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君のいない船  作者: 羊毛
13/28

蒸焼プリンスメロン (2)

  2.


 風波ゼロ年の大災害は、とどめだった。それ以前から、SKは破綻していたのだ。私はそれを覚えている。私が十歳だったあの年、中央研究所とそれに付属する教育機関は荒れに荒れた。殺人事件が起こり、内々に処理された。研究員達がボイコットを起こして研究はストップした。湧佐大河ゆうざたいがという若い研究員が、名前の無い『失敗作』をキシと名付けて海の向こうに連れ去った。『失敗作』達の世話係をしていた黒猫議長も、あの頃は本当に十九だった。若かったのだ。

 地震の瞬間を覚えている。私は中央研究所の中でも特に人の出入りが制限された、秘密の地下棟に居た。そこに、気が遠くなるほど沢山の奇形の子供が、一人ひとりガラスの水槽に入れられて生きていた。その棟に入れる人間はごく限られていた。その権限を持つ者がまず少なかったし、権限を持っていても絶対に入ろうとしない者が多かった。普通の神経では正視できないのだそうだ。その場で昏倒する者も多く、私が初めて入る時も別室にベッドと気付け薬が用意されていた。結局私は皆が心配したような事態にはならなかったわけだが。今思えば、あれは心配というより期待だったのかも知れない。私が予想通りの反応をしなかったおかげで、周りの者達がどんなに落胆したかを考えれば――そう、あれは確かに落胆だった――皆は私が母とは違う、普通の神経を持った人間である事を期待していたのだ。しかしなんとも残念な事に私は母の娘だった。

 母体を通さず、完全に人工の環境で生まれてくる子供の中には、常に一定の割合で奇形がいた。原因は不明。動物を使った実験ではそんな事は起こらなかった。あるいは、起こっても見過ごされたのだ。ちゃんとした体と知能を持って生まれた子供は付属の教育機関できちんとした教育を受けたが、奇形が重度の子供は水槽から出る事が不可能だった。地震が来た時、私がガラス越しに眺めていたのはそんな子供達だ。

 奇形はあっても、どうにか水槽から出て来られた子供もいた。研究所は彼らにできる限りの範囲で整形手術を施し、教育を受けさせたが、中にはまったく手の施しようが無い奇形もあった。そういう子供達は誰からも相手にされず持て余され、番号で識別され、特異な事例として観察の対象にされるだけだった。その世話役に、ある日突然やって来たのが黒猫議長だ。

 内部崩壊のとどめに、大地殻変動。組織はばらばらになった。多くの関係者が口封じを恐れて国外に消えた。建物も設備も無くなった。水槽の中でしか生きられない子供達は、水槽とともに全て失われた。黒猫議長は残りの奇形児を引き連れて北へ……私は、薬で満たされた瓶の中に。

 議長率いる妖自連は、当初は三十人近くもいたはずだった。私が瓶から出て来た時には、それが五人に減っていた。直後に岸が帰国して六人。それも今では更に減って、四人になっている。

 岸実生、宮凪玲磨、悟淨切真せつま、今は切田霞きったかすみと名を変えた長谷川慕子もこ

 これに加えて、あの時国外に逃れた関係者の子供である瀬川吉郎きちろう切田漁いさり

 タイロス社という組織のボスを殺し、水無貴流の作った薬の復刻版『ミナタクル』に関する秘密を握っていると誤解された赤波柾。彼の連れてきた相棒、阿成大介。

 赤波書房は陰鬱な家族だった。

 とかくその暗さと言ったら無かった。このメンバがどんな経緯で寄り添ったのか私は知らないが、連中が赤波柾を寄ってたかって苛め抜いたという事実は闇町中の人間が知るところである。可哀相に、柾さんはすっかりぼろぼろになってしまったのだ。彼のただ一人の味方だったであろう阿成大介も、実際のところ彼の救いにはならなかった。大介も散々な目に遭ったが、柾さんも散々な目に遭った。根が図太い大介は今では健康そのものだが、線の細かった柾さんは二度と元の体には戻れない。

 赤波書房のメンバは皆一様に目が暗い。いつも不機嫌な顔を貼り付けている大介は、まだマシな方だろう。病み上がりの顔に諦めたような笑顔を見せる柾さんは、驚異的だと言っていい。他の皆はまるで人形だった。無表情、あるいは微笑、それでいて部屋の隅に立っているだけで見る者に怨念の気配を感じさせる、あのタイプの人形だ。

 ただし、一人だけ例外が居るとすれば。

「柾さあん!」

 廊下の突き当たりから、切田霞の大声が聞こえた。その声の反響具合からすると、突き当たりにはシャワールームか何かがあるようだ。廊下の幅は信じがたいほど狭い。赤波書房に入社基準があるとしたら、まず事務所の廊下を通れる程度の体格である事。それに、閉所恐怖症でない事だ。

 廊下の左右には一定の間隔を置いて引き戸が四つずつ並んでいる。赤波の社員が一人一部屋あてがわれる自分の寝室である。どの戸にも部屋の使用者を示すプレートなんかは見当たらず、どれが誰の部屋なのかは暗黙の了解らしかった。

「柾さん、今日髪洗うんですかあ!」切田霞が廊下の向こうから叫ぶ。

「なんで?」と私の後ろ、食堂に続く戸の向こうから柾さんが怒鳴り返した。

「シャンプーがありません!」

「ああ、ほっとけ」柾さんは戸を開けて廊下に出て来た。「間に合わせる」

「でも、シャンプーの容器がありません!」切田霞も奥の戸を開けて飛び出してきた。明るい水色の髪、同じ色の目。三歳で長寿薬の投与を受けた彼女は、今でも少年のようだった。髪を短くして、膝丈のズボンにTシャツという出で立ちだ。

「なんで?」柾さんは食堂の戸口に立ったまま聞いた。

「僕が捨てました」霞は張り切って言った。

「なんで?」

「空だったから」

「捨てんなよ」柾さんは仕方なさそうに言った。「水注げばもう十回くらい使えたのに」

「お言葉ですが、水を注いで振っても何も出て来なかったので、捨てました」

「あれはやり方があるんだよ……まあいい」柾さんはまた食堂に戻って、戸を閉めようとした。

「柾さん!」霞が、大声で呼び止めた。

「なんだよ、聞こえるよ」柾さんは閉めかけた手を止めた。

「絵馬さんは、お風呂に入るでしょうか」

「本人に聞けよ。ここにいるじゃないか」

「え?」霞は聞き返した。おいおい、と言いたくなったが、彼女が難聴だった事を思い出した。随分改善されてはいるようだが、今でも早口や小声は聞き取れないのかも知れない。

 柾さんは身振りで私を示して、食堂に戻った。

「シャワーだけ、お借りします」私は聞かれる前に言った。

「シャワーは無いよ」霞は陽気に、歌うように言った。

「無い?」どんなバスルームなんだ。

「冗談。あるよ。熱湯か水か、どっちかしか出ないけど」

「ああ、構わないです。水を浴びます」

「絵馬さん」霞は嬉しそうに言った。

「はい?」

「玲磨と何を話したの?」

「いえ、特に、何も」

「絵馬さん」

「はい?」

「どうしてそこに居るの? トイレ?」

「いえ、霞さんの部屋をお借りできるという話だったんで、場所を聞きに」

「え?」霞はまた聞き返したが、面倒な奴だと思ったらそれが私の顔に出たらしく、「ああ分かった」と遮った。「部屋ね。ちょっと待ってね。この部屋だから、先に入ってて。今行く」そう言って霞はまたバスルームに飛び込んだ。

 私は霞が指差した戸を開けて、中を覗いた。何も無い部屋だった。薄っぺらな戸棚が一つあるだけ。床にはふかふかした寝袋と、タオルケットがきちんとして置いてある。その他には何も無い。勝手に入るのもどうかと思ったが、廊下に立っていると廊下を塞いでしまうので、電灯を点けてその部屋に入った。部屋は牛乳石鹸の香りがした。

 霞に関する記憶はあまり無い。十七年前、私が瓶から出て来た時は長谷川慕子と名乗っていた。妖自連のメンバの中ではひときわ幼く、殆ど喋る事も無かった。その頃はまだ難聴がひどかったのだろう。いつも暗いというわけではなかったが、笑う事は少なかったように思う。変わったのは、闇町に来てからだ。

 噂の又聞きだが、彼女は例の闇町人材派遣センターの知能テストで異常なまでの高得点を示し、切田家に高値で買い取られたらしい。以後、切田家の養子となって高等教育を受け、数年でそこの国立大学の医学部に入学した。彼女が、中央研究所では難聴の上に脳に障害がある『失敗作』と断定されていたのはいっそ皮肉だった。

 やんちゃ坊主だった悟淨切真の変わりようにも驚いたが、長谷川慕子から切田霞への変身はまた格別だった。この六月に十七年ぶりに顔を会わせた時には、別人としか思えなかった。彼女の変化は、良い方向への変化に違いないが、私はなんだか凄く心もとない。時間が経つという事は、こういう事なのだろうか。私の中には、時間が流れているのだろうか。変化が切ない。物や人が変わって行くという事が、何故だか虚しい。何も変わらないで欲しい。何もかも、私の側に留まればいいのに。

 毎日が楽しくて仕方ないらしい切田霞を、赤波書房の連中は冗談混じりに『躁病』と言っている。本当に、病気なのかも知れない。楽しがる事しかできないのかも知れない。だとしたらそれが彼女の砦なのだ。過酷な人生、皮肉な運命、選択の余地も無い暗い長い道、全てから自分を守り切る為の、彼女の砦なのだ。

「お待たせ、お待たせ」霞が部屋に入って来る。「うん、まあ、ここだから。好きに使っていいよ。使わなくてもいいし」そこで霞は後ろ手に引き戸を閉めながら、私の耳元に吹き込むように言った。「社長補佐の部屋の方が何かと楽しいでしょう?」

「はあ」否定はしないが。

「何かあったら、僕はこっち隣の漁ちゃんとこに居るから」切田家の実の娘が漁さんだ。義理の姉妹だが、仲はいいらしい。

「霞さんて、物が少ないね」私は寝袋の上に腰を下ろして言った。

「ううん、たっぷり持ってるよ。全部、漁ちゃんとこに移動した」

「それは……なんというか、申し訳ない」

「いいのいいの。漁ちゃんはそれこそ、なんにも持ってないからね。部屋がガラ空き」

 ガラ空きでも充分狭い部屋だ。

「ね、絵馬さん」霞は私の隣に勢い良く腰を下ろした。「社長補佐に絵馬さんの方から言い寄ったって本当なの?」

 これはよくある質問だった。

「ええと、まあ、それなりに」

「なんて言ったの? いきなり打ち明けたの? ねえねえ、僕真面目にご教授願いたいんだよ。どうやって、落としたの?」

 ああ、マジ困った。

「ねえねえ」

「いろいろ言ってみたんですが、初めは怒られました」私は仕方なく説明した。「それから、二度三度とねばると、『もうそれは聞いた』と言い出すので、馬鹿野郎と言ってやりました。最近では調教の成果が出まして、ねだると向こうから好きだと言ってくれます。酷い棒読みなんですが、まあこの程度が限界でしょうね……」

「どうやって」霞は真剣なのかふざけているのか分からないが、ともかく真面目っぽい口調で私を問い詰めた。

「なんでですか?」

「僕ね、柾さんが好きなんだ……」

「はあ」それはなんと言うか、様々な方向で前途多難だ。

「きっぱり打ち明けた方がいいんだと思う? それとも何か手順があるの? 迷惑かな……きっと柾さんも怒るんだ」

「いや、怒る人ってまず居ないと思います。柾さんと大介は違いますよ。大介はただのど助兵衛ですけど、柾さんはもっと繊細で道理の分かる方で……」なんで私が柾さんを解説しなきゃならないんだろう。「とにかく、ちゃんと伝えれば、まともな返事はしてくれると思います。少なくとも怒ったりなんかしません」

「うん」霞はなんだかうな垂れたようだった。「まともな返事、か」

 私は黙っていた。

「イエス、とは来ないよね」霞は溜め息をついた。「丁寧に断られるだけのような気がする」

「そうでしょうね」私は別に霞に同情しないのではっきり同意した。赤波の連中は総出で柾さんを苛め抜いて病気にしてしまったのだ。霞だけが例外だったとは私は思っていない。虫が良すぎる。

「そして何度もねばっても、柾さんはウンザリするだけなんだ」

「そうでしょうね」

「ねえ、絵馬さん……」

「言うだけ言ってみたらいいでしょう」私は明日の朝ハナダ出版社に行く事なんかを考えると憂鬱だったので、機嫌の悪い返事になった。「柾さんだって、寂しい時はあると思いますよ。息子さんはそろそろ親離れの時だし、まあ彼は同性からもてるみたいですけど、岸だって桜組の棟梁だっていつまでも側にいてくれるわけじゃない」

「岸は」霞はむきになった。「岸はそんなんじゃない」

「いや、私は知りませんけど……」だけど、あの爽やか野郎の柾さんに対する甘やかしようときたら。異常とまでは私も言わないが、正常の範囲はとっくに通り過ぎている。そういうのをやっぱり異常と言うんだろう。

「岸なんか居なくなればいい……」霞は私の座っている隣に寝転んで、低い天井に嵌め込まれた剥き出しの蛍光灯を見上げた。棒状の蛍光灯は四本まで付けられそうだったが、二本しか入っていなかった。電気代節約だろう。「岸が来てから、ずっと……あいつが憎らしい。顔を見るのも嫌だ」

「ムカつく顔してますしね」

 霞は黙っていた。

 霞は私を憎らしいとは思わないのだろうか、と思った。玲磨は? 岸は? 切真は? 研究所で黒猫議長と妖自連の仲間達がいろんな目に遭っている間、私が不幸と無縁で暮らしていた事は、事実なのだ。私が覚醒した時、皆は何と思ったのだろう。今は、何と思っているのだろう。いつも考える。自分が霞や岸だったら、水無絵馬の事をどう思うだろうか。仲間だとは思わない。敵とまでは言わないが。母が何もかもやったわけではない。中央研究所の所長なんていうポストは、むしろ名前だけのものだった。だけど、彼女が暴走したのは確かな事で、私はそれを覚えているし、側で眺めていたのだ。興味を持って眺めていた。何度も地下の秘密の場所へ。ガラスの水槽、何百もの水槽、見た事も無い形をした沢山の人間らしき生き物。そうだ本当にあれは、正視できないものだった。だけど何度も見に行ったのだ。私の事を分かる子が何人も居た。ガラス越しの私の言葉に、応えを返すのだ。生きていた。人間だった。何時間でも飽きずに眺めていた。研究員達は私を気味悪がった。普通の神経では見ていられないはずのものを好んで見に来る私を、拒絶した。私は黒猫議長達がいる棟へは行かなかったが、私の噂はそこまで伝わっていただろう。私が七十年の眠りの後に瓶から出て来た時、皆は思ったはずだ。

 これがあの、水無貴流の娘だ。

 これがあの、『人間の神経を持っていない』と言われた魔性の子供だ。

「あーあ」霞が起き上がった。「仕方ない……もう時間が無いし。言うなら今夜?」

「黒猫さんはどうして私を起こしたんだろう」私はぼんやり言った。「寝せといてくれれば良かったのに。……少なくとも、あと百年くらい」

「え?」立ち上がった霞は私を振り返って見下ろした。明るい青い目は、意外そうに見開かれた。「なんで?」

「彼が私を起こしたのは、なんでなんだろう。私の顔なんか見なければ、思い出さずに済む事だって沢山あるだろうに」

「何を……」霞はまるでわけが分からないという風だった。「だって議長は……ああ、貴方は、知らないんだ……」急に、霞は納得した様子になって頷いた。

「何をですか?」

「うん? なんでもない」霞は楽しそうに笑った。それからじゃあとかなんとか言って出て行った。

 何なんだ?

 さっきの夕食の時の玲磨、今の霞。皆は知っている、私は知らない。黒猫議長は何か私に隠している、という事か。それは彼が私を起こした理由と関係のある秘密で、私はそれを知らないばっかりに変な疑問を抱えているのだ。隠すような事となれば後ろめたい事か、知れば私が傷付くような事なのだ。なんだろう。見当も付かない。皆の口調からすると、私がそれを知らないでいる事はむしろ不自然なようだ。知っていて当然の事……となると、きっと以前は知っていた事なのだ。私は何か忘れているに違いない。忘れたという事は瑣末な事か、思い出したくない事かのいずれかであり、他の条件とも合わせればほぼ確実に後者だろう。私は覚醒する以前にも黒猫議長と関わりがあったのかも知れない。全く記憶に無いが。でも、私は研究所に頻繁に出入りしていたし、議長はいつでも研究所にいた。関わりがあっても不思議ではないのだ。

 根つめて考えれば、答えは出るような気がした。条件は沢山あるし、手がかりも山とある。数学のように論理を積み重ねて、あり得ない解答を排除していくのだ。段階的に条件を狭め、只一つの事実へと絞り込む。きっとできるだろう。だけど考えたくなかった。私が忘れたくて忘れた事を、今更思い出してどうしようと言うのか。忘れたかったんなら忘れたままでいればいい。皆もそう思って黙っていてくれるのだ。これでいい。このままでいい。今は考えたくない。

 シャワーを浴びていいかどうか霞に聞きに行こうとしたら、廊下で瀬川さんと鉢合わせした。四角い眼鏡をかけた、町のお医者さん風の男だ。事実、医師なんだが。柾さんはいつもやぶ医者と罵っている。彼に聞いたら、風呂はまだ焚けていないがシャワーは好きに使っていいとの事。ただし台所の洗い物でお湯を使っている間は、シャワーはお湯にならないそうだ。給湯装置が一つしか無い。元から水を浴びるつもりなので構わなかった。バスルームはそこで密室殺人事件が起こったら面白そうなほど狭かったが、頭からざあざあ浴びてさっぱりした。髪をタオルで拭きながら、他の事を考えたくないので、そのバスルームで完全犯罪を行う方法について論理的に検証した。複数の方法が考えられたが、どれも実行してみるほどの価値は無かった。

 霞の部屋に戻ると、何やら無茶苦茶に寂しくなってきた。部屋は静かではなかった。壁越し、床越し、天井越しにいろいろな人声や足音や機械音が伝わる。ビルの外を飛び回るエスターのエンジン音まで聞こえた。最近は夜中でもエスターが飛んでいる。羽に蛍光塗料を塗りたくって、強力なサーチライトを括り付けて飛ぶのだ。そのライトが強すぎるせいで却って事故になる。エスター同士が対面すると、互いに相手のライトで目が眩んで墜落してしまうのだ。かと言ってライトが弱ければこれはまた危険だ。命を懸けて、飛び回る。風を感じて。林立するビルを縫って。それもそれでいいだろう。昔、空を飛びたくてたまらなかった。ぽんと地面を蹴って、身軽に浮かび上がれたら。何処へ行こう。何を見に行こう。一体何を、望んでいたのか。

 追い払おうとしても消す事ができない。北泉は、今ごろ縄を天井に括っているのだろうか。面白そうな作業だ。私も一度死んでみたい。もう一度、瓶の中で眠ってしまいたい。消えてしまいたい。消えてしまったら二度と、誰にも会えない。大介にも。

 電灯を消して寝袋に潜ってみたが、眠れるはずもなかった。どんな風に目を閉じても、ぐんぐんと冴えてくる。仕方がない。スリーピングショップで買った一時間で我慢しよう。無理に寝ようとするといらいらするばかりだ。

 諦めて起き上がった所へ、人の気配がした。戸の前に誰かが立った。

「青」大介だった。「寝てるか?」

「ちっとも」

 そのまま大介は黙っている。

「入れば」と私は言った。いろいろと世話の焼ける奴なのだ。

 大介はのそっと入ってきた。明かりも点けずにぴしゃりと戸を閉めたので、再び真っ暗になった。暗闇の中で勝手に隣に座る。霞みたいに間を置かないで、ぴったり隣だ。気の早い野郎だ。

 今夜こいつをどうしてくれようか、私は本気で考えた。実はここに来るまであまり真面目に考えて来なかった。いや、ここはやめておこう。何かと余計な面倒になる。余計な面倒? 馬から落馬みたいだ。危険が危ないとか。むしろ貴方が間違っているのか、私が正しいのかという心境だ。これはもう論理どころじゃない。無秩序、カオス、フラクタルと来たもんだ。バタフライ効果?

「あのね」私は何か言ってみる。うん、これは、雲の上というか海の底というか、ここは最早地球ではないな。土星かな。「ええと……電気を点けません? いや、全然点けなくていいけどね」

 大介は答えなかった。黙って片手を私の背中から肩へ、回すので心臓が止まるところだった。この男は私を殺す気だ。間違いない。ハナダ青、水無絵馬、危うし。岸や玲磨は予想していたが、一歩手前に落とし穴が。だから私はいつも初歩的に抜けているのだ。明日の朝、私は生きてこの部屋から出られるのだろうか。さあ大変だ。大介は回した手にだんだん力を入れて体を寄せたくらいにして、すうっと顔を近付けた。このむっつりど助兵衛は毎回予習に余念が無いのである。このままでは私は窒息死する可能性が高い。どうやって切り抜けたものか。誰か助けて。柾さん助けて。

「さて……」またも意味の無い事を言ってしまった。「ええと大介さん……聞いてます?」

「聞いてる」大介は耳元ですっごく低く、小さく言った。

「それでは……」さっきから私はもしかして頭がおかしくなってないか。いろいろフル回転で考えているようでいて、実のところ何も考えていないのでは。土星とか言ってる時点で私の脳細胞は死んでるかも知れん。「ここは冷静に話し合いを」

 大介が答えないのは、恐らく意味が分からないからだ。私にも分からないので弁明のしようが無い。しかし輪があるという事なら木星だって輪があったはずだ。他に天王星にも輪があって、この星は自転軸が公転面に対し九十度以上も傾いた横倒しの惑星である。土星の輪は氷の粒からなり、この星は巨大な割に密度は低くて水に入れれば浮かぶらしい。誰か入れてみた人はいるのだろうか。いなかったら私が入れてみたいものだ。木星くらいの大きさのプールを作れば、実験は可能だろう。

「青」大介はもう一方の手も回して力を込めた。そう、もう、どうにでもして下さい。「死なないで」何を言ってるんだこの男は? いま私を窒息死させようとしてるのはどこの誰だと思ってるんだ。

「ええと」またまた、無意味な発言。日本語がこんなに無意味な言語だったとは。「何でもその通りにしますよ。何がお望みでしょう」

「死なないで」

「ええ、その予定はありません」

「もう会えないような気がする」

「ああ、それはそうかも」暫く会えないという予感はあった。

「行かないで」

「何処へ?」

「何処にも」

 さても私の人生はどうしてこうも波乱万丈、奇々怪々……。

「無茶苦茶言わないでね」

「分かってる……分かってるよ」大介はいつもの大介じゃないみたいだ。こんなに側に居る。泣けてくるね。

「そしてまあ……」私はいつから無意味な事しか言えない人間になったんだろう。「……何と言うか、私は今、さっきまで考え事を……」

「何?」

「……してたんだけど、忘れてしまった。少し離れてくれると、思い出すんですが」

 大介は私に思い出して欲しくないようだった。

「とにかく、黒猫さんが」何か喋っていないと正気を失いそうだ。いや既に手遅れか。「……私を起こしたりするもんで、何故だかさっぱり分からず……」

「そいつの話はしなくていい」注文付けやがった。

「では、別な話を……さっき霞さんからご相談を受けまして……」

「柾だろ?」

「ああ、知ってた」

「皆知ってる」

「柾さんは応じると思う?」

「さあ。あいつは女には何も感じないんじゃないのか」

 言われてますよ柾さん。本当なんですか?

「柾さんは女装がご趣味だったりするんでしょうか」

「そいつの話もするな」注文の多い野郎だ。

「土星の話をしましょうか」

「土星? なんで?」

「私の生まれた星なんです」

「土星の地面は液体なんだ」ナニゲに詳しい奴だった。

「木星は非常に天気の悪い星で……」

「青」大介は回した両手を一瞬緩めたかと思うと次の瞬間にもっと力を込めた。私は夕食を吐き出すところだった。

「はいはいはいはい? なんですか? 貴方は私をどうするおつもりで?」

「明後日の朝だ。ビルを全て爆破するのに、お前は船に乗らないでどうする気だ」

「エスターにでも乗りますよ」

「どうして船に乗らない? 同じ船に乗ってくれ。桜組の船に」

「貴方が決める事じゃない」私はどうにか冷静になろうとした。

「赤波書房で申請した。桜組の船に席を一つ確保した。乗ってくれ」

「乗れないよ。実は松さんも、梅さんも、竹さんも、ハナダ出版社も、それぞれ自分とこの船に私の席を確保してお誘い下さっているわけですが」

「お前という奴は、いくつ席があれば足りるんだ?」

「乗らないったら乗りません。ビルは残すよ。屋上で見送りたいんだよ。みんなが船で去って行くのをね。それだけが……楽しみなんだ」

「青。無茶苦茶だ。何も考えてない」

「いいじゃない」

「お前は死ぬつもりだ。皆そう言ってる」

 本当に、まあ、そうかも知れないけど。だけどそんな事、どうだっていいじゃないか。明日なんて無いのかも知れない。いつもそう思って生きてきた。いつも明後日の事なんて考えて来なかった。明日があるか、無いか、それが問題なのだ。その先なんて、何処にも無いのだ。

 未来。未来か。先を想うのが怖い。今、目の前の足元が見えないのに、何故その先を考えられるのか。五年後、十年後、そういう時間を考えた事が無い。考えられない。目の前ですら見えない。

 明日があるとは思えない。明後日は永遠に来ない。ここまで計算し尽くして、秒刻みの予定表を書いてきて、明後日より先には何も無いのだ。その先は真っ白だった。何も書き込みたくなかった。

「逃れたいんだ。自由になりたい」急に、自分がとても疲れていると分かった。このまま眠ってしまいたかった。大介が、こんなに側に居るうちに。このままあと百年でも、千年でも。長く深く、眠りたい。眠りたい。

 目を閉じると、大介が震えているのが分かった。

「なんでだろう」と私は言った。

「必ず戻って」大介が言った。「何処へ行ってもいいから……必ず戻って」

「分かった」と私は言った。眠れそうだった。凄く体が熱かった。自分じゃないみたいだ。大介じゃないみたいだ。今、何処にいるんだろう。ここは、いつだろう。何も聞こえない。広く、暗い、何処か。ここに私と大介しかいない。

「ここに居てね……眠るから」

「分かった」と大介が言った。「ずっと居る」

 いい言葉だ。ずっと居る。

「大介さん、おやすみ」

「おやすみ」

 七十年後にまた、会える事を願い。


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