祭りのあと 【解決編】
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『何村教授の身が危ないかもしれません』
21日の金曜日。バイト中の御衣子さんのもとへ黄さんが訪れ、そう言ったという。彼女は御衣子さんに、一冊の大学ノートを見せた。
「やっぱり彼女は、僕の日記を見つけていたんですね」
「はい」
神社を出てすぐ、渋滞に捕まってしまった。車なら十数分ほどで平坂神社まで戻れるが、この様子だともう少し時間がかかりそうだ。3連休だから、仕方ないけど。
「確認したいのですが、もしかして黄さんはよく仕事を持ち帰っていますか?」
御衣子さんは片手をハンドルに残して、もう片方の手は休ませている。なんだか、長距離トラックの運転手ばりの風格を感じてしまった。これはライトバンだけど。
「あ、はい。研究の内容に関わらないことなんかは、家でも整理してくれているみたいです」
「やはりそうでしたか。
日記の17日(月)の記述に、黄さんが当店で大学ノートを購入するシーンがありました。何村さんに断りを入れたと書いてありましたが、あれは教室の備品だったのではないですか」
あ、それで。僕も黄さんが日記を見ることになった経緯に気が付いた。研究室にはたくさんの大学ノートが置かれている。その中には事務関係の物も。黄さんは、僕の日記が書かれた大学ノートを間違えて持って帰ってしまったのだろう。
「表紙には『日記』なんて書いていませんでしたから、家でつい開いてしまったのも無理はありません。また、冒頭から不穏な文章が踊っていましたね。
――あ、失念しておりました。何村さん、ダッシュボードを開けてくださいませんか」
「え? 構いませんが……」
ふたを開けると、そこには件の大学ノートが入っていた。
「黄さんから預かったままでした。今お返しします」
「はあ」
「先ほどの続きですが、そちらの冒頭に不吉なことが――」
そこで言葉を切る御衣子さん。彼女の言いたいことが分かって、僕はノートを広げた。確かに、初っ端から『原稿の締め切りよりも厄介な問題』(14日)とある。なるほど。読み返してみると、凄く不吉だ。
「昼間の何村さんの様子も、どこかおかしかった。彼女は、何村さんが書いていたものがこのノートだとすぐに思い至ったでしょう。プライベートなものを覗くのは決意が必要だったと思いますが、先月のことがありますからね」
あの「クモの糸」事件のことだ。あの時も黄さんは真っ先に僕のもとへ駆けつけてくれた。
「彼女は日記を読み、ますます確信を深めたはずです」
僕はページをめくって記述を探してみる。すると、出るわ出るわ。
『裁判で証拠になる日記』(17日)
『まだ勘づかれるわけにはいかない』(17日)
『彼女を巻き込んでしまったら、元も子もない』(20日)
『何村先生は、狙われているんです』(20日)
不穏な記述のオンパレードではないか。これでは誰だって勘違いしてしまう。
「それは、何村さんが厄介事に巻き込まれている、という確信です。例えば、恨みを買ってつけ狙われている、とか。日記は警察に相談する時にも役に立ちますからね」
『誰かに後をつけられていたような。そんな気がした』(16日)なんて記述も見つかった。これは一応、翌日の記述で否定しているけど。
「そして、そのことを自分に隠そうとしている、とも。
そのため居ても立っても居られなくなったのです」
ああ。僕にそんなつもりは全くなかったのだ。そもそも誰かに読まれるなど想定もしていなかった。
けれど言い訳はできない。見られてもいいように、恣意的に本当の目的を描写することは避けていたと思う。それがまさか、心配させてしまうことになったとは。
僕はある目的のために日記を書いていた。それは、きな臭い理由などではない。
御衣子さんは、その答えを告げた。
「何村さんたちは、映画を撮っていたんですよね」
「……マニアに見せるには、少々気後れのする出来栄えでしたが」
僕は頭をかいた。
一昨日の晩、僕が襲われた場面。あれは全て芝居だった。安部君扮する学生は僕を刺す演技をしただけだし、僕は刺された振りをしたに過ぎない。浅利君の照明は少し眩しすぎたし、屋外での撮影だから当然体温は奪われた。一部始終を撮影、そして編集したのは阿土良君だ。
「すべては、ある一人の人物のための計画でした。S研究室のメンバーが、日頃の感謝を伝えるために。そうですね」
「ええ。叱られちゃいましたけど」
僕たちは、クリスマスパーティーで上映するビデオメッセージを作っていたのだった。黄さんへの感謝の気持ちを込めた、サプライズのミニ映画。
昨日の夜。2階を貸し切った鍋料理屋で、僕たちS研究室一同は暗がりのなか、スクリーンに視線を向けていた。
突如、一面にタイトルが表示される。
『狙われた何村教授』
背景ではおどろおどろしい音楽が流れている。夜道を呑気に歩く何村教授(演:もちろん僕)の映像に、教授自身による棒読みの独白ナレーションが入った。
『僕の名前は何村誠。耳順う六十歳だ!』
すると、教授はいきなり暴漢に襲われる。そいつは両手でナイフを構え、
『ボクが留年したのは……お前が単位をくれなかったからダ!』
その正体は、単位を落として留年した学生(演:安部君。片言なのはご愛敬)だった! そんな! 逆恨みも良いところだ!
教授はナイフで胸を刺され、地面に倒れこむ(嫌だったけれど、鬼監督には逆らえない)。怯えたような顔をして、走り去る留年生。しかし直後、教授は何事もなく起き上がった!
身に着けていた何かが凶刃を防いだのだ。コートの内ポケットを探ると、出てきたのは折り畳み傘! グレート秘書、黄さんが入れてくれたものだった。黄さん、ありがとう! あなたのおかげで助かったよ!
教授の恰好はそのままで、背景だけS研究室に変わる(この場面転換がかなり滑らかで、阿土良君の編集技術はなかなかの腕前だと言えた)。やや手こずりながら折り畳み傘を広げると、そこには「いつも ありがとう」の8文字が紙で貼り付けられていた。
一転して陽気な音楽が流れ、サンタ(演:浅利君)やトナカイ(演:阿土良君)のコスプレをした教室メンバーが画面の端から乱入、愉快なコーラスが繰り広げられる。
『ジングルベール、ジングルベール、鈴が~鳴る~!』
ひとしきり歌った後、また場面が変わって、黄さんへのメッセージが一人ずつ流れ始めた……。
「黄さんは日記を読んだ後、まず何村さんに電話をかけました。しかし、聞こえてきたのは圏外を知らせる音声。撮影中、機内モードにしていたんですね?」
図星だ。勤務時間外だし、いいかなと思ったんだ……。社会人にあるまじき言い訳だと、自分でも思うけど。
「ここで黄さんが学生たちにも連絡をとっていたら、なんとか収まっていたかもしれません。しかし、その考えが思い浮かばなかった。まさか教授と一緒にいるとは思わないでしょうし」
あの黄さんでも、かなり動揺していたということなのだろう。その原因はひとえに僕の不注意だ。ほんと、申し訳ない。
「彼女は、私のもとを訪れました。コンビニまで日記を持ってきてくださったのです」
御衣子さんの横顔は、少し誇らしげに見えた。ここで初めの話に繋がるのか。
僕たちは、数週間前から黄さんのために何かしようと話し合ってきた。きっかけは、黄さんのいない時間ができたこと。金曜の午後、彼女が田舎の実家に帰った時だ。
黄さんの穴を埋める中で、彼女がどれだけ僕たちを支えてくれたのか実感したというのも大きい。僕たちは雑用をこなしながら、話し合いを重ねていった。
映画を撮ろう、というふうにまとまったのは14日。先週の金曜だ。しかしどんな内容にするかで議論は紛糾し、僕らは夜になっても研究室に残っていた。打開案は、安部君がコンビニから帰ってきた時に放った一言だ。
『何村教授は狙われているんです』
『……そうか、それは良いアイデアだ!』
こうして、僕が何者かに襲われ、それを黄さんが助けるという方向で話は決まった。脚本を引き受けたのは僕だ。
が、すぐに困ることになる。作家とはいえ、僕は物語を作るのが上手いわけではない。あの本だってほぼノンフィクションのようなものだし。そこに助け舟を出してくれたのが、御衣子さんだった。
『日記を書いたらどうですか』
それはいい。僕はアイデアを引き出すために、普段のことを書き留めていったのだった。確かに日記は役立った。
『あいにくの冷雨だったが、なんと黄さんが僕の鞄に小さな折り畳み傘を忍び込ませてくれていた』(15日)
これは、傘が僕を守る展開に繋がったし、
『しかし留年しちゃったりしないだろうな』(17日)
という記述から、留年生に襲われるという筋書きを思い付けた。御衣子さんのサンタ姿は合唱のシーンで生かされた。
しかし、分からないことがある。
「そもそも御衣子さんは、どうして僕に日記を勧めたんですか? やけに唐突で驚きました」
『僕が何も言わないうちに、彼女はあの言葉を発したのだ』(14日)
この日の僕も不思議がっている。御衣子さんは前を見たまま、落ち着いた声で答えた。
「理由は単純です。何村さんがコンビニを訪れる数時間ほど前に、二人の若者が不穏な計画の相談をしていたからです。『テグスを張って、何村先生を転ばせるのはどうか』というような」
え、なにそれ。僕って本当に狙われていたの? しかも複数人に。
「まさかあのクモ事件の犯人が――」
「違いますよ。何村さんもご存知のお二人です」
声に笑いを滲ませる御衣子さん。その時、僕の頭の中でようやく点と点が繋がった。そうか。安部君と阿土良君だ!
金曜の晩、議論が紛糾するなかで安部君はみんなの夜食を買いに行ってくれた。安部君に不信感を抱いていた浅利君の代わりに阿土良君がお供をしたのだが、おそらくその際だ。あのアイデアを思い付いたのは。
二人はコンビニの中で、僕が狙われているという筋書きを検討したんだ。それを御衣子さんは聞いてしまった。僕の研究室の学生だとは知らずに。
「私の頭には、物騒な考えが思い浮かびました。しかし何村さんの様子を見ると、そんな問題を抱えているようには見えません。ですから念のため、あのような助言をさせて頂いたのです」
彼女も僕の身を案じて、阿土良君の知恵と同じような意味で日記を勧めたのだ。つまり、詳細な日記があれば、それが記録となって、警察へ相談する時なども説得力が出る。
そんな気も知らずに、僕は能天気にも「御衣子さんなら、僕がアイデアを考えるのに困っていると超人的な推理力で察し、日記を勧めてくれたのだ」と勘違いした。
ん? ということは、
「最初は御衣子さんも、僕が厄介事に巻き込まれていると考えていたんですか」
「そうなりますね」
「じゃあどの段階で、僕たちがビデオメッセージを作っていたことに気付いたんですか?」
目の前の信号は赤だ。御衣子さんは滑らかに車体を停止させた後、僕に顔を向けた。
「21日の夜、実際に日記を読ませていただいた時点で、ほぼ確信が持てました。もっとも、何村さんが何の事件にも巻き込まれていないことは、月曜日の時点で分かっていましたが」
「え、早いですね」
月曜日というと、17日。御衣子さんが安部君たちの会話を聞いた3日後には、思い違いを解いていたことになる。
「何がきっかけですか」
「あの日、何村さんと黄さんが当店にいらっしゃいましたよね。その際、安部さんの人相を伺いましたから。二人のうち一人は、確かに銀縁眼鏡をかけ、髪はぼさぼさ、無精ひげを生やしていました」
僕は17日の記述を確認した。本当だ。御衣子さんにそのように伝えている。しかしそれだけで?
だが僕は、すぐにその答えを見つけた。
『毎年このような学生は一定数出現するのだが……まだ少し時期が早いような気がして、疑問に思っていた』(17日)
読み上げると、御衣子さんは頷いた。静かに車を発進させる。
「お二人を見て、最初は冷めた感じのカップルだと密かに思っていたのですが、女性の方は浅利さんではないとすぐに分かりました。髪型が違っていましたから」
彼女は『ウェーブのかかった茶髪』(17日)だ。
「ですが、その後でおっしゃった阿土良さんの説明で確信できました。お二人はS研究室の関係者だと。ですから、あれは何村先生を襲う計画ではなかったのだと思い直しました」
なるほど。話が見えてきた。
黄さんがあの場に乱入したのは御衣子さんの手引きがあったから。御衣子さんが僕に日記を勧めたのは勘違いからだったが、彼女自身はすぐに間違いに気付いた。
じゃあ、次は。
「どうして、日記を読んだだけで僕らが映画を作っていたと思ったんです?」
「お話ししましょう。ページをめくる準備はよろしいですか?」
「はい、どんとこいです」
なんか楽しくなってきたぞ。
「まずおかしいと思ったのは、何村さんが日記の題材を選んでいたことです。しかも、15日のエピソードでは何村さんが面白いと思ったものを採用している節がありました」
あった。
『面白い出来事があったので、書き留めておくことにする』(15日)
『これも面白い話ではあったのだが、僕が書き留めておこうと思ったのはここではない』(15日)
「もし自分が狙われていることの証拠を書きたいだけなら、なるべく多くの出来事を記述するでしょうし、そういう選び方にはならないはずです」
言われてみれば、初日のエピソードではまだ不穏な部分は少ない。最後の、後をつけられたと感じたくだりくらいだ。それ以降、どんどん文体も暗くなっていくので、全体がそう印象付けられたとも言える。
それは、サスペンス仕立ての脚本を考えていたから、そして当日が近付くにつれ僕が追い詰められていったからなのだけど。結局、撮影は前日になってしまったし。それでも一日で間に合せた阿土良君はさすがと言うべきだ。
「そして、21日の記述では、もう書く必要がない、というような文がありましたね。あれも、証拠にするという目的にはそぐわないでしょう」
『本当はもう、この大学ノートに書く必要もない』(21日)
これは、あの時にはもう脚本は出来上がって、撮影の段取りまで決まっていたからだ。
「また、たびたび14日に関係した記述が登場します。私は、その日に何があったのかを考えてみました」
『金曜(14日)の夜だって、安部君がコンビニに晩御飯を買いに行くのに付いていったのは浅利君ではなく、阿土良君だった』(17日)
『(阿土良君は)金曜(14日)にも、映像関係に強いということが判明したばかりだった』(17日)
『(黄さんには)金曜は早退してもらって』(19日)
御衣子さんの読みは当たっている。当然、この計画は秘密裏に進められる必要があった。黄さんへのサプライズ企画なのだから。しかし彼女は平日のほとんどをゼミ室で過ごしている。僕らが勘のいい彼女の目を盗んで、落ち着いて話し合いや撮影を行うには、金曜の午後から、彼女がこの大学を離れている時くらいしかなかった。
「この日は、何村さんが日記を書き始めた日でもありました。
毎週金曜日、黄さんは午前中で早退します。彼女のいない部屋で、残りの4人は遅くまで残っていました。何村さんは『目下の問題』を抱えていて、安部さんは小説の締め切りに追われ、浅利さんはそんな安部さんに不信感を抱いていて、阿土良さんは追試にかかっている。そんな状態でなぜ四人が、仲良く一つの部屋で残っていたのか? そうまでする理由は?」
車の列は遅々として進まない。しかし御衣子さんは苛立つ様子もなく、泰然自若と話し続ける。
「理由は、容易に想像がつきました。共通の目的となるに相応しい人がいるではありませんか。日記でも、その人への感謝が随所で書かれていました」
S研究室の、縁の下の力持ち。メンバーを陰で支えてくれた人。そんな人は一人しかいない。
「だからサスペンス映画だと思ったんです」
「ち、ちょっと待ってください。さすがに論理の飛躍を感じたんですが」
「そうでしょうか。黄さんは映画がお好きなのでしょう?」
『映画好きの黄さんに勧められた』(16日)
確かに書いてあるけれども。
「どうしてサスペンスと?」
「クモの糸事件の際、何村さんはサスペンス映画を観に行かれていますよね。それも黄さんに勧められたのではないですか?」
……慧眼だ。その通り、彼女はサスペンス映画が好きなのだ。ついでに15日に僕が観たのもサスペンスである。
「それに、決定的な描写があったのです。ビデオレターを撮っていると分かる記述が」
え、そんな直接的なこと、書いたっけ。
「19日の冒頭ですよ。場所はゼミ室、最初は黄さん不在です。
確か『壁際の椅子に座ったまま』の浅利さんが登場しました。そして他のお三方は、なぜか浅利さんと対面する位置にいるようです」
「ど、どうしてそこまで……」
まるで部屋を覗いていたかのようじゃないか。
「論理的帰結ですよ。
まず、安部さんが壁に張り付いたクモを見つけます。自然に考えると、壁に背を向けた浅利さんとは対面する位置ですよね。また、何村さんは安部さんを横目でご覧になったので、安部さんとは並んでいる格好になります。また対面の位置です。
最後に阿土良さんですが、『いつの間にか浅利君の横に立って』とありました。ということは、最初は横にいなかった、つまり対面の位置にいたのかなと。
それに彼女に関してはもう一つ理由があります」
僕は思わず、唾をごくりと飲み込む。
「その理由とは……?」
「これは、映画を撮っていることの決定打になる点でもあるのですが――彼女は、ハンディカメラを手にしていたのですよ」
『いつの間にか浅利君の横に立ってハンディカメラでクモを撮影している』(19日)
「映像関係に興味がおありのようですが、どうしてそのタイミングで? そして浅利さんの位置。まるで今まで、浅利さんの映像を撮っていたみたいじゃないですか」
これは、素直に舌を巻く他ない。よくそこまで見抜けたものだ。
「浅利さんを撮るとなると、対面の位置にいるのは当たり前です。
また、阿土良さんは黄さんが部屋に入ってきた時、自然に、カメラを持っていた理由を悟られないようにしていました。彼女は頭の切れる、優秀な生徒さんですね」
やっと車の列が動き出した。御衣子さんは、ふうと小さく息をついた。
「以上が、映画作りに気付いた理由です」
「分かりました。けど、まだ聞きたいことは残っています」
彼女は、僕の発言も予想通りのようで、前を見たまま微笑んだ。
黄さんにそこまでを伝えたのは分かる。だけど、それだけなら黄さんはまだ動けない。
「どうして御衣子さんは、僕たちの撮影場所が分かったんですか?」
「それも順を追って説明いたしましょう。ヒントは、20日の記述にありました。
まず、最初に予定していた撮影日時は21日の午後、場所はS研究室のゼミ室だった。そうですね?」
「ええ、その通りです」
それまでにもメッセージの作成や合唱のシーンなどはなんとか黄さんが外出した隙に撮影したりしていた。しかし僕の脚本が遅れたせいもあって、教授が襲われるシーンだけは直前まで残ってしまったのだ。
阿土良君には負担をかけてしまうが、金曜の午後は黄さんがいない。だから落ち着いて撮影ができるはずだった。
「ところが、19日に何村さんが部屋で日記を書いていると、黄さんが戻ってきてこう言います。金曜は午後からも残る、と」
あの言葉を聞いた時は、本当に焦った。
『明後日は午後からも残らせていただきます』(20日)
「そこから何村さんは急遽忙しくなったと書いていました。あれは、ゼミ室が使えなくなったため、代わりを探したり、その連絡を伝えたりするのに忙しかったのではないですか?」
ザッツ・ライト。まさに激震が走るとはあのことだった。
まずは他の3人に事情を伝えた。『どうしましょうか』『いっそ黄さんを監禁――』『ドラちゃん、物騒なこと言っちゃダメ』
『安心したまえ、君たち。当てならある』
3人は驚いた表情で僕を見つめた。
「何村さんの代案は、竹村文具店の向かいの空き地でした」
御衣子さんの読みは当たっていた。急に頼み込めそうなところと言えば、そこくらいしか思いつかなかったのだ。
金曜の予報は曇り。なんとかなるだろう。問題は昼間から全員が研究室を出払って怪しまれやしないかという点だった。
だけど、翌日にはどうせ披露するのだし、大丈夫だろうということになった。一応、黄さんが外に行く用事ができればすぐに撮影を始められるようにはしておいた。
しかし、当日の朝。たまたま浅利君と出くわした僕は、思わず目を見開いてしまった。
『あ、浅利君。その髪は……!』
『教授。これはひと雨降りますよ』
彼女は、いつにも増してボリューミーな髪を指で玩びながら、絶望的な表情で告げた。
さあ大変だ。
こんな日に限って、黄さんはなかなかゼミ室を離れない。大学の推薦入試のため遅くまで残れず、雑務に追われているのだ。当然、僕たちだけ遅くまで残って撮影することもできない。外は土砂降りの雨で、とても撮影どころではない。
万事休す。しかし天は我らに味方した。帰る頃には、あれだけ降っていた雨がやんだのだ。僕は一人部屋を出て、竹村さんに電話した。
『空き地を使わせていただく件、夜になってもいいですか!?』
彼は快く了解してくれた。黄さんのためなら、と。ここでも彼女の人柄がうかがえる。
ともあれ、これでなんとかなりそうだ。僕たちは一度別れたあと、機材を持って空き地に集合したのだった。
「私は日記を読み終わった後、黄さんに、映画の撮影をしているだけだから大丈夫だろうと伝えました。しかし彼女は場所を聞くばかり。伝えると、即座に駆けて行ってしまいました。
それだけ、何村さんのことが心配だったのでしょう」
「……はい。反省しています」
黄さんの腕に抱かれながら、僕は
「あ、終わった」
と観念していた。最悪だ。計画はバレてしまい、心配もかけてしまった。案の定、空き地ではひどく叱られた。
しかも黄さん、安心した反動からか変なテンションになってしまって、急に監督をやると言い出したのだ。鬼の演技指導が繰り広げられ、僕は泥まみれになった。
サプライズとは、一体。もう訳が分からなかった。それでも彼女はとても楽しそうだったので、まあ、あれはあれで良かったのかもしれない。
僕たちは平坂神社に着いた。
車を降り、並んで参道の端を歩いていく。真ん中は神様のために空けておく。
「大丈夫ですか」
「は、はい。なんとか……」
車の中で日記の文字をずっと追いかけていたせいか、気持ち悪い。昨日も、結局お酒を飲んでしまったし。若人に張り合ってもいいことはないな。
阿土良君はビデオ作りで徹夜したのが祟ったのか、パーティーを真っ先に抜けていた。今日はぐっすり眠っているだろう。無事に進級できるみたいで、本当に良かった。いや、落ちていたらシャレにならない。
小説の原稿を書き終わった安部君は、今日は浅利君と二人で伊勢神宮まで行っている。そっちで天長祭を見るらしい。朝7時開始なのに、すごい。そのまま観光して回るそうだ。修論で忙しくなる前に一息つけるようで良かった。
黄さんは昨夜、珍しく酔っていた。信じられないことに、店の2階でカラオケが入ると、真っ先に曲を入れ始めたのだ。
「えー。シャウトロック・フォームズで、『××最後のクリスマス』!!」
黄さんが歌っているところを見たのは、あれが初めてだ。今日はゆっくり、身体を休めてください。
「何村さんにご覧に入れたかったのは、これです」
御衣子さんは僕をとある場所まで案内すると、それを僕に見せてくれた。
絵馬だった。
低い位置に、隠れるようにして下げられた一枚。数え切れないほどの絵馬の中で、それは、ひどくシンプルな文面だった。
「あ」
そこにたどたどしい字で書かれていたのは――「いずむら先生。けがをさせて、ごめんなさい。もうしません。」
「これは、まさか」
「ええ。おそらく」
僕はしばし言葉を失った。御衣子さんはしばらく黙った後、僕に提案した。
「低い位置にかけられた絵馬。漢字ではなく、平仮名でいずむら――」
「いいんです。御衣子さん」
僕は彼女の提案を断った。彼女は、どこかホッとしたように微笑んだ。
「何村さん。青くて紅い、ホームズの真似事ですか」
「いいじゃないですか。だって」
『始』の年を、気持ちよく迎えたいじゃないか。
「ちょうど、赦しの季節です」
「最後のクリスマス」 了
お読みいただきありがとうございました。良いお年を。




