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君のいない船  作者: 羊毛
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蒸焼プリンスメロン (3)

  3.


 結局眠れないとか言って七時間寝ている辺りが私の生命力だった。大介に叩き起こされなかったら七十年だって寝ていたに違いない。私は眠れないとか言っても二十四時間起きていた事は無いし、食べれないと言っても半日も断食した例が無い。それくらいでないと人生は進んで行かないのである。

 朝食を食べている間中だれも私に話しかけてこなかったので、さすがに思慮が浅かったと思った。だけど思慮が浅いのは赤波書房の連中だ。沈着冷静、合理主義だけが取り柄のこの私があんな薄汚い、壁の薄い部屋で大介なんぞとあれやこれやするとでも思っているのだろうか。まったく困った連中だ。朝食は美味しかったが雰囲気は最悪だった。とにかく私が居ちゃいけないような空気だった。

 誤解を解く術も無く、岸が食器を洗うのを手伝った。頼まれたわけではないが、岸が一人で洗っていたので勝手に手伝った。岸は笑顔の爽やかなねちねち野郎には違いないが、これでいて思慮深く思いやりのある男なのだ。岸の説明によると、皆の機嫌が悪いのは私の所為ではなくて、霞が昨夜柾さんに思いの丈を打ち明けたのが原因らしかった。当然断ったであろう柾さんはしかしすっかり沈んでしまったし、他の連中は他の連中で昔の嫌な事を一斉に思い出して不機嫌になっていたというわけだ。確執が終わった後に入社した岸や、居候の黒猫議長は蚊帳の外。一晩いい気分でぐっすり眠っていた私と大介も蚊帳の外らしい。改めて赤波書房の暗さを思いつつ、八時四十五分に大介を連れて出発。

 ハナダビルは他の建物に比べるとかなり新しい。十五階の正面玄関は架橋を渡って出た所が高級ホテルのロビーらしくなっていて、五つのエレベータが豪勢に並んでいる。現社長八羽島影仁やはしまえいじんが直々に出迎えた。私ってなんて偉い人間なんだろう。大介にはそのホールで待っていて貰う事にして、八羽島に付いてエレベータに乗った。途端にイヤホンを通してやかましく報告を続けていた秘密ボディガード達はぷつりと静かになった。そこらへんの教育は徹底しているのである。風波情報捜査局とは大違いだ。

 八羽島は予想通り、かなりやつれていた。具合が悪いのかと思うほどだった。ろくな食事をしていないに違いない。お土産に蕎麦は買って来れなかったが、替わりに大きなふかふかしたクッキーを一枚、ポケットから出して渡した。八羽島はすぐに包装を開けてエレベータの中で少しかじった。私はいつもの癖で階数表示を睨んでいた。

「青さん……」八羽島はぽつりと言った。「疲れたっすね」

「そうですね……」と私は言った。

「お疲れ様、と言えればいいけど」

「お疲れ様です、八羽島さん」

「うちの船に乗りませんか? 席を確保しましたから」

「皆からそう言われます。闇町中の組織から。嬉しい事ですよね」

「何がですか? 必要とされている事が?」

「いいえ……そうかも知れません。でも、きっとそういう、理屈じゃないですよ。気分です、気分」

「本当に、乗らないんすか?」

「乗りません」

 それから八羽島も私も黙った。エレベータはどんどん昇っていく。

「何故?」と急に八羽島が聞いた。「飛行船が嫌いですか?」

「いいえ……大好きなんです。一度乗ってみたいと思ってます」

「だったら、何故?」

「待ち切れないんです。自由になる日が。何しろ若くてね。せっかちなんですよ。屋上に立って……自分はもう何処へ行ってもいいんだって、その気分を早く味わいたいんです」

「みんなが心配してます。もちろん俺もです。青さんはもう、この世に未練は無いんじゃないかって」

「みんな何処に目を付けてるんでしょう。私は未練で生きてるんですよ」

 エレベータは静かに最上階に到着した。扉が開く。

「北泉に、会って貰えますか」八羽島が言った。

「ええ」生きているか死んでいるか、聞こうとしてやめた。今さら聞いたって無駄な事だ。最上階は廊下中がしんと張りつめている。空調が効いて、肌寒いほど涼しかった。

 八羽島は自分がいつも使っている部屋に私を入れて、机の引き出しを開けた。最下段の、大きな引き出しだ。その奥に手を突っ込んで、薄紙に包んだ約束の品を引っ張り出す。

 私の手に乗せた。

 内側に小さく文字の刻まれたリング。ペンダント用の鎖が通してあった。

「凄い」私は内側の細かな文字を読みながら、呟いた。「八羽島さん。ありがとう」

「こんなにシンプルで、良かったんすか?」

「いいんです……本当に、ありがとう」

「いいえ」八羽島が微かに笑った。ちょっと寂しそうでもあった。「こちらこそ」

 お別れのような気がした。実際、もう会う事は無いだろう。別れはこんなに哀しいものだったろうかと私は考えた。私はいつも、考えてばかりだ。

 リングを鎖から外して、指輪のように左手の中指に入れた。少し緩いが、手を軽く握っていれば落ちないだろう。空っぽの鎖は自分の首にかけた。首の後ろで、手探りで止め金を嵌める。これでいい。今日が決着だ。

 北泉に会おう。何があっても……もう引き返せない。

 だだっ広い、ホールのような部屋に入った。部屋は引っ越しの準備に使われたらしく、真新しい段ボールや書類の詰まった大きなケースや、何やら分からない大きな包み、箪笥、ロッカー、巻いた絨毯といった荷物で一杯だった。雑多な物に占領された部屋の奥に、ぽつりと大きな箱が立っていた。

 段ボールでぐるりと囲まれている。広さは三メートル四方だろうか。高さは三メートルを少し越すくらい。上には段ボールの替わりに大きな青いシートが被さっている。なんだか全体的に、奇妙だった。人の居る気配がしない。

「北泉」荷物を除けて進みながら、八羽島が声をかけた。「青さんが来た。顔を見せろ」

「ああ」

 檻の中からだるい返事が返ってきたので、とりあえず私はほっとした。左手を握り締めて、緊張して近付いた。

「北泉さん?」

 檻の正面まで来た時、ぱっと北泉の姿が見えた。正面の出入口だけが、段ボールではなく白いカーテンで覆うようになっていて、それが開いていたのだ。中が見えた。北泉が無表情で床に座っていた。その姿が見えたのは、しかし一瞬だった。

 彼は私を見た途端、黙ってさっとカーテンを閉めた。

「おい」

 八羽島が呆れたように、怒ったように言うのと、中で北泉が立ち上がる音が同時だった。続いて、段ボールを蹴破る音がバンと響き、檻がガシャンと揺れた。

 八羽島が何か言おうとした。

 だが、けたたましい音でがなりだした非常ベルが、八羽島の文句を遮った。

「北泉」

 私は急速に不安になった。

 ベルの音がそれを増幅する。

 鳴り続ける。

 ビル中に響く。

「北泉」

 なんだろう。これはなんだろう。

「八羽島さん、鍵は? 開けて」

「北泉?」

 八羽島はポケットから鍵束を取り出して、檻の出入口に飛びついた。

 鍵は南京錠。

「北泉! 返事しろ!」

 ガタガタ揺すりながら、八羽島は鍵を差そうとする。なかなか差せない。鍵を間違える。やり直し、やり直し、鍵を差す、回らない、つっかかる。

「北泉」

 ベルを鳴らしたのは彼だ。ベルは鳴り止まない。

「北泉! 聞こえないのか! 北泉!」

 八羽島が怒鳴る。

「黙れっ」

 北泉がベルの向こうから言った。どこか遠かった。

 鍵が外れる。鉄格子の戸に、私は飛びついた。

 震える手で。

 戸を勢い良く。

 カーテンを掻き退けて。

 パソコンが目に入った。

 北泉は、

 いなかった。

「なっ……」

 ベルの音は、止んだ。静寂。

 閉ざされた部屋。

 パソコンの乗った簡素なテーブル、椅子。

 天井は低い。伸し掛かるように、重く。

 鉄格子。段ボール。鍵のかかった出入口。

 罫線がたっぷりの大学ノート。そんなノートを思わせる、隙の無い鉄格子。

 床にも段ボール。その下に浮き上がる、太い鉄格子。

 天井にも鉄格子。青いシートがその上に。

 五本ずつ直交する鉄格子は、グラフ用紙を思わせた。

 三十六マスの正方形に区切られた、くしゃくしゃの青い天井。

 破れた段ボール。その向こうの非常ベル。それもこれも皆、鉄格子の向こう。

「……密室?」

 思いがけない答え。

 八羽島は入口に立っていたが、近付いてくる足音を聞いて檻の反対側に駆けて行った。

 非常出口だ。

 非常ベルのすぐ側に、非常出口があった。鉄の階段を上がってくる、軽快な足音。

 八羽島は鉄扉を開ける。

「わっ」足音の主は突然開いた扉の前でのけぞる。若い。男の子だ。

「北泉は」八羽島は少年に聞いた。「いま誰かと、すれ違わなかったか」

「はいっ。いいえっ」少年は息を切らしている。「誰とも……っ。この階段で良かったんですよね?」

「……ああ」

「ベルが鳴ったんで……非常通路の確認ですよね?」

「……ああ。ご苦労様」

「何か、ございましたか?」少年は不安そうに、八羽島を見上げる。

「いや何も」八羽島は言った。「屋上まで上がって、誰もいなければそれで終了。帰っていい。ありがとう」

「はいっ」少年はふうっと大きく息をついて、階段の残りを駆け上がる。

 八羽島は扉を閉めて、振り返る。

 段ボールの破れた所から、私は八羽島を見る事ができた。八羽島は思いっきり楽しそうに、にっこりした。

 私はもう我慢できなくって、吹き出した。


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