第一章 【二】
そして、約束の日。
放課後、はやる気持ちを抑え切れず、帰宅を急ぐ俺。
(今日は、名前を聞かないと…。)
(それから、連絡先を聞いて…。)
(もうすぐ夏休みだから、何処かへ遊びに行けたらいいなぁ…、彼女と…。)
自分が受験生であることを忘れ、そんなことを考えていた。
早足で帰宅していたが、気が付くと走り出していた。
マンションの入口に辿り着くが、当然、彼女はまだ来ていない。
(何を焦ってるんだ、俺は…。)
うだるような暑さの中、走って帰宅した俺は、流れる汗を拭いもせずに彼女を待つ。
「今日は早いね!どうしたの?汗だくじゃん!」
呼吸が整った頃、彼女が自転車に乗って現れる。
「今日は暑いから…。」
しょうもない、言い訳をする。
「確かに、今日も暑いけど…。運動した後みたいだよ。」
彼女も、ほんのり汗をかいている。
照りつける夏の日差しに、汗が反射して、彼女の笑顔をより際立たせる。
「あのー…、それで…。」
(キミの名前は?)
「はい、ジャージと傘!」
自転車を降りた彼女は、名前を聞こうとした俺を制するように、ジャージと傘を差し出す。
「はぁ、どうも…。」
「ちゃんと洗濯してあるけど、変なことに使わないでよ!」
「だ、だから、使わないって言ってるじゃないですか!」
一瞬、ジャージの匂いを嗅ぎそうになったが…。
「だって、怪しいんだもん!今も、一瞬、怪しい動きをしたし。」
そう言いながら、彼女は俺の横に座る。
(この行動は、俺ともう少し、話をしてくれるという意味だろうか?)
「あのー、名前…、聞いてもいいですか?この前…、聞くの忘れたから…。」
「あれ?私のこと、思い出してくれたんじゃないの?がっかり…。」
「すいません…。」
この二日間、記憶の糸を手繰り寄せ、彼女を思い出そうとしたが…。
中学の時、会ったことがあるような気もしたが、どうしても思い出せなかった。
「まぁ、しょうがないか…。私も、中学の時とは違うから…。」
「…?」
(どういうことだ?)
「じゃあ、水野くんにヒントをあげよう!私が誰だか当てたら、いいことあるかもよ!」
そう言うと、彼女は鞄からメガネを取り出して掛ける。
そして、俺の方に向き直ると、肩まで伸びた黒髪を両手で掴み、おさげ髪を作って見せた。
「あっ!」
「おっ、思い出してくれたのかな?」
「コンタクトレンズにしたんですか?神崎先輩!」
「いわゆる、『高校デビュー』ってやつです…。」
そう言って、照れくさそうな笑みを浮かべる彼女。
(俺はバカなのか?彼女を忘れるなんて!)
(ずっと好きだったはずなのに…。)
俺は、ずっと憧れていた彼女に、告白しようとしたことすらある。
結局、実行に移すことは出来ず、その恋は終わりを告げた…、と思っていた。
中学時代の彼女は、有名人ってわけでもないが、一つ上の学年や俺達の学年、更に一つ下の学年の奴らは、顔と名前ぐらいは知っている。
何故なら、彼女は生徒会長だったからだ。
卒業式では、女の子ながら答辞を読んでいる。
俺は、そんな彼女のことが好きだった。
初めて話した時からずっと…。
その時しか、話したことはなかったが…。
「全然、印象が違ったから、分かりませんでしたよ。」
(それにしても、変わり過ぎだろ!)
「真面目な生徒会長だった私だって、女子高生になれば、違う世界が見てみたくなるのよ!彼氏だって…、欲しいし…。」
「神崎先輩は、確かに真面目そうに見えましたけど、実際はそうでもない…、って聞きましたよ、先輩達から。」
「誰よ、そんなこと言ってた奴は!どうせ、バスケ部の高木くんあたりでしょ、そんなこと言ってたのは!」
「ち、違いますよ、高木先輩じゃないです!」
(本当は、大正解だったが…。)
「私のことは、『神崎』とか、『瑞希』でいいよ!『神崎先輩』なんて、照れ臭いから。」
「じゃあ、瑞希さんに質問があるんですが…。」
「何?」
「何で俺の名前、知ってたんですか?学年だって違うし、ほとんど面識なんてないのに。」
(一度だけ話したことはあるけど…。)
(彼女が覚えているか怪しいもんだし、あれは『会話』と呼べる代物だったかどうか…。)
「えーと、それは…。ほ、ほら、水野くんって背が高いし…、バスケ部も二年生からレギュラーだったから…、目立ってたし…。」
「ふーん。」
(何か動揺してないか?この人…。)
「そ、そうだ!水野くん、携帯電話、持ってる?」
「一応、持ってますけど?」
「連絡先…、教えてよ…。」
(それって…、俺が聞こうとしてたことなんだけど…。)
「いい…ですよ…。ちょっと待ってて下さい。今、家から取って来ますから。」
「学校には、持って行かないの?」
「当たり前ですよ!『特別な理由が無い限り、携帯電話を学校に持って来ないように』っていう決まりを作ったのは、瑞希さん達じゃないですか!」
「まぁ、そうだけど。私は持って行ってたよ。」
「はぁー?何ですか、それ!」
(この人って、こんなキャラだったのか?)
連絡先を交換した後も、俺達はしばらくの間、話をしていた。
大して内容もない話。
彼女の高校生活。
彼女が卒業した後の、うちの中学の様子等々。
『彼女はいるの?』とも聞かれたが、素直に『いない』と答えた。
彼女にも同じような質問をしたが、彼女も『いない』と答えた。
俺は、心底、ホッとした。
憧れだった人との会話は、胸が苦しくなった。
俺は、彼女をデートに誘い出す方法を考えながら、話をしていたが…。
「夏休み…、何処か遊びに行かない?」
「えっ!」
(それも、俺が聞こうとしてたことなんだけど…。)
「傘を貸してくれたお礼に、デートしてあげる!でも…、受験生だからダメ…かな?」
「一日ぐらいなら、大丈夫ですよ…。」
「ホントにー!じゃあ、何処に行こうか?」
(『お礼』って言ってたくせに、瑞希さんの方が喜んでいるような…。)
「夏だから、プールとか…。」
「あーっ、またエッチな目付きしてるー?」
「えっ、し、してないですよ!」
「私、水野くんが期待してるような大きさじゃないんだけど…。」
「だから、何のことを言ってるんですか、一体!」
(すぐ、そっち方面に持って行こうとするな、この人…。)
「じゃあ、日にちが決まったら連絡してね。私は、水野くんに合わせるから。」
この日も、俺に満面の笑顔を見せて、帰って行った瑞希さん。
終わったと思っていたものが、再燃してきた…。
(上手く行き過ぎて、何かコエー!)
(やっぱり、女の子には優しくしておくもんだな。)
自分の部屋で、塾の予定表と、にらめっこをしながら、顔がニヤけているのを自覚していた。
夕方になっても、一向に涼しくならない、夏休み直前。
俺は、彼女と、デートの約束をした。