令にも不平を言いつつ従う。船の着く時刻を知らされれば単純にそれを受け入れ、疑わない。これが他の四大組織からの一方的な通達だったなら、闇町の住人は一人として顔も上げないだろう。連中を動かせるのは、青だけだ。

 また一つビルを横切り、架橋を渡る。大介は無言で氷水の容器を渡した。青は多めに飲んで、大介にも飲むよう促した。冷たい水が喉を通って流れ落ちて行く。空気は何処もむっとしている。風は無い。

「だんだん怖くなってきた」青は首を傾けて、耳に嵌めたイヤホンからの情報を聞き取っているようだった。大介に向けた笑顔は、ちょっと無邪気だった。

 大介は杖を握る手に力を入れた。杖は何種類も持っているが、今日持っているのは当然、非常時用の軽い杖だった。鎖が付いていて、ベルト通しに繋いである。武器を使う事になって両手が塞がっても、これで杖をなくす心配が無い。

「日本からの奴等はなんであんなに人相悪いんだろう」

「さあ。それも演出かもね」青は足を速めた。

 大介も速めた。「風波の機動隊は出たのか?」

「出したつもりらしい。そこそこ見当違いな所に張り込んでるよ」

「そりゃ結構な事だ」

「大介さん」青は突然立ち止まり、じっと見つめてきた。

 架橋の薄暗闇の中、大介はあらゆる意味で身構えた。日本政府とかより絶対に怖かった。

「言っておきたい事が」

「はい」と大介は言った。

 青はたっぷり間を置いてから、「冗談です」と断言した。

「え?」

「何でもありません。ちょっとからかってみました」歩き出す。

「ああ、そう」大介はいろいろと返答を考えた。「何かな……楽しいのか?」

「うん、楽しい」

「そう……楽しいなら、別に構わんが」

「ああ」青は微笑んだ。「貴方はそういう所が、いいね」

「どういう所?」

「そういう所」

 次に入ったビルは、比較的静かだった。ほとんどの店が引き払った後だった。遅れを取った店が黙々と荷造りをしている。青は十八時の船に乗るように言って回った。

「九時にも来るんでしょ?」八百屋のおばさんが青を引き止め、自分の聞いた噂のあれこれを並べ立てた。「日付が変わってからも船があるって聞いたけど。誰も彼も言ってる事がバラバラ」

「割り当てがあるんですよ」青はゆっくりと、静かに言った。「このビルの店には、十八時のに乗って欲しいんです。偏りが出ると困るでしょう。十八時のがスカスカで、三時間後の船に定員の二倍が乗り込んだりしたら。上層部にとっちゃ、移動さえできればそれでいいんでしょうが、乗る側にとっちゃ船の込み具合は死活問題でしょう?」

「ああ、指定席にしてくれれば良かったのにねえ」

「それも考えたんですけどね。この街の人達って、指定通りに乗りそうもないし」

「でも、ハナダとか松組とかの社員の家族は、専用の船を指定されてるとか」

「ええまあ。どっからそんな噂が……企業秘密だったのに」

「松組は孤児院の子達を指定の船で纏めて移動するとか」

「ああ、ああ。なんで松さんはそうやって情報漏らすかな、まったく。どっちにしろ、指定の船はどれも日付が変わってからの出発になります。安全な者ほど、出発は後回し。下から順に、が今回の引っ越しの大原則です。これは私の提案なんです。今のとこ上手く行ってます。移動しにくい、立場の弱い人ほど優先です」

「取り残されたら、ビルごと吹っ飛ばされるんでしょ?」

「私がそんな事させるように見えます?」

「もちろん、アンタの事は信用してるけどねえ」おばさんはそしてやはり大介を見た。「こっちの彼は、信用できるのかい?」

「みんな、そう聞きます。そんなに人相悪いでしょうか、この人」

「だってこいつは万引きだよ。いっつも人の店からメロンとかメロンとかメロンとか、かっぱらってくんだ」

 いつもじゃない、一度だけだと大介は思ったが、黙っていた。嫌なババアだ、あれは十年前じゃないか。いつまで根に持ってるんだろう。

「申し訳ありません、よく言い聞かせておきます」青は八百屋さんに頭を下げた。

「アンタが謝る事じゃないよ、早くこんな男とは別れるんだね」

「それができれば、苦労は無いのです」

「アンタから言い寄ったって、本当なのかい?」

「みんなそう聞くんですね。そんなに意外でしょうか」

「そう。アンタみたいな人でも、目が節穴になるって事があるんだねえ」

「はあ。返す言葉もありませんが……」

 さんざんいいように言われて、次に引き止められたパン屋の兄いにもすっかり同じ事を言われた。青はしかし、大介の悪口を言われるのが嬉しくてならない様子で、始終にやにやして応じる。言う側にしても悪意があるわけではないようだった。

 それからも架橋を渡ったり階段を上ったりを繰り返し、闇町中の主要な商店街を網羅した。ほとんど店が引き払った静かな通りもあれば、てんやわんやの所もあった。とかく恐ろしいのは青の顔の広さだった。何処へ行っても知り合いが居る。信じられない事だった。壁の黄ばんだ煙草屋の椅子を借りて休憩を取った時、大介は素早く訊ねた。

「お前、出身は何処だ?」

「東北地方」青は澄ました感じで言った。「白神から奥羽辺りを、昔そう呼びました」

「そうではなく、この街で、根拠地は何処だ?」

「貧困街」

「なんでこんなに知り合いがいる?」

「長生きしてるから」

 店は冷房が効いていた。店主のちょっととぼけた顔の老人は、二人に冷たい牛乳を出してくれた。

「どうですか、最近の流行りなんかは」青はカウンタの向こうでのんびりと荷造りをする老人に話し掛けた。「アサは古典的なのが再流行してるって聞きましたけど」

「麻は売れなくなったね」老人はにこにこして答えた。「昔っからの愛好者が、定期的に買ってくだけ。だから、比べればァ、古典的なのが売れてる事になる」

「そうだろうと思いましたけど」

 麻薬の話だった。大介は一度だけ耳にした事がある青の過去を思い出し、それが本当だったと知った。闇町に来たばかりの頃の青は煙草屋で食い繋いでいたと聞いた事があった。この街では、煙草に『麻』を少し混ぜるくらいは誰でもやっている。当然煙草屋と言えば麻屋も兼ねるのだった。

 青が来た頃というと、ミナタクルと呼ばれる幻覚剤が流行り出した頃だった。青の母親が遺したと言われる魔法の薬の復刻版。復刻は失敗し、替わりに幻覚剤が生まれたと、まことしやかな伝説がまかり通っている。青は母親の名が付いた麻の流通を、その目で目撃していただろう。彼女がどんな風に関わったかは分からないが。大介はそれからちらりと柾の事を思った。あの馬鹿がこの街に嵌まり込んだのも、ミナタクルの為だった。ミナタクルは麻屋殺しと呼ばれる事があったそうだ。高値で売れる事は確かだが、結構な確率で使用者が死んでしまう。そうでなくても廃人になる。すると結果として客が少なくなり、麻を売る側は生活に困る事になる。こうなると麻屋も必死で、ミナを打ち消す薬と言っていろんな他の麻薬を売り付けたり、もはや無一文の廃人に金を出せと責め立てたりといった無茶をする。ミナタクルのおかげで麻屋業界は大変荒れたようだった。柾がその道に関わっていたので、大介もいろいろと話を知っていた。

「あの頃が懐かしくなったりね」老人は荷造りの手を休めず、言葉を繋いだ。

「どの頃です?」青は僅かに目を細めた。

「あんたァ、大きくなった」老人は勝手に自分の話を続けた。「見かけは、あまり変わってないみたいだけど、本当はすっかり変わっちまった」

 青は黙っていた。不安げな目で、ちらりと自分の手元を、牛乳の入ったグラスを見た。こんな風に動揺する彼女を大介は初めて見た。

「思い出は嫌いです」青は小さく、また低く言った。

「思い出はいいもんだ」老人は穏やかに言った。「いつかそう思う」

「懐かしい、なんていうのが、とても嫌です」

「それはな、あんたが、難しく考えるからだ」

「そうでしょう、きっと」

「いい事じゃないか?」老人は顔を上げて、大介を見た。「誰かと一緒に居て、一緒に歩く。昔のあんたには考えられなかった事だ」

「それで?」青は無表情だった。

「昔のあんたより、今の方がよっぽどいい。そういう事を思うと、俺みたいなひねくれ者は、昔が懐かしくなるんだな」

 青は急に微笑んだ。その目はそっと哀しげだった。綺麗だと大介は思った。彼女が愛しくてならなかった。今すぐ何処かへ消えてしまいそうな、何処までも何処までも流れて行きそうな彼女の、全てが。

 店を出て暑苦しい通路へ出て、周囲を確認し経路を確認しても、大介は何も考えられなかった。この状態でも仕事はこなせるだろう。何処か自分の一部分が、宙に浮かんで置き去りにされるように感じた。青は先程の事などまるで記憶に無い様子で、相変わらず楽しそうに歩いて行く。二人でどうでもいいような、無意味な言葉を交わしながら歩き続けた。

「心は何処にあると思う?」

「頭」

「そういう知識を植え付けられたから、そう思うんでしょう?」

「じゃ、心臓?」

「真面目に考えてよ」

「お前は、何処だと思う?」

「昔、ずっと前だけど、風呂に入ってる時に考えた……。体のあちこちに順番に手を当てて、そこにあるかどうか考えるの。それで、何処にも無かった。手を当てて考えれば分かるよ。感じられるよ。私っていう自分は何処にも無いね。胸にも、頭にも、在るって感じがしなかった。裸になってやらないと駄目だよ」大介が今度試そうと思っていると青は先回りして言った。「服があると、ごまかせる。その為に服を着るのかな?」

「そうなのか?」ちょっと突拍子も無かったので、大介は笑った。

「服を着ると、自分が居る感じがするでしょう?」

「それより、物を食ってる時だろう」

 階段を下りて行った。ますます空気は重く、腫れぼったくなる。何処にも逃れられない密閉された街だ。息苦しいのにも慣れてしまったが。階段は固く、足音はピンポンのボールのように確実に跳ね返る。青は立ち止まって「水」と言った。ボトルの中の氷はほとんど見る影もなくなっていた。青は少し飲んで突き返し、そして黙って大介の目を見つめた。彼女は不安なのかも知れない。何度も何度も、こちらを見つめる。何を確かめようとしているのだろう。こんな時大介が思う事と言ったら、ここが真っ暗闇の寝室だったら良かったのに。本当にそう思う。他に何もいらない。これは、感情だろうか、それとも、本能だろうか。どちらでも同じだとしたら、どうだろう。彼女がこんな気持ちにさいなまれる事は、果たしてあるのだろうか。

 青は黙って歩き出す。階段の続きを下りて行く。大介もそれに従った。彼女の目が逸れると、仕事の気分に戻る事ができた。仕事でへまをやるという予感は無かった。この計画と共に大介の役割が決められた時、多くの人間が青の『人選ミス』を危惧した。しかし状況が多少変わったくらいで腕が鈍るようでは玄人とは言えないだろう。祖父がいつも言ったものだ。人に見られると上手く行かないのは、まだ半人前。一人前は眠りながらでも撃てるもんだ。青との仕事は非常にやりづらいが、それで失敗するという事は無い。絶対に無い。

 階段を三階分ほど下りた。アキタ創秀ビルディング、五階と四階の中間だった。その踊り場で青は不意に足を止め振り返った。視線は大介を通り越して、上の階の通路を一瞥。

「兄貴」

 大介もすぐさま振り返っていた。派手なオレンジのジャンパーを着た背の高い男が視界を横切り、すぐに消えた。闇町不良連中の英雄、デスカーズのジョーカー二世、高瀬継優だ。何をしに来たのだろう。青と一緒に闇町を飛び出した後は、日本に渡って呑気にラーメン屋をしているはずだったが。しかし何でもいいだろう。彼には彼なりの理由があったに違いない。重要な事は五階ではなく、四階にあった。そちらの方から迫って来ていた。青は気付いていない。一瞬に横切った友人に気を取られて、完全に注意が逸れている。彼女は素人なのだ。

 大介は一度五階にやった目を下に戻しながら、するりと背中の武器を引き抜いた。青が遅ればせながら気付いて動こうとする。遅い。動くなと目で知らせる。伝わっただろうか。彼女と迫って来る奴との間に立つ。武器を持ち上げ、位置を固定し、針の行く先を見定め。流れるように、決して省略せず。だが傍から見れば一瞬の動作なのだろう。

 気道を狙った。


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