悪役令嬢ぴるぴる8
ででんと立ちはだかる大きな扉を見る。
片側幅2メートル、高さ2.5メートルほどの観音開きの扉である。
艶のある木で作られた扉は、繊細な彫りを入れられ、扉そのものだけで芸術品として扱われそうな出来映えだ。
ドアノブも、なんだがよく分からない重そうな真鍮の糸巻きのような形をしたものである。
高価そうなのは分かるけれど、開けにくそうだ。
まあ、曲がりなりにも令嬢なので、リリウムが開けることはないからいいんだけど。
「お嬢様」
「・・・なあに?」
何を言われるのか予想がついたので、エド君の首に回した手に力を込める。
「お嬢様」
「なあに、エディ」
「下りませんか?」
「まあ、エディったら、下りるわけがないでしょう?」
「そうですか」
にっこり笑って見せれば、エド君は抱え直してくれた。
うふふ。
せめて最後の最後まではこの安住の地を堪能して、癒しを補充しておかないと、食事の最後までもたないからね。
あはは。
内側から扉が開いて、何の前触れもなくセバスチャンが出てきた。
前起きなく出てくるのはやめてね、心の準備ができてないんだから。
走り出した心臓に、胸のあたりに手を置いてみると、結構な速さで脈打ってるのが分かる。
「お待ちしておりました」
ああ、そう、待たせてごめんね。
恭しくお辞儀をしていたセバスチャンは、顔を上げるなり、半眼になった。
「そのままで、席までお進みになられるおつもりでしょうか」
声音が冷ややかだ。
うんうん、言いたいことは分かる。
エド君と一緒で、私に下りろということでしょう。
だが断る。
下りないぞ。
決意を込めて、エド君の首にしがみつく。
セバスチャンの重々しい溜め息が聞こえてきた。
私がエド君に抱かれて移動するなんて、今更珍しいことでもないでしょうに。
「お嬢様、そのままで結構ですから、せめてその力一杯抱きついている感じを何とかできませんか」
「まあ、セバスチャン。何とかならないのよ」
にっこり。
堪能するったら堪能するの。
このあと地獄が待っているのかと思うと、今は力一杯堪能したいの。
あら、やだ。
セバスチャンたら、苦悩の表情。
「セバスチャン、何か悩みごと? それとも頭が痛いのかしら」
悩みごとがリリウム暗殺についてだったら、すぐに逃げるから教えてね。
「お気遣いなく。本当に頭が痛くなってきそうです」
あらあら、失礼な。
「・・・どうぞ、晩餐の間へお入りください」
気を取り直したらしいセバスチャンが胸の前で腕を折り、恭しく礼をする。
すまんね。
内側から両の扉が大きく開かれた。
私を抱いたエド君が歩を進める。
大きな長方形のテーブルの主席に父が座り、その近くの長い一辺の席に兄が座っていた。
談笑していた二人の眼差しが私に注がれると、それは一変、鋭く細められた。
ひー。
怖い怖い怖い。
「エディ、お二人はやっぱり私を待っていたのではないのよ」
むしろ楽しい時間を邪魔してくれるなって感じじゃないの?
小声でエド君の耳元に囁くと、エド君はくすぐったそうに小さく笑った。
ごめんね、そんなつもりじゃなかったんだけど。
エド君は私の言葉を聞いていたはずなのに、引き返すことなく席に向かう。
父を見れば。
ゴゴゴゴゴゴゴ。
父の背後に見えてはいけないものが見える。
兄を見れば。
ゴゴゴゴゴゴゴ。
兄の背後に見えてはいけないものが見える。
セバスチャンを見れば。
涼しい顔が、骨は拾ってさしあげましょう、お嬢様、とでも言っているかのように見える。
イラ。
前門の虎!
後門の狼!
抜け道にはジャッカル!
エド君をちら。
何の気負いも無さそうな、通常運転の表情だ。
こんなときまでパーフェクトぶりを見せてくれなくていいよ。
一緒に怖がってよ。
「さぁ、お嬢様」
席に辿り着いてしまった。
短い道のりだった。
豪奢な椅子に下ろされるが、抱きついた手を離せない。
身を引こうとしたエド君に、伸び上がって抱きつくような格好になってしまった。
やばい。
「リリウム」
兄からお声がかかる。
苛立ちが滲んだ声に、いかんと思うのにエド君にしがみつく腕がますます強まる。
「リリウム」
ひー。
とうとう父のお出ましだ。
違うんです違うんです。
違くないけど、ついつい言いたくなるよね、違うんですって。
エド君、どうしよう、なんとかして。
丸投げです。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
そうよねそうよね、エド君がそう言うのなら大丈夫よね。
エド君はゆっくり私の腕をエド君の首から外させて、震える手を撫でさすってくれた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。エドワードが控えております」
そうよね、そうよね。
エド君がちゅっと撫でさすっていた手の甲に口づけを落とす。
あら。
やだ。
まぁ。
どうしよう、照れくさい。
やだやだ、頬が熱くなる。
どうしちゃったの、エド君。
どうしちゃったの、私!
エド君が自分から甘い仕草をしてくれるなんて、久しぶりのことだ。
まあ、気が向いたのかもしれない。
それに対する私の反応。
何を恥じらっているの。
ほんまもんの乙女のようやないの。
こんなこと大したことないはずなのに。
エド君は親戚の男の子。
小学生から見守ってた子が社会人になったからって、ときめく親戚の老女がいますか。
転生前含めたら、私は老女。
恋のときめきも彼方の、枯れっ枯れの老女リリウムよ!
ばーん‼
「お嬢様」
「は」
エド君に声をかけられて、意識が戻る。
気がつくと、私はしっかり椅子に腰かけていた。
エド君てば、恐ろしい子。
目の前にはすでに前菜が運ばれてきていた。
私にはなんだかよく分からないこの世界の料理だ。
この世界で意識を得てかなり経つけれど、いまだに食文化には慣れない。
ナイフとフォークを手に取り、ぎこちない動作で食事を始める。
礼儀作法的なものは教えてもらっていたので知っているけれども、基本、エド君に食べさせてもらっていたので、実際に行動に移そうとするとかなりぎこちなくなる。
普段使わない筋肉を使っているせいで、親指の根元辺りが早くも攣りそうだ。
ぷるぷるしだした手に、涙目になる。
気持ち的に食べられないことは予想していたけれど、物理的に食べられないとは考えていなかった。
どうしよう。
食べられるのに、食べられない。
「リリウム」
父からお声がかかり、順調だった食欲が一気に減退する。
ぐっどたいみんぐ。
といえば、まあ、その通りですけど、嬉しくはない。
「はぃ」
お。
私、すっごく進歩してる?
はい、だって。
進歩した自分に良い気分になって、料理にひたすら向けていた視線をそろりと上げて、父を窺う。
ぎらりん。
・・・・・・・・。
むり。
父は私にそれはもう凄まじい眼光を放っていた。
料理に視線を落とす。
無理だから。
ほんと、無理だから。
大事なことだから二回といわず、何度でも言うよ。
無理だから!
「学園は、どうだね」
どうだね。
どうだね。
その声でそんな話し方されると、萌える。
滾る。
ああ、あの有名な、少なくとも私の中ではベストスリーに入る台詞が、よみがえる。
次々思い出される名シーン、名台詞の数々に、動きが止まる。
最後、動力源を断たれたあの方が、意志の力で動きを再開し、爆したあのシーン。
胸の詰まるようなあの悲鳴。
「リリウム」
「ひゃい」
再度呼ばれた名前への返事は、無様だった。
いけないいけない。
ここは敵地だというのに。
「リリウム、学園は楽しいか」
楽しいか。
楽しいか?
楽しくもなんともないよ。
エド君がいれば、どこだって同じですよ。
え、何これ。
何を聞かれてるの?
「・・・エディがいてくれるので」
あとは濁す。
答えになっていようがいまいが、あとは流す。
「成績があまり振るわないようだな。明日から、私が教えようか」
「いえ」
思った以上の声量を発揮してしまった。
父や兄がこれほど大きなリリウムの声を聞くのは、赤子のとき以来じゃないだろうか。
「エディが教えてくれます」
なので、父は私に構わずせっせと仕事をしてください。
むっつりと黙り込む父と兄。
会話が途切れたのに安心して、ナイフとフォークを持ち直す。
実はまだ前菜を食べ終えていない。
さっぱり系の果物を使った前菜は、私のお気に入りだ。
こんな時でなければエド君に満面の笑みで喜びを伝えたものを。
ナイフで小さな一口分を切り、フォークで口元へ運ぶ。
うぅ。
緊張しすぎて匂いも味も分からない。
もったいないよぅ。
でも食べ進めないと食事タイムが終わらないから、さっさと胃に流し込んでいかないと。
ちまちま前菜を食べていると、二つの双眸が眼光鋭く旋毛の辺りに注がれているのが分かった。
恐ろしいので更に俯いてみる。
神経がちくちくする。
いかん。
手がぴるぴる震えてきた。
前菜を食べ終わり、ナイフとフォークを置く。
「ふう・・・」
一息ついたものの、すでにお腹いっぱいだ。
この後どうするの。
スープはいいとして、メインとデザート。
デザートもまあゼリー系なら何とか流し込める。
でも、その前の大きな山が越えられるか、越えられるのかリリウム。
「リリウム」
「・・・はい」
兄からのお声かかりに、返事をする。
これは慣れなのか、さっきに続いて、二度目の奇跡が。
「前菜はどうだった」
前菜?
前菜?
どういう意味?
前菜がどうだったかって、何?
私は何かを試されているの?
ぐるぐるぐるぐる頭の中で言葉が回る。
「エディ」
小さな声で呼ぶと、後ろに控えていたエド君が身をかがめて私の口元に耳を寄せてくれる。
「これは、どういう意味?」
「意味、と申しますと」
エド君の囁く声は少しの当惑を含んでいるように聞こえた。
「前菜はどうって、どういう意味があるの」
たっぷりした間を置いて。
「・・・・・そのままの意味かと存じますが」
「そのままって、どういうこと」
「前菜が美味しかったかどうかと、アラン様はお聞きです」
そうなの?
セバスチャンにも視線をやれば、頷いている。
そうか。
それならば。
膝の上のナプキンを握り締める。
「おいしゅうございました」
言ってやった。
言ってやりました、私。
心にもない言葉を。
「それは重畳」
・・・思ったんですけど、この兄、もしかしたら父より旧式の言葉遣いなんじゃないかな?
乙女ゲームでもこんなだったっけ?
乙女ゲームの攻略対象ってこんなで良かったんだっけ?
スープが運ばれてきた。
白いスープにコンソメのゼリー寄せが浮かんでいる。
クンと鼻をひくつかせる。
匂いはやっぱり感じない。
でも、これは私の好きな桃のスープ。
なんなんだろう。
なんで、私の好物がこんなにも重なるの。
よりにもよって今日のこの時に。
一匙掬い、眺めていると段々視線が遠くなる。
「リリウム」
「はい」
快挙である。
この調子で、味覚も通常運転にならないかな。
「スープはどうだね」
今度は父がそれですか。
ちらりとエド君に視線を向けると、頷いている。
美味しいかどうかですね。
「おいしゅうございます」
うんうん。
味は分からないけれどね。
「そうか」
はいはい、そうですよそうですよ。
「今年は桃がよく実ったようだ」
あら、それは素晴らしい。
エド君にお願いして桃尽くしのコースでも供してもらおうかな。
甘い桃のスープに、それをじゃまするどころか引き立ててくれるコンソメのゼリー。
まっこと似合いの組み合わせじゃのう。
はい、完食。
今度食べるときは味わって食べるからね。
「採れたての桃は、格別だそうだ。日を置いたものとは違う旨さがあると、桃を育てているイワンが言うておった」
一々旧式な言葉遣いだな、兄。
だがそこがいい。
「そういえば、明日、領内の見回りに行く予定でしたね、父上」
ぶ。
ちちうえ。
ちちうえでございますか。
あかん。
あの名シーンがよみがえる。
一人悦に入っていると、メインが運ばれてきた。
エド君がクロシュを取ってくれる。
現れたのは、やっぱり私の好物、鶏肉を表面をパリッと焼いて、醤油が隠し味に利いていそうなソースで食べるのです。
はい、もう一回ナイフとフォークを手に取る。
幸い私の分は量がかなり少なめに盛られているので、頑張ればいける。
「そうだ、明日は領内の見回りに行く予定だったな、アラン」
くどい確認だな。
明日は二人で領内の見回りですね。
仲のよろしいことで何よりです。
もぐもぐごっくん。
もぐもぐごっくん。
二人で話してくれているうちに、とにかく機械的に手と口と胃を動かす。
よし、ゴールは見えてきたぞ。
「明日は良い桃が採れるそうだ」
「天気も良さそうですし、ピクニック日和ですね」
もぐもぐごっくん。
もぐもぐごっくん。
ふう。
ゴールです。
私はやりました。
会話をしていたはずの二人はとっくに食べ終えていたので、私の皿が下げられて程なくデザートが運ばれてきた。
デザートはムースでした。
ゼリーよりはちょっとあれだけど、タルトとかの固形物よりはまだ流しやすい。
カーン!
戦いのゴングが頭の中で鳴り響くのを聞きながら、デザートスプーンを手に取る。
これさえ終われば、生きて帰れる。
「リリウム」
「はい」
食後の紅茶は優雅に一気飲みしてみせる。
そんな意気込みでした。
「卒業パーティーのドレスは、どうするかね」
そして父がそんな爆弾を落としてきたのは、そうやって自分を奮い立たせていたときだったのです。
そつぎょうぱーちー ですと?
お、お、お、恐ろしい・・・。
恐怖の断罪劇が繰り広げられる、そのためのドレスをどうするかと。
デザートスプーンがカチカチと音を立て始める。
震える手からエド君がデザートスプーンを取り上げて、そっと皿に置いてくれた。
エド君。
「マダム・ハリスという流行のデザイナーがいるそうだな」
いるね、そんな人も。
民族衣装のチョハっぽいドレスをデザインするので、乙女ゲームをやってる外の人にも人気で、ゲームに出てきたドレスでコスプレする人もいたぐらいだ。
私も好きだったけれど、前世は不器用だし似合いようもないし、現世はなるべく関わらないようにしていた。
なぜって。
ふ。
卒業パーティーのドレスを注文するのに、ヒロインのために一番攻略の進んだ攻略対象がマダムハリスに注文しようとしたときに、その攻略対象がリリウム関係者だと、リリウムがその注文を横から掻っ攫うのだ。
掻っ攫うといっても、値段を吊り上げてあげただけなんだけれどね。
断罪の中で言われた「ドレスで身代を傾ける」という台詞の一因はそこに違いない。
そのマダム・ハリスをここで持ち出してくるなんて・・・・・罠?
私が乙女ゲームのシナリオから外れようとしているから、補正がかかっているのか。
「顔色が悪いな」
絶賛、真っ青中です。
血の気がぐんぐん引いているのが自分で分かりますからね。
座っていながら立ちくらみの感覚が襲ってくる。
怪しまれそうなことは慎まなければならん。
そんなこと分かりきっているのに、自分の体がままならない。
「・・・えでぃ」
ちょっともう本気で無理そう。
いままで堪えていたものが、どっと押し寄せる。
瞬間、ふわりと体が浮いて、エド君の腕の中にいた。
ほっとして力を抜くと、エド君が抱きしめる腕に力を込めてくれるのが分かった。
もう大丈夫。
心からそう思えた。
「お嬢様はまだ体調が万全ではないので、これで退席させていただきます」
うかがう内容ではなく、通達だった。
エド君、使用人とは思えないその堂々とした態度、頼もしいよ。
かくしてリリウムは、無事に安住の地に生還できました。
バンザイ。