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【完結】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜  作者: 木風
第三章:白梅

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第十二話 梅の花が咲いてます①

「五条様、梅の花が咲いてます」


何度目かの散歩。

五条様の仰っていた通り、蕾は日に日に色づき、ほころんだ花びらがゆっくりと開き始めていた。

冷たい空気の中に、ほの甘い香りが淡く溶け、庭園の景色に薄い彩りを添える。


梅の香りを吸い込むだけで、胸の奥の固いものが少しだけ緩む気がした。

あの蔵の冷えた匂いとは違う。湿った埃でも、井戸水の冷たさでもない。

生きている匂いを初めて感じた気がした。


「もう少ししたら、桜も咲き始めるだろう」


桜……。

その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが小さく鳴った。


桜が咲く頃、私はどこにいるのだろう。

きっとここではない、どこか別の場所に違いない。

そう思うのに、目の前の枝に宿る小さな蕾を見上げていると、せめてこの庭の温もりだけは覚えていたいと、そっと心の中で祈る。


「すみれ、そろそろ部屋に戻ろう」


あ……もうそんな時間。

暖かくなるにつれ、散歩の頻度も時間も増えていった。

そのせいか、戻る合図が名残惜しく感じてしまう自分に気づいて、慌ててその感情を押し込める。


名残惜しいだなんて。

私に許されるはずがないのに。


「この後、客が来る。すみれも同席するといい」

「……私が、ですか?」


足が止まりそうになる。

客。

同席。

その二つの単語が、胸の中で嫌な形に結びつきかけて、喉がきゅっと狭くなる。


散歩のたびに差し伸べられる手。

五条様にとって、この手に深い意味はないはず。

慰み者として求められるのなら、これくらい自然に慣れなければ。

きっと捨てられた後は、こんなふうに丁寧に扱われることなどないのだから——。


廊下を戻りながらも、名残惜しさが胸のあたりにまとわりついて離れない。

次に散歩に行けるのはいつになるのか。その時は、どんな花が見られるのか。

そんなことをぼんやり考えていたせいだろうか。

滞在させてもらっている部屋とは全く別の廊下を曲がり、襖の前で立ち止まったところで、ようやく気が付く。


……人の声?


女中さんの押し殺したような声と、低く落ち着いた男の声。

襖の隙間から、布ずれの音がかすかに漏れていた。

さらり、と。それだけで、上等な布の気配がする。


「入れ」


五条様が先に襖を開けられる。

その背に続いて中へ足を踏み入れた瞬間、思考が真っ白になった。


畳が、見えない。


部屋いっぱいに、色とりどりの反物が川のように広げられている。

淡い桃色、薄い水色、若草のような緑。

深い紫や、金糸のきらめきまで混ざって、目が痛くなるほど華やかだ。

布の海の上に光が落ち、絹が呼吸するみたいに、ほのかに艶めいている。


「殿下、この度はご用命誠にありがとうございます」


一番奥で控えていた初老の男が、するりと深々と頭を下げた。

よく通る声なのに、どこか柔らかく、商いに慣れた落ち着きがある。


「急な呼び立てにもかかわらず、すまない」


五条様は当然のように部屋の中ほどまで進み、座布団に堂々と腰を下ろされる。

私はといえば、反物の海の手前で固まり、どこへ足を置けばいいのかもわからない。

踏んではいけない。汚してはいけない。

その思いだけが大きく膨らんで、息が浅くなる。


女中さんに袖を引かれ、ようやく畳の隅に膝をつく。

そのすぐ横を、手の平ほどもある牡丹の模様が染め抜かれた布が、絹鳴りを立ててすべり落ちていった。


こ、こんな高そうな布、踏んだりしたらどうしよう……!

指先が震え、帯の上で手をぎゅっと握りしめる。


「この娘に似合う振袖の反物を」


五条様の声に、ハッと顔を上げる。

な、なに——。

これは、何かの間違いでは——。


「お初にお目にかかります。五条家御用達、花菱屋でございます」


呉服商——きっとそうなのだろう男が、穏やかに目を細めてこちらを見た。

けれど私は、頭を下げるので精一杯で、頬の熱さだけが増していく。


「本日は、園遊会にお連れになるお嬢様のお支度とのことで」


園遊会。

少しだけ耳にしたことのある言葉。

えっ、え?園遊会って、あの……

五条様だけでなく、高貴な『華族』の方々が集う——そんな場。

そこへ、私が……?


……なぜ。

どうして。


「まずは園遊会用の一枚だ。三月末だが、夜はまだ冷える。

季節を半歩先取りするくらいでいい。——派手なものではなく……」


五条様は、広げられた反物の中から淡い藤色の一本を、迷いなく指先で押さえられた。

その仕草があまりにも自然で、最初からそれと決めていたみたいに見える。


「地はこれを。柄は——」

「若葉に流水、そこへ梅の名残を少々。桜は……控えめに枝先を描く程度でいかがでしょう」


呉服商がすぐさま言葉を継ぎ、反物の端を持ち上げる。

光を含んだ藤色が、波のように揺れて見えた。


「殿下のお隣にお立ちになるには、これくらいの華やぎが必要かと存じますが、

お嬢様のお年とお顔立ちを思えば、決して出過ぎることはないかと」


——殿下のお隣。

その言葉が、胸の奥に小さな棘を落とす。


私が、隣に立つ?園遊会で?

そんなこと、あり得ない。

あり得ないのに、五条様は静かに頷いて、淡々と告げた。


「……そうだな。それくらいが、すみれには似合う」


わ、私に……!?


『すみれ』という名前が、反物の海の中で呼ばれた。

それだけで、心臓が一つ、大きく跳ねる。


似合う?私に?この綺麗な色が?


嬉しいと感じたら、罰が当たる気がして。

怖いと感じたら、今の温もりを失いそうで。

私はただ、膝の上で握った指先に力を込めて、俯くことしかできなかった。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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