災い
21日(金)
「『災』だなんて、ねぇ」
昨日の夜のことだ。店長は頬に片手を当てて、しみじみ言った。今年の漢字の話である。
店長の言葉に僕は、
「それだけ多くの人が、災害を身近に感じたんでしょう」
何気なく言ったつもりだったのだが、店長も御衣子さんも黙りこんでしまった。空気が重くなる。う、やってしまった。
「そ、そういえば天長祭、もうすぐですね!」
僕は店内に貼られたポスターを指差した。23日、天皇誕生日の朝に行われる祭事だ。御衣子さんは隣町の神社で舞を奉納することになっている。
「え、ええ。そうですね。絶対来てくださいよ!」
彼女は、無理して空気を明るくしようとしてくれたみたいだった。ほんと良い子だ。
「はい、行きます! 死んでも行きます!」
再び顔を凍りつかせる御衣子さん。うわ、またやってしまった。
「そ、そうだ! 僕たちも今年の漢字を考えましょう」
「私たちも?」
御衣子さんが首をかしげる。
「なるほどぉ、自分の1年を振り返るのね。じゃあ私から!」
気を遣ってくれたのかどうかは分からないが、店長は明るく話に乗ってくれた。御衣子さんも安心したように頷く。
「そうねぇ、私は『花』かしら」
フラワーアレンジメントにはまったのが理由らしい。
「資格なんかもあるんですよね」
「そうなんですよぉ。今勉強中で」
ああ、良いなと思った。僕も見習わなければならない。新しいことは、どれだけ齢をとっても始められるのだ。
まあこんなことを言うと袋叩きに遭いかねないので、心に留めるだけにしたけど。
「次はみいこちゃんね」
「私は、『謎』です!」
御衣子さんは力強く答えた。
「この半年、私は様々な見込みある謎に出会うことができました。それは何村さん、貴方のおかげでもあります。私の日々に、彩りを加えてくれました」
と、彼女は感謝してくれたけど、それは僕こそ言わなければならない台詞だった。僕に大切なことを気付かせてくれたのは、彼女だったのだから。
店長が、ふと思い出したように呟いた。
「巫女さんが今年の漢字を発表するのって、大丈夫なのかしら」
確かに。清水寺の住職が「災」と大書する映像は、ニュースで何度も流れていた。
「サンタの格好してる時点で、それはもう考えちゃダメですよ……」
御衣子さんは死んだ魚のような目で言った。思わず吹き出してしまう。それを見て、二人も微笑んでくれた。
「さあ、最後は何村さんですよ」
「僕は……そうだな。『終』にしようと思います」
瞬間、再び空気が冷えるのを感じる。あれ、またまずいこと言っちゃったかな。
「あはは、そうですよねぇ、平成も終わりですものねぇ」
「それもあると思いますが、僕が考えたのはちょっと違うんです。もう今年で終わりにしよう、って」
「早まっちゃダメー!」
御衣子さんが僕の腕をむんずと掴んできた。僕は戸惑いながらも、本気で心配してくれている顔を見て訳を悟った。ああ、違うんだ。それは、
「勘違いですよ、御衣子さん」
「へ?」
「僕はまだまだ生きるつもりです。おかげさまで、老後の資金にも困らなくて良さそうですし」
「じゃあ、なんで」
「終わりにするのは、過去を振り返ることです」
彼女ははっとしたような目をして、僕の腕をゆっくり離した。そうですよ、御衣子さん。あなたが教えてくれたことじゃないですか。
「クリスマスなんて、僕には憂鬱なだけだったんです。一緒に祝う連れ合いや、プレゼントを枕元に置く相手はもう居ない。おまけにその日を忘れて過ごすこともできやしない」
12月25日。「25」という、僕を5年前に縛り付ける呪いのせいで。
「だけど、今年はそうでもないことに最近気付きました。御衣子さん。貴方がきっかけでした。僕の娘への想いを、良い方向に変えてくれたから。
過去を――妻や、美衣子を想うことに囚われ続ける日々は、もう止めよう。そう思ったからこその、『終』です」
「では、来年は『始』にしてください」
御衣子さんが、強い目で僕を見た。店長は感心したように言う。
「いい考えね、みいこちゃん」
「でも、今年の漢字って年の終わりに決めるものじゃ……」
「つべこべ言わないでください! 何村さんの来年の今年の漢字は『始』で決定! 決定ですからね!」
鬼のような、あまりの迫力に、僕は思わず「はい」と頷いてしまう。
「良かった」
御衣子さんはほっとしたように、目を細めた。
本当はもう、この大学ノートに書く必要もない。だけど、どうしてだろう。外で降りしきる雨を見ながら、僕は思った。たいした謎があるわけでもない、取るに足らない些細な出来事を、僕は書き残しておきたかったのだ。
(以上、何村誠の日記より、全文を掲載した。日記はここで終わっている)
「何を書いておられるんですか?」
ゼミ室に帰ってきた黄さんに聞かれ、僕は内心の動揺を気取られぬよう、軽い調子で「なんでもないよ」と言った。そっと大学ノートを閉じる。不自然じゃなかっただろうか。
今は21日の午後。窓から見えるのは、あいにくの雨。帰る頃にはやんでいるといいが。
午後7時。僕たちは揃って研究室を後にした。大学の推薦入試が明日にあるとかで、今日はあまり遅くまで残れないことになっていたのだ。幸運なことに、雨はもうすっかり上がっていた。心なしか少し気温が高くなった気もする。
黄さんと、途中まで帰路を共にした。今晩は部屋でゆっくり映画を楽しむらしい。
「明日の夕方まで、一歩も外に出ないって決めているんです」
「それはいい。たまの休日をゆっくり味わってください」
僕たちは曲がり角のところで別れた。
午後8時ごろ。
「う。う……」
僕は胸に突き立てられたそれを、信じられないという表情で眺める。
「ぼ、ボクのせいじゃない……ボクを留年させたお前が悪いんだ。ボクのせいじゃない……」
ナイフで僕を襲った学生は、言い訳をするように、ぶつぶつと呟いていた。だけどそれも、よく聞こえなくなってくる。
目の前がチカチカする。やたらと眩しい。体温がみるみる奪われていくようだ。
「誠さん!」
……え。黄さんの声、なのか……? 家で映画を観るんじゃなかったのか。それとも奇跡だろうか? それにしては少々早い気もするけど。
彼女に抱き留められながら、僕はゆっくり目を閉じた。
ああ。終わりだ。