クモが低く巣を張る時は 【解答編】
20日(木)
昨日の記述が途中で終わっているのは、部屋に黄さんが来て中断せざるを得なくなったからだ。その後も急遽忙しくなったりして、書く余裕が無かった。
彼女は勘が鋭い。だから、細心の注意を払わなくては。まだ勘づかれるわけにはいかない。それで彼女を巻き込んでしまったら、元も子もない。
昨日、二人だけの部屋で、黄さんはぽつりと呟いた。
「楽しみですね、土曜日」
「え。ああ、パーティーのことですか」
22日の夜に、S研究室のメンバーで早めのクリスマスパーティーをすることになっているのだ。会場は、近くの鍋料理屋。うちの大学のサークルが、よく飲み会なんかで使わせてもらっているところだ。1回生の阿土良君も入学当初、そこで行われた映画研究会の上映会&新歓に足を運んだと言っていた。
「母にそのことを話したら、今週末は戻ってこなくてもいいと言われまして」
「はあ。え?」
「だから、明後日は午後からも残らせていただきます」
黄さんは丁寧に頭を下げてから、自分の他人行儀な仕草が可笑しかったらしく、くすりと笑った。
それが昨日のこと。現在、午前9時。やっと落ち着き、一人になったタイミングで大学ノートを広げている。
続きを書こう。奇しくも、あの話でも黄さんが登場した。
これは後から御衣子さんに聞いた話なのだが、僕がコンビニから自転車で走り去った後、御衣子さんは忙しい中でもあの謎について思いを巡らせていたらしい。僕の話を聞いて輪郭が明らかになった喜びを感じる一方で、御衣子さんは。
なにか、えも言われぬ不安を感じていたそうだ。
そんなことは露知らず、軽快に自転車を走らせていた僕である。映画のシーンを頭の中で反復しながら、いつものように、ほとんど減速せず空き地へ入った。あの場面でヒロインが叫んだのには、泣いてしまった――。
そして、「川にゴミを投げ入れないで」と書かれた例の看板の横を通り過ぎようとした時、
「教授!」
あたりに響き渡るような声に、僕は飛び上がるほど驚いた。
いや、実際に僕は、一瞬だけ宙を舞ったのだ。
ガッシャーン!
何が起きたのか分からなかった。全身を襲った衝撃に呻いていると、再び「何村教授!」と呼ぶ声が聞こえた。
「大丈夫ですか!」
駆け寄ってきたのは、黄さんだった。僕は彼女に支えられながら身を起こした。身体に土が付いて気持ち悪い。そうか、これが衝撃を吸収してくれたのか。僕はふらふらと川を見下ろした。
大きくひしゃげた自転車が、流れに引っかかっている。
黄さんを家まで送り届ける途中、僕は御衣子さんに折り返しの電話を入れた。その時、「低いところに巣を張るクモ」の真相を聞いた。
『何村さんの話を聞いて、はっきりしたイメージを持つことができたおかげでしょう。私はおぞましい可能性に思い至りました。
あれは、クモの糸なんかじゃなかった!』
御衣子さんは、空き地の場所を知らない。慌てて僕に電話をかけた。しかし、流れたのは圏外を知らせる音声。僕は夕方、映画を観た時からずっと、スマホを機内モードにしていたのだ。
彼女はすぐに電話をかけ直した。今度は黄さんに、だ。御衣子さんの読み通り、黄さんはまだ帰宅途中で、そして僕のところへ駆けつけてくれた。
あの時、黄さんの声に僕は驚いた。そして、少し身をよじったのだ。結果、重心が少しずれ、奇跡的に僕は無傷で済んだ。下手をすれば、そのまま自転車もろとも川へ転落していただろう。
『男の子の証言に出てきた少年。彼は、しゃがみこんで、低い位置に張られた糸を見ていました。だけど、観察が目的ならおかしいでしょう。横に、立派なクモの巣があったのですから!』
彼女の口調は、聞いていて胸が苦しくなるほど乱れていた。きっと、自責の念に駆られていたのだろう。
『ごめんなさい。何村さん。もっと早く気付けていたら』
「御衣子さんは悪くない。それどころか、本当に感謝しています」
僕はスマホをポケットに戻した。手を擦りむいていたのか、今さらヒリヒリした痛みが襲ってくる。
看板の根元を見ると、細い糸のようなものが結び付けられていた。反対側は僕が通った時に結び目がほどけたのか、地面に垂れている。触って感触を確かめるが、断じてクモの糸のようなやわなものじゃない。釣り糸やピアノ線のような、人工物だ。
糸に込められた悪意が指を伝ってくる錯覚を覚えて、僕は総毛立つ思いになる。空元気を出したくて呟いた僕の声は、見事に震えていた。
「これにはカンダタも苦笑いだ」
こうして自転車はオシャカになった。
以上が事の顛末だ。僕に大した怪我は無く、被害と言えば自転車と、あと抜け道を通れなくなったことくらいだ。竹村さんにも心配をかけてしまった。
結局、犯人は捕まっていないようだ。僕は密かに願っている。僕が転んだことを知った犯人が、自分のしでかしたことの愚かさに気付き、もうこんな悪戯を止めてはくれないか、と。自分でもおめでたい考えだとは思っている。クモの糸よりも細い、すぐに切れてしまいそうな願望である、とも。
あれからひと月ほどになるが、誰かが転んで怪我をしたという話は、一度も聞いていない。
思えば始まりは、あの時の安部君の一言だったのではないだろうか。
14日の夜。阿土良君と一緒に買い物から帰ってきた彼は、ゼミ室にいた僕たちに向かってこう言ったのだ。
『何村先生は、狙われているんです』