第九話 新しくつけられる痕②
「すみれ、いいか?」
「……はい」
夜の薄明かりの下、私はベッドの上に背筋を伸ばし、正座で座る。
目の前には五条様が腰掛けている。
天蓋のベッドの下のせいだろうか、五条様の清潔な香りが、とても近く感じてしまう。
近すぎて、息の仕方さえわからなくなる。
五条様の左手が、ゆっくりと動く。
右手の手袋を、一本ずつ指を解くように外していく仕草が、やけに丁寧で——
その分、怖いほど静かだった。
緊張で顔を上げられない。
膝の上でぎゅっと固く握った自分の手を見つめる。
「……っ」
初めて素手で触れられた日と同じように、私の手の甲を、長く美しい指が滑った。
確かめるように、なぞるように、そして次の瞬間には、温かな手の平に包まれる。
——心臓が、跳ねる。
不安と期待が、同じ場所でぶつかって、胸の奥がざわざわする。
「続けても大丈夫か?」
「……はい」
私の答えを聞くと、五条様は左手の手袋を静かに咥え、一気に引き抜いた。
布の擦れる音。手袋がベッドに落ちる、軽い音。
その二つが、この静寂の中ではやけに大きく響いた気がした。
素手になった手が、今度は私の顔へ向かって伸びてくる。
その動きに、条件反射のように身体が強張ってしまう。
伸ばされた手を見ると、ビクッとなるのを抑えることができない。
けれど——。
頬に触れた素の手の感触は、ただ暖かく、優しい。
恐ろしいことなど何も起きないのに、私はそれが信じられなくて、息を詰めたまま、されるがままに身を委ねる。
触れる指は、頬骨のあたりから輪郭へと、ゆっくりと確かめるように動いた。
大切なものを扱うみたいに、少しずつ、少しずつ。
気が付かれないように視線を上げる。
五条様の表情は真剣で、厳粛で。
私を映す黒い瞳だけが、深く、慈しむように揺れて見えた。
「……!あ、あの……!」
「ん?」
頬を撫でるように触れていた手は、滑るように耳へ移る。
感触を確かめるように、耳朶をそっと摘まれると、くすぐったさから声が出てしまいそうなのを必死に我慢する。
「……柔らかいな」
「っ……」
恥ずかしい。
それだけなのに、全身が熱くなる。
五条様は、あの日から何度もこうして確認する。
言葉できちんと尋ね、私の呼吸や目の動きまで観察するように。
きっと——慣れろ、ということなのだろう。
今から。自分に。触れられることに。
けれど、その触れ方は、私の記憶にある冷たい暴力とは、あまりにも違いすぎる。
優しいほど、心が追いつかない。
怖いはずなのに、怖いだけで終わることができない。
「……ここに、痣があるな」
五条様の指が、首筋を滑るようになぞった。
左耳の下——髪に隠れて、普段は誰にも見えない場所。
そこは、幼い頃、母に首を絞められた証。
消えることなく残ってしまった、暗い影。
今でも時折、夢で痛む。
私の一番古い記憶。
「……それはっ……」
声が震える。
言いたくない。知られたくない。
それなのに、指先がそこに触れたままだと、隠し通すことができない。
「幼い頃、母に首を……」
「……そうか」
言葉が終わる前に、五条様の指が私の髪を掻き上げた。
すう、と耳が露わになる。
急に近づく顔。濃くなる香り。
反射的に瞳を閉じると、次に感じたのは——
痣のある辺りに触れてくる、柔らかなもの。
これは……唇?
「……!!?五条様!?」
慌てて声を上げると、ほんの僅かな水音とともに、五条様が離れる。
その距離ができたのに、首筋だけが取り残されて、火花みたいに熱い。
「これは、お前の母が付けた痕ではない」
低い声が、はっきりと落ちる。
「——俺が付けた痕だ。いいな?」
言葉が出ない。
私は今、何をされたの……?
なぜ。どうして。
頭の中が真っ白になって、ただ首筋を震える手で押さえることしかできなかった。
五条様はそれ以上何も言わず、立ち上がると、静かな声で続けた。
「今日はもう休むといい。おやすみ」
扉が閉まる音がして、部屋に一人になる。
私はしばらく動けずに、鏡の前へ行った。
そこには痛々しい爪の痕ではなく、紅い桜の花弁のような、柔らかな痕が残されていた。
それは、私の過去の記憶を——
すべて塗り潰すように、付けられていた。
その痕から目を逸らせないまま、ただ小さく息を呑んだ。
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