闇町フラッシュパンチ (4)
4.
エリナが口論を無かったものとしてくれたのは、大鷹にとっては有り難い事でもあり不満の残る事でもあった。結局言いたいだけ言ったのはエリナであり、大鷹は一方的に侮辱された形である。しかし、あそこで、あるいは今ここで蒸し返して、一体どんな体裁のいい反論ができるだろうか。
あんなに腹を立てる理由は無かったはずだ、と大鷹は胸の内にひっそりと思った。あの時のエリナの口調は確かに冷淡で無遠慮だったが、今までの様子を見る限りそれは悪意の表れではなく、彼女の癖なのだ。そもそも自分が新人調査員でない事を先に話題に出したのは大鷹であるし、エリナはそれに対してそんな事は知っていたと答えただけである。いや違う。大鷹が我を見失ったのは、地図の話だった。闇町の地図なんて物がこの世に存在しない事は、疑いもなく事実だ。だが何故、あそこで地図の話なのだろう。自分がこの件に関してほとんど無自覚だった事が、それをエリナという人間から不意に突き付けられた事が、大鷹のプライドを傷付けていた。
ハナダ青を見送った後エリナは大鷹を連れて再び情報局の基地に入り、『ロックトルーム』のパソコンを立ち上げて本部にアクセスした。報告、次の指令、そしておそらくは、またもや基地に部外者を連れ込んだ事に対する詰問。エリナは無表情でキーボードを打っていた。新人調査員のふりをする理由も無くなった大鷹は画面を見ていなかったが、狭い密室には他に見るものも無い。結局はパソコンの本体をぼんやり眺めていた。
「エリナさん」仕事が終わるまで待つつもりだったが、いつ終わるとも知れないので大鷹は痺れを切らした。
「はい」エリナの返事は短い。
「すみませんでした。かっとなって」
「相当甘やかされてるね」エリナは自分の言葉遣いを反省する気は無いようだった。「それでも自分から謝る事ができるのはいい事だ。私は怒ってない。怒ってたのは君じゃないかな。君が怒るのをやめたんなら、私から不満は無いよ」
大鷹は再び怒りだしたくなったが、やはり大人げないと思われた。替わりに聞いた。「エリナさんは、そのつもりが無いのに人を怒らせたりしません?」
「いや、自覚はある」エリナは画面から目を離し、ちょっと微笑んだ。彫りの深い、厚味のある顔。美しい、均整の取れた体。彼女のこの表情を見るのは、まだ二度目だった。「ぱっと言葉が浮かんで、これをこのまま言ったら怒るかな、とは思う。でも、そのまま言ってしまう」
「正直者ですね」
「頭が悪いんだ。とっさに別な言い方が浮かばない」
「そうなんですか? そういう時、僕なら黙ってます」
「昔はそうしてたけどね」エリナは画面に目を戻す。「あまりそれに徹すると、そのうちなんにも言えなくなる。昔は私は無口だった」
「いつ、変わりましたか」
「結婚してからかな」
それほど驚いたわけでもなかったが、大鷹は適当な反応を思い付かなかった。
「旦那さんはどんな方です?」
「頼りになる方だよ。七つ年上」
「それは……意外ですね」
「私はこんな人間だから、人から頼りにされる事が多くて。頼らせて貰える人が珍しかったんだ」エリナはもう何度も同じ説明を繰り返してきた口調だった。
「お子さんが?」
「いるんじゃないかな。一人二人」変な返事だった。
「エリナさんのお子さんでしょう?」
「どういう意味?」
「養子とか、旦那さんの連れ子とか? なんだかそんな言い方です」
「そうかも知れないね」
聞かれたくないらしい、と大鷹は判断した。大鷹自身、道徳の教科書にあるような家庭で育ったわけではない。学校で、あるいは他の何処かで、家族の話題になる時の疎外感は知っていた。
「大鷹くん」画面を見ながらのまま、エリナは言った。「入国した時の事、思い出せる? ハナダ青が私達のパスカードを渡してきて、私達が持っている方が偽物だと言った」
「ええ……」大鷹はまだ偽の方のパスカードを持っていた。
「ハナダ青は大鷹くんの持ってたカードにも触った?」
「ええ、すぐに返してきましたが」
「役者だよ、あの子は」エリナは静かに言った。「私達が持ってたのが、本物だったんだ。あの子は手に磁石を持ってて、私達が持ってた本物のカードを私達の目の前で無効化したんだ。器用なものだね。あの子が渡してきたのは、偽造カードだ。ハナダ出版社の作った有効な偽造カード」
「僕達は偽造カードで入国させられたって事ですか? 何の為に?」
「カードが有効だって事を確かめる為だと思う。まず私達に使わせて、上手く行くかどうか確かめたんだ。成功した事が分かったんで、彼女も同じ方法で作った偽造カードであのゲートから入国した。何故分かるかって言うとね、『高島エリナ』という名前の人間が、ふたり入国しているからだ。一人は私本人。もう一人はハナダ青」
「嫌な感じですね。赤波書房は彼女の仲間、桜組は赤波の仲間、ハナダ出版社もハナダ青の手先……」
「風波政府は、からかわれてるね」
まもなくエリナは報告と情報交換を終えたらしく、少しの間手持ち無沙汰のように画面を眺めた。彼女は何か喋り出そうとしたが、そのとき急に顔をしかめて右手の指を二本、耳に当てた。
「高島です」エリナは低く、硬い声で自分のシャツの襟元に向かって言った。大鷹は思わず、エリナから目を逸らした。
「……はい。……はい。……いいえ。……私に一任して貰えませんか。……何もできません。武器は扱えません。……ナイフ程度は持っているでしょう」
大鷹の話に違いなかった。
「……知ってます。……いいえ。……いいえ。……はい、分かってます。充分気を付けます。……他意はありません。……もう、この話は終わりにして貰えませんか。……外しますよ」
エリナは耳の中から小さな耳栓型の機械を取り出し、襟の内側にピンで止めてあったボタン大の機械も取り外してしまった。
狭い部屋は、空調が効いていた。暑くないし、息苦しくない。湿度も調整されているのだろう。闇町の通路にこびりついている騒音もここには届かず、二人が黙ればパソコンの立てる機械音以外に何も無かった。
「無線があるのなら、基地は必要無いのでは?」やがて大鷹は言った。
「ここは休憩所も兼ねてる。そっち側の壁から簡易ベッドが引き出せる」エリナは穏やかに言った。「寝心地いいよ。横になってみたら?」
「いえ、いいです」大鷹は何故かナイフを胸に突き立てられてそのベッドに横たわっている自分を想像した。動脈が綺麗に切れていれば、白っぽいこの部屋は天井まで赤黒く染まるだろう。時間が経てば、それは錆びた茶色に。部屋一杯に満ちる、鉄のにおい。
それとも、生臭い。
それとも、甘い?
想像の世界に広がり満ちる、魔性のにおい。
大鷹は血のにおいを嗅いだ事が無い。
「それに無線は盗聴されるからね。このパソコンネットワークも相当いい加減だけど、無線よりはまだ安全性がある。伝達ミスも少ない」
「エリナさん」大鷹は意味の分からない文字が並んでいる画面を見つめて、呟いた。自分でも何を言おうとしているのかよく分かっていなかったが、ただ口から出るままに言った。「僕の所為で、信用を失いますね」
「いやこんな事は初めてじゃない」エリナは無線受信機をもう一度耳に近付け、回線が切れた事を確認して耳に嵌め直した。送信機も襟元に付け直す。「実の所、こんな事ばかりやって上司を困らせている。向こうも慣れてるよ」
「僕を帰してくれても、構いませんよ」
「その顔じゃ帰せないな。君は……もう一度単独で闇町に潜るだろう。その為の下調べとして、情報局に観光案内を頼んだね。また君が怒り出さないでくれるといいけど、聞いてもいいかな。何の為?」
「見たいものがあっただけです」
「ナイフを持って来てる。誰かに投げ付ける為?」
「そんなんじゃありませんよ」嘘が通用しない事は分かっていたが、ここでエリナの指摘を認めるわけには行かなかった。
エリナは黙ってパソコンの電源を落としてから、
「大鷹くん。闇町は、どんな場所だと感じる?」
「どんなって……変わった街ですね。建物とか、通路が」
「住んでる人はどう?」
「さあ……他の街とそれほど違わないように思えます。人間自体は。こういう環境だから、こういう暮らし方になるんでしょう」
「ハナダ青を、どう思う?」
「……分かりません。何故ですか?」大鷹は思わず、素っ気無い口調になった。
「君はハナダ青の事は何も知らなかったのに、阿成大介を知ってたね。それに、赤波柾も」
何とはぐらかしても馬鹿にされるような気がして、大鷹はただ沈黙した。こういう場面に、使う言葉は無いのかも知れない。言葉は、何もできない。それなのに言葉は、人を苦しめる。呪われた魔力のような強い力で、大鷹の内側に干渉する。
「私はこの街が好きなんだよ。この建物も、エスターが飛んでる空も、ここに住む人も。ここに住む人達の、生き方が好きなんだ。後でまた案内してあげるよ。……旦那がね、仕事をやめろと言う。ここは危険な場所だ。いつ、どんな馬鹿げた理由で死ぬか分からない。やめろと言う気持ちは分かるよ。私だって旦那がここで働いていたらやめろと言う。でもね、私は、ここが好きなんだ」
「……僕には、分かりません」
「人が居る、という感じがするんだ。皆、自分勝手で、欲張りで、抜け目なくて、命懸けで生きてる。『シャバ』ではそういうのが感じられない。眠りながら歩いてるような人間ばかりだ。シャバの人間は皆、退屈そうだね。退屈で暇で、だから不安で仕方ないんだよ。いつもそれで、イライラしてる」
「そうかも知れませんね」大鷹は適当に思い付いた言葉を口にした。
「つれないね。また怒らせたか」エリナは大鷹の顔を見た。「君の力になりたいんだ。少しはね」
「僕を軽蔑してるんでしょう」
「君が何をしたいのか見当は付いてるけど、確信は無い。私は誰かを軽蔑するほど大層な人間じゃないよ。君が、身投げしたいから川まで連れてってくれと言うから、わざと遠回りな道を案内している。でも、それ以上私にできる事は無いしね。……ちょっと寝てもいいかな。引き続きハナダ青を尾行するようにとの指令だけど、ここで十分くらい休んだって給料は変わらない」エリナは回転椅子に深くもたれて、すぐに目を閉じた。そのままぷつりと黙った。眠っているとは思えなかったが、彼女はそれから十分間、起きている素振りは全く見せなかった。
大鷹はエリナの顔をじっと見つめたまま、ナイフと、密室と、血のにおいの事を考えていた。




