コンビニコーヒーを買う男
12月15日(土)
彩り鮮やかな光景が広がっていた。
H大学最寄りの駅前ロータリーは、毎年この時期になると色彩豊かなイルミネーションで賑わう。年々立派になっていく電飾は、僕の心にささやかな高揚感をもたらしてくれるのだ。
あいにくの冷雨だったが、なんと黄さんが僕の鞄に小さな折り畳み傘を忍び込ませてくれていた。
『どうぞ使ってください。黄』
というメモ付きで。さすがは我らがS研究室の誇るスーパー秘書、黄泉さんだ。適当な教授に学会発表のスライド作成を丸投げされても文句ひとつ言わず、個性の強い学生たちの相手も辛抱強く行う。そしておそらく天気予報で僕が帰ってくる頃には雨が降っていると知り、その対策までしてくれていたのだ。
いや僕は、次のように言われても驚かないぞ。彼女は予知能力者で、雨が降ることも僕が天気予報を見ずに傘を忘れることも既に知っていた、と。それくらい彼女は優秀な人間で、僕たちはみな世話になりっぱなしだ。あの二人だって……。
大学近くまで来た時、ふと、その二人のことが気がかりになった。最近、急にぎくしゃくし始めた気がしてならない。昨日(14日)の晩も。
いや、この話はいいだろう。本題に入る。
暖かいものが食べたくなって、僕はいつものコンビニに寄った。そこで面白い出来事があったので、書き留めておくことにする。
店のドアを開けた時に鳴る電子音を聞きながら、僕はどこか物足りなさを覚えた。いつもの「いらっしゃいませー」の声がなかったからだ。
低めの、どこか舌足らずなあの人の挨拶。今日は休みなのだろうか。クリスマスが近いからか、ところどころに飾りが施されて普段より華やかな店内を見回すが、客の姿も見えない。もう夜も遅いし、当然か。
「熱っ!」
しかし入り口の近くから、小さな叫び声が聞こえた。驚いて顔を向けると、男が一人立っていた。
(うーん、どうも日記というか、小説のような記述形式になってしまう。仕方ない。普段からそういう文章ばかり書いているのだから。今後もそういった文体になる箇所があると思うが、気にしないことにする)
白いつなぎを着た、トラックの運転手風のその男がいたのは、コンビニコーヒーの機械の前だった。無骨なマシンの横にあった赤いティッシュカバーは、やはりクリスマスムードを演出していた。
忘れもしない5年前から、急激に普及したコーヒーメーカーには、僕もけっこうお世話になっている。今日だって、お腹が空いていなかったらホットコーヒーを買っていただろう。
買い方は極めて単純。ホットの場合、まずはレジで店員さんに声をかけて空のカップをもらう。そして機械の所定の位置に置いてボタンを押すと、しばらくして湯気とともにダーク・ブラウンの液体が注がれる。
機械の中では豆を挽く段階からやっているらしい。待っている間はとても良い薫りを楽しむことができる。これでワンコイン。お手軽なうえ、飲みやすい、いい味だ。
砂糖やミルクなどは、注ぎ終わった後に自分で入れる。しかしこのトラック運転手は、どうやらコーヒーが最後まで注がれるのを待たず、ミルクを入れようとしたらしい。あまり広いスペースは取られていない。熱々のコーヒーが手にかかってしまったのだろう。
彼はズボンに手をごしごしと擦りつけ、それからコーヒーを取ると、せき立てられるように店の外へ出て行った。またあのメロディが流れる。
と、その時。背後の商品棚の方向から、聞き慣れた声がした。
「何村さん」
なんだ、いたんじゃないか。堀水御衣子さん。僕の認識としては出会って1年近くになる、22歳の女の子だ。このコンビニでバイトの店員をしている。
彼女はさっきの運ちゃんにコーヒーカップを渡した後、棚の整理でもしていたらしい。
「こんばんは――」
振り返ってみて、僕は思わず頬を緩めてしまった。赤を基調とした特別仕様の制服に、ぽんぽんのついた赤帽子。さすがに白鬚までは付けていない。
彼女は、サンタクロースの格好をしていた。
「似合っていますよ」
「し、仕事だから、仕方なくです……」
御衣子さんは言い訳をするように、消え入りそうな声で呟きながら、僕を恨めしげに睨んだ。本当に似合っていたけどな。
それにしても、僕の記憶が確かなら、去年は仮装なんてしていなかったはずだ。今年からの試みなのだろうか。まあ、そういうことが好きそうな人だけど、ここの店長さんは。
しかしこうしてみると、なるほど、なかなかどうして華やかではないか。
「あまりじろじろ見ないでくださいっ!」
「こらこらぁ、御衣子ちゃん。『お客さん』に対して失礼でしょう?」
おどけた声とともにレジの奥から現れたのは、店長の山田さんだった。「こんばんは、先生」「どうも」軽く挨拶を交わす。50代半ばの、元気で気前の良いご婦人である。すっかり顔なじみだ。
「先生の本も置かせてもらってるんですよぉ」
にこにことしながら山田さんが雑誌コーナーの一角を指さした。確かに、僕の書いた本があった。
僕は大学に籍を置く傍ら、小説家としても活動している……といっても、まだ1冊しか出せていない。しかし滑り出しはまずまずのようで、うまくいけばシリーズ化もあり得るそうだ。
ジャンルは推理小説。神社の巫女さんが日常のちょっとした謎を解く短編集だ。そしてモデルは、ほかならぬ御衣子さんだったりする。神社ではまっすぐにおろして細く束ねている見事なストレートの黒髪も、今は帽子の中に収まっている。
平坂神社の巫女。それが彼女の正体だった。
彼女を神社で見かけたのは、今年の2月。もう10カ月も前のことだ。彼女は僕が持ち込んだ様々な謎を解いてくれた。それを記録したものを出版したのだが……。僕はふと疑問に思ったことを口にした。
「巫女さんがサンタの格好って、大丈夫なんですか?」
「ですよね! 私も抗議したんですよ!」
急に御衣子さんは元気になって叫ぶように言った。彼女、神社で巫女姿の時はすごくお淑やかなのだけど、いったんスイッチが入ると(もしくは切れると?)、このようにやや幼い言動になる。見ていて面白いけれど。
御衣子さんの攻勢にも、店長は全く動じない。
「巫女服だって、赤と白じゃない。似たようなものよ」
「そ、そんな、全然違います! それに巫女は仕事で――」
「あら、バイトは仕事じゃないって言うの?」
店長は怒った様子もなく、笑みを浮かべて諭すように言った。う、と痛いところを突かれた様子の御衣子さん。
「すみません。失言でした」
「素直でよろしい。可愛いわねぇ、御衣子ちゃんは!」
……とまあ、これも面白い話ではあったのだが、僕が書き留めておこうと思ったのはここではない。
その後、僕はいつものように商品を選んでレジに持って行った。温まりたかったので、きつねうどんにした。対応してくれた御衣子さんは慣れたもので、何も言わなくても紙おしぼりを付けてくれた。彼女はよく気が付く、いい店員だと思う。
それを店長に言うと、彼女は本当に嬉しそうに、
「そうなんですよ。あ、そうだ。あのお客さんの時だって。『おしぼりをください』の人」
話が見えずに首をかしげると、
「そうおっしゃった方がいて……」
御衣子さんはなぜか恥ずかしそうに言った。そして、店長に促されて詳細を説明し始めた。
数日前、彼女は不思議な客に遭遇したらしい。そのサラリーマン風の男は、ホットのコンビニコーヒーを注文して、
「おしぼりをください」
と言った。御衣子さんも、それを見ていた店長も疑問に思ったという。
「先生、その方がどうしてそんなことを言ったのか、分かるかしら?」
店長はとても楽しそうに言った。ふむ、挑戦状、というところか。これは面白そうだ。
「分かりました。受けて立ちましょう」
「ありがとうございますぅ。制限時間は……お弁当が暖まるまで、ということでどうかしら」
店長が人差し指を立てて言うと、すかさず「あと1分です」御衣子さんは言った。抜かりないというか、真面目というか。
普通に考えれば、コーヒーを飲むだけでおしぼりは必要ないはずだ。店長や御衣子さんが疑問に思ったのはその点だろう。飲むだけなら手は汚れない。
数秒考えて、僕は思いつく限りの答えを口に出していった。だけど、それらはことごとく御衣子さんに打ち消された。
「もともと手が汚れていて、すぐに拭きたかった」
と言えば、
「もう寒い季節ですからね。その方は手袋をしていました」
「どこかでご飯を食べた後だった、とか?」
「口まわりは汚れていませんでしたよ。ついでに歯に食べかすが挟まったりもしていませんでした」
出た、御衣子さんの変態的に良い視力。短い会話だけでそこまで観察していたのだろう。ともあれその通りなら、食後ではなかった、もしくは食後でも口を拭うほどではなかったということだ。
「コーヒーを飲んだ後に、口を拭いたかったのかも」
そうですね、だけど――。御衣子さんの言葉に僕ははっとした。そうだ、これはもともと、どういう話だったのか。
僕は、すっかり。
『前提を見落としています』
ピー、とレンジが音を立てた。御衣子さんはくるりと身を翻して商品を取り出しにかかる。
「降参です」
僕は両手を挙げて肩をすくめた。店長は待ってましたとばかりに、嬉しそうに答えを口にした。
……今日は疲れた。続きは明日書くことにする。