悪役令嬢ぴるぴる1
はじけるような光に包まれた。
そして、次に目を開けたら、知らない天井があった。
なに、ここ。
知らない天井、首をめぐらせれば、箪笥や机もアンティーク調で、私の記憶にあるものと違う。
なに、これ。
慌てて起き上がろうとして、腕に力が入らないことに気づいた。
腕に力を込めているのに、全然起き上がれない。
筋力がまるでなくなってしまったみたいだ。
なにこれ。
起き上がれもしない自分の体の変調が怖い。
「ひ・・・」
幼い声。
「ふえ、ふええぇぇん」
なんで泣いているのかも分からない。
いつもの自分ならば、こんなことで泣いたりしないはずなのに。
しかも、この声。
赤子の声だ。
私の他に、赤子もいるのだろうか。
そうならば、私が泣いている場合じゃない。
涙をぬぐおうとして、視界に移った手が、紅葉のようなまんまるい手であることに気づいた。
なにこれ。
これ、私の手?
ぐーぱーしてみると、目の前の赤子の手もぐーぱーなる。
「ふええ、ふえええぇえん」
じゃあ、この赤子の声も私?
うそ。
やだ、泣きすぎたせいか、頭が熱い。
こんなにわけも分からず泣くのなんて、小さいとき以来だから。
泣いてる場合じゃないのに。
「お嬢様」
赤子の鳴き声とは別に子供の声が聞こえたかと思うと、抱き上げられたらしく、涙で潤んだ視界が変わる。
黒い髪に緑色の瞳。
幼いながらも整った顔立ちの少年だ。
「ふえ、ふええ」
手馴れたあやしに、どうやら私のものらしい泣き声が小さくなっていく。
「エード、エディ」
「はい、お嬢様。エドワードはここにいますよ」
口が勝手に紡ぐ甘え声に、少年が優しい声で返す。
背を撫でる手に、甘い声に、頭の中がとろんとしてくる。
ちゃんと考えなきゃダメなのは分かっているけれど、ダメだ。
もう、もう、起きていられない。
ぐう。
ゆらゆら揺れる心地よい感覚にうっとりしながら目を開けた。
「・・・エード?」
声をかけると、緑色の瞳が覗き込んでくる。
どうやらエドワード君に抱っこされているらしい。
「はい、お嬢様」
「エディ?」
「そうですよ、エドワードですよ」
エドワード、エド、エディ。
私の、たぶん、世話係?
10歳ぐらい・・・西欧人だから、もしかしたらもう少し幼いかも。
そんな子供がなんで世話係なんて。
てゆーか、私がなんで乳幼児になっているのかってことから考えるべきか。
「えどあーど」
し、舌がうまく回らない。
「えどあーど」
よし、もう一回。
「えだーど」
あかん。
これあかんやつや。
エドワード。
頭の中じゃ言えるのに、口に出そうとすると恥ずかしいことに。
乳幼児の舌が憎い。
「はい、お嬢様」
「エディは、えだーど。あたちは、おじょーしゃま?」
「お嬢様は、リリウム様ですよ」
「あたちは、りりゅーむ?」
「そうですよ」
にっこり笑うエドワード君。
よし、名前ゲット。
それからしばらくエド君と会話をしてみた。
エド君は、忍耐強かった。
われながらひどい滑舌だと嘆いたものなのに、投げ出すことなく笑顔で会話を続けてくれたエド君は、神だと思う。
私は、リリウム・ド・ルーナ。
3歳2ヶ月。
公爵家の娘。
ドレスとまではいかなくても、近い服を着ているのはそういうわけか。
母は、鬼籍に入っており、父と1つ上の兄がいる。
エド君は、8歳。
大人びた内面が端正な顔立ちに表れていますね。
「さあ、そろそろ午餐にしましょうか」
言いながら私をふわふわクッションの置かれた椅子に下ろそうとする。
知らず、私はエド君にしがみついていた。
下ろされる・・・エド君から離れることにたまらない恐怖がせり上がってくる。
どうしてか分からないけれど、怖かった。
体の芯から震えが起こり、全身がぴるぴるしてる。
「おろさないで」
「ですが」
「やなの」
宥めつつ下ろそうとするエド君の首に腕を回し、全力でしがみつく。
なんでこんなに下ろされることが怖いんだろう。
自分でも不思議だったけれど、おぼろげながら記憶を辿り、理由に思い当たる。
父や兄、他の使用人たちがどこか線を引いて接してくる中で、エド君だけが柔らかく私を包んでくれる記憶たち。
厳しい表情で私を遠くから見つめる父。
私の姿を見つけると癇癪を起こす兄。
当たり障りないようにと、最低限の接触しかしようとしない使用人たち。
そんな環境で育つ小さなリリウムにとって、使用人であるということを感覚的に理解しつつも、エド君は、優しい母であり、頼もしい父であった。
「おねがい、エディ」
「しょうがないですね」
涙がじわりと滲む瞳で見つめれば、エド君は苦笑した。
おい、8歳児。
私が寝ている間に運んできたらしいワゴンを、私を抱いたまま部屋の片隅からテーブル脇に移動させて、手早く器用にテーブルセッティングする。
そして長椅子に腰掛けるや、膝の上に抱きこんだ私を座らせる動作は、ずいぶん慣れたものだった。
煮溶かした野菜やらをスプーンで掬い、私の口元に寄せる。
乳幼児向けの離乳食や中世特有の簡素な味付けを予想し、懐疑的に口を開いたものの。
「おいちい」
あむっと食べて、思わず目を見張る。
味付けなんてされてないのに、濃い味を知らない舌は、素材だけのうまみをしっかり感じ取っていた。
「それはようございました」
絶妙なタイミングで口元に寄せられるスプーンに、私はするすると食べ進め、気づくと満腹になっていた。
「けぷ」
エド君の膝の上で、ぽっこりしたお腹をさする。
お腹いっぱいになったら眠くなってきた。
気づいたエド君が、背中をとんとんしてくるから眠気が加速する。
だめだ、この幼児の体。
エド君が立ち上がってゆらゆら揺する。
エド君てば、すっかり私を眠らせるつもりになってるよ。
「えでぃ・・・」
眠っちゃうから、揺すらないで、とんとんしないで。
ぐずるような声で名を呼ぶけれど、私の気持ちがエド君に届くわけもなく、うとうとする。
寝ておきて食べてまた寝るとか、あんまりじゃないか。
と思ったら。
はっと目が覚める。
「いや!」
ベッドに下ろされそうになって、またエド君にしがみついた。
「ですが、眠いのでしょう?」
私が何を言いたいのかしっかり理解していても、エド君はやんわりと嗜めようとする。
そうだよね、そうだよね。
眠いなら黙って寝とけって思うよね。
私も思うよ、分かってるよ。
でもね、口が勝手に動くの。
手が勝手に動くの。
そんでもって、なんか分からないけど怖いから、私もそれでいいかなって思い始めちゃうの。
今の姿はこれでも、中身は一応大人なのに。
一人暮らしの部屋で孤独死したせいかな?
独りきりで死ぬんだって思ったときの、ずーんてくる重い感覚。
あれがトラウマになってるのかな。
あ、思い出したら涙があふれ出た。
「エディも一緒に寝て」
「ですが」
「えでぃ」
仕方ないと言いたげにため息をつく8歳児。
ごめんね、エド君。
なんだか色々と表に出る部分は幼い体に引きずられるみたいで、こうして頭の中では大人な感じで考えられるんだけどね。
頭の中で言い訳をしつつ、「えでぃ、だいすき」と笑う。
「仕方のないお嬢様ですね」
言われちゃった。
「こんなに泣き虫で、こんなに甘えたで」
言いながら、額と額を合わせて、涙が膜を張る瞳を覗き込んでくる。
その緑の瞳はやっぱり優しくて、ふにゃりと笑ってしまう。
エド君は私を抱いたままベッドに横になって、やっぱりとんとんしてきた。
堪えていた眠気がどっと押し寄せてくる。
視界の端に、幼児のものにしては長い銀色の髪が見えた。
私って銀髪なんだ。
「えでぃ、ずっと離さないでね」
もにょもにょしながら言ってみる。
返ってくると分かっている言葉を聴くために。
「大丈夫ですよ。ここにいますからね」
さすがエド君、
はずさないね。
穏やかな声を聞きながら、眠りに落ちた。
あれから半年。
気づけば、私の定位置はエド君の腕の中になった。
あの日私の意識がリリウムの中で目が覚めて、幼いリリウムだけのときよりも、一層甘えが強くなったみたい。
最初の頃こそ、その都度嗜めてきたエド君も、今では私が手を伸ばすだけで抱き上げてくれるようになった。
食事はエド君の膝の上で食べさせてもらうし、夜もエド君に抱っこされたまま眠りにつく。
朝も、私がごねて以来、私をベッドに放置して先に起きていなくなることもなくなった。
大人の私の意識も退行している気がしなくもない。
・・・どうしよう。
「お嬢様、どうかされましたか?」
庭に出て日向ぼっこしている今も、私は座るエド君の膝の上に抱き上げられていた。
「ううん。なんでもないの」
ただ脳内反省会を開いてみただけで。
なんて言えはしないのだけれど。
エド君椅子に、わたしは完全に凭れかかっていた。
4歳近い私はさすがに重いのではないかと思うのだけれど、エド君はちらとも重そうなそぶりを見せない。
なんて紳士なんだろう。
まあ、お嬢様相手だから遠慮しているというのもあるんだろうけど・・・。
あれからさらに分かったこと。
私の瞳は菫色だった。
鏡に映った自分の姿は、妖精もかくやと言わんばかりの愛らしい幼女だった。
うん、乾杯。
死んだ母によく似ているとか。
うん、そこも良い。
そんでもって、次が大事。
リリウム・ド・ルーナは、乙女ゲームの悪役令嬢だった。
・・・・・・・・・・・・。
うん、これはあかんやつや。
思い出したのは、今朝のこと。
半年前のあの日から、なんとく名前に聞き覚えがあるなーとは思ってたんだよ。
思ってたけど、まあ気のせいかな、自分の名前だしね、リリウムの記憶にかすってるのかなとかね。
そんなふうに流してた時代が私にもありました。
それが、今朝になってふっと思い出したんだよね。
思い出したら、紐をするする手繰り寄せるみたいに連鎖的に隅々まで思い出した。
現実逃避目的で買った、唯一の乙女ゲーム。
タイトルは恥ずかしくて頭の中でも口にできない。
でも一言言いたい。
ゲームの世界に転生って、それアリなの?
まあ、実際にしちゃってる私が言うのもなんですがね。
「エディ、私のこと好き?」
あたちから私に成長したリリウムです。
「大好きですよ」
「私も、エディが大好き」
うふふあはは。
にこりと笑うエド君に、私もにっこり笑う。
ああ、癒される。
ゲームの中のリリウムは、主人公に感情移入せずにゲームをやる身としては、同情に値する人物だった。
そもそものストーリーは、少女マンガなどでもよくある王道パターンで、平々凡々の主人公が、高スペックの男子と良い仲になり、その高スペック男子の婚約者やら幼馴染やらという壁を乗り越え、晴れて結ばれるという。
まあ、乙女ゲームなので、攻略対象が他にも各種取り揃えられているのだけれど、リリウムが活躍するのは、メインである王太子ルート。
一般庶民の主人公が、貴族と庶民の通う学園で王太子と出会い、1年間の学園生活の中で友情を深め、王太子の婚約者から嫌がらせを受けつつも友情を深め、友情は次第に愛情へ変わり、王太子の婚約者が主人公に傷害事件発生させちゃったことで、ラストの卒業パーティーで王太子は婚約者を公衆の面前で糾弾し、来賓として出席していた国王陛下の許可を得て婚約破棄をして、二人は大団円。
王太子の婚約者は、これまた来賓として列席していた父親から、勘当の上犯罪者として修道院に更迭すると言い渡される。
主人公が兄を攻略済みだと、卒業パーティーでの糾弾には兄も加わることになる。
リリウムは王太子の婚約者に幼い頃に任ぜられ、王妃教育を受けて育ったため、リリウム自身も高スペックで、なおかつ王室を基調とした身分制社会の重要性も教育されているので、確かに弱者の言い分には明るくなかった。
リリウムから主人公へ放たれる言葉は、言葉遣いがきれいなせいか、いじめというよりは、されて当然の注意も多かったように思える。
レベル上げがうまくいかなくて成績がいまいち伸び悩んでいるのに攻略を進めるために男子生徒と遊び惚ける主人公への叱責や、中世の道徳観念が根づく世界において密室で異性と二人きりになることや、婚約者のいる男性への過剰な接触についての注意。
成績が上げにくい分イベントで攻略しなきゃだし、まあ言ってしまえば公爵令嬢からの小言もイベントのうちだしね。
なおかつ、このリリウム、家族とうまくいってないところが、王太子ルートを勧めていくと明らかになってくる。
王太子はリリウムの母の兄の息子、リリウムの従兄弟にあたる。
リリウムの母が亡くなったのが、そもそもリリウムを生んだ後の産後の肥立ちが悪かったことが原因だ。
母は妖精のような美貌だけでなく優しい性格で聖女とも謡われた人で、父や国王陛下はそんな母を溺愛していた。
だから国王陛下は、妹亡き後の公爵家で、妹の死と引き換えに生まれたリリウムが心無い扱いを受けないか、妹の忘れ形見であるリリウムを案じて、同じ年の王太子を婚約者にして、王太子にリリウムを気にかけるように言い含めたのだ。
実際に、父が私を見つめる眼差しは厳しいものだし、兄のあの癇癪も突然母を失くしたのが私のせいだと分かってるからなのだろう。
ゲームの中のリリウムは、そんな二人の家族の中で育ち、王太子の立派な正妃になることだけが自分の生きる理由なのだと思いつめているのだと王太子は語っていた。
まだ十代の王太子には、そんなリリウムは荷が重く、正妃に固執する姿も受け入れがたいものだったらしい。
天真爛漫な主人公に惹かれていくのはあっという間で、一番攻略が簡単だった。
「エディは私のエディ?」
「そうですよ、お嬢様のエドワードですよ」
「ずうっと私のエディでいてね」
ゲームのリリウムの拠り所は、正妃になるという目標ただそれだけだった。
10年以上も王妃教育に身を捧げたのに、1年間ですべて水泡に帰したのだ。
おまけにあっさりと勘当。
思い出したら、余計に父や兄への苦手意識が強まった。
家で娘を更正しようなんていうことはなく、婚約破棄からの流れであっさり勘当、更迭とか。
兄も色惚けていたとはいえ、確かに事実だったけれど、確認もせず言い分も聞きもせず、端から糾弾するだけ。
ゲームとはいえ、リリウムには同情した。
そのリリウムに生まれ変わったのが私なんですけどね。
ゲームには登場していなかったエド君。
今の私には、もうエド君しか安心できる相手はいないよ。
「あ・・・」
二階の窓辺に人影が見えたと思ったら、父だった。
少しくすんだ金色の髪に、袖のたっぷりした白いシャツの上にベストを身につけている姿は、見てる分には格好いい。
遠めだと顔立ちまでは分からないけれど、一昨日見かけたときは相変わらず精悍で、迫力がありすぎて怖かった。
「旦那様は夕方からのご登城だそうですよ」
「ふうん」
「少しだけ、ご挨拶してみましょうか」
父親の姿を見るたびに怯えてぴるぴる震えだす私に、それでもエド君はこんな風に提案してくることを止めない。
あの父からのリリウムへの愛情なんて、私には感じられなかった。
あのまなざしからは、最愛の妻を奪った存在への憎しみしか、汲み取れない。
「・・・ううん。いらない」
「そうですか」
私がいやといえば、エド君も無理にすすめてくることはなかった。
「ここはいや。お母様の肖像画が見たい」
これ以上、父の視界の端に引っかかるようなところにはいたくない。
威圧感が半端なくて、冷や汗が滲みそうだ。
「リリウム様はお母様の肖像画がほんとうにお好きですね」
「とても綺麗だし、優しそうだから」
大広間や玄関ホールなど、至る所に飾られている母の肖像画だけれど、私が一番気に入っているのは、本館から温室への渡り廊下に飾られているものだ。
慈愛に満ちた表情は、絵師がどれだけ母を敬愛していたか、母がどれだけ聖女として崇められていたかがよく分かる。
私を抱いたまま危なげなくエド君は立ち上がった。
片方の腕に私を座らせるようにして抱き上げるのだ。
私がずっと傍から離さないせいで本来予定されていた護衛用の剣術稽古もできていないのに、ずいぶんと鍛えられていることだと思ったけれど、お嬢様のお相手をするだけで稽古になりますからなどと言われてしまった。
・・・・・・・・・。
確かに、常時3歳児を抱っこしていれば、そこらへんの8歳児よりはよほど鍛えられますよね、すいません。
エド君は私を抱いたまま窓辺の父に背を向けて歩き出す。
自然、私も父に背を向けることになる。
ほっとした息を吐くと、やはりエド君が苦笑した。
「お嬢様は旦那様が苦手ですね」
「・・・だって、お父様・・・怖い」
あの鋭い眼差し、思い出すだにぴるぴる震えてくる。
「怖くないですよ。ちょっと、瞳がきついだけで」
困ったようにフォローするエド君には悪いけれど、怖いものは怖い。
「睨んでる」
「あれは睨んでいるわけではないんですよ」
いやいやいや、さすがにそれは苦しいでしょ。
「でも、お兄様と話しているときはちゃんと笑っているでしょう」
遠目で見た父と兄の触れ合いは普通の親子のように、にこやかな父親と少々腕白な息子の図だった。
少なくとも厳つい顔で睨みつけるような真似はしていなかった。
さすがにフォローしきれなくなったのか、エド君は口ごもってしまう。
ごめんね、エド君が悪いわけじゃないのに、気まずい思いさせちゃって。
「旦那様はリリウム様とお話したいそうですよ」
「・・・なんのお話?」
どうせロクな話じゃないだろう。
「何のというか」
いやもう、本当にごめんなさい。
使用人の立場で主筋二人の間に立たされるって、拷問だよね。
「きれいね」
ようやくたどり着いた肖像画を褒めれば、エド君がほっとしたように引きつった口元を緩める。
君が8歳児だということを忘れがちでごめんね。
あんまりしっかりしてるものだから、ついついね。
母の肖像画は、胸から上を描かれていて、顔はまるで絵の外をじっと見つめるように正面を向いている。
白い光沢のあるドレスのデコルテ部分には繊細なレースが品良くあしらわれていて、銀色の長い髪や純度の高い紫水晶のような瞳と相俟って、神々しくも見える。
こちらを見つめる眼差しも、じわりと笑んでいて、妖精を通り越して女神みたいだ。
色味は私も似ているし、基本的な顔立ちも幼女ながら母の美貌を受け継いだ感があるものの、絵で見る母の紫水晶の瞳と比べると私は菫色といった感じで、きらきら感があまりない。
「お嬢様もすぐに奥様のように美しくおなりですよ」
「ほんとう?」
「本当ですとも」
気負いなく当たり前のことのように言われて、口元がむずむずする。
「えへへ」
「お嬢様は世界で一番可愛らしいですよ」
いやいや、照れるから。
確かにリリウムは可愛いけどね。
「屋敷の者たちも皆思っていますよ」
「・・・えへへ」
それはどうかなぁ。
本気でそう思っているらしいエド君に水を差す気はないけれど。
「私もお母様みたいに髪を伸ばそうかなあ」
ちらっとエド君を見上げる。
私の髪はエド君が手入れしているから、長いとその分エド君の手間が増えることになる。
「きっとお似合いになりますよ」
分かっているだろうに、爽やかに笑ってくれるエド君。
うんうん、私もエド君の期待に堪えられるように美貌を磨くからね。
ん?
「エディ?」
腰を抱く手が強くなってるよ?
どうしたの?
と言葉をつなぐ前に、執事のセバスチャンが廊下の角を曲がって現れた。
30代半ばぐらいだろうセバスチャンは、代々我が家の家令・執事を務める家系で、最近父親から引き継いだらしい。
その父親は今家令を務めている。
前髪から後ろに流した涼やかな容貌だけれど、涼やか過ぎて冷気を感じそうでもある。
「お嬢様、旦那様が書斎にお呼びでございます」
相変わらずエド君に抱っこされている私に、片眉を上げるという、何が言いたいのか分からないリアクションをしてみせた。
エド君が私を床に下ろそうと屈むので、私はやっぱりエド君の首にしがみついた。
ぷらーんとエド君の首にぶらさがることになる。
エド君がさらに屈んで私の足が床に着くようにするけれど、私は離さない。
離さないといったら離さない。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
折れたのは、セバスチャンだった。
「分かりました。エドワード、お嬢様をお連れしなさい」
「・・・はい」
疲れた様子のエド君が、不安定な体勢から抱き上げなおしてくれる。
ふう、落ち着いた。
いつもの定位置に戻って安心したので、エド君のやわらかい黒髪に頬ずりして、無事の帰還を喜ぶ。
ため息が二人分聞こえたけれど、気にしない。
父の書斎に着くと、さすがにもうセバスチャンは譲ってはくれなかった。
私は一人で父と対峙しなければならないらしい。
「エディ、私のこと、忘れないでね」
じわりと滲んだ瞳でエド君を見上げる。
涙の膜の向こうでは、エド君が心配そうに眉をしならせているのが分かった。
「お嬢様、エドワードはここでお待ちしていますから」
「今までありがとう、エディ。そうだ、このリボン、私だと思って大切にしてね」
左耳脇で結んだサイド髪を飾るサテンのリボンをほどいてエド君に渡す。
形見を託す相手など、エド君しかいない。
あまりに寂しいことだけれど、まあ仕方ない。
「・・・末期ですね」
セバスチャンが恐ろしい独り言をもらしていたけれど、知ったことじゃない。
「エディ」
「はい」
「最後に、ぎゅってして」
セバスチャンの目が呆れきっているのは、さすがに伝わってきた。
たしかに自分ちの屋敷内で父親に謁見するだけなのに、今生の別れみたいな空気を出す幼女なんて、呆れもするだろう。
たとえ日常において親子関係がひび割れていたとしても。
エド君は期待を裏切らず、呆れたような眼差しを向けることもなくお願いしたとおりにぎゅっと抱きしめてくれた。
ついでに背中をぽんぽんしてくれる。
眠くなっちゃうから、それはしなくていいよ。
「えでぃ」
「大丈夫ですよ、お嬢様」
「うん」
名残惜しいけれど、一時のお別れだ。
まあ、ほんと一時なんだろうだけどね。
「エディ」
書斎の扉にノックする手前で、もう一度エド君を振り返る。
「ご武運を」
・・・ノリがいいね。
でも、それ、ご武運、祈っててね。
さてさて。
父の書斎に入りました。
名乗りました。
固まりました。←今ここです。
書斎机の向こうで腰掛ける父は、かの有名なゲンドウポーズだ。
やめて怖いから。
だらだら背中では滝汗が流れてる。
「リリウム」
「・・・・・・・・・・・はい」
泣き喚きそうだったので、ひそやかに深呼吸を10回してから返事した。
涙声だったけどね。
ごほんと咳払いされて、びくりと体全体が大きく震える。
その後は震えが止まらなくなってしまって、ぴるぴるしたままだ。
父の姿が視界に映りこむのが恐ろしく、ひたすら俯く。
今にも逃げ出しそうな足を、大人の意識でどうにか抑え込んだ。
ただし、いつまでもつか分からない。
「従兄弟のギルバート殿下のことを覚えているか」
ギルバート殿下?
存在は記憶の片隅にもいないけれど、名前には聞き覚えがある。
そうだ、あの王太子だ。
リリウムの婚約者で、最低な婚約破棄を演出する、似非プリンス。
卒業パーティで貴族来賓列席で婚約破棄を披露するあたり、リリウムのこと根深く嫌ってるなぁと思ってたんだよね。
哀れな従兄弟を見捨てられないとか言ってた割りに、えげつない捨て方するする。
あんなことする前に、ほんとにかわいそうだと思ってたらやりようはあっただろうに。
できなかったのか、しなかったのか、それは知らないけど、どっちにしても屑野郎に違いない。
あれ・・・でも、この流れって、もしかして、もしかするのかな?
「陛下から、リリウムの婚約者にどうかと話があった」
ざっと血の気が引く。
ピルピル震える指先が、冷えきっていくのが分かった。
やだ、やだやだ。
エド君にならやだって言えるけど、この父には言えない。
言ったら、卒業パーティーを待たずに今追い出されるかも。
どうしよう、どっちに転んでもダメな気がする。
じわじわ涙がにじみ出るのが分かる。
壊れた蛇口みたいによく泣いています。
さすがにこの場で泣いたらダメでしょう。
でも止まらない。
どうしよう。
「分かった。下がりなさい」
眼光鋭く言い渡された。
いやいや、何が分かったの?
私には分からないよ?
なんて突っ込みできるわけもなく、すごすごと部屋を出た。
結局婚約の話はどうなったんだろう。
気になるけど、今はとりあえず死地からの生還を喜ぼう。
「えでぃぃぃ」
ドアの前に待機していたエド君に、書斎のドアが閉まりきるなり腕を伸ばす。
えぐえぐ言いながら、エド君の首にしがみつく。
う、と呻きが聞こえる。
ごめんね、苦しいよね。
でも我慢してね。
ようやく安心できる場所に戻ってこられた。
「ひ、う、え、ふえ、ふえぇん、う、うぇ、ふぇぇぇぇぇん」
「よく頑張りましたね。さすがお嬢様です」
うんうん、もうすっごく頑張ったよ。
怖かった怖かった怖かった。
でも頑張ってきたんだよ。
「うー、えでぃ」
「エドワードはここにいますよ」
「えでぃ、えでぃ」
いかん、止まらん。
そこのセバスチャン、やれやれじゃない。
どれだけ怖かったかと!
「えでぃ」
「はい、お嬢様」
「また会えて嬉しい」
「エドワードもですよ」
「エディがいなくて寂しかった」
「エドワードも寂しかったですよ」
「もう離さないでね」
ひし!
エド君との再会を最後までやり遂げたら、落ち着いてきた。
「エディ、お部屋に戻って、絵本を読んで」
「承知しました」
エド君が私を抱きあげてセバスチャンに礼をする。
私はもう、セバスチャンのことは見なかった。
せっかく落ち着いた幼気な心を乱したくないからね。
「エディ」
「はい」
「エディが言っていたお父様のお話って、王太子殿下との婚約のことだったの?」
「そんなお話だったんですか?」
「うん・・・」
頷くと、エド君は難しい顔をした。
違うお話のことだったのかな?
「今日はどの絵本を読みましょうか」
お父様のお話についてはもういいらしい。
望むところだったので、話題転換に乗っていく。
「冒険のお話がいいな。森の妖精とか、湖の精霊とか、すごく綺麗よね」
私の部屋にある絵本は、版画と活版印刷を駆使して作られたもので、日本の本のような本らしさはないけれど、一冊一冊がまるで芸術品だ。
中でも、各所を冒険して回る絵本は、色使いからもうたまらない。
森の木漏れ日や湖の水面の煌き、そこに住まう人でない美しい存在たち。
文字もインクの滲みやらがアンティークっぽくて。
うっとり眺めるもよし。
エド君の少年期の声で壮麗な冒険譚を堪能するもよし。
絵本の時間は極楽の時間です。