プロローグ
パンナコッタってなんであんなに美味しんだろうって思って書きました。
目は落ちくぼみ、骨に皮が張り付いているかのよう。水分が抜けきったその唇は、一つ言葉を発する度に裂け血が滲む。
弱々しい見た目とは裏腹に彼女が纏う空気に異様な重みがあるのは、そのギラギラと光る瞳が原因だろうか。その瞳が、その瞳だけが、その老婆が生きた人間であると周囲に知らしめていた。
「どうか、どうかお願いいたします」
しゃがれた声で老婆は言い、震える身体で頭を下げた。
それを聞いたグスタフは、ぎしりと音を立てながら椅子の背もたれに身体を預ける。
「ふぅ…」
グスタフの吐いた溜息は静かな部屋に染み込むようにして消えていく。その溜息の主の視線は頭を下げたままピクリとも動かない老婆の頭頂部に向けられていた。
視線を向けはしたものの、見ようとしているのは老婆の外面的なものではない。グスタフは彼女の心情を推し量ろうとしていた。
思い返せば、老婆の訪問は突然の事であった。
ハンレイス王国で最大の所属冒険者数を誇るクラン『テミスの天秤』のクランハウスの扉が叩かれたのは、冒険者が帰宅し、夕飯も終え、後は装備品の整備をして寝るだけとなった夜の事。
冒険者ギルドを介してのみ仕事や人員の募集をしていた彼らを訪ねる者など久しくいなかった。
何事かと訝しみながらも扉を開けた新人冒険者が、そこに立っていた老婆を見て剣を抜きそうになったのは仕方のない事だろう。見た目の問題もあったかもしれないが、何より、その老婆には鬼気迫るものがあったのだ。
「どうか、どうかお話を聞いてください」
弱々しく言葉を発する老婆に新人冒険者が言葉を荒げて追い払おうとしたのは、ただの老婆に気圧されたという事実を受け入れたくなかったからであろうか。
いくら言っても「お願いします、お願いします」としか繰り返さない老婆の肩をドンと押し返す。その勢いに倒れてもその場で土下座をし、老婆は動こうとしなかった。
更に暴力に訴えようとした冒険者の手を掴み止めたのが、クランマスターのグスタフである。
老婆を招き入れ、応接室にてサブマスターの二人も交えて彼女から話を聞く。
それは何とも胸糞の悪い内容であった。
「娘が、領主様に召し上げられたのです。正妻となれずとも妾であっても村にいるよりは幸せに生きられると、そう思い送り出したのです。ですが、ある日村に来た奴隷商人が連れた者の中に変わり果てた娘の姿があったのです」
老婆が見た娘は、親である彼女であってさえも見分けが付きにくい状態であったという。手足の健を切られ、喉を焼かれている。そんな姿をした人物が実の娘である…信じたくなかったが、身体を検分してみると、幼い頃に負った傷の跡がはっきりと残っていたそうだ。
使い道も無く他に買手もいないからと、提示された二束三文の金額で娘を買ったのだと、老婆は淡々と述べる。
しかし、娘はその時には既に病魔を患わっており、程なくして亡くなった。何故娘がこんなことになってしまったのか、絶望した老婆の夫は領主に説明を求め家を出たきり帰って来ないという。
「どうして、どうしてこのような事が許されましょうか」
この老婆は領主との繋がりもある冒険者ギルドに領主打倒の依頼を出すことも出来ず、こうして直接依頼をしてきたのだ。仕事を受けてもらえるか否かではなく、領主を断罪出来る可能性を持つ大手クランである我々テミスの天秤に。
応接室のテーブルの上には、老婆が差し出してきた金貨が5枚。
これが彼女の“すべて”なのだという。
これで領主を倒してくださいと、そういう話であった。
今一度、グスタフは老婆を見た。
自身の中にあった弱気や打算はさっきの溜息にのせて全て吐き捨てている。
「分かった、この依頼受けよう」
頭を下げたままピクリと肩を動かした老婆を横目に、サブマスターのラサマが口を開く。
「マスター、よろしいのですか?」
クランの財務を任されている彼らしい確認だなとグスタフは思う。金貨5枚、その程度で受けて良い内容ではない。そもそも、我々はそんなに安くない。だが…
「俺は女性の涙には弱いんだよ」
「知っていますよ」
そう言ってラサマは口を噤む。口角が上がっているのは嬉しいからか。駄目だな、財務担当がそんなに感情を顔に出しては。
「ギル」
もう一人のサブマスター、武力担当である彼女へとグスタフは呼びかけた。
声を発さず頷くだけの彼女らしい反応を確かめ、グスタフは命令を下す。
「ありったけだ。俺たちの“すべて”をもって領主の野郎を叩きのめす」
グスタフの命を受けた2名が静かに応接室を出る。
その背にぱたぱたと流れ落ちる涙の雫音を聞きながら。
テミスの天秤の行動は迅速であった。
老婆がクランの戸を叩いてから2日後の夕刻には北方でも有力な貴族であるリオーネス公の邸宅に動く者はいなくなっていた。グスタフとサブマスターのギルことギルテシアを除いて…ではあるが。
「意外としぶとかったじゃねぇかよ。しかも、家ごと燃やそうとしてくるなんてよ。お偉いさんの考える事は極端でいけねぇ」
最後の最後に全てを巻き込み自爆しようとしたリオーネスから逃れようと、他のクラン員達は外に避難している。いや、鎮火の為に放ったギルの水魔法に巻き込まれないようにと言った方が正しいか。押し流されたとも言う。
そんな、勝利の高揚も戦場の血の匂いも領主の燃えカスも洗い流されたような部屋の中で愚痴るグスタフにギルが「ん…」と、紙の束を突き出してきた。
家具も何もかも滅茶苦茶な中でどこから持ってきた?と、先程まで彼女がごそごそと何かやっていた方に目を向けると、壁に大穴が空いている。隠し金庫でも見つけたのだろう。
「ん…」
どうしてその場所か分かったのかと考えていると、再度ギルが紙束を押し付けるように渡してきた。
少し濡れてはいるが、読むことに支障はないそれを受け取り、目を通す。
…あぁ、これは家ごと燃やしたくなるわけだ。
グスタフはぐしゃりとそれらの書類を丸め、投げ捨てた。
「ゴミを投げ捨てるのは感心しませんよ」
グスタフの行動を咎めながら、ラサマが部屋に入ってきた。ずぶ濡れで、いつもぴしりと襟を正している彼にしては非常に珍しい光景だが、この場にそれを気に掛ける者はいない。
「ゴミだらけだよ、この国は。放置せず捨てただけ俺の方が偉い」
先程の紙束、そこに様々な悪事が書いてあったから言っているのではない。常日頃から肌で感じ、日常の生活から知っている事実を述べて返しただけだ。
「リオーネス公を討ったことで我々は王国の敵となりました。これからどうなさるおつもりで?」
「人一人の“すべて”を貰ったにしては、まだ俺たちは何も出来ていない。初めから覚悟は、決まっていたさ」
「クラン員620名で国を相手取ると?」
「丁度良い領地も得た。ラサマ、お前分かって聞いてきてるだろ?」
ニヤリと口角を上げて応えるラサマを見てグスタフは思う。やはりこいつは感情が顔に出過ぎるなと。
その後、領主邸の後始末をし、自分達で使えるようにしている際、連絡係のクラン員がグスタフに走り寄ってきた。
「先程、彼女が亡くなったとの報告がありました」
「…そうか」
グスタフはそっと目を閉じ、依頼主である老婆の安眠を祈る。
静まり返る邸宅の中、テミスの天秤620名の黙祷が一人の老婆に捧げられていった。
★★★
魔王が勇者に倒されて2年が過ぎた。
当時の笑顔は失われ、王国は荒れている。幼い王を操り、従臣が私利私欲の為の政治をしている。人々の希望たる勇者はそんな彼らの傀儡と言われていた。
腐敗は病のように各地を蝕む。
教会は世の混乱により増える信者たちの罪を金によって許した。
領主は賄賂を贈るために重税を敷いた。
そんな中、王国に見切りをつける冒険者、諸侯、民衆が現れる。
混乱の世。
今、時代が大きく動こうとしていた。
次回の1話から主人公のお話です。