第二十四話 あなたと春を①
どれくらい、五条様の腕の中で、鼓動が静まるのを待っていたのだろう。
胸の奥がまだ熱く、室内の冷えた空気が喉に刺さる。
コンコンコン
控えめなノック。
続いて、榊原様の落ち着いた声が扉越しに届いた。
少しだけ、名残惜しさを五条様の腕の中に残し、その優しくて熱い体温から離れる。
「殿下。お連れしました」
「通せ」
そういえば、五条様は「後程、会わせたい人が来る」と仰っていた。
「……大丈夫だ」
私の不安が伝わったのか、小さく背中を押される。
扉が開く。
「失礼いたします」
女性の声——それだけで、息が止まった。
入ってきた方の姿を見た瞬間、身体が勝手に動いてしまう。
立ち上がり、声を上げそうになりながら駆け寄った。
そんな……。
何度も夢の中で会いたいと、そして謝りたいと思っていた人。
『いつか……お嬢様を大切にしてくれる方が、きっと現れます……!』
暗い蔵の中で、ほんの一瞬だけ光をくれた人。
私に文字を教えてくれた人。
「お嬢様……!ご立派になられて……」
声が、震えている。
私のほうこそ震えているのに、目の前の彼女の瞳も潤んでいて、息が詰まった。
あの時と同じだ。
優しいけれど、どこか少し困ったような笑み。
けれど頬には、あの頃より少しだけ、穏やかな艶がある。
まさか、もう一度、会える日が来るなんて。
「っ……ごめ……ごめんなさい……!ずっと……ずっと、謝りたいって……思ってたんです……私のせいで……」
「いいえ、あれは私がやりたくてやったことですから。お嬢様は何も悪くないです」
彼女は首を振り、昔と同じ、静かな声で遮られる。
言いたいことも、伝えたい感謝も山ほどあるのに、涙で言葉にならない。
「積もる話もあるだろう。……ゆっくりするといい」
五条様が、私たちを見て、ほんのわずかに目もとを緩めた。
ハンカチを差し出され、指先が触れそうになって、私は慌てて受け取る。
そして五条様は、余計なものを残さないように、静かに席を外してくださった。
扉が閉まるとすぐに、女中さんが茶器を運び入れる。
白磁の器がかすかに触れ合い、澄んだ音が室内に落ちた。
急須からふわりと立つ、緑茶の優しい香り。
それに混じって、砂糖とバターの甘い匂いがする。
丸い焼き菓子が、上品な皿にきちんと並べられている。
私に気を遣って、ここまで整えてくださるなんて……。
十年以上、会っていなかった。
こうしてコソコソと怯え、隠れることもなく、穏やかな気持ちで向かい合える日が来るなんて。
「……お嬢様は、殿下に本当に愛されているんですね」
彼女は湯呑みに手を添えたまま、ほっとしたように笑った。
「本当に……安心しました」
「っ……そんな……」
直球すぎて、顔が熱くなる。
私は目線を上げることができず、視線を落とした。
愛されている、なんて。
五条様から受ける扱いのすべてが初めてで、どこまでが普通で、どこからが特別なのか。
そんなことを考える間もなく、想像すらできずに今日まで来てしまったのだ。
「朝霞様のお屋敷を出た後、子爵家で拾っていただき、縁あってそちらの三男の方と結婚したんです」
その表情は、朝霞の家にいた頃よりずっと朗らかで、柔らかい。
私に関わったばかりに、突然追い出されて、きっと大変だったはずなのに。
それでも、彼女の瞳は温かい光をたたえていた。
「殿下からは……お嬢様のことを、お調べになられていると伺いました」
「……私の、ことを……」
「はい。私などにもご丁寧に。……それはもう、必死なご様子でいらっしゃいました」
私が勝手に『迷惑』だと決めつけて、勝手に離れようとしていた間も。
五条様は、ただ静かに、必死に、私を手放さないようにしてくださっていた——?
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