事件編
ある日の早朝の出来事。使用人の香川真弓は、推理作家の美樹山吾郎の書斎の扉の前に、ひとりで立ち尽くしていた。真弓は、先ほどから書斎の扉を何度もノックして、吾郎の名前を呼んでみたが、吾郎は無反応だった。不審に感じた真弓がドアを開けようとノブをまわしても、内側から鍵がかかっていて、まったく開かないのだった。
真弓は、すぐさま一階の食堂に降りていって、既に朝食の席についている美樹山時彦にこのことを報告した。
「時彦さん。ノックしても名前呼んでも、吾郎さんの返事がないんですけど……」
「うん? なんだ親父、まだ寝てるのか」
時彦はそう言いながら眉をひそめて首を傾げた。父親の美樹山吾郎は、いつも朝食よりも早く起きてくるのが日課であった。それが今日ばかりは起きてくる気配がない上に、反応すらないというのは一体……。
「ちょっと気になるな」
「大丈夫でしょうか」
「親父には持病があるからな。ほっておくわけにはいかないだろうな」
「そうですよね、やっぱり心配ですよね……」
「ドアは開けてみなかったの?」
「開けようとはしてみたんですけど、鍵が……」
「開かなかったのか」
時彦はここで考えていても仕方ないと思ったのか、立ち上がった。
「とにかく行ってみよう。場合によってはドアを壊してでも、中に入らなきゃいけなくなるかもな」
二人は最悪の事態を考えて、急ぎ足で階段を駆け上がった。そして、吾郎の書斎の前にたどり着いた。
「親父? 寝てるの?」
時彦もすぐさま何回かノックをして、吾郎の名を呼んだ。やはり吾郎からの反応らしい反応はない。次第に、本当に何か悪いことが起こったらしいという予感が濃厚になってきた。
「親父ッ! 親父ッ!」
時彦は居ても立っても居られなくなって、大声で呼びかけながら、激しくドアを叩いた。しかし、一向に中からの反応はなかった。しばらくして、時彦はついに意を決して言った。
「やむをえない。ドアに壊そう」
時彦は、すぐさま書斎の堅いドアに体当りをした。扉がギギギと鈍いうなり声をあげて大きく揺らいだ。それと共に、時彦の肩に激しく痛みが走り抜けた。それでも、嫌がっている場合ではないと、もう一度体当たりを食らわせる。今度は痛みが時彦の全身を貫いていった。
(開け……!)
時彦の三度目の体当たりによって、ついに扉が大きなうなりをあげて、バネが外れたように勢いよく開け放たれた。
そして、その瞬間、中の光景が時彦の目に入った。それを見た途端、時彦は唖然として凍りついてしまった。なぜならば、その光景は彼にとってひどくショッキングなものだったからである。
「お、親父ッ……!」
そこにあったのは血にまみれて横たわる、父、美樹山吾郎の変わり果てた姿だった。
そして、その背中には深々と包丁が突き立てられていたのである。
*
時彦はふらつくような足取りで室内に入っていった。父親の背中には、大きな包丁が突き刺さっていて、その傷口からは赤い鮮血がドロドロと滴り落ちていた。それは、あまりにも痛々しい姿であった。
(何故だ……)
時彦は自分に問いかけた。昨日も元気に話しかけてきた父親が……今はもう死んでいる……。一体、何が起こったって言うんだ。そうだ……。今ならまだ助かるかもしれない。
「真弓さん!」
時彦ははっとして振り返った。真弓は扉の外側に凍りついて、呆然と立ち尽くしていた。
「俺はすぐに救急車を呼ぶ為に、一階で電話してくる。君はここにいてくれ」
「ここに……ですか……?」
真弓は恐ろしげに言った。ちらりと死体の方を見る。
「そうだ、親父が今にも息を吹き返すかもしれないだろ。その時の為にも側にいてくれ」
時彦はそう言い残すと、さっさとひとりで一階へと階段を駆け降りて、行ってしまった。
二階に残されたのは真弓と、吾郎の遺体の二人だけだ。真弓は死体が恐ろしいあまり、書斎の中は見ないように扉に背を向けて、立ち尽くしていた。しばらくして、真弓は、背中の後ろの光景が気になってしまって、恐る恐る振り返って、扉の中をそっと覗き込んだ……。