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君のいない船  作者: 羊毛
12/28

蒸焼プリンスメロン (1)

  1.


 棺桶に入った死体のように私はカプセルに閉じ込められていた。カプセルの中は適切な温度と湿度が保たれて真っ暗だ。布団を感じる。手触りは滑らかなタオルのようで、力を込めるとぐにゃりと奇妙な手応えを残す。中にゼリーのように密度の高い液体が詰められている為で、布団は重く、私の体を抱き込むように包んだ。

 カプセルの中には計算された割合で酸素が送り込まれる。

 カプセルの蓋を閉じた直後に酸素濃度は最も高く、そこから徐々に濃度は下げられる、と利用客は説明を受ける。本当にそうかどうかは分からない。本当は酸素濃度は常に一定で、利用客には言葉による暗示がかけられるだけかも知れない。いずれにしろカプセルの中に横たわっていると、しだいに呼吸は遅くなり、一定になる。重たい布団に包まれた安心感と、邪魔の入らない静けさ。一定の呼吸、暗闇、他の事を考えさせない極度の閉塞感。これで眠れる。

 勿論、閉所恐怖症の場合このカプセルは使えない。世の中には案外、閉所恐怖症が多いもので、重度なら普段から本人が自覚しているが、軽度の場合気付く機会はあまり無い。この店に来て初めて自分の弱点を発見するような客も少なくないのだった。この場合その人には全く別な形の睡眠導入が必要だ。どんな方法を取るのか私は興味があるが、木下は首を振って教えてくれない。

 一時間は経っていないような気がした。

 眠っている間にどれくらい時間が経ったか、感じ取れるのはどうしてなんだろう。眠っている間の意識は全く無いはずなのに、誰も自分が一瞬目を閉じてすぐ開けたなどとは思わない。一時間眠れば、そういう感触、丸一日眠れば、そういう感触がある。

 七十年間眠れば、そういう感触?

 ぞっとするような事を思い出して、私は急に息苦しくなった。すぐに起き上がりたいと思った。カプセルは重たい蓋を上に被せているだけで、固定はされていない。起き上がろうとすれば、できない事は無い。それは万が一の時の安全の為であり、中にいる人間の不安を和らげる為でもある。いつでも出られる。閉じ込められてはいない。眠らなければ。呼吸が速くなっている。

 酸素が足りなくなる。木下の言う事が本当だとすれば、いま既にカプセル内の酸素濃度は通常の空気以下に下がっている。速い呼吸は良くないかも知れない。無理にでも深呼吸する。呼吸はすぐに下がった。暗示の効果は絶大だ。

 金を払った、という意識も大きな睡眠導入となっている。閉所恐怖症でなくとも、暗い狭い場所に閉じ込められる事に不安をつのらせパニックを起こす事は簡単だ。もともと動物にはそこから逃れようとする本能がある。誰でも本当は閉所恐怖症なのかも知れない。だが、理性で抑える事はできる。つまり、理性とは計算ずくのドケチ根性だ。払った犠牲の分だけ、見返りがあるべきである。あらねばならぬ。一時間分払ったのなら、きっちり六十分、三千六百秒、眠らなければ気が済まない。この場合、料金は高ければ高いほど、睡眠導入という点では効果が高いのだ。木下が割引や回数券の発行などいわゆる常連客ひいきを絶対にしないのは、この為だ。少しでもお得感が出て、「今日は割引だからいい」などの理由で睡眠が妨げられれば、店の信用に関わる。払った分だけきっちり眠れる、この絶対堅固の交換法則が成り立ってこその、睡眠屋だった。

 一時間経っていない、という直感は正しかったようだ。もう一眠りすると急にふわりと冷たい空気が流れ込んで私を叩き起こした。

「終了です。延長なさいますか?」

 カプセルの蓋を開けたのは木下ではない。若いと言っても三十くらいの、男だった。変な表情をした男だ。無表情なのか嫌らしいのか、不機嫌なのか何も考えていないのか。これが人材派遣センターから寄越された余りものというやつらしい。かなり入念に整形したようで、タレントでも通用しそうなくらいの好男子だった。そう、頭の中身より顔の良し悪しが問われる仕事だ。木下も口先はお綺麗だけど、結局行き場の無い人間に最低の仕事を与えただけじゃないか。いつも、言っている事とやっている事がちぐはぐなのだ。

「延長はしない」私は体を起こして、まずジーパンのチャックを上げボタンを嵌めた。箸にも棒にもかからない馬鹿だそうだから、なるべく分かりやすい発音で言ったつもりだ。

「下着を預かって貰ってるはずなんだけど、どこにある?」

「はい」と男はちょっと妙な返事をして、ベッドの下からプラスチックの籠を引き出した。私が靴下とシャツとブラジャーを受け取ってもそいつはその場に突っ立っていたので、木下の教育はまるでなっていない事が分かった。別に私は構わなかったが、ここで礼儀作法というものを覚えないと後々この男が困るのではないかと思った。

「あの、着替えますから、先に部屋を出て下さい」

「はい」と男は言ってその通りにした。今時は、ロボットだってもっと自分なりに考えて行動するものだ。人型のロボットは次々と新しい能力を獲得している。ロボットがすっかり人間のようになり、なおかつ人間以上に優れた存在になってしまったら、一体人間の尊厳は何処へゆくんだろうなどと寝ぼけた心配をしている人々がいるらしいが、ちょっと時代遅れのようだ。既に人間よりロボットの方が判断力もあるし感情もある。だいたい元から人間なんていう生物が『尊厳』とか格好つけるほど偉かったとは私には思えないんだが。思い上がりだろう。

 服を着て靴を履いて、狭い部屋から狭い廊下に出ると、カウンタ前に大介が立っているのが見えた。何故か、ほっとしたし、すっかり目が覚めた。

 かなしみと苦しみと、そのほか全部が混じり合った世界に、私は戻って来る。

「寝られたか?」大介がいつもの無表情で聞いた。無表情というのは彼の場合、微笑と同じくらいの意味だった。彼の普通の顔というのは、この世に面白いことなど何も無いという顔なのだ。

「ええまあ、一通り」私は適当な返事をした。本当に適当だ。よく考えると意味が分からない。随分機嫌が良くなったのかも知れない。

 カウンタの向こうには木下と、さっきの男がいた。

「よく、お眠りになれましたか」木下が馬鹿丁寧に言った。

「ええまあ」と私は言った。「いま気付いたわけじゃないけど、この店って何気なく詐欺だよね。眠れたのは本人の努力の結果なのに、さも寝せてあげましたみたいな顔で料金をぼったくる」

「環境が大事でしょう。寝やすい環境。お金かかってるんだから」

「人材育成にもお金がかかるんでしょう」私は財布を出して、千円の価値を示す事になっている紙幣を一枚、カウンタに置いてやった。

「へえ。なんだいこれ」

「募金」

「気前がいい」

「もう一つ、気前がいい物をあげる」私は別な財布を出した。こちらは紙幣しか入らない財布、札入れというやつだ。ただし紙幣は一枚も入れていない。取り出した紙切れを渡すと、木下はそれを受け取って天井の頼りない明かりにかざした。

「何? カゴとう行き?」

 紙切れにはそう書いてある。

「それ、船の切符。それで船に乗れる」私はカウンタに身を乗り出して、言った。「移転の事は聞いてるでしょう? 明日、シャバのFという私立学園の船が、風波東湾に入る。午前九時に一回、午後三時に一回。どちらかに乗って。港までは、地下からシャトルバスが出る。荷物は、自分で持てる限りいくらでも持っていい。その切符を見せれば無料で乗せてくれる。必ず乗って。カゴ島まで、二時間。建物がもう建ってるの。行けば、分かる。新しい場所をくれる。手続きは簡単。信じて、船に乗って」

 木下は唖然として私を見下ろした。

「乗って下さい。お願い。このビルは、明後日に爆破する。闇町の大抵のビルは、明後日爆破する。闇町の全部の住民を島に移動させるの」

「無理だ。何を言ってる」木下は目を見開き、低く叱り付けるように言った。「一日で、全員?」

「一日じゃない。この半年かけて、少しずつ移動させてきた。もう半分が引っ越しを終えてます」

「そんなはずない。そんなに減れば誰でも気付くはずだ」

「気付きません。誰も気付かなかった。計画は成功したんです。必ず、乗って」

「青ちゃん」木下は遮るように、何かを恐れるように、もっと声を低めた。「あんたは、無茶を言ってる」

「私が考えた事じゃありません。みんなでそう決めたんです。半年かけて、最下層の浮浪者を移動させました。新しい闇町の建設作業に、彼らを使いました。仕事を与えて、食べる物と、寝る場所を。松組さんの提案です。最下層の浮浪者が、闇町の人口の半分です。ほぼ全て移動させました。今日と明日で、中間層の商店街を全部引っ越します。今日いなくなる店は、多いでしょう。でも焦らないで、明日になってから乗って下さい。船は必ず来ます。間違いは起こりません」

「下から順に……」木下はまだ信じられない様子だった。「そんな事ができたのか」

「私は最下層で十年を過ごしました。松組の創始者は最下層で生まれ育ちました。彼らをどう動かすか、知ってるんです。下の変化に、上は鈍感です。この半年間、貧困層で暴動が一度も起きていないでしょう? 人口がどんどん減っていったからです。島に渡れば仕事と寝床があったからです」

「だから、Fが……そうなのか。人の移動があったのは感じていた。でも、ビル同士の移動かと。島へ移動してたなんて」

「今日と明日で、中間層を移動。明後日の朝に、最終点検、そして爆破です。上層部は飛行船で離脱します」

「飛行船で? へえ」木下はやっと笑った。「景気がいいね」

「明日から明後日にかけて、いろいろ妙な事が起こります。でも気にしないで。全て茶番劇、八百長です。貴方は、無事にカゴ島へ行く事だけを考えて。この事は誰に知らせてもいいけど、無闇に騒ぎ立てないで。当たり前の事をしてるだけ。荷造りして、船に乗って、引っ越すだけ。特別な事は何も無い。騒がないでね」

「分かってる。青ちゃん、わざとじゃないだろうけど、このチケットはすごく質が悪いね。見た感じ手書きと変わりないし、インクも紙もそこらへんのアジビラと一緒だ」

「複製無効、コピー厳禁です」私はにっこりする。

「でもね、青ちゃん」木下もにっこりする。「僕は自分だけ引っ越すわけに行かないんだよ。妻がいるし、子供がいるし、最近は店の従業員も増えてね。この券は、一枚につき一人みたいだけど……」

「そう、この券は、どんな粗悪なコピー機を使っても、必ず本物そっくりにできてしまうんですね。それで皆、とっても困っているわけで」

「それはいけないな。誰がこんな駄目なデザインにしたの?」

「私です」ちょっと楽しかった。「私の、趣味なんです」

 木下に別れを告げて、私は店を出る。大介も一緒だ。ちょっと歩いてから、大介は微笑んだ。彼が微笑むという事は、普通の人で言えば爆笑と同じくらいだ。

「何がおかしいの?」

「お前が」と大介は言った。

「かなり酷い事言うね」

「悪かった」と言って大介はますます笑った。変だった。大介が笑うなんて私はよっぽどおかしいに違いない。でなきゃ大介がおかしくなったのだ。

 いかがわしい商店街は一時間前より怪しげになっている。通りを行く人も、どこがどうと言うわけじゃないが非常にそれらしい。今から店が開く所も多く、ネオン灯がぺかぺか光って客呼びの手助けをしていた。なんで今の時代にネオン灯なんだろう。この街は本当に、時代に乗り遅れている。まるで九十年前の人間が建てた街だ。そうだろう?

 まもなく、何処からともなく現れた風波政府情報捜査局の調査員が私達の後をつけ始めた。一時間前は二人だったのが、いきなり十人に増えている。十人とも行き交う人込みに紛れているつもりらしかったが、よく目立っていた。こういうのを私の知る言葉では『バレバレ』と言うのだ。顔に書いてあるとも言う。日本政府の機動隊だか特攻隊だかが闇町に『入国』したんで、風波政府もそれなりに慌てているらしい。しかし何というか、シャバの人間のやる事ってどうしてこうも的はずれなんだ。今さら調査員十人も付けてどうする気なんだろう。日本政府の機関銃が私の心臓に向いた時には、十人で身を挺して庇ってくれるのだろうか。まったく当てにならない。

 三時ごろから私につきまとっていた二人の調査員も、その当てにならない十人のうちに入っていた。黒人系の女性と、頭の悪そうな若者の二人組だ。若者の方は私を守るどころかそのうちナイフで切りかかってくるような目をしていたし、女性の方は抜け目ない感じなので、私が死にそうになったら真っ先に予知して、一人でエスターに乗って自分の国へ帰ってしまうと思われた。

 そして私は相変わらずハナダ出版社から借り受けたシークレットな人々に陰ながら監視され、ガードされている。スリーピングショップに居た一時間はイヤホンからの報告は途絶えていたが、目を覚ました今はまた次から次へと不審者の報告がなされる。ハナダ出版社の人員は風波情報局よりもだいぶ気が利くのだ。例えば私の付近にいて最も不審な挙動が見られる人物は赤波書房株式会社の社長補佐、阿成大介なのだが、何度か彼に関する報告を受けた際私が物凄く嫌な顔をしたので、それ以後は何も言ってこなくなった。しかしその数回きりの報告を総合するに、私の隣を歩くこの男は私の体つきに多大なる感心を抱いているようだった。

 かねてからの予定通り赤波書房の事務所へ向かった。私はそこで赤波の人々と一緒に夕食を食べ、一晩を過ごす事になっていた。前々から覚悟はしていたが、こうして目の前に迫ってみるとまた私は怖くなってきた。明日の朝までに私はこの世から消し去られているような気がする。とにかく、あの爽やかそうな顔したねちねち野郎が作る夕食には、すぐには死ねないような毒が盛られている可能性が高く、またあのクソ小悪魔三ツ目野郎は死んだ方が人類の為みたいな男だが、問答無用で私を殴り殺す可能性があった。爽やか野郎と三ツ目野郎は決して仲が良くないが、私という共通の敵を倒す為なら喜んで手を結ぶに違いない。むしろそういう腹黒い同盟関係が恐ろしいほどお似合いの二人だった。

 そんな事を考えて頭の中で彼らの悪口を並べ立て、言葉の順序や助詞の使いようを変えたりして推敲し、繰り返し味わっているうちに目的地に到着した。ごめんなさい。大介の事を全然考えていなかった。大介くんはさっきから私の胸の事ばかり考えていただろうけど、私は全然別な事を考えていたよ。しかしこの男もよく私に愛の告白を棒読みしつつ、最愛の父親の事を考えていたりするのだ。この問題は何に起因するのかと言うと、人類の肥大しすぎた脳の欠陥だ。二つ以上の事を同時に思考できる脳は欠陥品である。この事が既に世の全ての大混乱の元、あらゆる不幸と惨事の根源でありそして……

「只今帰りました」

 大介は古風な挨拶をして中に入った。赤波書房の事務所は共同第八ビルというお粗末な建物の十二階にある。赤波書房の縄張りに入るドアはいくつもあるが、どれも鉄扉だ。中でも特に塗装の剥がれが目立ち、金属のドアノブが指紋だらけで薄汚れているのが『玄関』と呼ばれる事務所の入口だった。入った所が非常に小さな段差になっていて、その手前で靴を脱ぐのが礼儀らしかった。もしかすると、私はここに靴を脱いで上がるのが生まれて初めてかも知れなかった。外から覗いた事はあったが、上がらせて貰った事は無かったような気がする。辺りには赤波社員全員分の靴がどさどさ並んで、その他に同じ規格の緑色のスリッパが無数に散らかっていた。おかげで小さな三和土は足の踏み場も無い。大介は緑のスリッパの山から適当に二つを拾って私の前に揃えた。大介は履かない。彼のいつも引きずっている右足は、スリッパを履いてもおそらく居心地良くなれないのだ。

「お邪魔いたします」

 私は大介に習って古風な挨拶を心がけた。玄関を入った所はすぐそのまま会議室になっていた。私がその部屋を会議室と考えたのは、会議机が三つくっつけて置いてあったからだが、どうもこれは食卓の替わりらしかった。何しろ十人分の食事の用意がその複合的な机の上に並べてある。また同じ室内の奥の壁際にコンロと流し台があって、二人の男が楽しそうに料理をしていた。

 その片方が振り返って微笑んだ。

「いらっしゃい、ハナダさん」

 私の大好きな尊敬する社長の赤波柾まさめさんである。昼間より顔色が良かったのでほっとした。彼はいつも茜色の浴衣を上着代わりに着ているのだが、今は珍しく藍色の、白抜きで朝顔があしらわれた浴衣を羽織っていた。いや、柾さん、それ女物じゃないんですか? 柾さんの趣味はよく分からない。流れるような黒髪を腰まで伸ばして一つに括っているのも、何かの呪術か願掛けかと思ったら単なる趣味だそうだ。趣味というより、それほど拘りがあるわけでもなく「なんとなく」だそうだ。変わっている。

「お世話になります」と私は言った。

「いえいえ」と柾さんは言った。「うちの息子がそれはもう楽しみにしておりまして」

「黙れ」と大介は言った。

「柾さん、これどうするんです?」フライパンの様子をじっと見ていた男が、困ったように振り返り、ついでに私を見た。微笑んだ。「いらっしゃい、絵馬さん」

 私の大好きな爽やかねちねち野郎の岸実生である。銀色に近い、淡く渋い金の髪。ちょっときつい黄色の目。縁が銀色の、フレームが横に細い眼鏡をかけている。腕も、足も、持て余さんばかりに長く、背が高い。柾さんほどではないが。髪も男にしては長い方だ。柾さんほどではないが。

 彼の微笑は相変わらずとびっきり知的で爽やかで、私は思わずもう一度微笑んで欲しいと思った。すると私の顔にそれが出たのだろう、彼はもう一度微笑んでくれた。かなり余計なお世話だ。

 会議室のような食堂には、まだ他の社員は現れなかった。岸と柾さんが料理をしているだけだ。コンロの上では換気扇が回っていたが、室内には妙に甘ったるいような濃密な香りが満ちていた。私は鼻が利く方ではないが、大介は五感が研ぎ澄まされているので戸を開ける前からこの匂いを感じていたに違いない。杖を捨て、食卓と壁の間の僅かな空間に詰め込まれたパイプ椅子を踏み付けて、調理台の男二人に突進した。私はよくよく部屋を観察してみたが、この部屋を横切る為にはパイプ椅子か会議机を踏み付けて行く以外の通路が見当たらなかった。

「貴様は一体何をやっとる」大介は流し台に一番近いパイプ椅子の上に乗ったまま、柾さんの襟首を後ろからぐいと掴んで唸るように言った。柾さんは文字通り身震いした。彼は自分の義理の息子に背中を取られる事を何より怖れているらしかった。それは前から知っていた。この気の毒な若者は幼少の頃、自分より十も年下の大介からきっと虐待を受けたのだ。状況証拠からそう考えられる。大介という男はなんて極悪非道な奴なんだろう。

 その非道の大介が言った。「この外道! 嫌がらせか! なんでメロンを焼くんだ!」

「やってみたかった」柾さんは素朴に言った。「それに、勘違いせんといて欲しい、これは俺が高さんから貰った俺のメロンだ」

「黙れ! メロンの敵! 邪道! 野蛮人!」メロンの事となれば大介は一秒たりとも冷静でいられない。あらゆる悪口雑言、彼の知る限りの言語を駆使して柾さんを罵倒した。ちなみに彼は日本語以外に英語と中国語で人を罵る事ができる。理由は知らない。

「もう火、消していいでしょう」岸実生がフライパンを持ち上げて言った。

「早く消せ馬鹿野郎!」と大介はこっちにも罵詈雑言を浴びせた。

 どうやらこの楽しい二人組はアルミ箔で包んだメロンをフライパンで加熱するという、危険な実験に手を出してしまったようだった。でも、林檎の蒸し焼きは美味しいから、メロンの蒸し焼きも不味くはないかも知れない。まもなく、溶けたバターの香りが部屋一杯に広がった。

 大介はすっかり頭に来ていたが、柾さんがメロンの残り半分を冷蔵庫から出してきたのでしぶしぶおとなしくなって席に着いた。岸が他の皆を呼んで、食堂は十人の人間で満杯になった。皆でがやがや夕食を食べた。肉や野菜を炒めたのや、コロッケやエビフライなんかが大皿に山盛りになったのを、それぞれ好き勝手に取って食べるのだった。

 私の隣に何故か目が三つある男が座った。そいつは名前を宮凪玲磨みやなぎれいまと言った。私は恐ろしくて食事が喉を通らないような気がしたが、それは気のせいだったようで沢山食べたけど、とにかく怖かった。私はこの男から何故か非常に嫌われている。無視するとか避けるとかではない、もっと積極的に憎まれていた。それはまあ彼なりに理由のある事だから仕方無いのかも知れないが、彼が余りにも全力で私を嫌うので私も彼が大嫌いだった。早く死んで欲しいと本気で思っている。なんで私の隣に彼が座るのか私には全く理解できなかった。

 私はなるべく隣を見ないようにして食べたが、何かの拍子に間違って彼を見てしまった。宮凪玲磨は卓上に肘をついて私をじろじろと見ていた。彼の目は三つあるが、そのうちの一つしか役に立たない。ただ一つの見える目は、額についている。額と言っても中央ではなく右目の上だった。正しく言えば、彼には右目が二つあるのだ。

 この十五年で老けたようだ。十七年前、彼は十代半ばに届くかどうかの少年の姿をしていたが、今ではぎりぎり大人の部類に入れられるような顔つきだった。背も伸びた。逞しくなった。これで中身も成長していれば文句は無いのだが。

「何か?」と私はなるべく彼の勘に障らないように言った。

「何かって?」と宮凪玲磨は切り返した。険のある口調は十七年前と変わらずだ。

「何か、御用があるのかと」

「御用って?」玲磨は今度は妙に優しく言った。純粋に怖かった。

「ずっと見てなかった?」私は勇気を奮い起こして聞いた。

「見てたけど、どうかした?」

「だから、御用があるのかと」

「うん、無い無い」明らかに嘘だった。「気にしないで。食べなよ、絵馬さん」絶対に嘘だった。

 私は助けを求めようと逆隣の大介を見たが、彼は柾さんから貰ったメロンに夢中で顔も上げなかった。別に大介なんかにそんなこと期待していないが、メロンとハナダ青どちらかを選べと言われたら彼は一瞬も迷わずにメロンを選ぶだろう。

「絵馬」私の向かいには黒猫議長と名乗る男が座っていた。本名は高橋愛史、黒髪黒目、外見は二十歳。本人は自分がこの世に二人といない美青年、かつ人外の生き物『妖怪』のボス、すなわち世界妖怪自治連盟会議の議長であると固く信じていた。「元気だったか?」

「ええ、まあ」と私は答えた。

「ラーメン屋のお兄さん、優しいか?」黒猫議長は変な事を聞いた。

「ええ、とても」と私は答えた。

「そうか」議長はにやにやした。彼は自分で主張するような超美形ではないが、愛嬌がある。「そこの大介兄さんは、優しいか?」

「ええ、まあ、それなりに」これは私の口癖かも知れなかった。

「そいつがお前を泣かせるような事があったら、俺に必ず相談するんだぞ」議長は芝居がかって言った。大介は聞こえないふりをしている。「絵馬。分かったか? お前を泣かせるような男はな、俺が喜んで食い殺してやるからな。なにせ俺は黒豹みたいにでかい黒猫なんだ。知ってたか?」

「はあ」と私は言った。議長が変な奴だって事なら前から知っていた。しかし私はこの男が何を考えているのかいつも分からない。彼は根っからの世話好きで、誰の事でもよく可愛がって面倒を見る。私もその例には漏れない。しかし理論的には、彼が私を喜んで可愛がるはずは無いのだった。ひとまず私自身に決して非は無いとは言え、私の母はとんでもない女だったわけで、その女の所為で黒猫議長と岸や玲磨達がどんな目に遭ったかは周知の通りである。迷惑千万な事に、私はその母親によく似ているらしかった。そんな事は私の所為じゃないし私の知った事でもないけれど、既に死んでしまった水無貴流を殺す替わりに娘の私を殺すしか無いと思っている人間は山ほどいるようである。誰が流した噂か知らないが、水無貴流が非道な人体実験に走ったのは自分の娘の為だったという話もある。つまり私なんかがこの世にいるから悪いのだ。ええ、ええ、そうですとも。

 黒猫議長は馬鹿騒ぎが大好きだが、中身は私と同じで理詰めの人間だ。さすがに水無貴流の替わりに私が死ねとは思っていないだろう。こういう星めぐりに生まれた私を不憫とも思ってくれるだろうし、助けもするだろう。だけど、そういう問題ではない。

 私が眠っている間、議長達は生きてきたのだ。七十年。議長が臨時職員として面倒を見てきた、運に恵まれない気の毒な子供達、岸や玲磨のようなそういった子供達と、彼らを不運のどん底に叩き落とした張本人の娘である私。彼らと私とでは立場がまるで違う。彼らがこの世に取り残されたのは薬の実験台にされた為であって、しかし私が取り残されたのは、母がそれを望んだからである。この際私の感想は横に置くとして、母はそれが良かれと思って私にテクノロジーの恩恵を受けさせたのだ。私は母の娘であるというだけの理由で特権的に『保存』して貰えたのだ。それで七十年も経ってから、ずうずうしくもこの世に戻って来た。そしてまだ生きている。何故だか知らんが生きている。議長は、何も感じないのだろうか。岸達を大事にして守る一方で、その同じ手で私の事も守るのだろうか。岸達を可愛がるのと同じ理由で、私を可愛がるのだろうか。そうじゃない。そんなはずが無い。そんな矛盾と綺麗事で自分を塗り固めるほど、高橋愛史は不器用じゃない。彼の理由はいつだってスマートだ。

「どうかしたか?」黒猫議長は私の顔が深刻になったのを見て、向かいから心配そうに覗き込んだ。

 彼が、私の事を個人的に好きなのだ、という仮説はどうだろう。これは大いにあり得るような気がする。黒猫議長は自分の個人的な感情に忠実である。私が好きだから私を守るのだ、という結論なら彼らしいスマートな解答と言えるだろう。

「黒猫さん、私の事が好きなんですか?」折角だから聞いてみた。

「え?」黒猫議長はまるで思いがけない事を聞かれたような返事をした。「好きだよ? どうして?」

 どうも白っぽい。好きの意味を取り違えている時点で、これは白だ。

「年下がお好みなんですか? 大介さんを刺すための包丁とか毎晩研いでたり?」

「はあ?」やっぱり白だった。黒猫だけど白だった。「なんで? ……そういう風に見えるのかな」

 何故だか分からないが、いつの間にか食卓の全員が私と議長の会話に聞き入っている。私は何か凄くずれた質問をしたのかも知れなかった。何か私には知れなくて、他の皆は暗黙のうちに了解しているような事柄があるのかも知れなかった。馬鹿げた疑問を抱いて馬鹿げた質問をしているのは私だけなのか。

「いいえ、違うならいいんです。ちょっと聞いてみただけです」

「なんだなんだ」黒猫議長はくすくす笑った。「自意識過剰か? 突飛な質問だなあ。お前、大丈夫か? 隣に彼が居ると冷静じゃないみたいだな」

「ええ、もう、今日の午後になってから雲の上を歩いているようです」

「天国って感じ?」

「て言うか、宇宙というか、ブラックホールでしょうか」なんだかわけの分からぬ会話になりつつある。私は『マジで』冷静じゃないのかも知れない。メロンを前にした大介のように、普段の自分を失っていて、しかもその事を自覚していない?

 視線を感じて振り向いたら、宮凪玲磨が笑っていた。意地悪そうに、悪魔のように、細められて黒目の見当たらない二つの目と、不思議な位置にある鋭い一つの目と。その、人を不安にさせるほど奇妙な顔で、笑っていた。不吉だ。不吉の前触れだ。玲磨が笑っているという事は、いずれ私に恐るべき災難が降りかかるという事だ。

「何か?」と今度は彼から聞いてきた。

「何か、面白いの?」と私は聞いた。自分がなんだか間抜けに思えた。玲磨もそう思ったに違いない。

「いや、別にね」玲磨は薄く笑んだまま、気味悪い優しい口調で言った。「絵馬って、いつも抜けがある。そう、詰めが甘いんだね。冷静なのに、必ず初歩的な所で取りこぼすんだから」

 それが自分の弱点だという事は知っていたので、自分の嫌いな人から指摘されるのは非常に不愉快だった。あまり不愉快だったので彼の言葉の真意は一かけらも分からなかった。


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