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【書籍化】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜  作者: 木風
第四章:若葉

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第十六話 お買い物を終えて②

屋敷に戻るころには、外はすっかり夕暮れの茜色を帯びていた。

窓の向こうで空がゆっくり沈み、庭の木々の影が長く伸びている。

昼間の眩しさが嘘みたいに、世界が静かだった。


車を降りるとき、足もとがおぼつかない。

疲労とは違う重さが、胃の奥にずしりと居座っている。


少し……食べすぎたかもしれない……。


生まれて初めての紅茶。

生まれて初めての、苺が宝石みたいに光るショートケーキ。

あれだけの甘さと量を、いきなり身体に入れたら——お腹が驚くのも当然かもしれない。


部屋に入るなり、膝から力が抜けた。

いつものソファに、どさりと重たい音を立てて座り込んでしまう。


「すみません……少しだけ、横になってもよろしいでしょうか……?」

「もちろんでございます、すみれ様。帯を少し緩めましょう」


締めつけられていた帯がほどけると、胃がやっと呼吸できたように楽になった。

それでも、ベッドに身を預けた瞬間、ぐらりと世界が傾く。

吐き気ではない。ただ、贅沢が詰め込まれすぎて、重たい。


ベッドに身体を預けると、ぐらりと世界が傾いだ。

吐き気まではいかない。

けれど、とにかく中身が詰まりすぎて、石でも飲み込んだような苦しさがある。

ベッドの柔らかさに沈み込みながらも、胃だけが硬い塊のままだ。


「お水をお持ちしますね。少し落ち着くまで、どうぞ目を閉じていらしてください」

「……はい」


今日という一日が、瞼の裏で反復する。


初めての訪問着を着せてもらったときの、戸惑い。

初めて街に出かけたときの、喧騒と色鮮やかな光景。

初めての紅茶とショートケーキの、夢のようにとろける舌触り。

五条様の『次に来たとき』という言葉まで、妙に鮮明に私の中に残っている。


……そんなに、食べてないつもりだったのに……。


ここへ来てから、少しずつ食事が喉を通るようになり、だいぶ食べられるようになったと思っていた。

なのに、私のちっぽけな胃袋は「こんなに一度に贅沢品を入れてくるなんて聞いてない」と、激しく抗議している。

胃が鳴る、というより——内側から握られているみたいに、ぐっと締まる。


……楽しかった。

だからこそ怖い。

温かいものを受け取るほど、いつか全部取り上げられる気がしてしまう。


「……罰が当たったのかも」


ぽつりと、呟きが漏れた。

『無華』として、日陰で生きてきた私が、なんて分不相応な贅沢を——。


幸福感が満たされた分だけ、それを許されないという罪悪感が深くのしかかり、胸の奥がじんじんと痛んだ。

こんなに嬉しいのに、こんなに怖いなんて。

温かいものを受け取るほど、あとで全部取り上げられてしまう気がする。


そこへ、扉が静かに開き、名前を呼ばれる。


「……すみれ」


五条様の、少し低く響く声。

とっさに、慌てて身体を起こそうとする。

——起きなければ。失礼があってはいけない。

叱られる前に、形だけでも整えなければ。


けれど、胃がその動きを許してくれない。


「っ……!」

「起き上がるな。そのままでいい」


あまりにも欲張って食べたから、呆れられたかもしれない。

それでいて心配そうな低い声が近づいてくる。

音もなく入ってこられて、ベッドの脇にすらりとした影が落ちた。


「具合が悪いと聞いた。顔色も少し悪いな」

「ご、ごめんなさい……私の不注意で」


反射的に、真っ先に謝罪の言葉が出る。

叱られる前に、殴られる前に——身体が勝手にそうする。

五条様がわずかに眉を寄せ、吐く息が静かに落ちた。


「謝るなと言っているだろう」


それは、いつも聞く台詞。

けれど今日は、その声にいつもの威圧感がない。

むしろ、怒りを抑えるというより、私の癖をほどこうとしているみたいに、微かに柔らかかった。


「水は飲めそうか?胃が荒れているのかもしれない。

しばらくは、甘いものは無しだな」

「……っ」


差し出されたグラスを、ぎゅっと握る手に力がこもる。

冷たい硝子が手の平に貼りつき、指先が少し震えた。水面が小さく揺れる。


だめ……また食べたい、なんて。

微塵も考えてはだめだ。

あんな贅沢は人生に一度あっただけで、天にも昇るほどありがたいことなのだから。


「そんな怯えた顔をするな」

「え……?」

「二度と食わせない、とは言っていない」


淡々とした声で、でも言葉だけははっきりと。

五条様は私の表情をじっと見て、続ける。


「今日は俺が無理をさせたせいだ。体調が良くなったらまた行こう。」


さらりと言われて、視線の置き場がなくなる。

嬉しいはずなのに、怖い。

またという言葉が、胸の奥で熱を持ってしまったように感じた。


「いえ……そんな……一度だけで、もう十分です。

一生の思い出ですから、これ以上は……」


ぎゅっと布団を握りしめる。

口に出してから、自分で驚いた。

本当に、そう思ってしまったのだ。

思い出にしてしまえば、失わずに済む——そんな卑怯な計算が、心のどこかで働いて。


「次は、俺と分け合って食べればいい」

「え……」

「俺とは嫌なのか?」


あまりにも当然のように、そして冗談めかして言われて、声が出ない。

次……?本当にまた行くの?

そして、分け合う?五条様と、『無華』の私が?


そこでようやく、五条様の口もとがわずかに緩んでいることに気づいた。

胸の奥が、ふわりと温かくなる。

あまりにも現実的で、あまりにも優しい解決策に、ふっとした小さな笑いがこぼれそうになって——


笑った途端、お腹がきゅっと痛んで、すぐに顔をしかめてしまった。


「……本当に、今日は食べ過ぎてしまいました……」

「そうだな。お前の胃が驚き過ぎたんだろう」


珍しく否定されない。

責められていない、と遅れて理解して、息が少しだけ深くなる。


「明日は消化のよい粥にしよう。厨房にもそう伝えてある」

「……はい」

「梅干しも添えてもらうか」

「はい……」


安堵から、頬が緩んでしまう。

お粥だなんて……それでも、ここでの生活では十分すぎるほどの贅沢なのに。


身体を横たえたまま、ただ天井を見上げる。

さっきまで胃袋がぎゅうぎゅうと苦しんでいたのが、不思議と少しずつ落ち着いてきた気がした。

五条様がここにいる、それだけで。


「眠れそうか」

「……はい」


重い瞼に五条様の手が添えられる。

熱を持った指先ではなく、穏やかな手の平。

その温もりが触れた途端、痛んでいたお腹まで、じんわりとぽかぽかと温かくなる気がした。


添えられた手の平の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。


瞼の裏には、今日初めて見た宝石の輝き。

その向こうには、いつもこちらを見守る五条様の姿。

そのすべてを。繰り返し瞼の裏に思い描く。


どれもこれもが、生まれて初めてのことで。

すべてが夢のように儚いのに、今は確かに、ここにあって……消えないでほしい、と願ってしまった。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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