百万年のゆりかご(1)
春の柔らかな風がセレスティーヌの肌を撫でる。皇国では珍しくない金髪をなびかせ、昼下がりの大通りを早足で抜けた。走ることは彼女の矜持が許さない――淑女が髪を振り乱して道を突っ切るなど、品のない行為だからだ。幼い頃からの教育の賜物で、そう簡単に忘れられるものではない。人で溢れかえっている昼間の賑わい。走って誰かにぶつかって、迷惑をかけたり目立ってしまうことも避けたかった。
セレスティーヌが生まれたリシュリュー家は、天下に名高いリュミエール皇国のなかでも有力な貴族だ。多くの国の基盤となる執政官を排出した、名門の政治一家である。もっとも、そうなるのは男子が大半で、セレスティーヌのような娘は政略結婚の駒になることが大半だが。
「ああもう、お昼休みの間に買い出しだなんて……! あの人、私を小間使いか何かと勘違いしているのでは?」
本来の休み時間はあと十分ほどで終わろうとしていた。セレスティーヌが助手をつとめる「上司」は、彼女の都合を微塵も考慮しない。任務も雑務もいっしょくたにして押し付けるのだ。公私混同とはまさにこのことである。
だが嘆息する暇さえ今は惜しい。ヒールの低いローファーを鈍く鳴らして、セレスティーヌは気持ち大股で進む。淑女として恥じない歩幅のギリギリを見極めて、だが性急に。
何とか人混みでごったがえす大通りを抜け、セレスティーヌは時代を感じさせる古めかしい建物の前に辿り着いた。ゴテゴテの華美な柱への装飾、年季が入ってグレーになりつつある壁面は本来白亜だったという。セレスティーヌが現在勤務している場所――リュミエール国立図書館だ。
力一杯、しかし荒々しい音を立てないように、細心の注意を払ってセレスティーヌは扉を開ける。煉瓦色の扉の向こうに広がっていたのは、心地よい静寂が包み込む空間。本をめくる音や本を求めて闊歩する靴音が響く、セレスティーヌが好きな音の広がる世界だ。
一瞬その特有の音響に酔ったセレスティーヌだが、すぐに我に返る。ぶんぶんと首を振ってカウンターの奥へと消える。彼女の探す「主」は、本がうずたかく積まれた少し埃っぽい空間……書庫の端っこの机に突っ伏していた。陽射しの届かない薄暗い書庫の中でも、銀色の髪は目立っている。
「サミュさん」
恐らく眠りの国に旅立っているだろう青年の肩を揺すってみる。寝覚めの悪い男であるから起こすのは骨が折れる。セレスティーヌにも仕事があるので、彼には起きてもらわないと話が進まないのだ。「ぼくの体調管理も助手であるきみの仕事でいいだろう」と横暴な理論を押し付けられた結果が、これだ。
「サミュさん。起きてください。昼休みはもう終わりですよ」
「……んぅ」
「ほら、寝惚けてないで、身体を起こしてください。まだ机とキスをしていたいんですか? でしたら永遠の眠りについてもらいますが」
「……セレス。きみ、暴力はよくないよ」
たっぷり一拍の間を置いて、青年サミュエルの身体が動く。もぞもぞと背中にかけていた毛布を身体に巻き直し、顔をあげる。いかにも寝起きですというふやけた眼は焦点が定まっていないようだ。頬には机に強く押し付けた跡が赤く残っている。
百人が百人、「ああ、この男は今起きたのだな」とわかる外見。誤魔化しようのない容姿。未だに毛布を手放さないサミュエルの様子に、セレスティーヌは呆れて嘆息するしかなかった。
「お仕事再開です、サミュさん。頼まれたものも買ってきました」
買い物袋からセレスティーヌは液体のりとマスキングテープを取り出し、サミュエルの前に置いた。彼の仕事道具である。サミュエルは手慣れた様子でそれぞれ手に取り、側面のメーカー名を確認する。
「メーカーも指定のものだね。さすがセレス、ありがと。この仕事には慣れてきた?」
「……ええ、まあ」
サミュエルのへにゃりとした「男らしくない」笑みにセレスティーヌはたじろぎながら返答する。溶けたチーズみたいに掴みどころのない男。そんなところがセレスティーヌは苦手だ。
「買い物ですとか、物理的な本の修理ですから。三ヶ月もやれば慣れてきますよ」
「三ヶ月? きみがぼくの助手になって、もうそれくらいになるっけ」
「そうですよ。どれくらいだと思ってたんですか?」
「一週間」
「そこまでポンコツな仕事はしてないと思いますけど」
名門貴族・リシュリュー家の次女セレスティーヌが図書館でアルバイトをしているのには事情がある。
本来、セレスティーヌは働く必要がない程度には裕福な家の人間だ。淑女たるもの社交界の華として美しく咲き誇るべし。礼儀作法、話術その他貴族としての礼節を叩き込まれた。そんな立派な淑女であるセレスティーヌに待っている未来は、同じ貴族との政略結婚だ。リシュリュー家にはすでに長男がいるから跡継ぎの心配もない。女子は家の繁栄のため、家同士の潤滑剤となる。セレスティーヌも例に漏れないはずだった。
彼女がただの淑女なら、その運命を何の疑いもなく受け入れていただろう。しかしセレスティーヌは違った。マナーを学ぶなかで出会った、読書という趣味……そこで得た多くの知識。セレスティーヌ・リシュリューは多くの書物に触れることで、「女は結婚の道具である」という概念が絶対ではないと知ったのだ。
そんなこんなで家の方針に疑問を抱き、家を飛び出したのが三ヶ月前のこと。自力で生計を立てて暮らすために、国立図書館でのアルバイトを始めたのである。