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君のいない船  作者: 羊毛
11/28

闇町フラッシュパンチ (5)

  5.


「まだ、ついて来てる」

 木製のテーブルに両肘を乗せて、少女は僅かに身を乗り出し相手の耳元に言った。小さなテーブルだった。少なくとも、食事用には使えない。だが、二人分の飲み物を置くくらいなら足りるのだろう。店内は一定したざわめきと、煙草の煙に満たされている。

「情報局員?」少年はいつもの低いトーンで、無表情のままぼそりと言った。長い前髪に隠れそうになっている目は、伏しがちにテーブルの木目を見ている。しかし意識は真後ろ、店の反対側の隅に座る二人の調査員の方に集中している。

 時間的には、もとい時計的には、夕方だった。闇町の大抵の場所では空が見えないので、明るさから時間を知るというような事はあり得ない。少し変化があるのは、気温だろうか。しかしこの夏は十四年ぶりの猛暑だとか言うことで、終日吐き気がするほど暑かった。いずれにしろ冷房の効いた店内には時計以外に時間の経過を知らせる物は無い。

 煙草の煙は店の空気を全体に白くぼかしている。席はボックスもカウンタもほぼ満席。人声と音楽が丁度よく混じり合って、何も聞こえない。席の配置や、妙に大きくそれでいて暗い電灯、誰が見るわけでもない観葉植物のイミテーション、そういった一つ一つの物がきれいに視界を狭めて見通しを悪くしていた。老舗のパブはこういう処が上手い。

「馬鹿馬鹿しいからやめて欲しいのに」少女は憂鬱そうに言った。この街ではハナダ青という名前で広く知られている人物だ。見かけとは裏腹にかなりの重要人物である。「尾行ってものは、相手に気付かれないようにつけるから尾行でしょう。気付かれてたらただの付き纏いだよ。迷惑だ。不愉快だ」

「まったくだ」と答えた少年は、阿成大介あなりだいすけと言った。彼は赤波書房という謎多き組織の社長補佐だった。

「FBIのようにとは言わないから、せめてシャーロック・ホームズと来て欲しいもんだ」青は言った。

「同感だ」大介はあまり心がこもらない口調で賛成した。

「ダン、ホームズなんて知ってるの?」

「薬物中毒者だろう。崖から落ちて死んだふりをする」

「……間違っちゃいないけどね」青は溜め息をついた。それからしっかりと店の反対側を睨んだ。黒人系の女性と、ちょっと生真面目な感じの若い男。女性の方はきびきびしていて目も鋭い、調査員特有の切れ味が見られたが、男の方は闇町に入るのが初めてらしかった。ハナダの元社長の尾行なんていう大仕事にそんな新人を付ける事がまず妙だと青は思った。そしていくら新人とはいえ、あそこまで何もできない調査員がいるのが妙だ。事前の勉強や訓練でもう少しマシな人間に教育できそうなものを。

「あの男、どう思う?」青は聞いた。

「台露大鷹? 調査員とは思えない」

「そう、眼鏡かけて受験勉強でもしてる方が似合ってるね。台露の事情はよく知らないけど……」

「松組に吸収された」

「ああ、うん、知ってるけど。でも、一人息子の大鷹くんの生活は保証されてるはずだ。彼は父親の残した遺産と権力で一生遊んで暮らせる身分だよ。……そうか、すると、情報局に無理を通したのかな。本当は調査員じゃないけど、調査員の一人として闇町に入らせて貰ったんだ。きっとそうだ」

 大介は長い前髪の向こうで目を細めた。「何の為だろう」

「復讐かな。嫌な目をしてるよ、あの男」

「何もできないはずだ」大介は不機嫌に言った。「情報局がそんな事させるはずがない」

「彼は情報局より偉いんだよ。まあでも、させるはずがないね。付き添ってる女の人はしっかりしてるみたいだし」

 大介はそれ以上何も言わない。青も黙る。店を満たしているざわめきが、二人を同じ場所に包み込んだ。

「一人で出歩くのは、良くない」大介が唐突に言った。

「貴方に会いに来るのに、同伴者を付けなきゃいけないの?」

「当然だ。ここはシャバじゃないんだ」

「もう少し言いようってものがあるでしょうに」

「つまらない事でお前に怪我なんかされたくない」

「お気持ちは有り難いですがね」青は小テーブルの上の飲み物を口に含んだ。「余計なお世話。無防備で歩いてるわけじゃありません。ハナダ大出版社様からいろいろ借りてるんですから」

「いろいろ?」大介も飲み物を手に取る。

「人材と道具をね」青はそう言って、さり気なく自分の耳に手をやった。

 無線イヤホンからは店の隅の調査員二人の一挙一動が逐一報告されていた。客の中に紛れ込んでいる見えないボディガードがいったい何人いるのか、青ですら知らない。調査員以外にも、妙な動きをする人間があればいちいち報告されてくる。死角だらけのこの店を完全に監視する為には、小型カメラを駆使したとしても五人以上が必要だろう。店の外にも人員は張り込んでいるはずだし、そして恐らくは、全部のボディガードを取り纏めるリーダーと、個々の情報を総合して処理する司令本部があるはずだった。

「対策をしてるんならいい。悪かった」大介はぼそぼそと言った。

「心配してくれて嬉しいよ」青は素っ気無く言った。「まったく……こんなこと、早く終わればいい。海に行きたいよ。でなきゃ図書館」

「終わったら二人で行こうか」大介は用意してきたように滑らかに言った。実際彼はそういった類の言葉を十いくつも用意して練習してきたのだった。

「願わくは、その時まで私という人格がこの世に在らん事を」

「本当にそう願ってるんなら計画を見直さないか」大介は光る鋭い目をちらりと上げて青を睨んだ。「まるで綱渡りだ。前の予定よりはマシになったとしても」

「綱渡りって、してみたいよね」青は嬉しそうに言った。「スキーのジャンプとかさ、トランポリンの宙返りとかさ。どんな気持ちなんだろうって思う」

「綱渡りの話じゃない」

「いいじゃないですか。賭けも必要でしょう?」

「船の予約をしてないそうだな」大介は地を這うように低く言った。「ハナダのにも、桜組のにも、乗らないそうだな」

「乗るわけないよ。なに考えてるの? 私はね、自由になりたいの。ハナダも赤波も妖自連も、もう結構よ。この闇町をぶち壊して、私も一緒に消える。闇町は海の向こうに再建されて、私は自由になる。自由になったら、何処へでも行くよ。行きたい所にね。多分、真っ先に、貴方に会いに行く」

「生きていたら、な」大介は苦々しく言った。

「自分の腕に自信が無いの? それとも私を侮ってる? 私の権力は、トップダウンじゃないの。他の四大組織とは違うんだから。誤解しないようにね」

 大介は少し黙ってから、「勝算はあると?」

「無かったらやらない。少しは信用して貰えないんですかね」

「信用できるか。いつも、明日には死ぬような事ばかり言って。この半年間気が気でない」

「いいこと言うね。気が気でない」青はまるっきり意味の無い事を言った。「気が気でないよ、大介さん。貴方がいつ、私に大好きと言ってくれるのかと思うと」

 沈黙が流れた。店内のざわめきが急に少し遠のいたようだった。

 大介は顔を上げ、黒い瞳で無心に青を眺め、それから口を開いた。

「大好きだ。青が好きだ」

「相変わらず、よく練習してくる」青は目を逸らして笑った。「驚嘆すべき演技力だ」

「何が演技か」大介はちょっと怒って言った。「少しは真面目になれへんのか」

「なれないなれない」青は、器に半分近く残っていたアルコールをまるで気の抜けた炭酸飲料か何かのようにごくごくと飲み干した。

「青、早過ぎだ。ビールと違うんだぞ」

「照れているんです。奢ってね」

「まだ飲む気か」

「場所を変えよう」

 青が立ち上がったので大介も杖を取った。奢ってね、という科白は言ってみただけだったようで、青は自分の飲んだ分を自己負担した。もっと正確に言えば、大介が勘定しようとする所へ青が脇からコインを一枚出したので、釣り銭が大介の財布に入る事になった。

「三十七円余剰だ。そのうち返す」大介はしっかり財布を閉じてから言った。

「返さなくていい」

「六月に会った時と合わせて百六十四円」

「忘れなさい。命令」

「分かった、忘れる」

「やっぱり返して。十年後に利子付きで」

「いや、もう忘れた」

 とんちんかんな遣り取りをしながらも、二人の意識はまだ店の隅にあった。情報局の調査員二人は、唐突に立ち上がる。誰が見ても、青達をつけているのが明らかだ。恥ずかしいと思わないのだろうか、と青は胸の内で罵った。しかし仕方無い。彼らも上からの命令でやっている事だ。形だけでも青を尾行したという事実を報告しなければならないし、また形だけで充分なのだろう。

「大介さん、勝手な都合だけど、SS行っていい?」

「SS?」

「スリーピングショップ」

「店が眠ってるみたいだな。睡眠屋か?」

「うん、そう」

 店の戸を押すと、戸に括り付けてあった小さな鐘がガランガランと鳴って二人を送り出した。冷房の管轄外に出て、たちまち汗が噴き出す。空気はのったりと淀んでいる。杖をつき右足を引きずる大介に合わせて、青はゆっくり歩く。夕方の商店街は、人通りが多い。

「日本政府の第一団が入国したみたい」青はイヤホンからの報告を聞き取って、呟いた。

「青、元気が無い」大介はぼそりと言った。

「そうだね。嫌な夢を見て」

「夢?」

「仲間を死なせてしまう夢だった。何度も、そんな事があって。その事を思い出して、時々見る悪夢なんだ。だけど、今朝はいつもと違ったよ。夢の中で死んでたのが、昔死んだ仲間じゃなくて、今のハナダの部下だった」

「……不安か?」

「諦めようとはしてる。でも、できないよ。そして、今夜は眠れそうにない」

「正夢だと?」

「そう思うよ。明日、ハナダに行かなきゃならない。その時に、彼の死体を見つける事になると思う……彼はずっと死にたいって言ってた。死ぬとしたら、今夜しかない。憂鬱だよ。明日なんか来なければいい。眠って、目を覚ました時が明日なんだったら、眠りたくないよ。眠れない」

 青は小さく、押し殺したように言った。

 架橋を渡り、階段を降りる。二階分降りて細い路地に入ると、見るからにいかがわしい店が並ぶようになった。人通りはまだ少ないが、これから夜更けにかけて活気付いていくような予感がある。そういう雰囲気がある。青も大介も、隙が無いように少し足を速めた。

「お前が自分を責めなくていいはずだ」大介はしばらく経ってから言った。

「責めてない。誰も俺を責めてない。だけど、哀しい。虚しくなるよ」

「そうだろうな」

「なんでなんだろう。俺はそんなに凄い人間で、偉いのかな。そんな、仲間の命までしょわされるほど、偉いのかな。俺はただの馬鹿だよ。馬鹿で、寝てて、起きたら、時代が変わってた。それだけだよ。それだけの事が、なんでそんなに偉いわけ? 馬鹿みたい。敵が死ぬのは割り切れるよ。自分が生きる為だ、生きて行くと決めたんだから。仕方ない。だけど、なんで仲間を死なせなきゃならない? それも、闘って撃たれて死ぬんじゃないよ、辛くなって、生きて行けなくなって、自分から静かに死んで行くんだ。私の側に居るのが、辛くなって死んで行くんだ。どうして? なんで?」

「そいつが腑抜けだからだ」大介は無感動に言った。「腰抜けで、身勝手で、男のクズだからだ」

「酷いこと言うね」

「身勝手だ。お前の事を何と思ってるのか知らんが、お前が来る日に合わせて、お前に当て付けて死ぬのか。一人で勝手に消えるならいざ知らず、死んだ姿をお前に見て欲しい、自分の都合をお前にぶつけてすっきりしたいってわけだ。そいつは、自分の事しか頭に入ってないんだな」

「そんな奴でも、目の前で死なれたら哀しいよ」

「分かる。……分かると思う。悪口言って悪かった」

「悪くないよ。少し元気が出た」青はちらりと大介を見た。「だから君が好きだ。いつも元気が出る」

「それは多分、原因と結果が逆だ」

「どっちでも同じだよ」青は微笑んだ。

 スリーピングショップは他の雑多な店と似たような外観だった。筆記体の飾り文字で看板に店名が刻まれている。その下に、入り易いとは言えない大仰なノブの付いた木の扉。開けてもパブの戸のように鐘が鳴るわけでもない。だが、入ってすぐ右脇に無機質なカウンタがあって、禿げて年期の入った男が眼鏡をかけた顔を上げて迎えた。「いらっしゃい」

「お久しぶりです、木下さん」

「青ちゃんじゃない」小太りの男は使い慣れた商売用の笑顔をちょっと崩して微笑み直した。「本当に久しぶりだな。そちらは彼氏? D君だね」

 大介は微かに頷くだけで、返事はしなかった。

「三十分……いや、一時間。空いてます?」青は言いながらカウンタに手を乗せた。その手の下に紙幣が二枚あった。「料金変わってないよね」

「お一人様ですよね?」

「そう、お一人様」

「もう一枚、出して貰えると、特殊サービスのレベルワンが受けられます」木下さんは抜け目なくにこやかに言った。

「特殊サービスって何?」

「普通、女性客の部屋には、男性職員を入れる事になりますが」

「ああ、心躍るお誘いだけどね。遠慮しとくよ。見ての通り小うるさい彼氏がいてね」

「レベルワンなら、お喋りしてお茶を飲む程度だよ。レベルテンまであるけどさ」

「眠りたいだけ。分かってるくせに誘惑しない。……結局、そっちに手を出しちゃったんだね。経営きついの?」

「いやいや、慈善事業。扉んとこのマーク見なかった? 闇町人材派遣センターが承認する人材育成協力店。結構なステイタスなんだよ」

「何、その、人材なんとか店って」青はカウンタにもたれて、面白そうに聞いた。

「人材派遣センターで、どんな知能テストにも技能試験にも引っ掛からなかった、この場合引っ掛からないってのは箸にも棒にもかからないってヤツだけど、そういう、つまり、馬鹿だね。頭が悪い。体力も期待できない。特技も何も無い。役立たず。そういうのばかりを引き受けて、教育するんだ。青ちゃんなら知ってるだろうけど、あの派遣センターってヤツでいっくら検査しても何の取り柄も見つからない人間って、行き場が無いだろ? 無闇に派遣すれば派遣先の信用を失うし、第一そういう役立たずには元から値が付かない。それで、養ってやるわけにも行かんし、放り出すのもナンだし、ここらの商店街で余裕のある店があったらどうか働かせて教育してやってくれ、とセンターから要請があったわけだ。最初はなんだよそれってみんな思ったけど、松組さんが本腰を入れたみたいでね。協力店に指定されると援助が出るんだよ。かなり気前良く」

「はあ、まあ、松組さんはそんな事ばかりやってますよね」

 松組の初代総長は孤児院育ちだったと言われている。その遺志を継いで松組は独特な教育方針を掲げた孤児院や、闇町中間層の失業者に適切な職場を紹介する『闇町人材派遣センター』なんていうものを持っていた。

「ここで働かせながら礼儀作法とか雇われる人間のマナーってのを覚えさせる。で、いずれはもうちょっとカタギっぽい定職に就けるように」

「礼儀作法とマナーは一緒です」

「とにかく、そういったものをね」

「言葉通りに行くと仮定すれば、結構な慈善事業ですね」青は面白そうな顔はしていたが、口調はどうでもよさそうだった。「失業者が減るわけだ」

「ハナダ青さんのご意見は?」木下はわざとっぽく丁寧に尋ねた。

「うん、私の意見はね、その程度の事でもしないよりはマシだね」

「肯定的ではない」

「その、各協力店が松組からの援助金をどのように使っているか、によるね。自分の懐にしないで、ちゃんと人材育成の為に使ってるかどうか、定期的あるいは徹底的に審査を入れるべきだ。だけどあんまりがんじがらめにすると、協力店の意欲が失せるかも知れない。適度にズルもできて、でも好き勝手にはできない、そういうバランスを保ってやらないといけない。私が思うに、松組さんは志は高くても、そういうバランス調整はスマートじゃないね。総長も棟梁も、短気で夢見がちで単細胞」

「爆弾発言だ。松組に言いつけてやろう」

「いや既に、こないだ直接そう言った。おかげで睨まれたよ」

「睨まれただけで済むから凄い」

「だって、事実だもの。それに私は、文句を付ける時は必ず改善策を提案するよ。具体的にね。それで、ますます相手が怒る場合もあるし、案外感心して認めてくれる場合もある」

「圧倒的に前者が多そうだ」木下はくすくす笑ってクリップボードに挟んだ紙にあれこれ書き込み、下半分を千切った。「では、サービス無しの六十分という事で。睡眠導入剤はNで良かったかな」

「そう、なんでもいい」

「そこにだんまり突っ立ってる彼氏君は、ただの付き添い?」

「だんまりとか突っ立ってるとか言わないでね。人見知りなのよ。大介さん、もしお嫌でなければ、一時間後に迎えに来て頂けます?」

「分かった」大介はロボットみたいに言った。「それから、お前はさっき蒸留酒を凄い勢いであおったはずだ。導入剤の使用は俺が禁止する」

「確かに小うるさい彼氏だ」木下が言った。

「心配しないで下さい。導入剤がNっていうのはイエス・ノーのノー。使わないって意味だからね」

「ああそう。じゃあいい。一時間後に」大介は背を向けてのっそり出て行った。

 青はにやにや笑って見送った。

「なんなの? ほんとに彼氏なの?」木下もにこにこした。

「どうだかね」

「あいつ、『スリのD』でしょ?」

「そうらしいね」

「あんなの側に置いてていいの?」

「俺が好きで置いてるんだよ。文句付けない」

「アト外科の息子でしょ?」

「だから、そうだって言ってる」

「それで、本当の所はどうなの?」木下はカウンタを回って来て、狭い暗い廊下を先に立って案内しながら聞いた。細めの防音扉が廊下の左右にほぼ隙間無く並んでいる。扉にはアルファベットが順に振られて、これでもかと大きくペンキで書かれている。分厚い扉の向こう側で何が起こっているかは、廊下からは窺い知れない。限り無く怪しげである。建物の構造は全く変わっていないが、前みたいに睡眠専門店の方が良かったと青は思った。

「本当の所はどうなの?」青は一番奥の、一番上等の部屋に入れて貰って、ベッドの様子を見ながら聞き返した。ベッドは細長く、中央がへこんでいる。そこに体をぴったり納めるのだ。

「本当の所は、赤波に取り入る政略? それとも、本気?」

「本当の所は、レベルテンなんて希望する客いるの?」

「いたら帰ってもらうよ」木下は言った。「付近の店から恨まれるからね。うちは、こういう商売で、周りの店との兼ね合いをきちんと取ってきた。今更よけいな事はできない」

「そもそも派遣センターの要請に応じた時点で、よけいだったと思うね」青はベッドの縁に腰掛けて靴と靴下を脱いだ。「ここの清潔感が、私は好きだった」

「どの客もそう言うよ。俺も後悔してる。なんでこんな事に手え出したんだろって」

「やめればいい」

「そう思うけどさ。それができない。こんな店で、こんな馬鹿くさい仕事。派遣センターから役立たずの烙印押されて、はじかれて、お前の仕事なんか何処にも無いって言い渡されて。青ちゃん、そういう人間がどんな顔でここに来るか分かるか? 鬼みたいな顔だ。今にも自分が死ぬか、相手を殺すか、そういう顔だ。食事だってちゃんとできないんだ。挨拶もできない。見てるだけでこっちの気が滅入るような連中なんだよ。それが、ここで馬鹿くさい仕事を与えて、給料をやって、寝る所と食べる物をきちんとしてやるとね、顔が変わるんだ。一ヶ月くらいで。明るくなる。まるで別人だよ。そんな奴ばかりじゃないけどさ。俺の事殴って、いろんな物ぶっ壊して出てっちゃうような奴も沢山いるけど、でも、そうでない奴もいる。そういうの見てると、なんだか上手く言えないけど……慈善とか、人助けとかじゃないよな。そういうんじゃない。凄いなって思うんだ。目の前で、一人の人間が変わって行くって事が。それを側で見てると、なんだか分からないけど、凄いって感じる。なんて言ったらいいのかな……これは実際に見た事が無い人間には説明できない。いい事をしようとか、可哀相だとか、そういうものじゃないんだよ、これは」

「凄い、ね」青は話を聞きながらジーパンのボタンを外して緩め、Tシャツを着たまま下着だけを器用に脱ぎ捨て、両足をベッドの上に引き上げた。窪んだベッドの中央に、足を伸ばして体を収める。「凄いね……その凄さを、自分の凄さだと勘違いしない所が、木下さんの凄さだ」

「だって俺は何もしてない」木下は苦笑いした。

「慈悲の力、愛の力、正義の力」青は綺麗な瞳で男を見上げる。服に透ける少女の肢体を、木下はじっと見下ろした。「そういうものは、無いと思う。力は、人間の中にしか無い。変わって行く本人の中にある力が、その人を変える。慈悲は、無力、愛は、無力、言葉も、無力だ」

「お金も?」

「お金は、腕力があるだけ」

「大きくなった」木下は真面目に言った。「成長したね、青ちゃん」

「どこが? 胸が?」


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