18.『軋む世界』
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その者は夜空の中にいた。
五十メートルを超える高さの鉄塔。その骨組の一つに、立っていた。風に吹かれても一切バランスを崩さない。その細身を覆い隠す外套は静かにたなびいていた。
その者の顔は若い男にも女にも見えた。鼻筋が通っていて左右均等に整っており、端正な顔立ちをしているように見える。が、特徴がなく曖昧な顔だと人々は答えるだろう。まるで作り物のような顔をしていた。
「ようやく動き始めましたか。これほど手を出すこともできないなんて……SKYの隠匿技術はなかなか侮ることができませんね」
落ち着き払った声も中性的だった。
すると、外套に幾つも縫い付けられた宝石のうち、胸元の一つが黄色く明滅した。
「ちゃんと連絡をくれましたか。――縫子はいい子ですね」
その者は小さく口端を吊り上げ、くく、と喉を鳴らす。
「ならば、ワタシも応えましょう。やっと迎えに行くことができますよ、縫子」
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第八十三機動部隊。その三人、曲直瀬祈里、山中ひつじ、真柄切。そして捕虜として預かっている由布縫子。
四人はSKYのトレーラーに乗っている。目的は暴走する翼人と思われる人型存在の捕獲。作戦内容はトレーラーの中で、通信で矢継ぎ早に伝えられる。
『目的地は大鳥居公園。目標は一人。ピルチェ度数約2.8から、翼人と確定。翼は昆虫の脚部のような形状。現場の封鎖は完了しています』
「翼人の様子は?」
『現在はその場から全く動いていないようです。翼人を刺激しないように、隔離空間への展開は保留中』
曲直瀬祈里はそれを聞き、小さく頷く。
俺はペットボトルの水を一口飲む。気持ちは非常に落ち着いている。
……ふむ。段取りは順調のようだ。
翼人に対処できるのは翼人だけ。この基本ルールを考慮すれば、一般隊員ができることはここまで。下手に手を出して包囲に感付かれれば一気に壊滅してしまうのだから、これだけで十分。
後は翼人だけで構成された第八十三機動部隊の仕事だ。
『隔離用車および放水車が現場に入りました』
「了解。現場に着いたら様子を見て、隔離空間に取り込んで一気にカタを付ける」
了解、とひつじと切が応える。その後、他の二人を見た縫子が後に続いて小さく了解と言った。
……別に、お前は応えなくてもいいんだが。
縫子は俯き、膝の上に抱えているクマのぬいぐるみの手足を手持ち無沙汰に弄っている。
作戦前の慌ただしい雰囲気が合わないのはわかる。敵対関係にあるという複雑な立場なのもわかる。が、縫子の様子はそれ以上に居心地の悪い感じがある。
……さっきから肩に触れている所作が気になる。
そういえば、縫子の身体検査はやったが、身体の中までは調べなかったな。そこまですると彼女の抵抗を受けそうだし、何より"相手の仕込み"があった方がこちらにとっても都合がいいのだ。
『緊急要請です!』
明らかに焦りの混じった声が響く。
『東の住宅街近くの広場にて、翼を持つ人型存在に民間人が襲われたという通報がありました!』
……動いたか。
「えぇー、同時に二カ所で翼人が暴れてるってこと?」
「後の方は確定じゃないぞ、切。否定もできないがな」
「ふあ、どうするの、祈里君?」
簡単なことだ。翼人であるかどうかを問わず、対処できる方法を選ぶ。
「ひつじと切は広場の方へ行ってくれ。俺と縫子は今の作戦通りだ。これを二木に連絡してくれ」
『――いや、丁度聞いていたよ。曲直瀬。お前の意見を承認する』
「了解。二人はここから直接行った方が早いだろう」
『状況は一刻を争う。増援と隔離用車を送るが、危険な状態であれば到着を待たずすぐに対応してくれ』
「ふあ、了解」
「りょーかい。どっちも近いから、終わったら応援に行ってあげるよー」
「いや、二人ともできるだけ注意して臨んでほしい」
「えぇ、そうー?」
「……わかった。行くよ、切ちゃん」
切はよくわかっていない様子。ひつじは真剣な表情で言った。どうやら俺の意図を汲んでくれているようだ。
「祈里君も……気を付けて」
「わかってる」
……二つに分断されるのは心配だ。だが、ひつじは第八十三機動部隊正規隊員。決して敵に裏を掻かれるようなタマじゃない。さらに非正規だが切も付いてるんだ。問題ない。
彼女はトレーラーの背面ハッチを内側から開く。
「ふあ、行ってきます」
「きまー」
口々に告げて、二人は時速六十キロで走行中のトレーラーから飛び出して行った。普通なら地面に転がっていくところだが、なんてことはない。ひつじが切を抱えて、トレーラーと同じ速度で走れば速度の差は相殺される。
……見られたらどうするんだ。まあ、もう深夜だから気にすることでもないか。
俺は開けっ放しのハッチを閉めてから、縫子に向き直る。
「それじゃ、俺は俺の仕事をこなそうか。お前は見てるだけで構わないぞ、縫子」
自分で言って、少しおかしく感じてしまう。
……ま、縫子のことを見ていなければならないのは俺の方だろうが。
だって、ようやく俺達が、SKYが隙を見せたのだ。これがアクションを起こすチャンスなのは間違いないのだから。
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大鳥居公園は街の中でも最も大きな公園。芝生の大きな広場の周辺を、人の手が加えられた林が取り囲んでいる。隅には野外ステージも設置されており、週末にはイベントが行われていて人が集まる場所だ。
夜でも楽器の練習やランニングをする人達がちらほら見えるのだが、今はほとんどいない。SKYの人員が人払いを行ったからだ。公園内の環境整備か危険物の調査か、もっともらしい理由を付けたのだろうが、現場の俺達はあまり気にする必要のないことだ。
俺と縫子がその翼人がいる場所へ近付くと、先行していた機動部隊の隊員達に出迎えられた。彼らは俺の到着を認めると、手の空いている者達が二列に並んで道を作る。顔ぶれは以前から付き合いのある者達だ。
彼らは敬礼する。
「御苦労様です、曲直瀬隊長」
縫子は彼らの出迎えに気圧されたような、同時に怪訝のような、何やら綯い交ぜになった表情をしている。重役かよ、とでも言いたげだ。それはそうだろう。
だがこれがいつもの流れであり、儀式であり……挨拶のようなものだ。俺や他の誰かが強制したわけじゃなく、彼らが自らやっていることである。俺は決して権威が欲しいわけじゃない。が、同じ仲間が望むことだから、俺は当然としてそれを受け入れる。
「ありがとう。下がってくれ。それで、状況は?」
「作戦目標は未だに動いていません。こちらへ」
案内役の一人を残して、彼らは解散する。俺達は彼の後を歩き、林の陰に身を隠しながら進んだ。周囲には隊員達がぽつぽつと潜み、監視や照明器具の準備を行っている。
芝生の広場に出る直前まで来た。広場を横切るアスファルトの道路には、点々と街灯が立ち並んでいる。その一つの灯りの下に、二つの人影があった。
一つは倒れているスーツ姿の男。もう一つは、その隣に蹲っている高校生くらいの少女。
どちらが作戦目標かは一目でわかった。少女の背から一対の巨大なカマキリの鎌が生えていたからだ。肩口に近い箇所に基部を持ち、一つ目の節の部分で彼女の両手の平を貫いていた。そしてその手の平の先にあるのが、カマキリのあの二つに折り畳まれた鎌だ。
……カマキリの翼人ってとこか。動物系――身体能力が優れているのが特徴だ。
だが本当に視線が行ったのはそこではなかった。気が付くまで、目を離すことができなかったのは、そこではなかった。
翼人の少女の手が動いていた。背になっていてよく見えないが、倒れている恰幅の良い男と口元へその手を往復させていた。
目を凝らせば、その手には赤色の肉片が摘ままれているのが見えた。
「人を、食べてる……っ!」
縫子が目を見開き、呟いた。それから睨み、堪えるように歯を噛む。
……確かに、見ていて気分のいいものではないな。
「人格が翼に支配されてるんだ」
俺は見るのは初めてじゃない。稀にあることだ。翼人になったが、翼の影響でまともな精神を失い、肉体がただ本能的に動こうとするのだ。
翼人は本能的に≪力≫を体内に取り込もうとする。そして人間の血と肉は少量ながら≪力≫を持つ。だから、人を食う。単純な帰結だ。だが現実に起こることは、現代の常識では決して受け入れられるものではない。
それに。
「厄介だな……理性のない相手となると」
タガが外れ、躊躇のない強襲は勢いが違う。それも動物系の優れた身体能力が全力以上で来るとなれば、一筋縄ではいかないだろう。報告だとピルチェ度数は約2.8……≪力≫は大きくない。が、≪力≫の大小が翼人の強弱を決めるものではないことはわかり切っている。あの巨大な鎌に捕まれば胴が分断されてもおかしくない。
それでも、こちらには十分な準備がある。抜かりはない。
「放水車を近くまで入れてくれ。準備が整い次第、照明を点灯。最低限の人員と共に隔離空間に取り込む」
「了解です」
「……」
他の隊員達が静かに動き出す中、縫子は黙りこくって、ただ凝然とカマキリの少女の姿を見つめている。
自分と同い年くらいの少女が正気を失った姿。髪は乱れ、ボロボロの衣服と口元は血に塗れている。据わった眼がもう動かない不完全な男の身体を見下ろしている。
……普通ならこの惨状から目を逸らしたっていい筈なのに。
縫子は覚悟ができているのだろう。だからこそ、俺は思う。
……縫子――お前は何を考えている。
「――祈里さん!」
縫子の声を潜めた、しかし強く呼び掛ける叫び。
咄嗟に視線をカマキリの少女に向ける。彼女はいつの間にか立ち上がり、向こうの茂みの方を見ていた。
……何だ。まるで獲物でも狙っているみたいに……!?
「あそこっ!」
少女の視線の先にいる"獲物"の姿が、俺達のいる場所からははっきりと見えた。
「あの新入りのヤツ、近付き過ぎだ……ッ!」
近くにいた隊員が言った。
少女はゆっくりと歩きながら、確実に獲物の方へと向かっていく。ゆらり、ゆらり。身体を左右に揺らし、しかし足取りは確かだ。
「くっ、来るなぁッ!!」
新入りと呼ばれた隊員が、咄嗟に立ち上がった。護身用の自動小銃を翼人に向け、引き金を引く。
連続する銃声。
毎分五百発の速度で銃弾が発射され、少女の身体を打つ。それもただの銃弾ではなく、榴弾だ。着弾の度に爆発が更なる炸裂音を作る。
が――翼人に通じるものじゃない。
少女の歩みは止まらない。それどころか、自分の身体に当たるそれが無害だと気付き、加速し始める!
俺も走り出したが、間に合いそうにない。速過ぎる。遠すぎる。
だったら。
「届け!」
ペットボトルの水に≪力≫を込め、投げた。
カマキリの少女にぶつかった瞬間、水が爆ぜ、二メートルほど身体が滑った。
だが、弱かった。俺の手を離れたことで≪力≫が減少してしまっていたし、少女の身体能力を甘く見ていたのもある。
少女はすぐに体勢を整える。身を低くし、跳躍の姿勢。
跳ぶ。
俺の身体は間に合わない。
「……っ!?」
少女がガラスを擦り合わせたような声を短く上げた。
身体が宙で、何かにつっかえたかのように止まる。そのまま地面に落ち、倒れた。
何が起こったのか。俺もその少女もわかっていない。ただカマキリの少女は警戒してその隊員から距離を取った。
空中で何が起こったのか。それは冷静になってみればすぐに見えた。
そこにあったのは、暗色の糸。
「祈里さんの爆弾で、間に合った!」
縫子が咄嗟に糸を飛ばし、カマキリの少女の行く手を遮ったのだ。
「よくやった、縫子! ――隔離空間を展開してくれ! 戦闘を開始する!」
俺の号令の後、空気が軋み、耳鳴りのような甲高い音が耳に響いた。
世界からこの空間が断絶される。