11.『由布縫子という少女』
縫子は後退りしながら、撤退する隙を窺っているようだ。
こちらとしては二度も逃がすつもりはない。が、お互い"余力"を残している以上、何があってもおかしくない。
俺は傷から再び血を引き出し、双剣を作り出す。
「――弄しなさい、私のテディベア達!」
彼女が背にする植木から、ぬいぐるみのクマ達が飛び出してきた。
先ほど倒したものの残りか。
「こんなもの!」
両の剣で軽くいなし、縫子を見た。
植木の陰から何かを取り出している。両手に一つずつ、背から持ち上げるようにぬっと姿を現す。
それは直径約二メートルの金属光沢を放つ円盤。
「で、でか……っ!?」
彼女の身長、いや俺の身長よりもでかい。厚さは10cmくらいで……重さはトンを平気で超えるんじゃないのか?
翼人のアンタッチャブルの原理の前に、有象無象の物体は質量なんてあってないようなものだ。だが翼人同士の戦いなら原理は働かず、質量の差は絶対となる。
「空を掻け、ボタンカッター!」
言葉の通り、ゴウ、と空を掻いた。
一つ。
二つ。
顔面、胴と水平に飛んできたそれを、俺は身を低くしてかわす。
身体を持って行かれそうになる風圧。
背後で校舎が弾ける音が二回。それがどんな惨状になっていることやら。しかし俺は振り返らない。ただ縫子を逃がさないために目を凝らす。
「……ふふっ」
縫子は微笑み、ゆっくりと地面を蹴った。
浮いた。
「なっ……!」
それも一瞬のうち。ぐん、と加速して視界上へと消える。
遅れて見上げれば、五階建ての校舎よりも高い位置に縫子の姿があった。
翼人は空を飛べない。
翼はあくまで≪力≫の象徴だ。飛翔する力は持たない。空を飛ぶ能力を持つ者もいるが、水の翼人である俺にはできない。ぬいぐるみの翼を持つ縫子も恐らく違うだろう。
だったら、彼女はどうやって飛んだのか。
よく見れば、彼女の背の翼から二本の細長い布が伸びている。それはそれぞれ校舎に結び付けられているようだ。
「パチンコのように自分を上へ飛ばしたのか!」
そして、その布は切り離され、彼女の手元に戻る。
その布を隣の校舎に飛ばしくっつけ、身体を振り子のようにスイングさせる。
よく考えた逃げ方だな!
俺はまず感嘆する。アドリブでやったにしては手が込んでいる。パチンコの布は予め用意してあったのだろう。スイングも事前に下見をし、背の高い建物がある場所を選んでいなければできないことだ。
翼人の絶対的な力を持つが、いくつかの弱点を持っている。
その一つが距離だ。
翼人にとっての距離は他の人間や物と等しい。当たり前のことだが、しかしこれは重大な点でもある。空が飛べない翼人には、高さは縮めることの難しい距離だ。そして多くの翼人は何十メートルも先に攻撃する手段を持ちえない。逃げる速度だって、翼人は素では人間より少し速く長く走れる程度で、車より速い者の方が少ないのだ。
だからこそ縫子の逃走手段は有効である。
俺だって水さえあれば手がないわけじゃないが――。
「クソッ、待て!」
とにかく俺は走る。しかし縫子の背は既に遠い。
その時、隔離空間を覆う不可視の壁が、一瞬濁ったように見えた。
直後、上空に黒い影が現れる。
縫子の行く手を阻むように来たのは、小さな人影。
「ふあ……来たよ」
縫子よりも幼く見える少女は、胴を膨らんだ毛に覆われていて、頭に一対の曲がり角を有している。
彼女が宙を"踏む"と、空間が歪み、そこに確かに立つことができた。そして足を前に踏み出し、繰り返し、宙を駆けている。
彼女は肩に二メートルほどの片刃の剣を担いでいる。剣の鍔からは、青白い光が二筋、布のようにたなびいていた。
『ようやくアクセスできた。どうやらギリギリ間に合えたみたいだネー』
剣から発せられた声に、少女は頷いた。
縫子は闖入者を見上げる。
「誰よ、あんた!? 私の邪魔をしないで!」
「ううん。ひつじ達は、邪魔しに来たの」
縫子が中空で拳を放つ。が、ひつじと言った少女は、縫子の上を飛び越えながら前転する。
その動きは軽くそしてしなやかだ。
拳を外された縫子は、振り子の布を手繰り距離を置こうとする。
が。
「布が、いつの間に!?」
切れている。彼女自身から一メートルもないところで、布は綺麗な断面を見せていた。
縫子が驚いた理由はそれだけではない。自分と直接繋がっているはずの布が切断されたことに全く気付かなかったのだ。剣で切ろうとすれば布自体が引っ張られ反動が得られるはず。それが無かったのだ。
彼女は自分に影が落ちていることに気付いた。
見上げれば、ひつじが宙を踏み、回転の頂点で止まっていた。天地反転の状態。
身体を捻りながら剣を上段に構える。
風が静かに渦巻いた。
「今度は斬っちゃダメだよ?」
『わかってるってー』
刃を返し、振り下ろす。
峰打ちが、縫子の頭を真上から打ち抜いた。
「か」
次の瞬間には、縫子の身体は真下の地面に叩き付けられていた。
道路のアスファルトを粉々に割り、身体を横たえる少女の元へ、俺は駆けつける。
「――っ!!」
頭を押さえ、声を出すこともなく痛みに悶絶している。あの一撃だから、頭蓋は割れていることだろう。それでも死に至らないのは流石翼人の力と言う他ない。
「縫子」
「ぁ……、っ……」
返事はやはり声にならない声。
ただ、腕の隙間からその顔を覗かせた。苦痛に歪んだ顔。その瞳には涙を湛えている。顎が震え、歯がガチガチと打ち鳴らされている。
それでもまだ、俺を睨むのは、意思が折れていないということだ。
決着はまだだ。
「ぁ、ああぁ――!!」
縫子は咄嗟に起き上がり、拳を溜める。
「祈里くん、水!」
ひつじの声と共に急速落下してきたのは、水の入ったペットボトル。俺はそれを抜き手で破り、中の水を掴む。
今度こそ、正真正銘の水の剣。
縫子の拳に真正面からそれを振り降ろす。
斬る――。
「――」
縫子の腕が、上腕まで真っ二つに切断された。
中から綿が弾け飛び、そして。
「……生身の腕が、無い!?」
布で覆われたぬいぐるみの腕の中には、人間本来の腕が入っているはずだと思っていた。だってそうだろう。翼人は腕や脚を落としたところで、また生えてくるような生物なんだ。腕が無い理由が無いんだ。
どういうことだ、一体。
「い、嫌――」
縫子は無くなった腕を、隠そうとする。綿を集めて切り口に押し込もうとするが、詰まっていた綿が次から次へと溢れてくるだけだ。直すと呼ぶには拙い、ただ駄々を捏ねるような行い。
「いや、やだ……や……」
その場に蹲り、腕を庇う縫子。
……どうしてだ。そこには腕も何も無いってのに、何をそんなに守ろうとしてる?
少女は身体を震わせ、小さく呟いている。
「――助けて、サンディ……」
俺は剣を収める。
それから、上にいたひつじ達が降りてくる。
「祈里くん?」
『イノリ……』
ひつじを見て、それから目を伏せる。
「もういいだろう。彼女はもう抵抗しない。これ以上何もする必要はない」
少し離れたところから、人の声と物音が聞こえてくる。隔離空間の中に、俺達の増援がようやく来てくれたのだろう。
俺は一息吐く。それから、思う。
――由布縫子という少女は一体何者なのか。
ケオス事件の謎を解く糸口のはずが、新たにわからないことが増えてしまった。
つと、周りを見渡してみる。
由布縫子には魔法使いの協力者がいるはずだ。今彼女が確保されようとしているのだから、助けに来てもおかしくない。
けれども、その気配は一切感じなかった。