番外編【三】 草食系の男
「ねぇ、マー君。」
「何ですか美咲さん。」
私は、彼を『マー君』と呼ぶ。
最初は、そう呼ぶのは恥ずかしかったが、半年もすれば慣れた。
彼は、私を『美咲さん』と呼ぶ。
『さん』はいらないと、私は言うのだが、彼は一向に直さない。
しかも、今でも私に敬語で話す。
まるで、私が彼を尻に敷いているようで、バツが悪いのだが…。
「長年の習慣だから、直せないんですよ!」
「前は、長い間、付き合ってればそのうち直るって、言ってなかった?」
彼が私を好きでいてくれるなら、どっちでもいいことかも知れないが…。
彼と私が恋人になったことは、会社内では一応、秘密だった。
社内恋愛禁止というわけでもないが…。
会社では、『マー君』とは呼ばないように気を付けてはいたが、一度だけ同僚達の前で、そう呼んでしまったことがある。
その時は、何とか誤魔化したつもりだったが…。
私達の関係を、同僚達は気付いていながら、知らない振りをしてくれているみたいだった。
「水野をお前の下に付けて、正解だったかな?お前は、いつか俺に、このことを感謝する日が来るぞ!」
上司は私にそう言って、意味深に笑う。
「どういう意味…ですか?」
「言葉通りの意味だよ。」
(もしかして、コイツはこうなることを狙ってたのか?)
実際にそうなる日は、来たのだが…。
少なくともこの上司は、私と彼の関係には気付いていたようだ。
付き合い始めて半年が経った頃、ちょっとした疑問がわいてきた。
彼と一緒にいるのは、楽しいのは確かだったが…。
(『彼氏』と『彼女』って、こんな感じでいいの?)
この頃の私達は、まだ、手すら繋いだことがなかった。
文字通り、『手を出して来ない』彼。
(男の人って、女の人に、『あんなこと』や『こんなこと』をしたいものじゃないの?)
彼氏いない歴と年齢が同じの私には、よく分からなかったが…。
『美咲の彼氏は草食系』と、友人達に断言された。
(私に、女としての魅力が足りないから?)
(もしかしたら、『付き合ってる』と思ってるのは私だけ?)
そんなネガティブ思考に陥った。
「私はマー君の何?」
彼に確認してみる。
「『彼女』、ですけど…。」
私の考え過ぎだったようで、ホッとした。
「だったら、敬語はいらなくない?あと、『さん』もいらない。私のこと、『美咲』って呼んでよ!」
この議論が、二人の間でなされたのは、この時が初めてだった。
「急には無理です。長い間、一緒にいれば、そのうち変わると思いますよ。」
二人の関係に、線が引かれているような気がして、私は嫌だった。
それから数日後の、デートの帰り。
私を、いつもように家の前まで送ってくれた後、別れを告げて帰ろうとした彼。
私は、咄嗟に彼の手を掴んだ。
「ちょっと上がっていきなよ。お茶ぐらい出すよ。」
あの時の私は、よくこんなことが言える勇気があったなぁと、自分でも感心してしまう。
「だから、一人暮らしの女性の家に上がるのは、まずいですよ!」
「『正式に付き合ってる』から、いいんでしょ?」
「そうですけど…。」
「…。」
私は、潤んだ瞳で彼を見つめる。
演技ではなく、素で泣きそうだったのだが…。
私の目力は、彼を引き留めることに成功した。
取り敢えずお茶を出し、意を決して彼の隣に座り、彼を見つめる。
彼と目が合った時、私は目を閉じた。
二人の唇が離れたあと…。
「今日…、泊まってく?明日、休みだし…。」
私は、勢い余って、とんでもないことを口走ってしまった。
「美咲さん…、自分が何を言ってるか、分かってます?」
私はもう、子供ではない。
これが、どういうことを意味するかぐらい、百も承知だった。
「分かってるよ…。大丈夫…。」
勢いがないと、中々、決心出来そうもないことだったから…。
初めてのその行為は、正直、痛かったが、涙が出る程、嬉しかった。
(『初めて』って、絶対バレたよね…。)
その辺のことについて、彼は特に触れて来なかった。
彼は恐らく、初めてではなかったと思われるが、私も特に触れなかった。
何故なら、そんなことが消し飛ぶぐらい、幸せだったから…。
「俺…、色々、歯止めが効かなくなったらすいません…。」
「『歯止め』って?」
「…。」
彼は、私の質問には答えてくれなかった。