巫女に浮気
登場人物紹介
H大学 S研究室
何村 誠(60)
H大学S研究室教授。適当人間。作家はじめました
黄 泉(43)
同じくS研究室秘書。頼りない教授を支える
安部 公造(25)
H大学院生。M2。銀縁眼鏡がチャーミング
浅利 琴子(21)
H大学3回生。ムードメーカー
阿土良 相利(18)
H大学1回生。多芸多趣味
コンビニK
山田(?)
いつでも明るいコンビニ店長
堀水 御衣子(22)
バイトの店員。平坂神社の巫女
17日(月)
才能というものは、唐突に顔を出すものらしい。
いや、決して僕のことではない。確かに僕は、定年退職目前のしがない大学教授の身でありながら突然、作家デビュー。巫女探偵の活躍を描いた処女作はちょっとしたブームになっているけれど、それはひとえに主人公のモデルである御衣子さんのおかげというのが大きい。
話が逸れた。
「この間は傘をありがとう」
カタカタカタ。
「いいえ、どういたしまして」
ゼミ室で昼食を取りながら、僕は黄さんにこの前の傘のお礼を言った。今日はこのシーンから始めよう。
「え、意味深~。どういうことですかー?」
僕たちの会話を受けて、小さめのお弁当を一足先に食べ終えていた浅利君が、好奇心をまるで隠す様子もなく、机に身を乗り出した。ウェーブのかかった茶髪が揺れる。タタタタタ。
彼女は学部3回生の浅利琴子君。僕が教授を務めるS研究室の数少ない学生の一人だ。テンションの低い人間が多いこの教室において、いつも元気で明るい、貴重なムードメーカーである。タンタカタン。
「浅利さん。その言い方は、学会先の天気だけを見て、帰ってきた時のことを全く考えていなかった教授に対して失礼でしょ」
「なあんだ。そういうことですか。教授、邪推してすみません」
素直にペコリと頭を下げる浅利君。あれ? 二人して僕を「ディスって」いない?
カタ。カタッ。
「ははは……。僕はてっきり、黄さんが天気を予知できたのかと思って、びっくりしたよ。そんな人いないよね」
「私は出来ますよ?」
浅利君が首をかしげる。え、そうなの? さも当たり前みたいに言うけど、それって凄くない?
「これに聞けば雨が近いか分かります」
そう話して、得意げに人差し指で髪の毛をくるくるっと巻きとった。髪?
「私、癖毛で。髪が暴走すると、雨が降るなーって分かるんです」
浅利君は得意げに、屈託のない笑みを浮かべた。なるほど、これも一種の才能か。
「ツバメが低く飛ぶと雨が降る、みたいな話かしら」
「ツバメって可愛いですよねー」
「ツバメ、燕……。燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」
その一言に、室内が微妙な空気に包まれる。浅利君がそれを黙殺したのでなおさらだ。
最近僕が気にしていたのは、S研究室に所属する二人の学生――浅利君と、もう一人のことだった。
カチ、カチ。パタン。
「俺、飯買いに行ってきます」
そう宣言して浮かない顔で立ち上がったのは、修士課程2年の安部公造君。先程からご飯を我慢し、僕たちの会話にほとんど参加せず、ひたすらノートパソコンとカタカタ格闘していたのはこの青年である。
修論に取りかかっている彼は、髪はぼさぼさ、無精ひげは生え、銀縁の眼鏡は傾き、その奥の目は血走っていた。毎年このような学生は一定数出現するのだが……まだ少し時期が早いような気がして、疑問に思っていた。
特に彼は早くから順調に実験を進めてきたはずだ。何か問題があったのか。一度水を向けたことがあったが、疲れ切った笑顔で「大丈夫です」と言われ、以来口出しできずにいる。
「行ってらっしゃい」
と声をかけた黄さんも、この学生カップルの関係を気にしていた。そう、二人は付き合っている。
浅利君の方から安部君にアタックをかけたようで、『髪をね、好きだって言ってくれたんです』浅利君は満面の笑みで馴れ初めを語ってくれた。あと数年もすれば結婚しているんじゃないか、と思うくらいお似合いのカップルだ。
なのに、今はこの冷え具合である。互いを避けているような。金曜(14日)の夜だって、安部君がコンビニに晩御飯を買いに行くのに付いていったのは浅利君ではなく、阿土良君だった。
しかし、どうなんだろう。ほら、こういうのって犬も食わないと言うし……と僕が人知れず迷っていると、
「あなたは一緒に行かないの」
黄さんが言った! 面倒見がよくて、こういう時も臆せず斬り込んでいけるところは、本当に彼女の美点だと思う。僕が持っていない部分だ。
「だってー、食べたばっかりだし」
「答えになっていないわ。何かあったのなら、話してみない?」
黄さんは一重の目を優しく細めた。思うに、浅利君は誰かに話したかったのだと思う。そして黄さんは、それを見抜いていた。彼女が学生から慕われる所以だろう。
浅利君はちょっと黙った後、感情を吐き出すように、第一声を放ったのだった。
「彼、巫女さんに浮気してるんです!」
僕と黄さんは、思わず顔を見合わせた。
夜。僕たちは二人であのコンビニを訪れた。サンタ服を着た店員の声が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませー……。あ、黄さん」
「こんばんは、堀水さん」
僕は研究室の中で黄さんにだけは、バイト店員の御衣子さんが平坂神社の巫女であると伝えていた。というか、白状させられたのだけれど。
御衣子さんは僕らの表情から、解いて欲しい謎があると理解したらしい。店長に声をかけた。
「山田さん、休憩入っていいですかー?」
店長も察してくれたようだ。「イートインスペースを使ってください。この時間はガラガラですから」にっこり笑った。本当に気立てのいい人だ。
ホットコーヒーを3人分買って、僕たちは椅子に腰を落ち着けた。黄さんは僕に断りを入れた後、ついでに大学ノートを一冊だけ買っていた。
そして僕は今日の昼、浅利君が語ってくれたことを伝えた。
『最近、あまりかまってくれなくて』
彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
『ずっと忙しそうだし、パソコン打ってるし、休みの日もどこか行っちゃうし……。どうやら、隣町の神社まで行ってるみたいなんですよね。今まで神様なんて全然信じてなかったのに』
確かに。彼の場合、神社で手を合わせているよりは、銀縁の眼鏡をクイと押し上げて「非論理的ですね」とニヒルに笑う姿の方がしっくりくる。
『そしたら、その神社で巫女さんと楽しそうに話していたんです!』
再びコンビニの場面に戻る。
「まるで見てきたような言い方ですね」
御衣子さんがボソッと呟いた。
「それが、その通りなんですよね……」
僕は苦笑いで答える。
昼間も同じ感想を持った。だから聞いてみると、
『昨日、こっそり後をつけたから』
お茶を噴き出しそうになった。
『ドラちゃんも一緒だったんですけど――』
『年下をそんなことに巻き込むんじゃないよ』
ドラちゃん、こと阿土良相利君。なぜかうちの研究室によく遊びに来てくれる、学部1回生の女の子だ。無口でボーイッシュな格好をしているから、最初会った時には中学生の男の子かと思ってしまった。今日は研究室には来ていなかったな。
『むしろあの子の発案ですよ』
『そうなのかい?』
『ほんとです。バレにくい変装法とか、裁判で証拠になる日記の書き方とか、色々教えてもらいました』
日記と聞いた時、僕は顔色が変わらなかったか心配になったが、どうだろうか。まだ勘づかれるわけにはいかない。
『ばっちり証拠写真も押さえていますよ。巫女さんと話していたところ』
阿土良君は多芸多趣味だ。金曜(14日)にも、映像関係に強いということが判明したばかりだった。
『あれ、そういえば今日は来てないですね、ドラちゃん』
『追試があるらしいわよ』
黄さんの答えに、今度は僕と浅利君で顔を見合わせることになった。え……大丈夫なのだろうか。
才能を伸ばすのは良いことだ。早いうちから研究室を見に行くのも感心だ。しかし留年しちゃったりしないだろうな。少し心配である。
と、その時。僕は思い出した。昨日、誰かの気配を後ろに感じたが、もしかして、
『僕を見かけたりした?』
『あ、すいません。映画をご覧になってましたよね』
ガクッと肩を落としてしまった。なんだよ、少し怖かったんだぞ。
しかし浅利君は、僕のそんな様子にもお構いなく、彼氏への怒りを再燃させていた。
『巫女さんは確かに美人だったけど……あんまりです! やっぱりああいう清楚系が好きなんですかね、男って!』
一通り話し終えた時、御衣子さんは顎に手を当てて考え込んでいた。この人も昼間は巫女として働いているけれど、今はその時のオーラは完全に消えている。
しかし眼光の鋭さを見ると、やはり平坂神社の御衣子さんだと思わされる。「見込みがあるわね」我らが名探偵は呟いた。
数秒後。僕たちの方に顔を向けて尋ねてきた。
「その安部さんは、真面目な方なんですよね」
「ええ、その通りです」
そう。だからこそ、僕たちは信じられないのだ。彼女一筋の安部君が、他の女性に気移りするなんて……。しかし最近の彼を見ていると、やはり何かおかしいという気がする。何か一つのことに集中している、というか。
「では、彼はどんなレポートを書きますか」
「レポートですか? しかし、とてもマニアックですよ」
「ああ、内容じゃなくて……。これは黄さんに聞いたほうがいいかもしれませんね」
急に指名を受けた黄さんは、だけどうろたえる様子もなく、丁寧に返答した。
「今時の若い子にしては珍しく、しっかりした文章を書いていると思います。『てにをは』から直さなければいけない生徒は多いですからね」
御衣子はコクリと頷くと、今度は不思議なことを尋ねた。
「ところで、何村さんの本は大学で配布されていますか?」
「いや、まさか。だけどゼミの子たちには配ったよ」
浅利君が本を受けとった時の言葉は、
『活字って苦手だけど、読みます!』
だった。うん、正直はいいことだし、彼女はとても良い子だ。だけど僕は少し悲しいよ。
『おい、失礼だろ』
慌てて恋人を諭した安部君の表情は凍りついていたっけ。まだ二人がぎくしゃくしていなかった時の話だ。互いにない部分を補い合う良い関係なのだ、彼らは。
「お二人とも、素敵な方ですね」
御衣子さんは無表情ながら、どこか晴れやかな顔をしていた。まさか、彼女は既に。
「想像はつきました。安部さんが心を奪われていたものに」
御衣子さんの出したあの答えを聞いた時ほど、僕は自分に才能がないと感じたことはない。