1.『炎の魔人事件』
俺は、黒の外套を纏った男と正対している。
午前二時の一分前。
静岡県は静岡市。竜爪山の山奥の倉庫の中。電灯ではなく宙に浮かぶ火の玉が周囲を仄かに照らす。
先に口を開いたのは男だ。
「どこの誰だか存知ないが、少し遅かったようだな。贄は捧げられ、異界の力は応じられた。我々の目的は達成されつつある」
その杖で床を叩くと、ぼう、と鈍い光が描く紋章が浮かび上がった。
「午前二時丁度! ここに魔人を召喚し、世界は炎に包まれる! 全ては終いだ。――せっかくだから記念の名前とコメントの一つでも頂戴してやろう?」
男が杖で俺を指した。
俺はサングラスをくいと直す。
「いいや、何も終わらないさ。せっかくだから名乗っておこう。俺の名前は曲直瀬祈里<マナセ・イノリ>。お前達に罪を償わせに来た」
「罪、だと?」
「お前達はこれまで放火殺人を繰り返した。その魔人とやらを召喚するためにな」
「計画に必要な供物だった。むしろ、我々の計画の礎となれたことを感謝してもらいたいものだ」
「その戯言もこれきりだ」
男が眉をピクリと跳ねさせ、俺を睨む。
それを無視して言葉を続ける。
「それにしても、世界を燃やし尽くすつもりの男が何故名前を問う? 何も残らないっていうのに? 大体ただのイチ人間が、世界を滅ぼして何のメリットがあるんだよ?」
「説明したところで貴様にはわからんことだ」
「よく言うなあ。まあ粗方、これから喚び出す魔人殿に精神を汚染されてるんだろう。世界を滅ぼすことが正しいのだと思い込まされているんだ。たまにいるんだよ、こういうしょうもないヤ――」
「お喋りはほどほどにしておこうか」
ふと腕時計を見れば、秒針が0を示している。
「――時間だ」
床が割れた。亀裂からぐいと伸びてきたのは、巨大な赤黒い手。それが床に手をついて、身体を引き上げた。
十メートル。
現れたのは上半身だけ。そいつは見下ろしてきた。山羊の頭を持つ巨人の姿。黒い身体が呼吸に応じるように赤熱と冷却を繰り返し、周囲に火の粉が舞い、倉庫の中の闇を散らす。
「魔人の炎は鋼鉄を一瞬で蒸発させるぞ!」
魔人が胸を膨らませ、炎を吐いた。広がった炎は、考える暇もなく俺の視界を埋める。
燃えた、いや消えた。
「ふっ……ははは! 呆気ない物だな、あの大口が!」
「――ああ、本当だ。サングラスが消えてなくなっちまった」
確かに炎だけでこれだけの力があるのなら、普通に考えたら世界を滅ぼすのも夢ではないだろう。
無線も壊されてしまった。流石に戦闘服は無傷、着てなかったらマッパになってるところだったな。
「何故だ!? 何故、生きている!?」
「そういうこともあるさ。お前が自分が特別だと考えているのなら、それ以上に特別なものが世の中には存在する。ただそれだけのこと」
俺は跳躍。魔人の肩に飛び乗り――。
「オラッ!」
山羊頭にサッカーボールキックを決めると、綺麗に千切れ飛んだ。
「な……っ!?」
洞穴を風が吹いて鳴らしたような底から響く断末魔が、倉庫を揺らした。たっぷり十秒ほどで叫びは止み、魔人は停止した。
「残念ながら、世界が終わるのは今日じゃないってことだ」
手応えからすると身体はそれなりの強度があったが、再生もしないなんて楽な相手だ。
着地し、一息吐く。それから、言う。
「魔人なんて一山いくらの連中、どれだけいても世界は滅ぼせやしない」
「何なんだ……何なんだ貴様は!?」
「俺は異能から世界を守るSKYの03地区第八十三機動部隊隊長。そして翼人と呼ばれている存在の一人だ」
≪力≫を解放すると、背中に二対の薄い水の翼が結露する。
「お前は翼人を知らないか? 俺のように翼を持つ人間だ。ああ、俺と同じ水じゃなくて、とにかく背中から何かを生やした人間だ」
「し、知るわけあるかっ!!」
「じゃあ、やっぱり今回はハズレか。作戦本部、さっさと突入してきてくれ……って無線、さっきので壊れちまったな……」
翼人なら翼人で通信機を壊さないように立ち回れるだろと、総務部からまたお小言が書面で届いてしまうな。俺は一つ溜め息。
すると、外套の男はわなわなと身体を震わせた。
「こんなわけのわからない奴に計画を邪魔されるなんて……!」
「わけのわからないってなあ……。そうかもしれないが、こういうもんなんでな」
男が杖で床を叩くと、今度はコンクリ片が宙に浮いた。
「潰れろ!!」
真正面から突っ込んできたそれを、俺は軽く殴って砕いた。
破片が床の上に散る。
「俺には効かないんだ。翼人は、翼人以外の力の作用を無視することができる。あらゆる兵器または超常的な手段を用いても傷を付けることはできない。この性質はアンタッチャブルと呼ばれている」
さらにもう一つ。
「俺は水の翼人。その≪力≫で周囲の水を自分の身体のように自在に操ることができる」
戦闘服の繊維の中に隠していた水を手元に集める。さらにそれを細長く形作り、縁を鋭化させる。
それは剣だ。
俺は剣で男を指す。
「これで終いだ」
俺は踏み込んだ。翼人の脚力なら彼我の距離は一呼吸で埋まる。
「うあああっ!!!」
斬り飛ばす。
分離したそれは、宙にふわりと浮き、重力に囚われて床を叩いた。
それは、男の持っていた杖の上半分。
「ひっ……」
「殺しはしないさ。捕まえるって最初に言っただろう? 大人しくしてれば危害は加えない。お前の仲間も、今頃は俺の仲間が捕まえているだろうから、さっさと諦めるんだな」
自分が斬られると思ったのだろう。ひとまず安心した男は、力なくその場に座り込んだ。
俺も翼を引っ込め、力を抜いて伸びをする。
ま、魔法使いは道具がなけりゃただの人だ。これ以上危害を加えることもない。
今回の俺の仕事は普通の人間じゃできない魔人の対処だけだ。これで後は他のチームと合流して、こいつのことを任せれば終わりだな。
……っと、三度目だが、無線が無いんだった。
「おーい、誰かいないのかー?」
周りを見ながら声を上げる。
すると遠くから仲間の返事が聞こえた。これでよし。
「――っ、あああああ……!!」
その声に振り返り見れば、男がナイフを取り出して俺を刺そうとしている。
が、もちろん翼人にナイフの刃は通らない。翼を出してようが出してなかろうが変わらずにだ。
「がああっ!?」
「やめとけってのに……」
力任せに俺に突き立てたナイフが滑って、手首を思い切り良く捻ったようだ。痛みで蹲っている。
「懲りない奴だ。お前みたいなのは拘束しておきたいが、生憎縄とか切らしててな。ああいや、普段から持ち歩かないんだが。とにかく、他に手段が無い。とりあえずその手首を砕いておこう。そうしたら動けないだろ?」
手首を引っ張り、力任せに男を転がせる。呻き声を上げ、のっそりと俺を見上げた。
「やめ……やめてくれぇ……」
「これ以上情けをかけるほど甘くないんでな」
直後、倉庫中に男の叫び声が響いた。
□
自動小銃を携えた男達が三人、後からやって来た。黒の布地に白でSKYという文字が入れられた作業着を皆が着ている。その三人のチームに男を任せて一息ついた。また、別のチームがやって来て魔人の死体を見ながらどう処理するか計画を立てていた。
彼らは俺の所属する組織の仲間。
組織の名前はSKY。
この異常のない世界を異常な存在の侵攻から守り、この世とこの世ならざるモノとの境界を維持する組織だ。
俺は後からやって来たチームから連絡を受ける。
――俺が捕まえたリーダーの男を含め、魔人で世界を滅ぼそうという妙ちきりんな計画を立てていたのは五人。そいつらは全員無力化し捕まえた、とのことだった。
作戦は終了だ。
俺は次の命令が来るまで現場待機である。
手持ち無沙汰な俺は、何とはなしに壁際に近付いてみる。
すると。
「……」
明確な違和感を得る。
それは目には見えない。誰の目にも、俺の目にも見えない。しかし俺にはわかる。他の誰にもわからなくても、俺には感じる。
俺の水の≪力≫で空気中の水蒸気を介して、周囲にあるものを知覚することができる。だからわかる。
そこには熱がある。空間を押し退ける物体がある。
――そこには"何か"がある。
いや、人型をした"誰か"がいる!
「……っ!!」
相手が動いた。
明確に相手を探る素振りを見せたつもりはなかったはず。しかし、悟られてしまった。
目に見えないが、人が走る速度で逃げているのを知覚する。
「っ――待ちやがれ!」
俺は弾かれたように追いかけた。