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クモが低く巣を張る時は

 

 19日(水)


「細蟹だ」


 ゼミ室で院生の安部君が呟いた。「え、カニ? どこどこ?」壁際の椅子に座ったまま、ワクワクと部屋を見回す浅利あさり君に、安部君は噴き出しながら「それ」の正体を教えた。


「ほら、そこ」


「ん……ぎゃっ」


 彼女が悲鳴を上げたのも無理はない。その視線の先、浅利君のすぐ横の壁にちょこんと張り付いていたのは、


「クモじゃん!」


「安部君も人が悪いね」


 そう、細蟹ささがにとはクモの別称だ。僕は、恋人をからかって楽しそうにしている安部君を横目で見やった。いまだ髪はぼさぼさのままだが、憑き物が落ちたみたいに晴れやかな顔をしている。本当に良かった。


「うわー、ついにクモが出るまでになったんですかー、この部屋。汚くしてるからですよ。黄さんが見たら泣きますよ」


「大丈夫、先輩。この子は糸を出さないから」


 阿土良あどら君が、いつの間にか浅利君の横に立ってハンディカメラでクモを撮影している。彼女の言葉を聞いた浅利君は、あっさり「そうなんだ」と力を抜いた。どうやら浅利君は、クモ自体ではなく巣を張られることが嫌だったようだ。安部君がちょっと物足りなさそうにしていたのを、僕は見逃さなかった。


 そうこうしているうちに、黄さんが戻ってきた。


「珍しいですね。みんな揃うなんて」


「すみません、騒がしくして」


 すかさず阿土良(あどら)君が言う。「クモが出て」


「クモ?」


「撮ったんです。観ます?」


「遠慮するわ。


 それより、そんなことで騒いでいたの? 私の実家なんかしょっちゅう出るわよ」


 黄さんの実家は県南部の山奥にある。唯一の肉親である母親が一人で暮らしているが、大学からはあまりに遠いので、黄さん自身は大学近くに部屋を借りて暮らしている。


「そういえば、お母様の様子は変わりないんですか」


 浅利君が心配そうに尋ねた。


「大丈夫よ。この前の金曜だって、しっかり憎まれ口叩いていたくらいだから」


 彼女のお母さんは、数年前に脳梗塞で倒れている。今では無事に回復しているが、それでも黄さんは週末には様子を見に行っている。


 だから金曜は早退してもらって、午後からは僕や安部君たちで研究室の雑務を引き受けていた。黄さんのありがたみを実感するひと時だが、これくらいせねばバチが当たる。


 ともあれ、黄さんが戻ってきたことで、その場はそれで終わりになった。




 それが今日(19日)の午前中のことだ。現在、午後2時。部屋に誰もいなくなったタイミングで、僕はこの大学ノートにペンを走らせている。たまには、昔のことも書き留めておこう。関係するかもしれない話題だから。こっちには、巣を張る方のクモが登場する。


 用意周到に、獲物を待つクモ。




 その頃はまだオシャカになっていなかった自転車で、僕は隣町へサスペンス映画を観にいった。その日封切られた話題作で、来てよかったと思える出来だった。


 夕方から観て、近くの定食屋で晩御飯を食べて帰ったから、こっちに着いた頃には真っ暗になっていた。時間は……そう、確か22時だ。コンビニの時計で確認したから。ずっと頭の中で映画の内容を反芻はんすうしていたため、スマホを見ることすらなかったのだ。


 僕はホットコーヒーを注文した。御衣子さんがカップを渡してくれる。


「先程、黄さんもいらしてましたよ」


「そうなの? 気付かなかった」


 映画のことを考えていたせいだな。お礼を言いたかったのに。勧めてくれたのが、他ならぬ黄さんだからだ。彼女は試写会に行ってきたらしい。


 忙しそうにしていたので、交わした言葉はそれだけだった。イートインスペースで温もりを味わいながら、映画の内容を振り返る。


 するとすぐに客足が途絶えたらしく、御衣子さんが話しかけてきてくれた。しかし彼女は浮かない顔だ。どこか上の空、というか。


「どうかしたんですか?」


「え? いや、なんでもありません。


 ところで何村いずむらさん、今日はお出かけだったんですか?」


「そうですが……どうして分かったんです?」


「外に自転車が置いてあるでしょう」


 聞けば聞くほど理解が追い付かない。じゃあ、どうして彼女は僕がチャリで来たと知ることができたのだ。


 なんだか、どこかで見たような展開だな。


「黄さんに僕の行き先を聞いたんですか?」


「いえ。今日は忙しくて、あまりお話できませんでした」


「僕が自転車を停めるのが見えたとか?」


「いえ。明るい店内から、真っ暗な外を見通すことはできません」


 む、それもそうだ。しかも僕が店に入った時、御衣子さんはレジの対応に追われていた。


 あれ? じゃあどうして僕が自転車で来たと……ダメだ、全然進展していない。


「降参です。教えてください」


 僕が肩をすくめると、彼女はやはり、どこか上の空で答えた。


「すみません。お会計の時、財布の中身が見えました」


 ん? どうして財布の話になるんだ。


「いえ、別に構いませんが……」


「映画の半券が入っていましたよね。それで、今日は隣町の映画館に行ったのだと分かりました」


「ま、待ってください。それが今日の分とは限らないじゃないですか」


 以前に行った分が残っていたのかもしれない。実際、今も僕の財布には前回のが入っているはずだし。自分で言ってみて、ずぼらなことだと思うが。


「いいえ。あれは今日公開のタイトルでしたから。私も今度観に行きます」


 うん、あの息を飲む展開は本当に良かった……。ていうか、そこまで見えていたなんて、本当に超能力みたいな視力だ。


「ここからだと、電車で行くより自転車で行った方が早いですからね。だから外には自転車があると推測したんです」


 なるほど、逆だったわけだ。遠出したことが分かって、そこから自転車で来たことを推理した。


「さすがですね、御衣子さんは。あの時のことを思い出しましたよ。クモの糸の」


 だけど彼女には、伝わらなかったらしい。


「芥川ですか」


「そうじゃなくて……ほら」


 僕は自分の前髪をつまんだ。それで御衣子さんも思い出したようだった。


「ああ、六月の時の」


 懐かしそうな目をした後、また御衣子さんの表情が曇る。本当に、今日はどうしたんだろう。


「さっきの話をしているのぉ?」


 明るく声をかけてきたのは、このコンビニの店長・山田さんだった。僕は店長に尋ねてみる。


「なんですか、それは」


「あら、違ったか。みいこちゃんが珍しく苦戦している謎のことよ」


 だから浮かない顔だったのか。御衣子さんは、唇を噛んだ後、ボソッと呟いた。


「子供は理解に苦しみます」




 数時間ほど前、コンビニに親子連れの客が来た。母親と男の子の二人だ。この子供が元気だったようで、御衣子さんにあれやこれやと質問を投げかけたという。


「あんなに笑って。なにが楽しいのかしら」


「あの年でみいこちゃんに言い寄るなんて、やるわね、あの子」


 御衣子さんは店長に恨めし気な目を向けた。


「その子に聞かれたことの1つが、まだ解けないんです。『クモって低いところにも巣を張るの?』だって」


「え……そりゃあ、そういうクモだっているでしょう」


 確かに、ある程度の高さに巣を作る印象はあるが。


「ですよね」


 御衣子さんはため息をついた。ああ、よほど子供の相手が疲れたんだろう。


 その男児は夕方ごろ、近くの空き地の奥、膝の高さくらいにクモの糸が張っているのを見つけた。横には看板が立ててあって、高いところに立派なクモの巣が張られていたという。


「クモの巣の観察ですか。自由研究ですかね」


「いえ、その子は未就学児です。それに、観察していたのは別の子です」


「え?」


 男児の言によると、「としうえのおにいちゃん」だそうだ。御衣子さんが苦労して聞き出したところによると、どうやら小・中学生くらいの男の子が、しゃがみこんでクモの糸を観察しているように見えたらしい。


「男の子は、一緒に観察していたんですか」


「それも違うようです。空き地の中が怖いから、外から見ていただけだ、と」


 御衣子さんは、説明しながらも首をひねっていた。彼女自身、状況を上手く把握できていないのだろう。


 それにしても……。僕には思い当たることがあった。この近くの空き地。子供が怖がるような場所。クモの巣が張った看板。もしかして。


「空き地の奥に看板があるのもよく分からないんですよね……どうしてそんなところに。なんの看板なのよ」


「たぶん、川にポイ捨てするなって看板ですよ」


 御衣子さんは目を丸くした。「どうして……」


「もしかしたら、僕が知っている場所じゃないかと思うんです


 御衣子さん。その空き地の向かいに、文房具店があったりしませんか」


「そうだと思います! 男の子が、文房具を買いに行った帰りに見たと言っていました」


 やっぱり。そこは、僕にも馴染みのある場所。この近くからマンションへ帰る時に使う、抜け道だったのだ。


 文房具店を営んでいるのは、知り合いの竹村さん。かなり前に大学を退職した好々爺で、空き地も彼が所有している。


 竹村さんのご厚意で、僕はその空き地を通らせてもらっていた。抜け道を出たところにある川を渡れば、マンションまですぐだ。


 普段は誰も立ち入らないような場所だ。僕はもう慣れたもので、自転車のままスッと通り抜けられるが、小さい子にとっては怖く見えるのだろう。逆に言えば、そういうところだからこそクモの巣の観察にはうってつけなのかもしれない。


 僕が知っている情報を伝えると、御衣子さんは少し興奮したようだった。「これで謎が解けるかもしれません!」子供の質問とはいえ、答えられなかったのがよほどこたえていたらしい。何はともあれ、元気になってくれて良かった。


 それからはお客さんがまた入ってきて、御衣子さんは対応に追われることになった。コーヒーを飲み終わっていた僕は、そっと店を後にした。外に出て自転車にまたがった時にはもう、クモの巣のことなんて頭から綺麗さっぱり消えていた。






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