16.『傷跡のアプリケ』
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曲直瀬祈里は、馬乗りになっている由布縫子の顔を見上げている。
「やだ、なんで、私……っ」
目尻から溢れた涙を布の腕で拭い、けれども後から追い付いてくるそれも、さらに拭う。戸惑い、何度も繰り返し、しかし止まらない。
……なあ、もういいじゃないか、縫子。
AMMから下された命令は、うちの情報を流すとか俺を殺すとか、きっとそんなものだったんだろう。そんなの最初から分かり切ってるさ。俺も馬鹿じゃない。
でもさ。その命令通りにするのが、泣くほど嫌だったんだろう? 縫子は真面目だからちゃんと命令をこなそうとして、でも良心はそれを許さなかったんだろう?
ただ一緒に飯を食って風呂に入って……それだけのことでも、お前にとっては得難いものだったんだろう? 昔の自分にはあったもので、でも今はもう無いものだと、思い出でしかないものだと、諦めていたんだろう? AMMのエージェントとして食事も取らずまともな寝床もなく、学校にだって通わず。そんな生活が本当は嫌だったんだろう?
だったら、もういいじゃないか。
「なあ、縫子。お前がもしも、助けてほしいって言ってくれるなら、俺はお前をいつだって助けるよ」
「わかんないっ、わかんないわよっ!」
縫子は腕で涙を拭い、目元を隠す。口は歪み引き攣っていてるのが見える。
「なんで私に優しくするの? 私は敵なんだよ!?」
「そんなの、もういいじゃないか」
「私の身体は傷だらけで! お父さんもお母さんも、うちも、何も残ってなくて! これまで色んな人を傷付けて! 私にはもうこの道でしか生きてくしかないって! そう思ってたのに……!」
「もう、いいんだ」
「私に優しくしないでよ……!!」
がば、と俺の胸に顔を押し当ててくる。俺の服をもがくように引っ掻き、声を押し殺して泣く。
「いいじゃないか、縫子」
「良くないよ……良くないわよ……」
縫子は熱く、けれども自分をできるだけ殺して泣いた。
俺は何も言わない。彼女はまだ、自分の中の感情を理解できていないだろうから。
黙って縫子の重みを受け止めるだけで、今は十分だろう……。
「――」
それから十五分くらいしただろうか。縫子は俺の上から隣に転がり降りた。
二人並んで寝ている。まだ顔を見られたくないのか、彼女も俯せになっている。俺も顔を見ないように仰向けだ。
「祈里……さん」
「ああ、曲直瀬祈里はここにいるぞ」
答えれば、彼女のぬいぐるみの手が俺の腕を弱弱しく掴んだ。
「ん……このこと、見なかったことにして」
「おう」
「ちょっとおかしくなってただけだから」
強情な奴だ。あるいは、まだAMMに心残りがあるのか。
それでも、俺の命を奪ってやろうという鬼気迫る気配はもうない。だったら進展はあったことだろう。
「だが、俺の言ったことは覚えておいてくれ」
「……何よ」
「お前が助けてほしいって言ったら、必ず助けてやるよ。だけど、言わなきゃわからねえからな。だから困った時は必ず助けを求めるんだ」
「……一応、覚えておくわ」
縫子が身体を俺の方に向けた。
チラと縫子に目を遣る。気恥ずかしそうに、俺の顔から視線を逸らしていた。
「さて、寝るか。お前は寝ないのか」
「……翼人は眠らなくてもいいから」
「寝た方が頭がスッキリするぞ」
「久し振り過ぎて、どうやって寝たらいいのか忘れちゃった」
「そんなの簡単さ。瞼を閉じればいいんだよ」
なんてことはない。食事をきちんと取り、風呂にも入って体温が上がった。自覚はなくても、精神は心地良い程度の疲労を得ている。その気がなくたって、すぐに眠ってしまうだろうさ。
けれども、彼女は瞼を閉じようとしない。
「……本当は、怖いの。夜に眠るのが……だって、二年前のあの時も、夜だったから」
二年前のあの時……ケオスに襲われたその時も、夜だったのか。だから、一人夜も眠らず警戒していた。
でも、今は違う。この宿舎ならそれなりに安全だし、一人じゃない。
「いざって時は、俺が守ってやるよ」
「ふン、月並みなこと言うのね。バカみたい。ほんと……」
ぽつりぽつりと吐く言葉は嫌味がない。むしろ、おかしくて笑ってるようで、言ってから自然と微笑んだ。
「……にへへ」
瞼が落ちてすぐに小さく寝息を立て始めた。
……好きなだけ眠るといい。
「おやすみ、縫子」
□
翌朝。
俺は目を覚ます。
あの後は特に寝首を掻かれるということもなかったようだ。ちゃんと首は繋がっている。まあ、冗談だが。
縫子は隣、安らかな顔で眠っている。
遠くから朝食を用意する音が聞こえる。きっとひつじがやってくれているのだろう。毎朝のことだ。
時計を見れば七時の十分前。そろそろ起きて行ってもいい時間だろう
「起きろ、縫子」
「ん……ぅ……」
「いつまでも寝てるんじゃないぞ。今日も学校行くんだろ」
「すぅー……すぅー……」
寝起き悪いなコイツ。二年間寝てなかったのかもしれんが、いつまで寝かせておくつもりはないぞ。
……仕方あるまい。
俺は再び横になる。そして頬を引っ張る。
「うにー」
「うぅ……うっ……」
柔らかい。あと面白い顔だ。
当の彼女は寝苦しそうに眉を顰め始める。
「ぐ……ぅう……」
「いい加減起きろよ。寝過ぎは身体によくないぞぅ」
すると、目をぱちくり。
ようやく起きたか――と思った瞬間、顔面に布の拳がめり込んでいた。
「ぶ」
「……なんであんたが一緒に寝てるの!?」
「えっ、そこからか?」
縫子を宥め昨晩のことを思い出してもらい、それから俺達は食卓へ向かう。
すでに朝食の準備は整っていた。先に切が席に着いている。彼女はまだパジャマ姿のままで、髪もボサボサで、瞼もほとんど閉じている。まあ俺も縫子も着替えてないのは同じだが。対照的にひつじはすっかり身支度を済ませている。エプロンを外し、余った椅子の背もたれにかけた。
四人が席に着き、手を合わせる。
「いただきます」
メニューはご飯と味噌汁、塩鮭。卵焼きにウィンナー。漬物。あと昨日の残り物のから揚げ。手早く用意されたものでも、これだけ用意してくれるのはとても有難いと、まずは味噌汁に口を付けながら思う。
ふと目を遣ると、食卓の隣に置かれた小さなテレビが今日の天気予報を告げていた。
『今日は午後から雨が降る見込みです。お出かけの際は傘を持って――』
この春の時期はさめざめと雨が降るもんだなあ。
すると、縫子が言う。
「……私、雨は嫌い。祈里さんはそうじゃないだろうけど」
「かもな」
「ひつじも、あんまり好きじゃない。髪の毛がごわごわする」
ひつじはくせっ毛が湿気で増悪するからなぁ。
切は素直な髪質で面倒はなさそうだが。
「アタシも荷物が増えるからキライだなぁ」
なんて薄ぼんやりと言っている。
「……ふあ。ひつじの髪、後で梳いて、祈里君……」
「ああ、いいぞ」
「じゃあ、アタシの髪の毛も久しぶりに結ってヨー。三つ編みの腕前が落ちてないか見てあげるヨ!」
「何でだよ」
「ええ、ひどくない? なんでアタシはダメなのさ、ヨヨヨ……」
「わーったよ……」
「……」
視線を感じて顔を上げると、縫子と目が会った。
「ふあ……縫子ちゃんも、髪、梳く?」
「えっ、何で私が!?」
「そういう目をしてるからじゃないのー?」
「私がどういう目をしてたっていうのよっ!?」
「どうってさあ……今まさにそういう……そういう目をした!」
「だから何よ!?」
「……んで、縫子。お前もやるのか?」
しどろもどろになっていた縫子はぴたりと動きを止め。
「わ、私はいいわよ……」
「おう、そうか」
じゃあ二人だけ。ああ、ただでさえ朝は時間がないというのにな。
……まだ縫子に見られているのが気になるが。
「ふン。……祈里さん。そういえば、これは気付いているかしら?」
何をだ。
「あいつは……ケオスは雨の日に現れる」
ケオス――炎の翼人。縫子はそう言った。
彼女はケオスの情報を喋った。ヤツが雨の日に犯行を行うと。
しかし。
「確かにこれまでの犯行記録では雨の日がそれなりにあったな。だが晴れの日もあった。それに雨が続いても何のアクションもない日があった。決して雨の日に行動するとは限らん」
「そりゃ、相手は腐っても翼人よ。知性がある相手だもの。単純な法則になんて当てはめようとするのが馬鹿馬鹿しいわ」
「じゃあ何だっていうんだ」
「あいつに襲われた時、言っていたのよ。『雨の日は嫌いだ、だから燃やす』んだと」
彼女は真剣な眼差しを俺に向ける。
「私の時も、雨が降っていたわ。だから雨は嫌い」
由布縫子はケオス事件の今分かっている限り唯一の生存者だ。
その彼女が言う言葉は、紙で回ってきた資料以上に真実味を持っていた。