↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

あの日の灯火

作者: 汐野 夢咲
掲載日:2026/06/19

──愛してるよ、凛太郎

その言葉を告げた瞬間、私の命の灯火は、まるで消えかけのろうそくのように、静かに震えた。

病室の窓からは、あの頃と変わらない夕焼けが差し込んでいる。横たわる私の手を、凛太郎の大きな手が包み込んでいた。少し硬くて、でもたまらなく優しい、ずっと私の隣にあった温もり。

「……あぁ、俺も愛してんで」

凛太郎の声が、掠れて震えている。いつもなら軽口で返せるはずの私も、今はもう、呼吸を一つするだけで精一杯だった。

「お兄ちゃんは、絶対素敵な俳優になれる……」

和真の泣きそうな顔も見えた。二人とも、私を守ろうと必死で。

ああ、なんて幸せな人たちなんだろう。雅と過ごしたあの眩しい日々から、数年。私はまた、同じ場所に立っている。

雅。ねえ、やっと少しだけ、分かった気がするよ。

視界がゆっくりと白んでいく。

記憶は、あの騒がしかった放課後の教室へと巻き戻っていった。


「おっはよー!夢!」

廊下の向こうから、いつもの弾むような声が聞こえてくる。私はつられて顔を上げ、満面の笑みで手を振り返した。

「おっはよ!雅!」

雅は少しだけ歩く速度を落として、私の元へと駆け寄ってきた。窓から差し込む朝の光が、彼女の少し痩せた頬を照らす。教室の空気さえ、雅が来るだけで一段と明るくなるような気がした。

私はカバンを机に放り出すと、雅の隣の席に座った。彼女は昨日、少しだけ顔色が優れなかったけれど、今日は持ち直したようで安心する。しかし、そんな穏やかな朝のひと時を、今日に限っては不安が掠めていく。

「ねぇ……今日のテスト、マジでヤバいんやけど」

雅が情けない声を出しながら、机の上に突っ伏した。彼女のそんな姿を見て、私はクスリと笑う。

「あ、私教えるよ。……範囲、雅が休んだとこやったっけ?」

そう言って、私はカバンの中からノートを取り出した。雅が昨日体調不良で休んでいた箇所、そこが今日のテストの最難関だ。

雅は顔を上げて、いたずらっぽく笑った。

「さすが夢! 頼りにしてるよ」

その笑顔があまりにも自然で、私はつい、彼女が大きな病気と闘っていることを忘れそうになる。彼女の隣で教科書を広げながら、私は何気なく尋ねた。

「そういえばさ、凛くん、また朝からうるさかった?」

「あー、うん。朝から俳優の台本読みながら、家の中をウロウロしてて……本当にうるさいねん!」

雅がぷうっと頬を膨らませて呆れる。その言葉を聞いて、私は思わず笑ってしまった。雅の兄である凛太郎と、私の兄の和真は昔からの腐れ縁で、いつも騒がしい。

「でも、凛くん、本当に俳優になるつもりなんだね」

「うん。……夢も、応援してあげてね」

その時、雅の言葉が少しだけ、いつもより静かに響いた気がした。けれど私は、その時はまだ、それが何を意味するのかを深く考えようとはしなかった。ただ、今日もこうして雅と他愛のない話ができることの幸せを、噛み締めていた。

テストの予鈴が鳴る。私たちは顔を見合わせ、同時におどけてみせた。

「よーし、頑張るか」

「うん、頑張ろう!あ、雅?私が教えたとこ出たら絶対解くこと!」

「はぁーい」


テスト終了の合図が響いた瞬間、教室の空気がふっと緩んだ。解答用紙を回収し終えた先生が教室を出ていくと同時に、雅が弾んだ足取りで私の席へ駆け寄ってくる。

「終わったー! あー、もう脳みそ溶けそう……。でもさ、夢が教えてくれた場所、バッチリ出たよね? もう、夢は神様か! マジでありがとう!」

雅はそう言って、私の肩にぐいっと体重をかけてきた。私は苦笑しながら、教科書をカバンに詰め込む。

「大げさだって。ううん、どういたしまして。ってかさ、教えてもらった場所出たのはいいけど、ちゃんと解けたんですか〜?」

私が小突くように尋ねると、雅は不服そうに頬を膨らませた。

「はぁ? 解けたし! なめないでよ、これでも昨日の夜は気合い入れたんやから!」

「ふふ、そっか。偉いね」

そんな何気ない、中身のない会話。誰にでもありそうな、ありふれた放課後の風景。それが私たちの当たり前で、明日も明後日も、ずっと続いていくものだと疑わなかった。

数日後のテスト返却日。教室は特有の緊張感に包まれていた。名前を呼ばれるたびに一喜一憂する声が響く中、私の心臓も早鐘を打っていた。

「次、一ノ瀬」

先生の無機質な声に、「はい」と短く返事をして教壇へ向かう。答案用紙に書かれた赤い数字。先生が少しだけ目を細めて言った。

「さすが一ノ瀬だな。よくまとまっている」

「ありがとうございます」

私はほっと安堵の息を漏らし、自分の席へと戻った。すると、隣の席からすぐに興味津々な視線が突き刺さる。

「夢、何点やった? 見せて、見せて!」

雅が身を乗り出して、私の答案を覗き込んでくる。80点。決して完璧ではないけれど、遅くまで一緒に勉強した成果が出ていた。

「すごいじゃん! さすが夢! やっぱり頭いいっていいな〜、うらやましい!」

「そんなことないよ。雅だってやれることやったでしょ? 頑張った分、ちゃんと点数に繋がってるはずだよ」

私がそう答えると、雅は少し照れくさそうに笑った。その時、教壇の方から名前が呼ばれる。

「次、藤原。早く来なさい」

「あ、はい! すみません!」

雅は少し慌てた様子で立ち上がり、先生の元へ向かった。少し離れた場所から見ていると、先生が雅のテストを見て、一度だけ大きく頷くのが見えた。

「藤原、今回のは頑張った方なんじゃないか? 前回よりずっといいぞ」

「はい! ありがとうございます!」

雅の弾むような声が教室の隅まで届く。雅はテスト用紙をギュッと握りしめ、まるで宝物でも見つけたかのように、とびきりの笑顔で私の方へ駆け戻ってきた。

「夢! 見て見て、うち、60点やった!」

「え!? すごいじゃん! あんなに心配してたのに、めちゃくちゃ頑張ったんやね! おめでとう!」

私の言葉に、雅は「えへへ」と目尻を下げて笑う。その笑顔の眩しさに、私は胸が温かくなるのを感じた。

この時はまだ、この笑顔がこれほどまでに愛おしく、そして儚いものだなんて、夢にも思わなかったのだ。


保育園の頃からずっと一緒だった。お揃いの靴に、お揃いの髪飾り。私と雅は、まるでセットで一つみたいな幼馴染だった。彼女の好みの味も、苦手な食べ物も、笑うと少しだけ左の口角が上がるところまで、雅のことなら何でも知っている。雅は私にとって、誰にも代えがたい世界で一番の大親友だ。

そんな平穏な日々が、高校入学と同時に一変した。雅に大きな病気が見つかったのだ。それからの一年間、私たちは二人で手を取り合い、時には涙を流しながらも支え合ってきた。雅の病気と向き合うことは、私にとっても、人生で一番大切な覚悟を決める時間だった。

その日の放課後、窓から差し込む夕日が教室をオレンジ色に染めていた。私たちは重い鞄を背負い、いつものように校門へと向かっていた。

「ねえ夢、今週末さ、兄ちゃんが和真くんと家で遊ぶらしいんよ。でね、私たちも良かったら遊びに来ない?って誘われてん」

雅が少しだけ上気した頬でそう言った。心臓が跳ねる。雅の兄、凛太郎。二歳年上の彼は、小さな頃から私たちを見守ってくれていた存在だ。クールで少しぶっきらぼうだけど、誰よりも優しい。一緒に遊ぶたび、その姿に、その言葉に、私は少しずつ惹かれていった。

「えっ、うん! もちろん、行く!」

食い気味に答えてしまった私に、雅はクスクスと笑う。見透かされているようなその笑顔に、私は急に居心地が悪くなった。

「ねえねえ、夢ってさ、好きな人っているん?」

不意打ちだった。心臓が嫌な音を立てて波打つ。私は思わず、前を歩く雅の背中を追い越さないようにペースを落とした。

「えっ…? あ、べ、別に、いない、けど……?」

声が裏返りそうになるのを必死に抑える。雅は立ち止まり、振り返って私をじっと見つめた。その瞳には、全てを見通すような、それでいて少しだけ切ない光が宿っている。

「へー、おるんや……」

「だから、いないって言うてるやんか! もう、雅のいじわる!」

私はわざとらしく怒ったフリをして、赤くなった顔を隠すように俯いた。すると雅は、いたずらっぽい笑みを浮かべて、一歩ずつ私との距離を詰めてきた。

「じゃあさ、私の質問は『はい』か『いいえ』だけで答えて? これは強制です!」

「……もう、なんなんそれ。わかったよ、はいか、いいえね」

観念した私が頷くと、雅は一つ大きく息を吸い込んだ。

「じゃあいくよ。一つ目。……この学校の人ですか?」

「……はい」

雅の目は、すでに核心を突いているような鋭さがある。私は喉の奥が乾くのを感じながら答えることしかできない。

「二つ目。……先輩ですか?」

「はい」

雅の表情から笑みが消え、真剣な眼差しに変わる。冷や汗が背中を伝うのが分かった。

「三つ目。その人に……兄妹、いますか?」

その質問にはっとする。雅の質問の意図が、少しずつ形になって私の心に突き刺さる。震える声で、「……はい」と答えるのが精一杯だった。

「四つ目。夢はその人の家に行ったことありますか?」

「……はい」

心臓の鼓動が、自分でも聞こえるくらい激しく打っている。雅はしばらく沈黙し、私の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥に、少しだけ寂しそうな、でも温かい感情が揺れているように見えた。

「私、わかった!」

雅はそう言うと、満足げに笑った。その笑顔は、病気を感じさせないほどに輝いていて、私はその明るさに少しだけ胸が締め付けられた。

次の瞬間、彼女がどんな名前を口にするのか、私は怖くて仕方がなかった。雅は、いたずらっぽく目を細めて私を指差した。

「答えは……凛太郎兄ちゃん、でしょ?」

図星を突かれ、私は何も言い返せなくなった。夕焼けが校門を真っ赤に染め上げる中、心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴る。

「……なんで、わかったん?」

「もう、夢の顔見たら一発やんか。好きな人の名前が出た時、耳まで真っ赤になってるよ?」

雅はそう言って楽しそうに笑うと、今度は少しだけ声のトーンを落とした。

「夢が兄ちゃんのこと好きなん、実はね、ずーっと前から知ってたんだ」

「え……?」

「だって、いつも一緒にいたもん。夢がうちの兄ちゃんを見る目、小さい頃からずっと特別やったよ。……優しくて、ちょっと不器用で、でもいざって時は絶対守ってくれる人。そんな兄ちゃんのことが好きな夢のこと、うちはすごく応援してたんだから」

雅の言葉は、私の胸の奥に真っ直ぐに届いた。雅は私の恋心を知った上で、ずっと見守ってくれていたのだ。なんだか急に胸が熱くなり、鼻の奥がツンとする。

「……ありがとう、雅。でもさ、雅は……悔しくないの? 大好きな家族のことで、そんなふうに言われて」

私が不安げに尋ねると、雅は驚いたようにきょとんとした後、ふふっと柔らかく笑った。

「悔しいわけないやん。大好きな親友と、大好きな兄ちゃんがもし一緒になったら……うちにとっては、これ以上の幸せはないもん」

その言葉は、まるで春の陽だまりみたいに温かかった。でも、その温かさのすぐ裏側に、私は「今の彼女」には触れてはいけない深い何かがあるような気がして、思わず彼女の細い肩を抱き寄せた。

「……バカ。そんなこと言うなら、一生雅のそばにいてやるからね」

「あはは! それ、プロポーズみたい! 一生よろしく頼むよ、夢!」

雅はそう言って私の手を強く握り返した。彼女の手は少し冷たかったけれど、握り返す私の手には自然と力がこもる。

校門を出て、私たちは夕暮れの街へ歩き出した。

この先、どれだけ長く、そしてどれだけ深い闇が私たちを待ち受けているか、その時の私はまだ知らなかった。ただ、雅の隣にいられることの尊さだけを胸に、私たちは夕闇の中へ消えていった。

この約束が、のちに訪れる絶望の中で、私を繋ぎ止めるたった一つの命綱になるとも知らずに。


その週末は、雲ひとつない快晴だった。

約束の土曜日、私は朝から鏡の前で何度も髪を整え、少しだけ背伸びした服を選んでいた。雅の家に近づくにつれ、心臓の音がうるさくなる。玄関のチャイムを押すと、中から雅の楽しげな声が聞こえてきた。

「夢! 待ってたよ!」

ドアを開けてくれたのは雅だった。彼女は少し顔色が優れないように見えたけれど、それを打ち消すような笑顔で私を招き入れる。リビングに入ると、そこには凛太郎と、和真がすでにゲームのコントローラーを握りしめて騒いでいた。

「あ、夢!いらっしゃい」

凛太郎が、いつもの少しクールな表情で顔を上げた。けれど、私と目が合った瞬間、わずかに口角を上げて優しく微笑んでくれる。その表情だけで、私の心拍数は跳ね上がった。

「おう、夢! 遅いぞー、今日こそは負かしてやるからな!」

和真が茶化すように言うけれど、私はそれどころじゃない。雅が私の背中をそっと押して、空いているソファへと促した。

「夢、そこ座り。兄ちゃんの隣、空いてるよ」

雅の悪戯っぽい視線に気づかないふりをして、私はおずおずと凛太郎の隣のソファに腰を下ろした。少しだけ距離を置こうとしたけれど、狭いソファでは自然と肩が触れ合う。凛太郎の服から漂う、柔軟剤の清潔な匂いと、少しだけ焦げたような機械油の匂いに、胸が締め付けられるほどドキドキした。

「……今日、珍しく大人しいな」

凛太郎が画面を見つめたまま、低く落ち着いた声で話しかけてきた。

「え、あ、ううん。そんなことないよ……」

「そっか。まぁ、ゆっくりしてけよ。今日は和真とも久々にゲームできて、雅も楽しそうだしさ」

凛太郎がそう言って雅の方を見ると、雅は満面の笑みで頷いた。その光景が、あまりにも眩しくて、私は少しだけ泣きたくなった。

雅の病気が見つかってからの一年は、どこか常に時間が止まっているような感覚だった。病院の冷たい空気、消毒液の匂い、先が見えない不安。でも、今日このリビングにいると、まるで昔に戻ったかのような錯覚に陥る。

「はい、おやつできたよー!」

雅がお盆に乗せた飲み物とお菓子を運んでくる。和真が「おっ、サンキュー!」と手を伸ばし、凛太郎も「雅、無理すんなよ」と声をかける。

四人で過ごす、ありふれた休日。

テレビの中のゲーム音、和真の笑い声、雅の弾むようなお喋り。

そのどれもが、私にとっては宝石のようにキラキラとしていて、終わってほしくないほど愛おしい時間だった。

「……ねえ、夢」

みんながゲームに集中している隙に、雅が私の耳元で囁いた。

「兄ちゃんのこと、ちゃんと見てきなよ。今日が、ただの遊びで終わらないかもしれないから」

「……雅?」

彼女は何も答えず、ただ私の肩にそっと頭を預けてきた。その重みは少しだけ儚くて、私は雅の細い肩をそっと抱き返した。

陽が落ちるまで、私たちは子供みたいに騒いで笑い合った。凛太郎がふとした瞬間に見せる優しさや、雅の楽しそうな笑い声。そのすべてを、私は記憶の奥底に刻み込もうと必死だった。

これが、四人揃って過ごす、最後の穏やかな休日になるとも知らずに。


ゲームのBGMが流れるリビングに、少しずつ夕暮れの気配が忍び寄っていた。和真と凛太郎がコントローラーを握りながら熱い戦いを繰り広げている隣で、私と雅は少しだけ距離を置いて並んで座っていた。

「……ねえ、夢」

雅が、それまでのおどけたトーンとは全く違う、ひどく静かな声で私を呼んだ。

「ん? どうしたの?」

私はゲーム画面から視線を外し、隣の雅を見つめた。彼女は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、窓の外の茜色に染まる空を見上げている。

「実はね、さっき先生から連絡があって……」

彼女の言葉に、私の心臓が冷たく収縮する。隣で和也たちの笑い声が聞こえることが、やけに遠い世界の出来事のように感じられた。

「私、来週からまた、入院することになったんよ」

その言葉は、驚くほど平坦な響きだった。けれど、その一言が持つ意味の重さに、私は息を呑むことしかできなかった。

「……雅」

「今回はね、ちょっと長くなるかもしれないって。……あんまり、学校にも行けなくなると思う」

彼女が私の方を向いた。その瞳は、何かを決意したかのようにまっすぐで、そして少しだけ悲しげに潤んでいた。

隣で騒いでいた和真と凛太郎も、雅のただならぬ気配を感じ取ったのか、自然とゲームの手を止め、コントローラーを置いた。リビングに、不自然なほどの静寂が降りる。

「雅……それ、本当なん?」

和真が、いつもの軽口を消して問いかける。

凛太郎は、雅の肩に置いた手の力を少しだけ強めた。その横顔は硬く強張っており、兄として、妹の病気と向き合うことの苦しみが、その表情から痛いほど伝わってきた。

「うん。……また、しばらくの間、みんなと一緒に遊べなくなるけど」

雅はふっと笑って、それから視線を巡らせ、私たち三人を順番に見た。

「私がいなくても、夢と兄ちゃん、和真は仲良くしててよね? 約束だよ」

「……当たり前だろ」

凛太郎が、低い声でそう言った。その声は少し震えていたけれど、精一杯の優しさが込められていた。

「雅、またすぐ戻ってこれるよ。そうだよな、夢?」

和真が必死に空気を変えようと私に同意を求める。私は喉の奥にこみ上げる熱いものを飲み込み、必死で頷いた。

「うん……絶対だよ。またこうやって、四人で集まろう。約束だから」

雅は満足そうに微笑むと、私の手を握りしめた。その手は、先ほどよりもずっと冷たく感じられた。

「うん、約束。……ありがとう」

その夜、雅が言った「ありがとう」の意味を、私はその時まだ、本当には理解できていなかったのだと思う。彼女が言ったのは、単なる再会の約束ではなく、私たち三人の未来を託すための、最後の願いだったのかもしれない。

四人の視線が交差する。窓の外では、季節の変わり目を感じさせる風が、カーテンを静かに揺らしていた。


次のゲームが始まった。今度はペア戦で、雅と和真、私と凛太郎の組み合わせだ。

「よし、夢、俺が守るから思いっきりいけよ」

「あ、うん! 頑張るね!」

ゲーム画面の中でキャラクターが激しく動く。凛太郎は画面に集中しながらも、私が操作に迷うと「あそこ、空いてるぞ」「今は逃げた方がいい」と、低く落ち着いた声で的確に指示を出してくれる。彼の肩がかすかに私の方へ傾くたびに、心臓が跳ねて操作の手元が狂いそうになる。

「……夢、さっきから緊張しすぎじゃないか? 肩、ガチガチだぞ」

凛太郎がふっと笑いながら、画面から一瞬だけ視線を外して私を見た。その真っ直ぐな瞳に射抜かれて、私は反射的に小さく声を上げる。

「あ、う……ご、ごめん! ちょっと……ゲーム、難しくて」

「そうか? 俺と一緒だから緊張してる……なんてことはないか」

冗談めかして言った言葉に、私は顔から火が出るほど赤くなった。本当は、そうだよ、と心の中で叫びたい。でも言えるはずもなく、俯いてコントローラーを強く握りしめる。

「兄ちゃん、あんまり夢をいじめんといてやー!」

突然、雅が背後からニヤニヤしながら声をかけてきた。

「え、別にいじめてへんよ。な、夢?」

「そ、そうだよ! 全然いじめてない!」

私が必死に否定すると、雅は和真と顔を見合わせて大げさにため息をついた。

「もう! そんな息ぴったりなとこ見せつけられたら、こっちまで照れるわ!雅、見てみ。この二人、画面の中じゃなくてお互いの顔ばっかり見てるんちゃうか?」

和真が茶化すように笑うと、雅が「それな!」と大きく頷く。

「もう……! そんなことないし!」

私が真っ赤になって反論する中、凛太郎は「ははっ」と短く笑った。その横顔が、どこか満足げに見えるのは気のせいだろうか。

「雅と和真こそ、息ぴったりやんか。自分ら、もう出来てるんちゃうん?」

凛太郎がさらりと反撃すると、今度は雅と和真がピタリと動きを止めた。和真が「えっ、あ、いやっ!」と変な声を出してパニックになり、雅は「な、なんのこと!? うちはただ、ゲームの相性がいいだけ!」と顔を真っ赤にして必死に言い訳をしている。

雅のそんな元気な姿を見て、私は胸が少しだけ軽くなった。

さっきの「入院する」という重い告白が、今のこの騒がしいやり取りの中に埋もれていく。このままずっと、こんな何気ない日常が続けばいいのに。

ゲームのキャラクターが派手に爆発し、部屋中に笑い声が響く。

私たちはみんな、この瞬間の楽しさにすがりつくようにして、時間が止まってしまえばいいと願っていた。


月曜日の放課後。教室には、放課後の特有の静けさと、掃除用具の匂いが漂っていた。

雅がもういない机は、あまりにも綺麗に整頓されすぎていて、かえって胸が苦しくなる。雅が休んでいる間、授業の内容をノートにまとめておかないと、彼女が戻ってきた時に困ってしまうはずだ。

私は机の引き出しからスマホを取り出し、画面を何度もオン・オフする。指先が少し冷たい。

本当は、ただ「ノートを借りたい」という理由がなければ、凛太郎に連絡なんてできなかった。でも、そうやって理由をこじつけないと、雅の家という「彼がいる場所」に近づく勇気が持てなかったのだ。

私は深呼吸をして、画面に文字を打ち込む。

「お疲れ〜!凛くん、雅のノート借りたいんだけど取りに行ってもいい?」

「凛くん」という呼び方は、雅と一緒にいる時に一度だけ勇気を出して呼んでみたものだ。自分の中で、彼との距離を少しだけ縮めたいという、ささやかな願望が込められている。

送信ボタンを押すとき、指が震えた。

すぐに既読はつかない。その数秒が数分のように感じられ、私はスマホを握りしめたまま、心臓の音を抑えるように自分の胸を抱いた。

教室の窓から見える空は、月曜日の始まりを告げるような青空だけど、私の心はどこか落ち着かない。雅がいないという現実が、時間とともにじわじわと形を変えて、不安という重石になってのしかかってくる。

しばらくして、ポケットの中でスマホが震えた。

慌てて画面を開く。

『おう、お疲れ。ノートだな、了解。家ならいつでもいいぞ。夕飯の時間までには来てよ』

予想以上に素っ気ない、でも、私を拒絶していないことがわかる返信。

「いつでもいい」という言葉に、勝手に期待していいのか迷う。だけど、私はその画面を指でなぞりながら、ふう、と小さく息を吐いた。

「よし……」

自分に言い聞かせるように呟き、私は鞄を背負った。

今日、凛太郎の家に行く。

雅がいない部屋に、私は凛太郎に会いに行くのだ。その事実に罪悪感と、抑えきれない恋心が混ざり合い、複雑な感情が胸の奥で渦巻く。

校門を出ると、風が少しだけ冷たくなっていた。

雅の代わりなんて誰もできない。だけど、雅が残してくれたこの小さな繋がりを、私は守りたかった。凛太郎の優しさ、そして彼が時折見せる視線の先にあるもの。

私は少しだけ歩幅を広げ、雅の家へと続く道を歩き出した。夕暮れが迫る街の中で、私の心だけが、どこか落ち着かない熱を帯びたまま、彼との再会を待っていた。


雅の家の前まで来ると、私は何度も深呼吸をした。心臓の音がうるさくて、このままでは玄関を開ける前に息切れしてしまいそうだ。

「……よし」

小さく気合を入れてチャイムを鳴らすと、間を置かずしてドアが開いた。そこには、部屋着のTシャツ姿で、少しだけ髪を崩した凛太郎が立っていた。

「おう、早かったな」

「お疲れ……。急に呼び出してごめんね、凛くん」

「凛くん」と呼ぶたび、胸の奥がキュッと高鳴る。幼い頃からの呼び名であり、いつの間にか私だけが特別な距離感で呼ぶようになった大切な名前。

「気にすんな。雅も、夢が来てくれたら喜ぶだろうし」

そう言って彼は私をリビングへと招き入れた。雅がいない部屋は、驚くほど静まり返っていた。いつもなら雅の弾むような声が響いているはずの空間が、今は凛太郎の生活の気配と、どこか冷たい静寂に包まれている。

ソファの近くには、雅がいつも使っていたノートが積み上げられていた。凛太郎はそれを手に取ると、私の目の前のテーブルに置いた。

「これだよな。雅、また入院生活で暇になるだろうから、ノート取っておいてくれると助かるって言ってたわ」

「うん、ありがとう、凛くん」

私がノートを鞄にしまおうとすると、凛太郎は「ちょっと待って」と言って、隣のキッチンへ向かった。すぐに氷のぶつかる音がして、コップを持って戻ってくる。

「……暑いだろ。冷たい麦茶、入れた」

「あ……ありがとう。気が利くんだね、凛くんって」

グラスを受け取るとき、凛太郎の指先が私の手に触れた。ほんの数ミリの接触だったはずなのに、指の先から全身に電流が走ったような熱さが伝わってくる。

彼はそのまま私の向かいに座り、じっと私を見つめた。いつものぶっきらぼうな視線とは少し違う、どこか探るような、でも温かい眼差し。

「夢、お前……雅のこと、本当に大切なんだな」

「え……?」

「さっきから、雅のノートをまるで宝物みたいに抱えてる。昔からそうだったよな。俺と雅がケンカした時も、いつも間に入って泣いてたのは夢だった」

凛太郎はふっと目を細め、懐かしむように窓の外を見た。その横顔を見ていたら、私はどうしようもなく切なくなった。

「凛くんこそ……雅のこと、すごく心配してるよね」

「……当たり前だろ。あいつは、俺の妹だし。それに……」

凛太郎は言葉を切り、私の方をまっすぐに見つめ直した。

「俺にとっては、夢が雅を支えてくれることが、何よりも安心なんだよ」

その言葉に、私は胸の奥がぎゅっと締め付けられた。雅のため、という大義名分。でも、その言葉の中に、凛太郎の私に対する信頼……いや、それ以上の感情が混ざっているような気がして、私はコップを握りしめる手に力がこもった。

「私……凛くんの力にも、なりたいよ」

自分でも驚くような、少し震えた声だった。窓の外では、季節の風がカーテンを大きく揺らしていた。

凛太郎は、私の突然の言葉に一瞬だけ目を見開いた。いつもなら軽口でかわすか、あるいはわざとらしく冗談っぽく笑うはずの彼が、今はただ黙って私を見つめている。

「……夢」

低い声で名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ね上がる。彼はテーブルの上に置いたコップをゆっくりと離すと、身を乗り出して私との距離を詰めた。

「お前さ、自分のことよりも他人のことばかり考えてるやろ」

彼の声は低く、どこか諭すような、けれど少しだけ苛立ちを含んだような響きだった。

「雅のことも、和真のことも、あと……俺のことも」

「……っ」

「いい加減、自分を大切にしろよ。雅が一番悲しむのは、夢がお前自身を犠牲にすることなんだから」

そう言って、彼は少しだけ乱暴に私の頭に手を置いた。ポンポンと撫でるその手つきは、昔と変わらず優しくて、それなのに今の私には切なすぎて、涙がこぼれそうになる。

私は俯いて、必死に視界を揺らす涙を堪えた。

凛太郎は、優しい。誰よりも雅のことを考えていて、そして私のことすら、こんなふうに心配してくれる。その優しさが、今の私にはあまりにも眩しすぎた。

「……凛くんは、ずるいよ」

「は?」

「そんなふうに言われたら……もっと、凛くんのこと好きになっちゃうじゃん」

言ってから、私は自分の口を塞いだ。言ってしまった。雅がいないこの部屋で、凛太郎と二人きり。そんな状況で、言わなくてもいいはずの本音を。

部屋の中に、時が止まったかのような静寂が流れた。

心臓の鼓動が耳の奥でうるさい。返事を待つ数秒が、永遠のように感じられる。

凛太郎は、驚いたように目を見開いたまま、動かなくなった。やがて、彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、私の頭から手を離した。

「……夢」

「ご、ごめん……今の、忘れて……っ」

立ち上がって逃げ出そうとした私の腕を、凛太郎が強く掴んだ。振り向いた彼の瞳は、先ほどまでの優しさとは違う、熱を帯びた鋭い光を宿していた。

「……忘れるわけないだろ」

彼は一度だけ深く息を吐くと、掴んでいた手を離して、少しだけ自嘲気味に笑った。

「お前がいつまでたっても、俺の『妹の親友』の枠に収まってくれないから……俺だって、そろそろ限界なんだよ」

その言葉の意味を理解するよりも早く、凛太郎は視線を窓の外へと移した。夕闇が急速に部屋を飲み込もうとしている。

雅のいないこの部屋で、私たちは今まで守り通してきたはずの境界線を、少しずつ越えようとしていた。

その先にあるものが、たとえどんなに悲しい結末に繋がっていたとしても、この時の私たちは、ただ凛太郎の熱い視線に、ただ溺れることしかできなかった。


凛太郎の言葉が、部屋の冷えた空気をかき混ぜていく。

「限界」という言葉の響きが、心臓を直接叩くようだった。

「……凛くん、それって、どういう……」

喉が渇いて、言葉がうまく出てこない。凛太郎は私の質問に直接答える代わりに、ゆっくりと立ち上がると、私の目の前で膝をついた。自然と視線が合う。私を見上げる彼の瞳は、先ほどまでの「兄」の顔ではなく、一人の男としての、逃げ場のない真剣さを帯びていた。

「雅が病気になってから、俺たちはみんな、雅を失うことばかりを考えてきた」

凛太郎の声が、低い熱を持って響く。

「でも、俺は雅のことと同じくらい、お前のことが怖かったんや。雅がいなくなった後、お前が一人で壊れてしまうんじゃないか、お前が俺の手の届かない場所へ行ってしまうんじゃないかって……ずっと、それが怖くてたまらんかった」

「凛くん……」

「雅はお前を頼ってた。でも、俺はお前を頼りたかった。……お前が雅の親友じゃなくて、ただの『夢』として、俺の隣にいてほしかったんや」

彼は私の手をそっと取ると、自分の額を私の手の甲に預けた。彼の吐息が熱い。雅の部屋で、雅のノートに囲まれて、私たちはこんなにも切実な感情を露わにしている。なんだか、雅に申し訳ないような気持ちと、それでも彼を求めてしまうどうしようもない恋心が、胸の中で激しくぶつかり合っていた。

「……ずるいよ、凛くん。そんなの、雅だって……」

「雅は知ってるよ」

凛太郎が不意に顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。

「雅は、全部知ってる。俺がお前のことを見てること。お前が俺をどう思ってるか。あいつ、自分のことよりもずっと前から、お前の幸せを願ってた。……だから、夢。俺に、お前を幸せにする権利をくれんか?」

その言葉は、まるで未来を約束するみたいに響いた。でも、私の心には雅の笑顔が重なって見える。今、私たちがこうしていることも、雅が望んだことなのだろうか。それとも、私たちは雅の病気という大きな影に守られて、その隙間で甘い夢を見ているだけなのだろうか。

「……私、雅とずっと一緒にいるって、約束したの」

私が震える声で言うと、凛太郎は穏やかな、けれど少しだけ悲しげな笑みを浮かべた。

「ああ、知ってる。俺も一緒にいる。雅のことも、お前のことも、全部俺が背負う」

彼は私の手をぎゅっと握りしめた。その手の温もりが、冷え切っていた私の指先から心臓へと伝わってくる。雅の病室へ向かう日々、そしてその先の運命。どんなに暗い道が待っていようとも、この手だけは離さないと、彼の瞳が語っていた。

私たちは言葉を交わさず、ただ静かなリビングで寄り添った。窓の外では、街の灯りが一つ、また一つと灯り始めている。雅が待つ病院へと続く道が、すぐそこまで伸びているような気がした。

この温もりが、いつか来る別れの時に、私たちを支える唯一の糧になることを、私たちはまだ誰にも告げずに、ただ静かに噛みしめていた。

「……やっぱ、俺のも忘れて? 言うタイミング、ミスったわ」

そう言って凛太郎が自嘲気味に笑ったとき、彼がどれほどこの言葉を口にするのに迷い、葛藤してきたのかが痛いほど伝わってきた。彼は私からそっと視線を逸らし、気まずそうに鼻の頭をこすった。

「……ううん、忘れない」

私は彼の肩にそっと手を伸ばし、祈るような気持ちで言葉を重ねた。

「一生、覚えておくから……たとえ、どんな未来が待っていても」

その言葉は、まるで誓いのように空気に溶け込んだ。彼は驚いたように私を見て、それから、今まで見たこともないほど深く、慈しむような眼差しで私を抱きしめた。雅のいない静寂の中で、私たちは互いの心臓の音を確かめるように、ただ強く、抱きしめ合った。


それからの日々は、まるで色が剥がれ落ちていくような毎日だった。

私は放課後になるたびに、吸い寄せられるように病院へと足を運んだ。教科書のどこを読んだとか、和真がまた変なミスをして笑ったとか、雅が聞きたがる日常の断片を、私は途切れさせないように必死に喋り続けた。雅は小さく笑い、時折「夢の話、面白い」と細い指で私の手を握ってくれた。

しかし、その握力は日に日に失われていった。病院の窓から差し込む陽射しが強くなるたびに、雅の体は小さく、繊細に、まるで淡雪のように溶けていく。私はその変化に気づかないふりをして、明日もまた来ると約束を繰り返した。

その日も、私はいつも通り、雅の好きな花を持って病院へ向かった。

病棟の廊下は、いつになく冷え切っているように感じた。角を曲がった先、雅の病室の前で、凛太郎が壁に深く沈み込むように寄りかかっていた。その肩はいつもよりずっと大きく、重く垂れ下がっている。

「……凛くん?」

心臓が嫌な音を立てて波打つ。私は駆け寄った。凛太郎の表情は見えなかったけれど、その立ち姿だけで、何かが決定的に壊れてしまったことを理解させられた。

「凛くん、どうしたん? 雅、また具合悪いん……?」

私が問いかけると、凛太郎はゆっくりと顔を上げた。その瞳には焦点がなく、どこか遠い世界を見つめていた。唇が微かに震え、絞り出されたのは、あまりにも残酷な真実だった。

「……雅、死んだ」

「はぁ……?」

空気が凍りついた。言葉の意味が脳に届かない。雅が死んだ? きのうまで「明日ね」って笑ってたのに。私は反射的に凛太郎を突き飛ばすようにして、病室のドアを乱暴に開け放った。

「雅! 起きてよ! ねぇ、また面白い話持ってきたよ! だから起きてってば!」

ベッドの上には、驚くほど静かな顔をした雅がいた。まるでお昼寝をしているかのような、穏やかな寝顔。でも、私がどんなに名前を呼んでも、どんなに彼女の冷たい頬に触れても、返事は返ってこない。返ってくるのは、心電図の無機質なアラーム音だけだった。

「ねぇ! 雅ってば!」

私が雅の肩を揺さぶり、泣き叫ぶ。喉が裂けそうだった。どこからか現れた看護師さんが、何かを言っているようだったけれど、何も聞こえなかった。ただ、ずっと背中をさすり続けてくれる凛太郎の大きな手のひらだけが、唯一、私がこの世に繋ぎ止められている証拠だった。

どれくらい時間が経ったのだろう。泣きすぎて視界がぼやけ、力尽きて床に座り込んだ私に、凛太郎が静かに声をかけた。

「……夢、これ」

彼は震える手で、病室の引き出しから一通の封筒を取り出した。そこには、雅の、あの丸っこくて可愛らしい字で『夢へ』と書かれていた。封筒の端は少しだけ折れ曲がっていて、雅が何度も手に取ったことを物語っていた。

「これ……雅から預かってた。……万が一のときに渡してくれって、ずっと言われてたんや」

凛太郎の目からも、大粒の涙が零れ落ちていた。彼は私に手紙を差し出すと、何も言わずに背中を向けて窓際に立った。雅がいなくなった病室には、夕闇の静寂だけが満ちている。

私は震える指で封を開けた。雅の匂いがした気がして、涙がまた溢れ出した。雅の声が、手紙の文字から聞こえてくるような気がした。私たちは、この手紙の結末を知るのが怖くて、でも、雅が最後に遺した言葉に縋るしか、前へ進む方法がなかった。

封筒を開けると、雅の筆跡で書かれた、少し震えた文字が目に飛び込んできた。それは、彼女がどれほどこの言葉を紡ぐことに苦心し、そしてどれほど私を愛してくれていたかを物語る手紙だった。


夢へ。

この手紙を読んでいるってことは、私はもうこの世にいないんだと思います。びっくりさせちゃってごめんね。

実はね、夢に「好きな人いるん?」って聞いた、あの放課後の前日、私はお医者さんから余命を宣告されていました。もう長くはないって言われて……。ずっと隠してて、本当にごめん。本当は、もっと早くに打ち明けて、夢に泣きついて甘えたかった。でも、怖かったんだ。夢にそんな顔をさせるのが、そして「もうすぐいなくなる雅」として見られるのが、どうしても嫌だったの。

保育園の頃から、夢は私の最っ高の親友でした。お揃いの靴を履いて走った公園も、喧嘩して仲直りした放課後も、全部全部、私の宝物。出会ってくれて、親友になってくれて、本当にありがとう。夢のおかげで、私の短い人生は、想像できないくらい眩しいものになったよ。

私がこの手紙で、どうしても最後に伝えたかったこと。それは、兄ちゃんのことです。

実はね、兄ちゃんも夢と同じで、ずーっとずっと、夢のことが好きなんだよ。二人とも奥手すぎて、なかなか進まないから、私はいつもヤキモキしてたんだからね! でも、二人がお互いを大切に思っているのを、私は一番近くで見てきました。

だからね、夢。お願いがあるの。

私がもう隣にいられなくなった分、これからは兄ちゃんと二人で、幸せになってください。二人で美味しいものを食べて、笑って、ケンカして、たまに仲直りして……。兄ちゃんと夢が結婚してくれるなら、私にとって、これ以上の幸せはありません。

私がいない場所で、私の分まで、たくさん笑って生きてね。それが、私が夢に託せる唯一の、そして一番の願いです。

だ〜いすき! 世界で一番大好きな親友へ。

                   雅より


手紙を読み終えた瞬間、雅の笑い声が耳元で聞こえた気がした。

病院の殺風景な部屋に、雅の温もりがすっと染み渡る。私は手紙を胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。隣では凛太郎が、私の肩を抱き寄せ、彼もまた雅の名前を呼んで泣いていた。

私たちの恋が、雅の命を繋ぎ合わせるための優しい嘘によって守られていたことを、私はようやく理解した。雅が残してくれた、あまりにも切なく、あまりにも愛に溢れた、未来への贈り物だった。


病院の冷たい空気の中、雅の柔らかな筆跡をなぞりながら、私は何度も嗚咽を漏らした。隣にいる凛太郎の肩も、激しく震えている。彼は雅の最期の願いを知った上で、ずっと私を支え続けてくれていたのだ。

しばらくして、凛太郎が静かに私の手を取り、病室の窓の方へと向きを変えさせた。外では、いつの間にか夜の帳が下り、街の明かりが星屑のように瞬いている。

「……夢」

凛太郎の低い声が、私の耳元に届く。彼は私を優しく抱き寄せると、そのまま私の額に、そっと自分の額を預けた。

「雅の言葉……聞いたろ?」

凛太郎の目には、妹を失った深い悲しみと、それでもこれから先、私を一生守り抜こうとする強い覚悟が宿っていた。

「俺は、雅の願い通りにしたい。……いや、それ以前に、俺はお前とじゃなきゃ、これからの未来なんて考えられへん。夢、俺と付き合ってくれへんか?」

その言葉は、雅の遺した手紙の「最後の一行」を、現実のものにするための合図だった。私の心の中にあった、雅への罪悪感と、二人で生きていくための希望が、ゆっくりと混ざり合っていく。雅が望んだのは、私たちが悲しむことではなく、私たちが二人で手を取り合い、笑って生きていくことなのだ。

私は、手紙を握りしめたまま、小さく何度も頷いた。

「……はい。お願いします、凛くん」

凛太郎は、深く、深く息を吐き出すと、私を抱きしめる腕に一層力を込めた。私たちはそのまま、冷たくなった雅の傍らで、静かに誓いを立てた。

私は雅の手を握り、凛太郎の手を握り返す。三人の手が重なる。

「雅……」

私は涙で濡れた顔を上げ、眠っている雅に語りかけるように、精一杯の明るい声を出した。

「雅、聞いてる? ……凛くんと、付き合うことにしたよ。雅が一番に望んでくれてたこと、やっと形にするね」

凛太郎もまた、私と雅の手の上に自分の手を重ね、力強く頷いた。

「雅、ごめんな。最期まで心配かけて。でも、これからは二人で、雅が見たかった景色を全部見に行くで」

凛太郎と私。二人で声を揃えて、雅に報告する。

「私たち、付き合ったよ! だから、ちゃんと見ててね、雅」

病室の窓から差し込む月明かりが、雅の顔を優しく照らした。まるで、「やっとやん!」と言って笑っているかのように、彼女の表情は穏やかだった。

雅、本当にありがとう。

私たちは、あなたのくれたこの命と愛情を抱えて、今日から二人で歩んでいく。雅が願ってくれた、私たちの幸せな未来の物語を、一ページずつ、ゆっくりと綴っていくから。


雅との別れから、季節は幾度となく巡り、私たちの日常は少しずつ色を取り戻していった。凛太郎の夢であった俳優への道も、地道な努力が実を結び始め、彼は今、多くの人を魅了する存在になろうとしていた。

雅が遺してくれた手紙を、私たちは今でも大切に持っている。あの悲しみに満ちた病室で交わした約束は、私たちの人生の背骨となり、どんなに苦しい時も二人を繋ぎ止めてくれた。

ある穏やかな秋の夜。私たちは、かつて四人でよく集まった公園の、見晴らしの良い丘にいた。街の灯りが宝石箱をひっくり返したように輝いている。

「なぁ、夢」

凛太郎が急に立ち止まった。振り返ると、彼はいつもの柔らかな表情で私を見つめていた。

「雅が言ってたよな。『私の分まで幸せになってね』って」

「うん……ずっと、毎日そう思ってるよ」

私は微笑んで返した。すると、凛太郎はゆっくりと私の前に歩み寄り、ポケットから小さな箱を取り出した。その手は少しだけ震えていた。

「俺は、お前と一緒にいる時間が、雅と過ごした時間と同じくらい、いや、それ以上に宝物なんや。せから、これからもずっと、雅の分も一緒に、隣にいてくれへんか?」

彼は箱を開いた。中には、星の光を閉じ込めたような指輪が輝いている。

「俺と……結婚してくれ」

心臓が大きく跳ねた。数年前、同じ病室で流した涙が、今、溢れんばかりの幸福感に変わっていくのを感じる。雅が見たがっていた景色、雅が願ってくれた私たちの未来が、今まさに目の前にある。

「……うん。お願いします、凛くん」

名前を呼ぶと、凛太郎は安堵したように目元を緩め、そっと私の指に指輪を通した。少し冷たい感触が、すぐに体温で温かくなっていく。

彼が私を抱きしめたとき、どこからか夜風が吹いて、遠くの街のざわめきが雅の声のように聞こえた気がした。

「やっとやん、二人とも」

そんな声が聞こえた気がして、私はそっと空を見上げた。夜空には、あの頃と変わらない星たちが、私たちの門出を祝福するように穏やかに瞬いていた。

雅、届いてるかな。

私、今、世界で一番幸せやよ。


結婚して数年。私たちは相変わらず、雅が残してくれたこの小さな家で、穏やかな時間を積み重ねていた。

リビングの壁には、凛太郎が俳優として出演した映画のポスターと、和真がドラマの撮影現場で撮った記念写真が飾られている。和真も今では注目の若手俳優として多忙な日々を送っていて、こうして四人の思い出の場所に集まることは少なくなったけれど、私たちの絆は今も変わらずここにある。

ただ、私たちの日常には、結婚して数年経っても埋まらない、ちょっとした「壁」があった。

「なぁ、夢。……そろそろ、呼び方変えてくれへん?」

休日の昼下がり、ソファで台本を読み込んでいた凛太郎が、ふと思い出したように私を見つめてきた。

「え? 呼び方? 今のままでいいじゃん、『凛くん』で」

「いや、違うねん。ずっと気になっててんけど……お前、付き合ってた頃からずっとそれやろ? 夫婦になったんやから、せめて名前で呼んでほしいっていうか……」

彼は少し照れくさそうに、でも真剣な眼差しで私をじっと見つめている。凛太郎にとって、私がずっと「凛くん」と呼ぶことは、どこか彼を「雅の兄」という枠の中に留めているような気がして、少しだけ寂しかったのかもしれない。

「名前で……凛太郎って呼んでほしいってこと?」

「そう! そうだよ! 俺、夢に名前で呼ばれるの、ずっと夢見ててん」

彼は子犬みたいに目を輝かせて、私の手をぎゅっと握りしめてきた。いつもはクールな俳優の顔をしている彼が、私にだけ見せるこの幼い一面。私は思わず苦笑してしまう。

「でもさぁ……『凛太郎』って、言いにくいよ。五文字だし、なんか硬いっていうか……」

「硬いって! 俺の名前だぞ!」

「だって長いもん。呼ぶたびに舌噛みそう」

私がわざとらしく頬を膨らませると、凛太郎は「そんなことない!」と必死になって抗議してくる。

「せめて一回だけ! 一回でいいから呼んでみろよ」

「やだ。言いづらいもん」

「おい、そこを何とか……!」

結局、私が「凛くん」という呼び名に固執する理由は、彼も気づいているはずだ。雅と一緒にいたあの頃から、ずっとその呼び名だった。その名前で呼ぶことで、雅と四人で騒いでいたあの永遠のような時間が、ほんの少しだけ引き留められている気がするから。

「もう……凛くんは凛くんでしょ? それで十分かっこいいんだから」

私がそう言って微笑むと、凛太郎は少しだけ切なそうな、でも愛おしそうな顔をして、私の頭をポンポンと撫でた。

「……お前なぁ。そういうとこ、本当にずるいよな」

彼は諦めたように溜息をついて、再び台本に視線を戻す。でも、繋いでいた私の手は、決して離そうとはしなかった。

「ま、そのうち絶対言わせてやるからな。覚悟しとけよ」

俳優としての甘い声でそう囁く凛太郎の横顔を眺めながら、私は心の中で小さく笑った。いつか、彼を「凛太郎」と呼ぶその日まで、私たちはこうして雅との思い出と、これからの未来を、この呼び名という小さな壁を通して大切に育んでいくのだと思う。


その約束を交わしてから、季節は緩やかに巡ったが、私が「凛太郎」と呼ぶことはなかった。

けれど、運命というやつは、どうしてこうも唐突に、積み上げた日常を揺さぶるのだろう。

その前兆は、本当に些細なことだった。

会社で階段を上り下りする時の、いつもより少しだけ重い息切れ。夕食を作っている時にふと襲ってくる、指先の痺れと震え。最初は、仕事の疲れや季節の変わり目のせいだと自分に言い聞かせていた。凛太郎だって、忙しい撮影の合間を縫って私の様子を見に来ては、「顔色が悪い」と眉をひそめることが増えていた。

「また熱出してるのか……。病院行けよって言ったやろ」

ある夜、帰宅した凛太郎が、ソファーで冷や汗をかいて丸くなっている私を見つけ、血相を変えて駆け寄ってきた。

私は必死に微笑んだ。「大丈夫、ただの疲れだよ。凛くんも撮影で大変でしょ? 心配しないで」

その時はそうやって笑って誤魔化せた。でも、翌日、会社でついに私は意識を失って倒れた。

目が覚めると、見慣れた天井ではなく、病院の無機質な白い壁が視界に飛び込んできた。

ベッドの横には、撮影用のメイクも落とさないまま、鬼のような形相で私の手を握りしめている凛太郎がいた。その瞳には、かつて雅を失った時に見た、あの深い絶望が宿っている。

「……凛くん?」

私が弱々しく名前を呼ぶと、彼はハッとして顔を上げた。その目には涙が溜まっていた。

「……夢。やっと起きたか」

声が震えている。彼は私の額に自分の額をそっと押し当て、祈るように目を閉じた。

「……先生が、来たぞ。検査の結果……聞くか?」

その言葉の響きだけで、私の心臓は嫌な音を立てた。

部屋に入ってきた医師の表情を見れば、言葉にするまでもなかった。雅と同じ病名。あの時、私たちが最も恐れ、そして共に戦うと誓った、あの残酷な現実が、今度は私自身の身に降りかかっていた。

凛太郎は、私の診断名を聞いた瞬間、雅の時と同じように、まるで自分の世界が崩れ去るかのような音を立てて絶望した。

「なんで……どうして夢なんだよ……。雅だけで、十分やろ……!」

彼は私の手を取り、雅の時のように、震える手で何度も頬を撫でる。

「絶対治す。何があっても、お前だけは死なせない。雅の時みたいに、今度は絶対……」

その言葉を聞きながら、私は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。

ああ、結局私は、雅のいた世界に呼ばれているのだろうか。

「……凛くん」

彼は私の名前を呼ぶその声に、張り詰めていた糸が切れたように、視界を涙で滲ませた

「……凛くん、泣かないで」

私の声を聞いた凛太郎は、私の胸に顔を埋めて、声を押し殺して泣き崩れた。

雅がいなくなったあの部屋で、私たちは二人で運命と戦うことを誓った。けれど今、私はその運命の当事者として、愛する人の腕の中で、再び残酷な再会へと向かう準備をしなければならないことを、どこかで悟っていた。

病室の窓の外では、あの頃と同じように季節が移ろい、街の灯りが揺れている。

私の命は、雅が遺してくれた時間という枠組みの中で、凛太郎という愛する人の名前を呼ぶために、最期の灯を燃やし始めていた。


病室の窓の外、夕闇が街を塗りつぶしていく。病院の廊下からは遠く、心電図の無機質なアラーム音と、看護師たちのせわしない足音が聞こえてくる。この世界は、私がこれからいなくなるという事実など何事もなかったかのように、冷たく、そして残酷なまでに淡々と回り続けていた。

凛太郎は、私の胸に顔を埋めたまま、肩を大きく上下させていた。彼の吐息がシャツ越しに私の肌に伝わり、それがかつて雅の病室で感じたものよりもずっと熱く、そして痛々しいほどに人間らしく感じられた。彼は雅の兄であり、私の夫であり、何より、私の命の終わりを誰よりも恐れる一人の男だった。

「……凛くん」

私は震える右手を伸ばし、彼の短く刈り込まれた髪に触れた。髪の毛一本一本の感触が、今はひどく愛おしい。彼は私の指先に触れると、さらにその手を自分の頬へ押し当て、まるでその温もりを吸い取ろうとするかのように目を閉じた。

「雅のときは、ただ見守ることしかできへんかった。……お前が雅の手を握り続けていたあのとき、俺は隣で何をしてやれた? ただ絶望して、時間が過ぎるのを眺めていただけやった。……でも、今回は違う」

凛太郎は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。俳優としての彼が持つ、どんな役をも飲み込むような激しい眼差し。けれど、その瞳の奥には、愛する人を失うことへの根源的な恐怖が、渦巻くように潜んでいた。

「お前まで失ったら、俺は何のために生きてるんや。雅が望んだ未来ってのは、俺たちが二人で、ただの兄妹や親友として死を待つことやない。……俺とお前で、人生を全うすることやろ」

その言葉の裏に隠された、彼の必死の祈りを聞いたとき、私は自分がどれほど彼を愛していたかを改めて思い知った。雅との約束、雅の願い。それらは私たちをここまで運んでくれた灯火だったけれど、今、その灯火は私自身の命を焼き尽くそうとしている。

私は息を吸い込む。肺が小さく軋むのがわかる。けれど、ここで泣き言を言えば、凛太郎の心まで砕いてしまう気がした。

「……凛くん。私ね、雅と過ごしたあの日々を、一瞬たりとも忘れたことはないよ。でもね、今の私にとって一番大切なのは、こうして凛くんが私の手を取ってくれてること。……それだけで、もう十分だよ」

「十分やない!」

彼は声を荒らげ、すぐに後悔したように眉を寄せた。

「……ごめん。怒鳴るつもりはなかった。ただ、どうしても、認められへんのや。お前が俺の手の中から抜け出そうとするのを、見ているなんて」

彼はふらりと立ち上がると、窓際に歩み寄り、街の明かりに背を向けて立った。逆光に浮かぶ彼の背中は、数年前よりもずっと逞しく、けれどどこか孤独を抱えていた。私はそんな彼の背中を見つめながら、最期の時まで呼びたかった名前を、喉の奥で転がした。

(……凛太郎)

心のなかで呼ぶだけなら、何度でも言える。

本当は、彼がずっと望んでいたように、その名前を呼んで抱きしめられたらどんなにいいだろう。けれど、そうしてしまったら、雅が残してくれた「凛くん」という境界線が消えてしまう気がしたから。彼がずっと雅の兄として私を守り抜いてくれた、あの優しい記憶まで消えてしまう気がしたから。

私はシーツを握りしめ、掠れた声で、もう一度だけ彼を呼んだ。

「……凛くん」

凛太郎は肩を震わせ、振り返ることはなかったけれど、その瞳からは、もう取り繕うことのできない痛切な愛が溢れ出していた。私たちは二人とも知っていた。この病室が、私たちの恋の終着点であり、同時に、雅が願った「幸せ」のたどり着く場所であるということを。

カーテンの隙間から、冷たい夜風が入り込む。私は目を閉じ、彼の鼓動を、彼の匂いを、この世界のすべてを記憶に焼き付けようと、必死に意識を研ぎ澄ませた。


数日後、病室には和真の姿もあった。ドラマの撮影を控えているはずなのに、彼は私の様子を聞きつけて、すぐに駆けつけてくれたのだ。

かつて雅の最期を見守ったあの四人の輪が、今度は形を変えて、私のベッドを囲んでいる。和真は凛太郎の肩を叩き、何も言わずに私に向かって優しく微笑んだ。その笑顔は、雅がよく見せてくれた笑顔と重なって見えた。

「夢、お前、ほんまに頑張ったな」

和真の声は低く、穏やかだった。

「雅の分まで生きるって、俺らと約束して……ほんまに、ようやってくれた」

私は弱々しく笑った。体はもう、自分の意思で動かすことも難しい。それでも、私の手はまだ凛太郎の手にしっかりと握られていた。その温もりが、今、私の命を繋ぐ唯一の糧だった。

「……凛くん」

私が呼ぶと、凛太郎はすぐに顔を近づけてきた。

「なんや? ここにおるで。ずっと、ここにおるからな。なぁ、最後くらい名前呼んでや……」

「……じゃあ、最後に、凛くんの夢、叶えてあげるね」

凛太郎は、私の言葉の続きを待った。周りの音さえ聞こえなくなるような、静寂の時間。

「俺の夢?そんなん、夢と一緒にいること以外ないで?」

凛太郎は困ったように笑った。

「……愛してるよ、凛太郎」

私は精一杯の力を振り絞り、最期に彼に一番の贈り物をしたかった。

「……っ!最期に呼ぶとか、反則やろっ……あぁ、俺も愛してんで」

その瞬間、凛太郎の表情が崩れた。彼は私の手を両手で包み込み、泣きじゃくりながら何度も何度も私の名前を呼んだ。

「夢……夢……!」

私は満足だった。彼が望んでいた呼び名で、私が最後に彼を呼ぶことができた。

これで、雅への罪悪感も、これからの未来への不安も、全部手放せる気がした。

「お兄ちゃんも……ありがとう。お兄ちゃんはもっと素敵な俳優になれるよ……2人とも大好き……ありが、とう」

和真もまた、目元を拭いながら小さく頷いた。

窓の外では、夏の日差しが病室に差し込み、眩しいほどの光が私たちを包み込んでいた。雅が笑っているような、そんな温かな気配。

「雅のとこ、行くね」

私の意識は、ゆっくりと、穏やかにほどけていく。

最後に聞こえたのは、凛太郎の「愛してる」という声と、名前を呼ぶ震えた声だった。

私の物語はここで終わるけれど、凛太郎と和真、そして雅の記憶は、これからもこの世界で続いていく。

私は、雅が待つあの場所へ、ようやく辿り着けるのだ。

「……じゃあね、凛太郎。お兄ちゃん」

心の中でそう呟いて、私はようやく、長い長い眠りについた。

病室には、二人の愛する人の泣き声だけが、静かに、そしていつまでも響いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。